さっ、と淡い花々の息吹を帯びた春の空気が颯姫を通り抜けて行った。
空高くからはヒバリの声が響く。
やわらかさと清々しさとが入り混じった匂いが胸いっぱいに広がり春を実感する。
ひらりひらりと幾枚かの花弁が風に吹かれ落ちてくる。
暖かさの中、次々と植物たちは開花し生命を謳歌していく。
眠気を誘われながらもわくわくするようなやわらなかな春の陽射し中で颯姫は芝生に寝そべっていた。
「はぁ〜・・・・・・」
ぬくぬくした雰囲気に思わず平穏の溜息が零れる。
鹿狩屋はブルーシートを持ち出しており、膝の上の夢見子に何やら童話を読み聞かせる格好になっている。
しかし童話のページの進み具合は遅々としている。
傍らの蒼衣への童話の講義が原因のようだ。野外授業に熱心な講師と生徒にも見えないことはない。
二人とも夢見子そっちのけで童話の解釈や象徴について語り始めている。
夢見子も童話や会話にはまるで興味が無いようで視線はふわりふわりと舞う蝶を追っている。
雪乃は講義を始めた鹿狩屋とその生徒の蒼衣に呆れ、少し離れた場所の桜の木に寄りかかりながら目を閉じ俯いている。
穏やかな様子でありながらこの町が泡渦に侵食されている。
相次ぐ動機のない失踪。
そして胸が内側から張り裂けミイラ化した死体での発見。
被害は現象傾向にあるが泡渦は人々の不安と猜疑心を煽り出歩く者の姿は消え、春の陽気と草花の匂いだけが町を包んでいた。
三木目先生に夢見子を診察させるめに鹿狩屋と共に車で出掛け、その帰りにたまたま泡渦探しの雪乃と蒼衣を見つけたのだ。
「天気がいいから寄り道でもしようか」と鹿狩屋が提案し、颯姫と蒼衣が賛同した。
雪乃は不謹慎とか小言を言って泡渦探しに戻りたがっていたが「夢見子ちゃんが久しぶりに外に出てるのだから」と蒼衣に説き伏せられてしまった。
その間に車内にあった普段は死体を隠すブルーシートは健全な用法を発揮するべく鹿狩屋の手で広げられ今に至る。
颯姫はごろりと裏返りうつ伏せになり皆の様子を眺める。
鹿狩屋さんは別にいいや・・・
白野さんは見ていると何故か動悸が早くなる。どうしてだろう。
手帳に書かれていない記憶が切なくさせる。
何かあったような気がするけど思い出せそうで思い出せない。何だったかな。
そこで次に夢見子に目をやる。
夢見子は本当に可愛らしい人形と見紛う容姿をしているが蝶を追う瞳は希薄ながらも好奇心が見え隠れする。
一見、無機質でありながらも確かな体温と無邪気さを宿している。
もっとも可愛らしいアンティークドールや、もっとも無垢な少女も今の夢見子には遠く及ばないだろう。
同性の颯姫でさえ抱きしめたい欲求と壊してしまいそうな不安が沸き起こり胸がきゅんとしてしまう。
二度目の溜息が無意識のうちに空気に溶けていく。
横向きに寝返り雪乃に視線を移す。
秀麗な容姿がいつものゴシックロリータに身を包まれている。
断章を制御するための戦闘装飾姿でいるがいつものような冷徹さは暖かさに緩和されている。
桜に寄りかかり目を閉じ俯く様は憩うヴァルキューレとしても通用するだろう。本当に綺麗だ。
私では雪乃さんに敵わないかな。・・・・・・でも何を競っているんだろう。
巡らせた思考を現実に、視線は雪乃に戻す。
しかし微動だにしない。あっ、ぴくりと動いた。
・・・・・・ひょっとして寝てる?表情もいつになく緩んでいる気がする。
雪の女王も春の陽気の前では溶けてしまうのかも。
普段の激しさからは想像のつかない一面に思わず頬が緩んでしまう。
さらに寝返りをうち仰向けになる。
そして最後に自分について考えてみる。
とても幸福だ。
鹿狩屋さんがいて夢見子ちゃんがいて雪乃さんがいて白野さんがいる。
他にもたくさん。
こうしてお日様の下で花の匂いを感じながら風に触れる。
記憶は長く続かないが手帳はあるし、きっと心が忘れずに覚えていることも・・・・・・
「・・・・・・ちゃん・・・颯姫ちゃん」
「・・・んっ・・・・・・」
「目が覚めた?」
「・・・・・・しらの・・・さん?・・・・・・っ!?」
颯姫は蒼衣の腕の中で抱き起こされるような姿勢で目を覚ました。
状況が速やかに理解できない。慌てて周囲を見回す。
日は傾きかけている。寝ていた?でもなんで二人きりに?
