高く昇った月が寒々しい光で夜を掌握する頃。  
 周囲を深い森に囲まれたとある屋敷の一室で、その儀式は行われようとしていた。  
 
 それは、とても大きな部屋だった。  
 屋敷と表すべきほどの家の、その上でなお一室としては広大なその部屋。  
 差し込む月明かりで、壁(はし)が辛うじて判ずるような、もはや過剰とも思えるような広さを持った部屋。あるいはそれは、その広さに反した、室内の寂しい有様がそう感じさせるのかもしれない。  
 その部屋で最も大きな影を描き出しているのは、部屋の中央付近に置かれた一台のベッド。  
 やや年季が入り古ぼけた……しかし、ゆったりとした面積とずしりと貫禄さえ感じさせる佇まいがその拵えの良さを保証している、そんなベッドだった。  
 そして―――  
 人の背丈をも超える高い窓を覆うカーテン、部屋の主であるベッドに踏みつけられたカーペット、脚立を使用しても斯くやという天井から今は灯を潜めぶら下がった大きなシャンデリア。  
 ―――部屋に最低限の装いを与えるそれらを除けば、そこに存在する物は、ただそれだけだった。  
 
 そんな薄暗い部屋の中に、吐息が二つ。部屋の広さ暗さと相まって遠目には小人のそれとも窺える人影が二つあった。  
 比較して小さき片方が、先ほどのベッドの上に、こぢんまりと小さく座して。もう一方の比較して背が高く、だが遜色なく細い人影は、その脇に佇んでいる。  
 カーテンの隙間を縫ってささやかに差す光から判断するに、どうやら前者は女性、後者は男性であるようだった。  
 窓を背に立つ男性の顔は、逆光を帯びて闇に染まっている。やや線が細く、恐らく男性にしてはやや女性的な顔立ちだろうと窺えるのみだ。  
 この場の印象からすればやや長身であるように感じられるだろうが、痩躯との対比を冷静に見れば、その実さほど長身ではないのだと気付く。  
 女性の方は―――否、ほぼ正面に月光を浴びるその姿を見る限り、どうやらその呼称は少し正しさを欠きそうだ。より相応しくは、少女と呼ぶべきであろう。  
 その少女であるが、浮き彫りにされた容姿の中に、しかし特筆すべき点はあまり多くなかった。  
 肩口をやや越えて伸びた髪、幼さは感じさせるがそれでも整っていると言って差し支えのない容貌、あとは傍らの男を長身に錯覚させるその小柄さ。  
 それ以外に、特別表記に値するような特徴はないように思われた。……いや、もう一点だけ。  
 少女のこめかみ後方の亜麻色を不自然に盛り上げる、一対の装飾。  
 防水は言うに及ばず防音効果さえも疑わしい……だが間違いなくイヤーウィスパーであるはずの、両耳のそれ。その装着に関しては、彼女が持つ特徴の一つとして言及しておくべきだったかもしれない。  
 
 その少女、名を、田上颯姫という。  
 どこか落ち着かなげに身体を微動させ、不安そうに瞳を揺らすその姿は、やや小心的な嫌いはあれどいかにも年頃の少女らしく、不自然などないように思える。  
 否、むしろ小動物のようなその様子は、容姿年齢と相まって大抵の者の保護欲を掻き立てるだろう。  
 ……しかし。  
 もしも彼女を良く知る者がこの場にいたならば、彼女の浮かべている表情が、普段の彼女と遙か隔たっていると感じたに違いない。  
 それほどに、現在そこに張り付いた表情は、本来彼女が持つ感情としてありふれているものではなかったのだ。  
 むろん、それには理由がある。また当然に、それはこれからここで行われようとしている儀式とも無関係ではなかった。  
 
 この世には、表の住人には伏せられた、いくつもの裏がある。  
 ある日唐突に人々の意識に浮かび上がり、その者が持つ恐怖を確かな形に変えて現実へとまき散らす―――その解釈上、関わる者に泡禍(バブル・ペリル)と呼ばれるその超常現象も、そんな数多ある裏側の一つ。  
 そして、その災厄が生み出してしまった被害者たちの相互補助という側面と、またこれからの泡禍が及ぼすだろう様々への対処や解決を目的とする側面を合わせ持った、騎士団(オーダー)という結社も同様に、通常表に出ることのない組織であった。  
 
 そんな騎士団という集団のメンバーの内、泡禍などへの対応に関して積極的に介入する者たちを取り分けて騎士と呼ぶが、彼女たちはまさにその騎士であった。  
 つまり田上颯姫という少女は、そんな、おおよそ同年代の少女達が関わることのないであろう裏側に深く身を置く存在だったのである。  
 
 それからもう一つ、彼女とこの儀式を結びつける重要な要素があった。  
 偶然にも、あるいは僅かながら騎士団による救助によって、奇跡的に泡禍という悪夢から生還できる人間も皆無ではないが、そういった者の中には自らが体験した悪夢の欠片をその心に宿してしまう者がいる。  
 俗に断章(フラグメント)と呼ばれるその欠片は、所持者が抱いた恐怖と直結しており、フラッシュバックと共に現実へと溢れ出す。  
 保持者(ホルダー)の恐怖をトリガーにして、その周囲へ恐怖の元となった状況を―――簡易的な泡禍ともいえるそれを再現するのだ。  
 
 強烈すぎるその後遺症は、被害者たちにとって忌むべきものだった。  
 ある種超常の力と呼べなくもないだろうが、自身は愚か周囲さえも危険に巻き込むものだ。それを歓迎する者など、騎士団の中でも極々少数に過ぎない。  
 活動の為とはいえ、恐怖や危険を顧みずトラウマを振るい泡禍へ立ち向かう騎士という存在が、騎士団に置いて特別視されているのも尤もな事だといえよう。  
 
 それら断章であるが、実は一部の強烈なものは、稀に母から子へと遺伝する事が分かっている。  
 もちろんその事実も騎士団に置いては忌諱されており、最悪の場合、子の命を絶つという手段を取って避けられる事さえあった。  
 
