雪の女王  
 
「んっ・・・・・・」  
ふと雪乃が身じろぎする。  
ベットが形を変えたためだろうか。  
「!?」  
はっとして蒼衣は飛び退いた。  
そしてそのままふらふらとテーブル脇の座椅子に腰掛け俯いてしまった。  
雪乃を裏切ってしまったような罪悪感が胸に圧し掛かっていた。  
 
 
・・・・・・・・・・・・  
 
ずきずきと痛む頭で雪乃は目を覚ました。  
貧血気味だからであろうか。  
くらくらとふらつく感はあるが自分で動く事は出来そうだ。  
ベット脇の時計を確認するとここに来てから10時間以上経っていた。  
血が足りず萎えた筋肉を使い上半身を起こし少しリラックスする。  
ぐぅ――と体が空腹を訴え気恥ずかしさから思わず顔をしかめる。  
「大丈夫雪乃さん?」  
腹の虫で気づかれた事に理不尽に苛立ち眉間の皺が深くなった。  
蒼衣の表情は精彩を欠いており「怪我はしていなかったはず」と異形と対峙したときの事を思い出す。  
「あなたこそ具合が悪そうよ」  
自身が原因で蒼衣が欲求と罪悪感に苛まれ休まることが無かったなど気づかずに声を掛ける。  
しかし、思わず心配しているような事を口走ってしまい何だかばつが悪くなってしまった。  
そこで答えも聞かずに次の話題を振る。  
今更ながら二人でラブホテルにいることに落ち着かず無意識に口数が増えていた。  
「とにかく包帯を替えたいわ。手伝ってくれる?」  
そう言って乱雑なギプスに止血された腕を僅かにあげてみせる。  
 
蒼衣は「うん」と言葉少なげにテーブルに置かれた応急用の道具を持ち雪乃のベットへ腰を掛ける。  
「それじゃあお願い」と傷ついた腕を蒼衣の胸の高さまでもっていく。  
じくじくと柊ぎ傷口が脈動するのを感じた。  
硬く結われた血の滲む包帯を解く蒼衣の一挙一動がなんだかこそばゆく感じる。  
包帯の下の血を吸ったタオルがぱりぱりと音を立て皮膚から剥がれる。  
凝固した血液を介し傷口とタオルと癒着しており剥がす度に痛みで心臓が跳ねた。  
そして剥がれた箇所から再び血が滲み出す。  
「――――――っ!!」  
噛み締めた歯の間から喘ぎとなって息が漏れる。  
「ごめん。もう少し我慢して」  
緊張した面持ちの蒼衣が怯む事なく慎重に作業を続けていった。  
止血に使われていた物は全て剥がし終え断章の代償が浮かぶ腕が露になる。  
絹のような白い肌に生肉と樹皮のような傷口が走り血と黄色っぽい体液が薄っすらと滴っている。  
 
あまりの痛ましさに顔を背けたくなったが、そんな雪乃に今まで以上の愛しさが溢れ出し現状と戦うことを決意する。  
雪乃を手をとり、そっと傷口に舌を這わす。  
「――っ!?白野くん!?」  
蒼衣の思わぬ行動に雪乃は驚き腕を引っ込めようとする。  
しかし蒼衣は離さない。  
この傷が雪乃の泡渦に対する憎悪と異形を焼く罪だとしたらそこから流れる罰は自分が濯がねばならない。  
雪乃の断章の本質を知ったその時から自分勝手だとしてもそうすると決めていた。  
ふと初めて遭遇し雪乃と出会うことになった泡渦について思い出す。  
灰かぶりとなった杜塚から湧く出来損ないの鳩が喚いていた。  
――――灰ダ!! ――――悪ヲ!!  
そうだ。これが灰と悪であるならば僕のお腹に入るべきだ。と思い至り意思を固め事に望む。  
 
「いやっ―――・・・・・・」  
舌の触れた肉が汁っぽい湿った音を生む。  
灼熱の傷口にひやりとした舌がなぞり血と汚液をからめとるようにうごめく。  
「んっ・・・・・・あぁっ」  
直接神経に触れられるような刺激が脊椎を通り抜ける。  
苦痛と快楽とが一緒くたになった奇妙な刺激に背筋からびくりと跳ねる。  
蒼衣の行動と抵抗できない自身に驚き硬く目を閉じる。直視できない。  
いやだ!この痛みは私と姉さんのものなのに。と嘆き訴える自分と、  
白野くんが私を洗い流してくれる。と恍惚しささやく自分がいた。  
二つの刺激と入り混じった感情が雪乃の中に荒れ狂う。  
はぁはぁと熱っぽい吐息が漏れる。  
そのうちに舌だけではなく口全体でしゃぶるように蒼衣が吸い付いてきた。  
湿った淫靡な音と二人の息遣いに場が満たされる。  
雪乃は飛びそうな意識をなんとか繋ぎとめ蒼衣に身を委ねた。  
 