「ゆっ・・・雪乃さんたちは?」
「しばらく前に帰ったよ。夢見子ちゃんの断章が泡渦を予言して風乃さんが気配を感じて探しに行ったよ。
颯姫ちゃんを一人きりにもできないから僕が付いていたんだ。」
その言葉を颯姫の顔は青ざめる。
そんな緊急時に寝ていたなんて!白野さんは私なんか放っておいて雪乃さんと行くべきだったのに!!
「ごめんなさい!私なんかのためにっ・・・雪乃さんと行かなきゃいけなかったのに」
咄嗟にその言葉が出てきた。また足を引っ張ってしまった。
なんだか情けなく思わず泣きたくなったがなんとかこらえ涙目を隠すために俯く。
長いような数秒の間の後に蒼衣は意外な返事を返した。
「雪乃さんにはもう僕は必要ないよ。」
「っ!?」
予想だにしない返答に思わず顔をあげる。
意を決して蒼衣は語る。
「僕にとって本当にほうっておけない傍にいなきゃいけないのは雪乃さんじゃなかったんだ。
危なっかしい所は心配だけどきっと誰もいなくてもやっていけると思う。
実を言うと僕は始めから泡渦なんかどうでもよくて、ただ気になる女の子と普通じゃなくても普通に傍にいたいっていうか・・・」
言葉の終わりに近づくにつれ声は小さくなり次第に消えていった。
紅い夕日と織り成される陰影で顔色は読み取れないが火を噴きそうになっているだろう。
あぁそうか。
気づかないうちに思い出した?いや、ずっと覚えていたのかも。
でもこの際どうでもいいや。今は忘れていないんだもの。
ほとんどあの時の返事はもらったようなものだけれども、なんだか無性に嬉しくて、もう一度聞きたくて、あの時と同じように。
「・・・私、白野さんの事が好きです」
起伏のまるで無い胸が早鐘を打つ。今聞こえるのは自分の心臓の音と互いの息遣いのみ。
「僕も颯姫ちゃんが好きです」
世界の音が全て消えた中での唯一の音かのようにはっきりと聞こえた。
頭がくらくらする。いっそこのまま気絶してしまうかも。でもまだ勿体無い。
どうせこんなに恥ずかしい思いをしているんだから、もう少し欲張っても。
「じゃ、じゃあキスして下さい・・・」
言ってしまった!恥の上塗り?でも旅の恥は掻き捨てっていうし、きっと恋してるときだって。
颯姫はごくりと唾をのみ目を閉じ顎をわずかに上げる。
一方、蒼衣の喉はからからに乾き理性で欲求をなんとか鎮める。
しょうがないくらい愛しくて壊してしまいたくなくて花にそっと触れるかのようにくちづけをする。
啄ばむような短いキスだった。
5秒と満たない時間だった。触れ合っている間は永遠に思え、離れた途端に一瞬の出来事に思えた。
颯姫は胸が裂けてしまいそうなくらいに幸せだった。
いつからそうしていたかは判らないが寄り添うように座り、太陽は今にも沈もうとしていた。
太陽が町と山の向こうに消えた直後すべての光と音が失せ泡渦が広まった。
・・・・・・・・・・
颯姫は気づくと薄暗い部屋の中にいた。
「白野さんっ!?」
真っ先に蒼衣に声をかける。
「んっ・・・・・・さつきちゃん?」
ゆっくりと蒼衣が体を起こす。
互いにすぐ傍にいた事に安堵する。怪我もないようだ。
穴の開いた屋根から月明かりが入っているが外からの音は一切無い。
どうやらどこかの倉庫にいるみたいだ。
異様に暑く、かびたような空気がかさかさに乾いており呼吸するたびに喉の粘膜が張り付き咽そうになる。
この状況は泡渦以外にありえなかった。脱出も無理だろう。
それにこの暑さと空気ではまともに動けそうに無い。
どちらともなく互いに体重を預け絡ませるように手を握った。
恐怖はあったが不安はそれほどでもなかった。
こんな状況下でも二人でいると幸せだった。
・・・・・・・・・・・・
どれだけの時間がたっただろうか。
普通ならば渇きと無限に思える時間に耐えられず胸が張り裂けていたかもしれない。
しかし、二人でいれば渇きも時間も脅威には感じられなかった。
昼は蒸し風呂のような暑さの中、颯姫と蒼衣は互いの身体を啄ばむようなキスをして過ごした。
不思議といやらしい気持ちは湧いてこない。また声の出しにくい空気の中、過剰に喘ぐこともなくキスをした。
身体中に浮かぶ一滴の汗さえも草花に浮かぶ朝露のようであった。
そして夜になると小鳥のように身を寄せ合って眠った。
日が昇り倉庫内の温度は上昇し始めた頃に目を覚ます。
おはようのキスをした。言葉は要らない。
それでも状況は容赦しない。刻々と二人を蝕んでいく。
意識が遠のいていく。起き上がるのがつらい。
その時、唐突に倉庫の一角に炎が噴出し壁を火の粉とし消失する。
そこで颯姫の意識は途切れた。
気が付くと視界にくすんだ白い天井があった。
白野さんは?