 しかし、ほんの少数ではあるが……その断章が騎士団の活動にとって非常に有用で、またもたらされる危険が軽微だと予想される場合、例外的にその断章が残されることもあった。  
 そういった認定を受けた遺伝は血脈(リニッジ)と呼ばれ、新たに生まれたその断章保持者は大抵騎士団による保護を受ける。  
 精神的に未熟な幼少期に、リスクは低いにしろ断章の暴走を防ぎ、抑える為だ。あるいは騎士としての振る舞いを学ばせるという目的もある。  
 ―――だが。  
 
 その真の目的は、非常に便利なその断章を絶やさぬ為……特に女児に対し、自我の確立しない内から教育を通じて、思想の中へ次の血脈を成すという意識や責任感を埋め込む所にあった。  
 血を残し、断章を残すことは自らの尊き使命である、と。  
 結果。  
 そうして育った彼女らは、持ち掛けられた務めをなんら疑うこともなく、果たす為に己を尽くすようになる。  
 
 例えそこにどんな想いがあったとしても。  
 例えそこにどんな感情を抱いたとしても。  
 
 例えば、今まさに屋敷の一室で務めを果たさんとしている、彼女のように―――。  
 
 自らの虫食いだらけな記憶の中、それでも抱き続けてきた血脈としての使命。  
 この部屋に入る際に身から外した手帳の、最初の一ページ。  
 その時の自分の決心を表すかのようにやや異なる筆跡とペン先で記されている、自らの役割に関する一文。  
 
 それを強く自覚しつつなお颯姫は、意図せず湧き上がる感情を抑えることが出来なかった。  
 覚悟はあったはずだった。自分が、いつかこんな日を迎えることは、自身にとっても幼き頃からの確定事項。自身の世話役である神狩屋によりその具体的な日を知らされてから今日まで、自分が成すべきこの使命に心を傾けてきた。  
 
 しかし、幾重にも塗り固めてきたはずのその覚悟は、今日という日を告げた朝に一枚、夕……迎えに来た車に乗り込むと同時に一枚、屋敷に到着し見上げた際に一枚、衣服を脱ぎ、身を清められ、二人でこの部屋に入る時にそれぞれ一枚ずつ……  
 ……と剥がれてゆき、裸でない為の薄い衣を纏っただけの姿でベッドに座る現状に至って、随分と見窄らしいものに変わってしまっていた。  
 
 恐怖にも程近い不安が、痩せ細る覚悟の隙を突き、颯姫の喉を小さく鳴らす。  
「……っ」  
 ころりという感触を感じ、颯姫は自身の喉が大袈裟に乾燥していたことに気付く。  
 伏せた視線を後方、ベッドのヘッドボードへ向ける。やや広く取られたその台の上には一足先に汗をかいた水差しと、磨き抜かれたグラスカップが二つ。……だが、生憎やや遠い。  
 
「水、欲しいの?」  
 その仕草を見取ったのだろう、男性の声。シルエットが告げるイメージを肯定するような、男の中ではやや高いように思える声音。  
「え? あ……」  
「いいよ。取ってあげるから、待ってて」  
 突然話しかけられた事に反応できなかった颯姫へ気にするなと小さく手を挙げて、男は数歩、水差しからグラスに注ぎ颯姫へ差し出した。  
 
「……ありがとうございます」  
 強ばった顔面をそれでも何とか崩して受け取り、礼を述べる颯姫。  
 掌にキンとした刺激を伝えてくるグラスを口元へ、喉に張り付いた乾きを潤す。食道から胃へと落ちる水の冷気が身体の熱を静め、萎縮した意識までをも幾分和らげてくれるような気がした。  
 
「ありがとうございます」  
 自分でも大分堅さが取れたと分かる表情で、つい一息に飲みきってしまったグラスを手渡し、颯姫はもう一度礼を言った。  
「うん」  
 彼は空になったグラスを元の位置に戻して、  
「やっぱり、緊張するよね。仕方ないよ」  
 颯姫を安心させるように、薄く笑みを浮かべた。  
 やはり予想に違わず中性的な面影の、おそらく颯姫より数年だけ年嵩なのだろう彼の顔が、頷きの為に短く落とされる。  
「ごめんなさい……」  
「いや、僕も似たようなものだからさ。よく分かる」  
 不甲斐ない気持ちになり顔を伏せた颯姫に、その青年は同調するように肩をすくめて、自分もそうであると言った。  
 そして室内用のスリッパを脱ぐと、ベッドの上へ。  
 接近にまた少し身を固くした颯姫の横へと移動し、微かに震えるその手を取った。  
「だから、ゆっくりやっていこうよ。時間はたくさんあるんだし……ね?」  
「ぁ……は、はい」  
 おずおずとながらも頷く颯姫に、苦笑のような笑みを見せ。  
 また少し、距離を詰める。  
 そのまま颯姫の瞳を覗き込むように、  
「それじゃ、よろしく。颯姫ちゃん」  
「よろしく…お願いします…………っ!?」  
 通った視線を辿るように、顔を寄せ。  
 挨拶の終わりを待つことももどかしいとばかりに、颯姫の上げかけた驚きごと、少し強引に。  
 その唇を奪っていった。  
 ―――。  
 
 籠もる熱を逃がすよう高く押し上げられた天井のもと。  
 断章の持つ性質上、場合によっては起こりうる万が一を軽減する為に、強固な耐久性や防火水性を備えられた造りの中。  
 行為の妨げとならぬよう、余裕を持って行えるよう広くスペースを取られたベッドの上。  
 小さく蠢く影二人。  
 
「はっ……はっ……」  
「……っ」  
 獣のように息を荒くした二人の姿。  
 互いの身体が熱を持ち、その熱が更に相手の体温を高めてゆく。  
 月に映された彼らの身体は、汗にまみれて淡く光り…………。  
 一見するとその情景は、そんな命の営みというものの激しさを物語っているかのようだった。  
 
 しかし。  
 
「颯姫ちゃん、大丈夫だから。もっと力を抜いて……!」  
「はっ、はい……」  
「……っ」  
 当人達にとって、その実情は明らかに違っていた。  
 確かに二人共が、うっすらと汗を纏うほどに身体に熱を宿してはいた。  
 だがそれは、方や様々な理由に由来する極度の緊張よってであり、もう一方は芳しくない反応を何とかしようと奮闘する必死さがもたらしたものであった。  
 そこに、互いで昇り詰めるような、共同の熱はない。  
 