手首を伝い指先を流れて舌は離れた。  
荒れた呼吸を整えながら蒼衣に視線を向ける。  
蒼衣は雪乃の血と膿に耳元まで汚れていた。  
 
そんな蒼衣に心が痛み恥ずかしさと悲しさが込み上げる。  
蒼衣を見ていられない。顔を合わせられない。  
「浴室で傷口を洗い流すわ。後は一人で平気よ」  
早口に言いベットから降りる。  
「でも雪乃さん・・・・・・」  
「向こうに行って」  
蒼衣が何か言い切る前に拒絶の意思を明確にした瞳と声を向け足早に浴室に向かう。  
取り付く島もないような態度に蒼衣はおとなしくテーブル脇の椅子に戻った。  
「雪乃さん・・・・・・」  
蒼衣は感情にまかせ普通ではない事をしてしまった自身に憤りを感じた。  
 
雪乃は蛍光灯がブラックライトに置き換えられた浴室に気後れしたが素早く蛇口を探した。  
ハンドルを捻りシャワーを流す。  
これから傷口を流水に晒さねばならない。  
事の余韻と決別する為にも素早く意を決して一気に行く。  
「―――――――――――――っ!?」  
想像以上に沁みる。反射的に腕を引っ込め掛けたが理性で反射を屈服させる。  
思わず涙が滲んだ。  
これはきっと痛みのせいだ。と自分に言い聞かせる。  
しかし、この痛みはいつも泡渦と対峙する時の痛みとは違っていた。  
痛みを憎悪と灼熱の炎としてきたはずなのにこの痛みはひどく悲しく氷のように冷たかった。  
自分がとても惨めで哀れに感じられ、玉になった涙が床にこぼれた。  
「可哀想な雪乃」  
高い位置から餓える民を心底哀れみ嘲笑する女王のような声が雪乃の耳元でささやかれる。  
「姉さん!?」  
突然の姉の声に驚き雪乃は顔をあげる。  
ブラックライトの元でいつにも増して亡霊のようになった風乃が浴槽から高く浮いた場所で雪乃を睥睨していた。  
「悲しいわ。怪物にも成りきれず醜い姿をして。まるでフランケンシュタインの怪物だわ」  
亡霊となった姉を睨み付け、ぎり――と歯食いしばる。  
ふわりと雪乃の背後に流れ風乃は続ける。  
「フランケンシュタインの怪物だって何も悩む事無く自らの力を振るえば苦悩もせず血と憎悪に満ちた怪物として生きられたのに・・・・・・」  
「今の貴女と本当にそっくりだわ」一拍置いてそう付け足した。  
「亡霊に言われたくないわ」  
後ろの風乃を見もせずに皮肉を返す。しかし身体は芯まで冷え暗い感情に小さく震えていた。  
構わず風乃は続ける。  
「貴女は怪物になるしかないのでしょう?だったらみんな燃やしてしまいましょう」  
「・・・・・・やめて」  
抵抗の声は蚊の鳴く程度にしか出ない。寒い。  
口付けするほどの距離から風乃は囁く。  
「まずは彼から・・・・・・」  
「いやっ!!」  
真っ白になった頭の中に蒼衣の顔が浮かび、今だかつて無い強さの声と意思で風乃と断章を否定をした。  
 
「雪乃さん!」  
雪乃の絶叫を聞き蒼衣は浴室に飛び込んで来た。  
「白野くんっ!!」  
腕の傷を気にも留めず蒼衣に抱きつく。  
風乃は二人を見下ろせる位置に浮かび上がり何故か安堵したような表情をしていた。  
蒼衣はしっかりと雪乃を抱きとめ風乃に敵意を孕んだ目を向ける。  
 