何より先にその考えが浮かび飛び起きる。
「白野くんなら隣の部屋で鹿狩屋さんと話してるわ」
ベット脇のパイプ椅子に座る雪乃が答える。
颯姫は立ち上がろうとするが力が入らず転びそうになり雪乃に支えられた。
「無理しないで。今呼んでくるわ」雪乃はそう言いながら颯姫をベットに寝かせ部屋を出て行った。
すぐに雪乃は蒼衣と鹿狩屋を連れてきてくれた。
「無事でよかった。安心したよ」そう言って蒼衣は颯姫の手を握った。
やっぱり白野さんがいるとほっとする。
「夢見子ちゃんの予言はアンデルセン童話「ひなぎく」だったんだよ。泡渦の保持者は雪乃くんが始末してくれた。」と鹿狩屋は切り出した。
あとがきで作者が解説するからそれを参照してほしい。すこし長ったらしくてウザイかもしれないけど。と誰に言うでもなく付け足した。
「夢見子ちゃんの予言があんな場所でされるなんて驚いたよ。
二人に謝らなくてはいけない。一度全員でロッジに戻るべきだったんだ」
そう言って鹿狩屋は深く頭を下げる
「そ、そんな謝らないで下さい」と蒼衣は鹿狩屋の謝罪に驚きフォローする。
「泡渦は防ぎようのないものなんですから。それに起こってしまったものは仕方ないですし」
「それに得たものもあったんですから酷いことばかりじゃなかったですよ」
これは颯姫のフォローだ。ついぽろっと口走ってしまい恥ずかしくて赤くなる。
雪乃は蒼衣に含みをもった冷ややかな視線を送り、鹿狩屋は怪訝な顔をする。
「颯姫ちゃんも白野くんも目覚めたばかりだから二人きりでゆっくりさせてあげたら?」
意外にも雪乃が話を切り上げるように促す。
何も知らない鹿狩屋は雪乃の言葉を額面通りに受け取り「それじゃあ」と部屋を出て行った。
「ありがとう」
蒼衣は雪乃にしか聞こえない声で礼を述べた。
雪乃は蒼衣を素通りし部屋を出ようとした。
が、一度こちらをにらみ、唇の動きで「殺すわよ」と伝えドアを閉めた。
おわり
あとがきと解説
ひなぎく
美しい花々の花壇から離れたところにひなぎくが咲いていました。
ひなぎくは自分より美しい花壇の花々、青い空、奏でる鳥をとても美しいと思い、生まれたことを幸福に思っていました。
花壇の花たちは自分たちこそが美しいと思っています。
そこにヒバリが飛んできます。
ヒバリが口付けするのは最も美しい自分であると花壇の花々は思いアピールをはじめます。
ひなぎくはヒバリが口付けしてくれたら幸せだと思いますが、花壇の花のが綺麗なのでヒバリはそっちにいくだろうなぁと素直な気持ちでもいます。
ひなぎくは本当に世界の全てが好きなので謙虚なのです。
ヒバリはそんなひなぎくに惹かれ口付けをしました。
花壇の花々は嫉妬し、より自分を美しく見せようとします。
すると人間がきて「綺麗な花だ」と花壇の花をハサミで切り持ち帰ります。花は切られると死ぬので恐怖しました。
その様子にひなぎくも恐怖しましたがヒバリのことを思うと幸福です。
しかしヒバリは訪ねてこなくなります。
人間に捕まり籠に入れられていたのです。
ひなぎくはヒバリと共にいたいと願います。
籠にしく芝生としてひなぎくを含めた芝生の一角が切り取られ籠に入れられます。
ひなぎくはヒバリといれて幸福でした。
しかしヒバリは空も飛べず、水も与えられず弱っていき囀ることもできなくなります。
ひなぎくは何とかしたくても何もできません。
そのうちに渇きと満たされない気持ちでヒバリは胸が裂け死んでしまいました。
ひなぎくは悲しみから病気になりました。
その頃ヒバリを捕まえた人間がもどってきてヒバリが死んでいることに悲しみ立派に埋葬する。
「あぁ生きてるときは苦しめておいて、死んでしまったら悲しみ立派にするなんて勝手すぎる!」とひなぎくは悲しみます。
ひなぎくはゴミと一緒に捨てられました。
もう誰もひなぎくを思い出してくれるものはありません。
おわり