「ごめんなさい……っ」  
 行為を始める前に告げた言葉をなぞって、再び颯姫はそう言った。一度目のように漠然と自分を恥じてではなく、用法としてはより正しい、自分の非を認め謝罪するという意味で。  
 本来早急に通り過ぎるべきこの状況、あくまで準備でしかないこの時間が異常に引き延ばされたこの状況。  
 颯姫は、歪なその現状を作り出した原因が自分にあることを……正しく自覚していた。  
 
「……いや、気にしないで」  
 青年の返答にももはや当初の余裕は感じられず、戸惑いが透けて見える。  
 それが尚更颯姫には申し訳なく思えたのだった。  
 
 ほぼ全ての問題は颯姫にあった。  
 もしも青年の側が今より遙か手練れていたならば……あるいは、この問題も起きなかったのかもしれない。だが、現状に関してのみ言うならば、そこまで望むは流石に酷であろう。彼自身の証言がどうあれ、彼の技術はおおよそ一般に劣るものではないのだから。  
 だから、例え少女の側に同情すべき点が多分にあったとしても、こと問題点はどこにあるかと問われれば、彼女の方にこそあると言わざるを得なかった。  
 つまり、準備に支障を来すほど緊張を露わにした、彼女の側に。  
 
 キスを終え、言葉もないままベッドに倒れ込み、ささやかな愛撫を受ける。  
 もう一度唇を、そしてはだけられた襟元より現れた両の頂きを啄まれ、塞がれぬ驚きを飛ばす。  
 ずり落ち、着崩れた衣を取り払われて。同様に裸体を晒した青年の……そこに出現した差異に、また驚きを。  
 そんな少女の動揺を快く笑って、青年は本格的に触れるべく手を伸ばす……。  
 そこまではまだ順調だった。  
 
 だが結局、行為はそこで滞り。  
 今も進展の気配を見せないままだ。  
 
 
 
 再び持ち上げられた掌が左の控えめな膨らみを包み締め付けてゆき、右の突起は歯と舌による甘噛みを受ける。  
 執拗的に弄くられるそこから断続的に伝わる刺激。  
「……ひっ……あ」  
 颯姫の喉を、喘ぎにも似た音がこじ開ける。  
 指と舌の動きが、その声を歓迎し、より引き出そうとするように激しさを増す。  
 応えるように飛び出す声。  
「くっ、ぅ……」  
 ―――それさえ。  
 本来この行為で出すべき類ではない。  
 何故ならそれは快感を伝えるための艶声では断じて無く、近くも絶対的に異なった、苦痛を逃すための呻き声でしかないのだから。  
 気をよくした青年の指使いは、確かに彼女から声を引き出してはいたけれど、それは狙いを外した別の声。颯姫が上げるは、その実、拒絶でしかない。  
「っあ―――!?」  
 今度こその手応えを感じたのか彼の腕が、颯姫にとって最も他者との馴染みがない場所へと伸ばされる。  
 そして、その部分の潤いを確かめるように数往復、さすり上げ…………その結果に苛立ったかのように、再び激しい攻めが開始される。  
 
 幾分の手順を違え、幾度も繰り返されたその行為。  
 それらを不満に思い、そんな状況に戸惑っているのは、なにも青年だけではなかった。  
 いやむしろ、生来の責任感から自分の非を重んじる彼女の方にこそ、その思いは強かったと言ってもいいだろう。  
 
 
 彼女に巣くう抵抗感は、彼女自身の認識に由来するものではない。  
 彼女にとってもこの儀式は確定していた未来。それを行う自身を誇りこそすれ、拒むことなど考えられないものだった。  
 そんな、今まさに本懐を遂げるべき時に、全く応えようとしない自分の身体。  
 その事実は、彼女の普段あまり主張することのない騎士としてのプライドを少なからず傷つけ……そしてそれ以上に、彼女自身を困惑させたのだった。  
 
 自分を導こうと苦心する彼の指使いに応えられない自分が情けなかった。  
 当然なのだろう反応を起こせない、自身への不信。使命を果たせない事への悔しさ。  
 だがそれらを飲み込むように存在する恐怖と抵抗。  
 
 初心な娘であることを理由とすれば、本来理解されないことではなく、強く責められることでもない。いかな体裁を被っていたとしても、本質はそこにしかないのだから。  
 しかし、哀しいかな……儀式の重要性は、少なくとも彼女にとって、言い訳を肯定してくれるほど軽くはなかったのだ。  
 
 青年の手が、唇が、未だ見つからぬ彼女の性感を探すべく奔走する。  
 青年の声が、悉く邪魔をする彼女の緊張を取り除こうと、調べを紡ぐ。  
 けれど。  
 
「……っ」  
 応えようとすれば、見失う。さらけ出すには、安らぎが無く。  
 思いに反し、身体は素直に蓋をする。  
 
「う……ぁ」  
 ならば無理矢理にでもこじ開けようと、狙いを変えた蛇のように細くしなやかな彼の腕が、彼女の秘部へ。指が磯巾着のように複雑繊細な動きで彼女の肉芽を弄ぶ。  
 しかし。  
 
「くっ……!」  
 自分で触れたことさえほとんどない、まだ青く未発達なその性感は、青年の愛撫に応える術を知らない。  
 凝り固まったそこが伝えるのは、快楽ではなくただ痛みだけ。  
「はっ……はっ……」  
 
 攻めあぐね。  
 応えあぐね。  
 ……時だけが過ぎてゆく。  
 
 
 せめて―――  
 
「蒼衣さん……」  
 気が付いた時には、颯姫は瞳に映した青年の名を呼んでいた。  
 せめて―――と。  
 まるで救いを求めるように。まるで一つを悔いるように。  
 
「ぇ、何……? ……何か言った、颯姫ちゃん?」  
「ぁ、いえ、何でも……ありません」  
 聞き咎められたそれを、颯姫は顔を赤らめ否定して。  
 同時に自らの行いを戒める。  
 
 青年は一瞬腑に落ちぬような表情を覗かせたものの、すぐにまた、颯姫を昂ぶらせる為の作業へと戻っていった。  
 目を閉じて、再びそれを受け入れる颯姫。  
 
 
 
