寒々しい部屋に帰ってくるなり、雪乃は崩れるようにベッドに腰を下ろした。
妹の顔をのぞきこんでみるとすでに蒼白になっていた。
「雪乃、せめて止血だけしてから眠りなさい」
「わかっているわよ、姉さん」
雪乃は今日も〈騎士〉として遠くの町に派遣され、見知らぬ土地でいつもの手順を踏み、手首から流れる痛みをもって敵を燃やしてきたのだった。
今回の対象はまだ異形と化してはいなかったけれどもはや手遅れで、どのみち処理しなければならないところまで悪化していた。
殺さなければならなかったから殺した。
まだ人間の姿をしていたにもかかわらず、妹は躊躇の色など微塵も見せずに人を燃やした。
「失血はそれほどでもないわね。包帯の予備は……」
雪乃が包帯を取ろうと立ち上がり――――そのままベッドに倒れこんだ。
「…………?」
なぜ自分が倒れたのか理解が及ばないようで、天井を見上げながら不思議そうな表情をしている。
わたしは妹の頭をなで、やさしく諭すように言った。
「雪乃、もういいから寝てしまいなさい。わたしが止血しておくから」
「……なにを言ってるの、姉さん。ただの立ちくらみだから、平気――――」
ふたたび立ち上がろうと半身を起こしたところで動きが止まった。
「体に力が入らないのでしょう? 思ったより血が流れていたようだから、あなたはおとなしくしてなさい」
「でも、姉さん、あっ…………」
頑固な雪乃があれこれ言って意固地になるまえに、わたしは雪乃の隣に腰かけ、妹の手首にそっと舌を這わせた。
小さな手のひらの付け根、透きとおるように白い肌から鮮やかな赤色がいまもなお流れつづている。
すじにそって垂れてくる血液を舌先で舐めとった。
「姉さん……」
雪乃は観念したように肩を落とし、わたしの行為を茶化すように言った。
「妹の血をすするなんて、さすがは姉さんね。身内であることがいまさらながらに恥ずかしいわ」
舌先が傷痕にたどりつき、皮膚と肉の隙間からにじみ出てくる血を吸いあげた。
傷口にはなるべく触れないように気をつけながら、横に開いた亀裂のまわりをねっとりしたわたしの先端できれいに拭き取っていく。
血と唾液がまざって、くちゅっと音を立てた。
「残念だけど、いくら縁を切ったとしてもあなたはわたしの妹よ。あなたも……素敵に狂っているわ」
雪乃はなにも言わず、わたしの肩に頭をあずけてきた。
きっと雪乃にはわかっているのかもしれない。
わたしのような異常とはちがって、異常を憎むがゆえに異常であろうとしている自分を。
意識しなければ異常にふるまえない、普通の自分を。
今日の仕事にしても、異形化するまえの人間を殺した妹は顔色ひとつ変えなかった。
怪物を殺すのとはわけがちがう。
生身の人間を手にかけて、普通の人間は普通でいられない。
それなら普通を押し隠している妹の、心の奥は――――
「降ってきたわね」
妹の言葉にわたしの意識は揺り戻された。
電灯のついていない暗い室内とは対照的に、窓の外は白い雲におおわれて明るかった。
白い風景にときおり白い影がふわふわと落ちてきている。
「雪……」
『すべてを掃き清める』という清浄なる意味をもった言葉。
けれど名前に「雪」の字をもつ妹はすでに目をつぶり、身を任せるようにわたしに寄りかかってきた。
いま妹はなにを思っているのだろうか。
汚れのない白さを名前にもらった妹は、なにを考えているのだろう。
しんとした肌寒い空気につつまれて、わたしは雪乃の手首を舐めつづける。
すでに血は止まっていたものの、ミミズ腫れみたいに残ったいくつもの古傷からはいまだに見えない血が流れ落ちているように感じられて。
音もなく、明かりもない小さな空間にふたりきり。
寝息を立てはじめた妹を起こさないよう、わたしはいつまでもいつまでも傷痕を舐めつづけていた。