「ごめんなさいね。  
 雪乃にとても悲しく辛い思いをさせてしまって」  
今まで見たことが無い切ない表情で唐突に風乃は語り始めた。  
「雪乃を傷つけてきた事は許されるものでは無いわ」  
風乃の表情が心からの慈愛に満ちたものに変わった。  
怯えた瞳で見つめていた雪乃と強い敵意を持った蒼衣の瞳に困惑が浮かぶ。  
ふわりと雪乃の目の前に移動し、雪乃の頬を両手で包み込むようにして続けた。  
雪乃は懐かしい姉の温もりを感じた。  
 
「でも、これだけは信じて。私は本当に妹の雪乃が愛しいの。  
 怪物に。雪の女王になれる事で幸せになれるのであればそこまで導いてあげるつもり  
 でも、それは貴女の本心じゃないでしょう?  
 あんなに強く否定してようやく素直になれたじゃない。  
 だったら姉として貴女のより強い本当の望みを叶えてあげる」  
蒼衣が状況が飲み込めず頭が混乱する中で雪乃は何かを感じ取っていた。  
風乃の言葉は止まらない。  
「断章そのものとなった私には自分の望みを叶える事は出来ない。  
 それでも雪乃の望みなら。  
 より強い望みなら叶えることが出来るわ」  
風乃の言葉には今までと違う不吉な気配が漂っており、  
雪乃はぽつりと「姉さん。何を言っているの?」と呟いた。  
 
「雪の女王が氷の時代の終わりを心から望んだのだから。  
 ・・・・・でも、そうしたら春がきて氷はみんな融けてしまう」  
風乃が雪乃以上に雪の女王に徹していた事に蒼衣も今更ながら気づく。  
雪乃は喪失の悲しみに涙が零れた。  
「悲しまないで。  
 氷は雪解け水となって冬の傷を癒し、春の息吹を育む。  
 そして悪いものは水蒸気となって天に還るのよ」  
そう言って傷だらけの雪乃の腕を優しくなでる。  
風乃の手が滑った箇所から傷が消えていった。  
 
「可愛く愛しい私の雪乃。  
 人生を謳歌しなさい。  
 雪のように舞う枯れない桜になりなさい。天に還った私は貴女をのせる風としてきっと戻ってくる」  
言い終えた風乃は表情を明るく変え続ける。  
「恋も無く、好きな人に抱かれることも無く価値観の閉塞してしまった私は狂気で死んでしまったけれど貴女ならば大丈夫  
 アリスが新しい世界に連れて行ってくれるわ」  
瞬きもせずぽろぽろと涙を零しながら風乃を凝視する雪乃と雪乃をより強く抱きしめる蒼衣。  
「雪乃、愛してるわ」  
ふふっと小さく笑い宙空に消えていった。  
二人は最後の一瞬にやわらかな優しい風が吹き抜けた気がした。  
 
・・・・・・・・・・・・  
 
泣き崩れ嗚咽を漏らした雪乃も落ち着き、二人はベットの中で横になっていた。  
とはいっても互いに背を向け間には一人分の空白がある。  
赤い目をした雪乃は蒼衣に背中を向けあれから一言も口を利いていない。  
急に素直になれるわけでもなく、それでも離れたくなくてなんとなくこんな感じになっている。  
「雪乃さん?」  
雪乃に気を遣い黙していたが、話しかけ難いのかなと思い蒼衣のほうから声をかける。  
「・・・・なに?」  
雪乃はびくりとし恐る恐るといった様子で応答する。  
背を向けたままだが意識は蒼衣に集中しているのが判った。  
「僕は雪乃さんの罰を啜ってでも支えていこうと思ってたんだ。  
 お姉さんが断章と罰を全て天に還すために引き受けた今でも雪乃さんを支えたい」  
「・・・・・・馬鹿じゃないの?普通じゃないわよあなた」  
いつもの辛辣な言葉であるが含まれている空気は違っている。  
「雪乃さんは僕にとって特別だから普通じゃないのは当然じゃないかな」  
普通が信条の蒼衣ではあったがそれを否定する言葉は容易に口から出てきた。  
「・・・・雪乃さんはこんな僕をどう思う?」  
萎えそうになりながらもなんとか言い切る。  
「・・・・・・・・・・・・」  
言葉による返事は無かった。  
それでも、背中にぎゅうと抱きつく体温と胸の鼓動が伝わってきた。  
「・・・雪乃さん」  
背に密着する雪乃の存在を確かめたくて声を掛け振り向こうとする。  
途端に手が伸び振り返らないように蒼衣の頭を押さえられた。  
ぽつりと一言、雪乃が言葉を返す。  
「うるさい。殺すわよ」  
 
 
完  
 

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