 なんだか不思議だと思った。  
 この刺激が蒼衣によるものだと敢えて意識したならば、もたらされるそれも、どこか苦痛だけではないと感じられそうだったから。  
 いや、それどころかむしろ、より率直に………………気持ち良い、と。  
 
 それがいかなる意味を持っているか。  
 颯姫には分からなかった。  
 ……あるいは、故意に、気付かぬようにしたのかもしれない。  
 日常、彼の傍らに即かず離れず存在する女性の事を、他ならぬ颯姫は知っているのだから。その思考が彼女に仇することになると、颯姫という少女らしい感性で、そう判断したのかもしれない。  
 せめてもの逃げ道を、塞がれぬように。  
 
 
 
 類を変えた感覚は、凍り付いた身体に微熱をもたらした。  
 ゆっくりと、露わになってゆく自身を感じながら。  
 月夜に映えた自分たちの姿を瞼に視て。  
 颯姫は、そんな、やや荒々しい蒼衣の抱擁に身を任せた……。  
 
 こうして。  
 立ち止まっていた事態は、ようやく時に寄り添って歩み出した。  
 二人の間には歪な、けれど健全な熱が芽生え。舞台にはささやかながら汗と唾液に次ぐ第三の水音が加わった。  
 微か立ち昇り始めた淫臭が、うっすらと、二人の精神を酔わせてゆく。  
 
 青年も、颯姫の反応が明らかに変わってきたことに気付いたのだろう。  
「颯姫ちゃん……っ」  
 名を呼んで、今まではどこか探り探り動かしていた手を自信ありげなものに変化させ、より積極的に遣わせた。既に触れていない所など皆無に近い颯姫の、これまでの反応から最も効率良いと睨んだ場所を、重点的に責め立てる。  
 
「ふぁ……あ、ぃさ………ん」  
 目を閉じた颯姫は、脇を、胸を、うなじを強く求める蒼衣に応じて嬌声を。その名を噛みしめ、飲み込む。  
 開け放たれた身体は与えられる快感を享受し、湿り気を増してゆく。  
 そして昂ぶり始めた感情が、描く光景をより強固なものに変えて、颯姫に更なる高みを約束する……。  
 
 今までつかえていたことが嘘だったかのように、段階を駆け上がる二人。  
 それは当人達にとっても歓迎すべき事であり、とりわけ颯姫とっては、責任や感情などの理由から心身に甚大な負担が掛かっていた先刻までの状態を抜け出せたことは、心の底からの安堵に値することだった。  
 
 
 自分が役目を承諾した時の、仲間達の表情。  
 不安と怒りと悲しみと、何よりも大きく向けられたこの身への心痛の視線。恐らく自分には全て窺い知ることなど出来ぬだろう複雑な感情。けれど、こんな自分が人としてこれほど皆に愛されていたのだと、涙が出るほどに確信できた想い達。  
 そんな彼らを、それでも力強い笑みでなだめて選択したのがこの使命なのだ。  
 
 失敗して、ほらと笑われるならまだ良い。けれど、役目一つ果たせない騎士と失望され、見放されるのは怖い。  
 そして、それら以上にもっと……そんな皆と引き離されることが、何よりも怖かった。それはもうどうしようもなく、身が震え、歯が鳴るほどに。  
 元はといえば現在のこの場を受け入れた理由にさえ、それは少なからず関係していたのだから。  
 
 
 颯姫の所属するロッジの長である神狩屋は、今の颯姫の親代わりとも言える存在ではあるが、実の所、颯姫の『所有権』という意味でのそれは、神狩屋個人あるいはロッジにさえもない。  
 確かに颯姫は神狩屋ロッジに身を置いてはいるが、それはいわゆる派遣のような関係であった。  
 つまり、『颯姫の真の所有者』はその大本に当たる騎士団日本支部なのである(ちなみにそういうからには当然、血筋的に両親や親族に当たる人物にもそれはない)。  
 
 ならば、欠陥を抱えた騎士に対して騎士団がどう出るか……。『預けてある』騎士を呼び戻し、その欠陥箇所を修正しようとする可能性は……。  
 少なくとも颯姫にとってそれは、重みに置いても可能性に置いても杞憂と笑い飛ばすことなど出来ぬ想像であった。  
 だからこそ、颯姫は応じられない自身にあれほど焦り、緊張し、狼狽えた。半ば強制のような役割ではあっても、失敗するという事実までは、颯姫とて最初から想定していた訳ではなかったのだ。  
 
 とまれ。  
 こうして状況は峠を越え、またその杖たる方法も、やや後ろめたくはあるが得た。  
 背中に突きつけられていた恐るべき未来も、今はどこか遠く感じられそうだと、颯姫は思う。  
 
 …………。  
 颯姫の安堵をなぞるように。  
 儀式はこのまま、ひとまず問題なく達成されるかに思われた。  
 
 
 ……あるいは本当に、それは些細な行き違いの結果であったのかもしれない。  
 
 颯姫には既に、心の準備が出来ていた。  
 この日を迎えるまでの一月あまりで、行為に関しての内容を可能な限りは蓄えてきたし、当然、絶対に避けては通れぬその一手間に対しても、十分知識は深めてきたつもりだった。  
 その際発生するらしい痛みも、騎士としてこれまで痛みと無縁で生きてきた訳ではない自身が、おおよその女性が通り過ぎるのであろう程度の痛みに耐えられぬはずがないと思っていた。  
 だから、これまでの営みの延長直線上にそれがあったならば……儀式は、少なくともそこまでは、間違いなく終わっていたのだろう。  
 
 その余分な歯車は、彼の嗜好によるものか、それとも神が芽生えさせた悪戯心だったのか……。  
 
 白く小さな背をシーツに埋もれさせた颯姫と、今や重なるかのようにまぐわう青年。  
 互いの身体は様々な体液にまみれ、抱き留めるシーツに大きなシミを描いている。  
 行為の激しさを証明するように二人の呼気は獣のように荒れ、空疎たる部屋の様相を埋め尽くす。  
 余人が見ても明らかな、酣へ及ばんとする最後の頃。  
 
 未来を狂わす小さな歯車が、  
「颯姫ちゃん」  
 今まさに、彼の言葉により埋め込まれようとしていた。  
 
「っ、……?」  
 似通わぬ青年の声に一瞬身を固くした颯姫は、しかし呼びかけに応えて、そちらへ面差しを向ける。  
 それを待ち受けていたかのように、その感触は唇にやってきた。  
「っ!」  
 突然のことに再び身構えかけた颯姫は、しかしすぐさま、自分がさほど驚いていないことに気付く。  
 どうやらかつての一度で、少しは慣れることが出来たようだ……と颯姫は知らず安堵を浮かべた。  
 ……だがその安堵は次の瞬間、大きな衝撃と共に否定されることになる。  
 
 ―――ずるり。  
 
 それはそんな音を錯覚させて、安堵によって僅か弛緩した颯姫の内側へ。  
 繋がったままである唇をこじ開けて、その奥へと進入してきた。  
「―――!?」  
 いきなり舌と歯茎を蹂躙されるという生まれて初めての感触に、颯姫は今度こそ声も上げられず硬直する。少なくとも今の自分の記憶には存在しない、あまりに異質なその温もり。  
 深く差し込まれたそれが、相手の舌なのだと理解するのに、颯姫は優に数秒を必要とした。  
 だが、その実。  
 
「っっっ!!」  
 塞がれた唇にかき消された絶叫を上げさせた……真に颯姫を驚かせ、打ちのめしたものは。  
 衝撃で見開かれてしまった瞳に突きつけられた―――。  
 
「んっ……やっ…ぅあ……っ」  
 ろくに否定の言葉も告げられぬまま舌の攻撃を受ける颯姫。  
 ジュルジュルと下品な音を響かせて我が物顔で貪るように這い回る、弾力に富み生暖かいそのぬめりの固まりは、気持ち良さや心地良さとは一切無縁であった。むしろ、おぞましさのみを颯姫に強いて、その肌を一斉に粟立たせた。  
 むろん颯姫は受け入れたのではない。……だが、無視など出来ぬ強い抵抗に全身を縛り上げられた颯姫は、嬲られるだけの口内をただただ許すしかなかったのだ。  
 
 
 
 結果的にその行為は、颯姫の幻想を打ち砕き、更には颯姫の中に決定的な嫌悪感をも芽生えさせることになってしまった。  
 同時にそれは、颯姫の命運をも。  
 
 ようやく長かったその時間が終わり、颯姫は亡失のまま、ただ解放されたという安らぎを抱く。  
 それは、心構えも無いままにいきなり人生初のディープキスを強いられた少女として、至り真っ当な逃避ではあった。  
 しかし。当然に。  
 今が行為の最中であるという事実は、颯姫にあまりその気休めの時間を与えてくれなかった。  
 
「……それじゃ、颯姫ちゃん。いくよ」  
 未だ口腔内の違和感も解けぬ内、呼びかける青年の声。どうやら彼にとって今し方の口付けは、前戯の締め括りに位置付けられていたらしい。颯姫の両膝に手を掛ける青年のそこは既に存分な活力を蓄え、放出の時を今か今かと待ち望むかのようだ。  
 ……だが。  
 
「ま、待って下さいっ」  
 その言葉の意味を理解しながら……いや、理解するが故に、颯姫は制止の言葉を返す。  
 なぜなら、もはや颯姫にとってそこからの行為は、ただひたすら恐ろしいものでしかなかったからだ。  
 それも、今までのような決意と想像を盾にやり過ごせるような生半可なものではなく、それら根底の意志をもってしてもなお許容することの出来ぬ恐怖。朧気ながらも覚えているいくつかの泡禍による体験とはまた別種の、致命的ではないが抗い難く受け入れ難い恐怖。  
 使命を念じても嫌悪を伴う怖気が、目を閉じても先ほど至近で見た顔が、こびりつき離れない。  
 
「待って……て、何故?」  
「……こ…心の準備が、まだ……」  
 呆気にとられ、興が削がれたように問い返す青年に、颯姫はそうと答えるしかない。詳細の理由を彼に伝えることなど論外だと、それくらいは颯姫にも分かっていた。けれど同時に、その答えが充分な理由たり得るはずがないことも、自覚していた。だからこそ。  
「心の準備……?」  
「……」  
 今更?とその心情を視線で雄弁に表し、彼が再び確認のように問うたその言葉にも、沈黙を用いるほか無かったのだ。  
 
「……颯姫ちゃん」  
 答えが無いことにやや困惑し、それから一度小さく溜め息を吐いた青年は。  
「颯姫ちゃんは、ちょっと怖がりすぎ。こんなこと、男の僕が言う事じゃないことは分かってるけど……案外、やってみたら大したことなかったって思えるかもしれないよ?」  
 なだめるように颯姫と視線を通わせて、ややぎこちない笑みと共にそう口にする。……それさえも今の颯姫には恐怖になるなどと、想像できるはずもなく。  
 
「…………っ」  
 颯姫は、押し寄せる恐怖と葛藤の狭間で戦っていた。  
 口を突きそうになる中断の言葉を、より強いはずの恐怖で辛うじて飲み込んでいた。出来ることならば、もう口に出してしまいたかった。やめると。少なくとも今日は出来ない、と。  
 それを押しとどめているものはただただ今のロッジに居られなくなるかもしれないという恐怖だけだ。自身の確たる一つと思っていた使命に対する想いさえ、今はもう無力だった。  
 とても怖いもの以上にもっと怖いもの―――そんな危ういバランスの上で、どうにか颯姫はここにいる意思を保てているに過ぎなかった。  
 
 裏を返すならば、もうそこまで颯姫の心は挫けていると言ってもよかった。先刻颯姫が口にした『まだ』という言葉。だが……それがいつ達成されるのか、そもそもその可能性自体……颯姫自身、まるで信用できていないのだから。  
 
 一向に色好い反応を見せない颯姫に対して、青年の方も段々と焦れてきたのだろう。  
「……とにかくやってみよう? 痛かったら、言ってくれれば一旦やめるからさ」  
 やや強引にそう言い聞かせると、改めて颯姫の両脚を押し開きにかかる。決して太いとは言えぬ腕が、しかし到底颯姫には反抗できぬ力をもって、強制的に準備を進めてゆく。  
 
「やっ! ま、まって。やめて下さい!」  
 それら行動一つ々々に恐怖を刻まれ、颯姫は叫ぶように言って身を捩る。  
 理由を明かさぬ以上、彼に非がないことは分かっているが、彼の言葉や行動は的外れなのだ。颯姫の恐怖は断じて痛みなどではない。むしろもっと心因的な恐怖。  
 『とりあえず行う』ことそれ自体が、とてつもなく恐ろしいものになってしまっているのだから。  
 
「颯姫ちゃん! ここでやめてもどうしようもないだろ!? 怖いのは分かるけど、大丈夫だから……!」  
 語気強く主張する声、苛立ちを覗かせる表情、抵抗を歯牙にも掛けず身体を押さえ体位を整える腕、彼の股間でグロテスクに拳を突き上げるそれ―――悉くの恐怖を振りまいて、青年が。  
 
「や、やっ、いやです! お願いしますっ、やめ……!!」  
 いよいよ自身の制止をはね除け無理矢理にコトを為そうとしだした青年に、颯姫ももはや本気で抵抗し始める。そぶりとして以上に、持てる力を全て動員して青年の腕から、組み敷かれた身体の下から脱しようと藻掻く。  
 それでも。  
 
「……くっ!」  
 やはり男女間、それも非力な少女に過ぎぬ颯姫と、男性でしかも年上たる青年との間に横たわる筋力差は絶望的だった。青年から逃れることは愚か、彼の行動を妨げることすら颯姫の細腕には難しい。  
 じりじりと、颯姫の守るべき場所が彼の手によって暴かれてゆく。  
 
「あっ、あっ……!」  
 そしてついに……抵抗空しくその身をこじ開けられ、いきり立つ彼の槍に狙われるに至って。  
「ぃや、っ、っっ、ぁ……あ―――」  
 
 
「―――蒼衣さんっっ!!!」  
 とうとう、颯姫の恐怖は限界を迎えた。  
 
「蒼衣さんっ、蒼衣さん……!」  
 呼ばぬよう努めていた名を、堪えきれなくなることを恐れたその名を、口にする。  
「蒼衣さん! 蒼衣さんっ、蒼衣さん!!」  
 憚るような余裕など無い。ただひたすらに、喉が引き裂かれても構わないとばかりにその青年の名前を叫ぶ。  
 そこにもう使命に燃える騎士の姿はなく、ただ陵辱に晒され慟哭を上げる少女の姿だけがあった。  
 
 果たして、そんな哀しい少女の願い声は。  
 しかし。  
 
「っ、あ〜もうっ―――」  
 
 
 
「―――うっせぇぇんだよっオマエ!!」  
 吐き付けられた怒声と、襲い来る掌によって、無情にもかき消された……。  
 
 
注:ここから先、陵辱物が苦手な方、愛するキャラが傷つけられる話は絶対に許せないという方(そしてそれをスルー出来ない方)は、読まない事推奨。  
 
「ぇ…………?」  
「ったく。せっかくこっちが最初くらいは優しく抱いてやろうと思ってるってのに、いちいち手間掛けさせんな、このっ。面倒臭ぇ」  
「! きゃっ!?」  
 何が起きたのかと呆然とする暇さえ与えず、態度を豹変させた青年は続けて掌を振るう。  
 
「……大体さぁ、こんな時に他のヤツの名前呼ぶとか、何考えてるわけ? アオイさん? はぁ? 誰だよそれ、知らねーし」  
「痛っ!! ……うっ!」  
 泡禍からの危機は記憶にさえいくつかあっても、人から暴力を受けるなどという経験は持ち合わせていない颯姫は、突然態度を変えた青年と頬を打ち付けられるその痛みに、驚き身を縮こまらせる事しかできない。  
 逃げなければとさえ思い至れず、ただ少しでも痛みを遠ざけようと顔を背け、腕で庇うだけだ。  
 ……むろん、そんな方法では防ぐことなど出来るはずもない。  
 
「ああ、じゃあアレか? もしかして途中からずっと目ぇ閉じてたのは、ソイツに抱かれてるとか思い込む為か? へぇぇ……っ―――ざけんなっ!」  
「ひっ、ぁぐ!!」  
 腕の隙間を縫って露出した顔を狙う甲と平が、颯姫を容赦なく打ちのめしてゆく。  
 全力ではないにしても成人男性それなりの力を込められた腕は、人体の中で敏感な部位に当たる顔面にとって、とても惨いものだ。女性の、それもまだうら若き少女のそこへ振るわれるべき物では断じてない。  
 
「道理で急に従順になったわけだ。……はっ、舐めんなよ糞が!」  
「ごめ、あぅっ……!」  
「ふん、許すわけねーだろ? あぁ?」  
 しかし、男性の手には、それら配慮が一切見受けられなかった。自分の苛立ちを存分にそこで晴らさんと、ただそんな利己的な衝動が表れているのみ。  
 そして少女にとって不幸なことに、この場にはその非道を諫め止めるような余人は存在せず。  
 
 暗く、広大な牢獄と化した部屋には。暫し。  
 憤りの声と、散発的な打撃音。  
 そして悲哀にまみれた少女の泣き声が木霊し続けた……。  
 
 
 
「だっりぃ……思いっ切り白けさせてんじゃねぇよ、この馬鹿が」  
 ひとしきり颯姫を殴打した後、青年は眼下、啜り泣く少女へ吐き捨てるようにそう言った。  
 
「……っ、……っ」  
 颯姫は未だ身を守る姿勢のまま、押し殺した声を上げるしかなかった。反抗心の芽を根こそぎ摘まれ、代わりに過剰な恐怖を植え付けられた少女の心には、今更何かを出来るような気力は残っていなかったのだ。  
 顔を中心に蝕む熱のような痛みにただ堪える。暗がりでなければより鮮明に見えたに違いない紅く腫れた腕と頬、そして衝撃で切ったのだろう唇の傷が、行われた行為の痛ましさを如実に語っていた。  
 
「ふぅ……もういいよ。こっちで好きにやらせてもらうからさ」  
 そんな常人なら目を背けたくなるような少女の姿に、しかしそれを強いた青年はやはり特段の感慨も見せぬまま、それどころかより追い詰めるがごとく、颯姫の両足首を取った。そのまま力の通わぬ脚を、先ほど果たせなかった動きをなぞるように持ち上げ、押し倒してゆく。  
「!? やっ……!」  
「チッ、おとなしくしてろっ!!」  
 動きに気付いた颯姫の微かな抵抗さえをも暴力で叩き潰し、手の位置を膝裏へ、抵抗の無くなったそれを一気にシーツへと押しつけた。  
 
 そして。  
 愛も、情緒も、労りも、優しさも、躊躇いも、憐憫も、罪悪感も、義務感も、前置きも、手加減も、感慨さえもないままに、ひと息にそこへ―――  
 
 
 ブチリ。  
 
 
 ―――腰を落とした。  
 
 
「ぃああああああああぁぁぁぁっっ!!!」  
 脳を直接貫くような絶叫が、颯姫の口よりほとばしる。暴れる残響が窓を揺らし、その側、覗き見していた夜鳥を飛ばす。  
 そしてあまりにも悲痛なその声が去った後には、似ても似つかぬ別の音が。水越しに手を叩くかのような、軽い連打音。  
 
「ははっ、最初からこうしておくんだった」  
 大音量を真正面に受けた青年が、鼓膜の痺れに顔をしかめながらも、それすら好ましいとばかりに醜く笑い、淫らな水音を量産する。  
「いっ、ぁ、あっ、あっ」  
 破瓜の傷を気遣いなく掻き毟られる痛みに、喉を断続的に震わせる少女。  
 それを見下ろし、今や悠然と腰を振るう青年の目には、接触がもたらした以外の……嗜虐的な快感が垣間見えた。  
 そして青年は浮かぶその禍々しい光を裏切ることなく、焦点の定まらぬ少女の瞳を捉えながら、今し方得た感触と自身の武器に絡む特有の水気から絶対の確信を持って、告げる。  
 
「あー、残念だったな。そのアオイとやらに『初めて』をあげられなくてよ」  
「―――!」  
 
 ありったけの嘲りを込めて、青年は吐き掛ける。少女の覚束ない恋心をわざわざ育ててから抉り抜く為に、どうすることも出来ぬ諦めの檻に心底の無念を誘い出す為に。  
 全ては―――。  
 
 
 ―――理解し、見開かれたその瞳の中の絶望と、そこからとめどなく溢れはじめた透明な血液の輝きを観んが為に。  
 
 
「くくくく……、あっはははははは!」  
 望む通りの結果が得られたことで感極まったかのように、青年が狂笑を漏らして腰のスピードを引き上げる。  
 引き出された颯姫の声には、破られた身体の呻きともうひとつ、それまでにはなかった心の嘆きが加わっていた。  
 
「なに泣いてんだよ?」  
 それら短く上がる悲鳴を美味しそうに耳におさめて、再び青年は口を開く。まだ満腹ではないと、不足する分までもを貪欲に求めるように。  
 手負いとなった少女の心を、飽くなき害意がいたぶりあげる。  
 
「どうせ無駄だろ? だってオマエ、すぐ忘れちまうんだからさ。っふふふふははは」  
「っ………、……っ……」  
 シーツに広がる血だまりは、切り開かれた傷の大きさを表すように、広く深く。  
 寂寥たる部屋に横たわる重々しい暗闇と、戦慄き零れる小さな哀咽。  
 軽薄な笑い声と肉同士を打ち付ける乾いた音だけが、酷く場違いに浮いていた。  
 
 
 
 ―――どうしてこうなったのだろう。  
 なすがままに突かれる颯姫は、慈悲無い現実に問いかける。何が間違っていたのかと。  
 
 ただ悲しく。辛く。悔しく。虚しかった。  
 
 自分が、もはや元の自分でないことも、淡く描いていた夢の日々がもう二度と望めないものになってしまったことも。  
 いつかはけじめを付けられるだろうとは思っていたけれど、その時は大好きな二人に笑顔でおめでとうございますと言うのだと、今回のことを引き受けると決める時にはうっすらと覚悟を済ませていたつもりだったけれど。  
 ……それが、こんな形で塗り潰されてしまったことがひたすらに悲しかった。  
 
 何故自分がこんな目に遭わなければならないのか。無理矢理にねじ伏せられ身体を押し開かれて、好きに弄ばれ。  
 この身と心を傷つけられることが、その痛みを強いられることが、堪らなく辛かった。  
 
 良いように扱われ抵抗できない自分の無力さも、自身を踏みにじるそんな存在の言葉通りになってしまうのだろう自分の記憶の曖昧さも。  
 きっと自分は、この事を未来の自分に残せない。このあまりに理不尽な体験を、あのメモに記すことはしないだろう。皆の為にも、何より自分の為にも。  
 だから自分は、悲しみから逃れることを選んだ自分は、一緒に彼の罪も忘れてしまうのだ。まさにもう既に思い出せなくなっている、今こうして自身を貫く青年の名のように……。  
 それが何より悔しかった。  
 
 そして、今まで自分が胸に育ててきた使命の、その本当の姿に深く失望した。  
 騎士としての使命感ではない、もちろん泡禍への復讐心でもない。ただ生まれた時からそれが自分にとって当たり前の生活であっただけ。  
 けれどそんな騎士の活動にも、そこばくの誇りは抱いていたのだ。表の日常を謳歌する人々の、そして仲間たる騎士達の助けとなるのならと。その想いの延長に、その使命はあった。  
 次なる『自分』を、次なる一石足らん者を……確かに辛いこともあるけれど、生まれ、誰かに出逢うことは、きっと幸せなことだからと。  
 そう思っていたというのに……。  
 
 これが……こんなものが、血脈としての使命だというのか……?  
 ただ欲望のはけ口のような、騎士は愚か一個人とすら認められずまるで道具がごときこんな扱いを受けて……身も心も蹂躙し尽くされるこんな行為が、本当に尊き儀式だと言えるのか?  
 颯姫は問わずにはいられなかった。  
 
 
 
「……まぁ、だからこそこんな事も出来るんだけどな。じぃちゃんからも食害(オマエ)相手なら好きにして良いって言われてるし」  
 体位を変え、後ろから突き上げてくる青年のそんな言葉。身体に付けられた裂傷はようやく少しずつ和らいできたけれど、青年の言動はそれぞれに、颯姫の心を締め付ける。  
 形にされた歪んだ正当性は、その姿そのままに鋭く、颯姫を傷つけた。まるで何もかもはこの為なのだと、血脈も、自身の断章も、これまでの日々さえ、こんな事の為なのだと明かされているようだった。  
 
「あのめちゃくちゃ綺麗な女の方じゃなかったのは残念だが、この際贅沢は言えねぇからな」  
 酷薄に口端をつり上げているのだろうと容易に分かる口調が、大切な仲間までをも貶めて、背中の上を滑ってゆく。  
「っあぐ……!?」  
「くくっ、だから精々楽しませてくれよ?」  
 突如鼓動を力任せに握られ浮かんだ颯姫の苦痛を、舐めるように観察し、耳元で笑うように囁く青年。  
 深さを増した挿入が蕾の根を乱暴に擦り上げ、未熟な感覚に痛みを流す。  
 音と衝撃と痛みの速度がまた一段、跳ね上がった。リズム感も無視した、およそ本人にとってのみ都合の良い間隔で腰を打ち付け始める。  
 やがて。  
 
「ふっ……!!」  
 上り詰めるように激しさを増していたピストン運動は、青年の呻きのような吐息によって終わりを迎えた。  
 身体深く食い込む異物が肥大化し、下腹部へドロリと微かな異物感を吐き出す。ドク、ドク……と脈動ごとに恐らく二度三度。  
 痛いほどに掴まれた腰元を、荒さの滲む溜め息が撫で、それを合図としたように身体に通う彼の存在が、散々に自身を侵し害したその肉質がゆっくりと引き抜かれた。  
 
 
 
 こうして……その意思を押さえつけ、その誇りを汚し、その心を引き裂いた……颯姫にとってあまりにもおぞましいその儀式は、ようやく終わりを告げた。  
 
 
 
「……っ」  
 やっと許された放心に身を横たえたまま、颯姫は遠くそびえる天井を眺めた。大きな喪失感に僅かばかりの安堵感を溶かしたような気怠さの中、涙の跡が強く残った頬を向けたそこに、これまでの日々とこれからの日々を描く。  
 
 仲間との日々。もはや本当の自分として在ることは出来ぬ日々、けれどもはや絶対に自分には捨て去ること出来ぬ日々。  
 またあの中で笑う為に、皆に笑顔を浮かべ続けてもらう為に、颯姫はこの事を忘れなければならない。もし訊ねられたとしても、コンナコトは忘れてしまったのだと、いつものように困った笑みで誤魔化してしまえばいい。皆を、自分を……過去さえも。  
 だから後はただ、自身に掛けられたこの忌まわしい役目を全うするだけ。きっとそれはそれで、今の自分には想像も出来ぬ困難が待っているのだろうけれど、尊厳を踏みにじられるような日々とは違うはずだから。  
 
 ……と、そこに影が。  
 仄暗い天井との距離を遮蔽する闇のような人型が。  
 
「……?」  
 また何かするのかと半ば怯え、まだ何かあるのかと半ば辟易しながら、颯姫はその影―――こちらを覆うように見下ろす青年の顔に視線を移し。  
「―――っ!」  
 そしてその表情を見て、自分が酷く楽観的な勘違いをしていたのだと思い知る。何故ならそこに浮かんでいたのは、事後の達成感でもなければ脱力でもなく、  
 
「おい。なぁに勝手に終わったつもりになってんだよ」  
 ニタリと颯姫の安堵を嘲笑する、残虐的なまでの期待と快楽であったからだ。  
 
 
 
「ひっ―――」  
 過去となったはずだった悪夢のような時間が脳裏に甦り、知らず、掠れた悲鳴が漏れる。一度逃れられたと思ってしまったが故に、その恐怖はことさら大きかった。全身を苛む恐怖が、颯姫の身体をおこりに罹ったかのように震わせる。  
「まだたったの一回だろ? せっかくの玩具なんだ、まだまだ遊ぶに決まってんじゃねーか。くく……」  
 二度ですらないという落胆を与えながら、青年が肩を小刻みに揺らす。煽るように、深めるように、カタカタと。  
 
「ははっ、でもまぁ……安心しろ」  
 やがて青年は笑みを変え、颯姫を突き落とす最後の言葉を。  
 聞き逃させぬよう、下顎を指で持ち上げて。獲物をひねくる猫のごとき好色を湛えた瞳越しに。  
 放つ。  
 
 ―――オマエが『全部忘れる』まで、帰さねぇからよ。  
 
 そう、颯姫の根源的な恐怖である単語を用いて彼は言った。  
 選択さえも与えられず、強いられる。忘れるという意思をも許されず、彼が事情によってのみこの身を支配される。真実ただ道具として、この身をくまなく利用されて。  
 オマエが帰れるのはそれからなのだと。  
 
「それじゃあとりあえず、汚れちまった俺のを―――」  
 絶望の遙か、新たな地獄の開始を宣告する指示。手始めにと行われたそんな信じられない要求に、しかし自分が逆らえないことにより深く絶望して……。  
 颯姫は力尽きたように首を折る。  
 
 果たして、皆の元へ戻る自分は『自分』のままでいられるだろうか。彼らの名を、存在を、過ごした日々を、ちゃんとそらんじることが出来るだろうか……。  
 彼の言う『全て』にどこまでが含まれるのか分からない。けれど―――蒼衣に、雪乃に、神狩屋に名を呼ばれ……見知らぬ者に対する視線を返す自分―――その想像は何より怖く、それが現実となることは何よりも恐ろしかった。  
 
 
 
「蒼衣さん……っ」  
 顔を覆う両手の隙間から、颯姫のそんな、ありったけの哀しみと限りのない無念を詰め込んだ一滴の声と涙がこぼれ落ちる。  
 それは、だが、少女を囲む永く暗い夜の中に儚く溶けて。  
 
 誰に受け取られることもなく。  
 ただ静かに消えていった……。  
 
 
―――  BAD END  ―――  
 

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