ヒュンケルは瞠目した。
数奇な生い立ちゆえか、物事に動じることが少ない彼さえも驚愕させるほど、
目の前の老人の言葉は意外なものだった。普段は自らをこの国一の剣豪などと
豪語して憚らぬ一方、人外の者とさえこだわりなく接する豪胆な老人が、
哀れなほど憔悴した顔で、彼に懇願したのだった。
「……全ては、姫の御為じゃ。引き受けてはくれぬか?ヒュンケル」
頼みの綱は、もはやお前さん一人きりじゃと、バダックは肩を落とした。
二年前の春、レオナ姫はベンガーナの第三王子を花婿として迎えた。
ダイが失踪して2、3年のうちは、勇者と姫の再会と婚姻を望んでいた国民も、
やがては王家の断絶を案じるようになり、その声に押されて、政略結婚に
踏み切ったのだった。
もちろん、勇者と共に戦った仲間は皆、この結婚に反対した。
『いくら王族だって、何で惚れた男が生きてるか死んでるかも分かんねぇまま
結婚しなきゃならねぇんだよ!断れよ、姫さん。ダイは必ず帰ってくる、
俺達が連れて帰るから』
『そうよ、レオナ。貴女らしくないわ、そんなふうに自分を押し殺すなんて』
口々に言う彼らを制し、レオナは彼女らしい凛とした顔つきで言った。
『私、もう決めたの。結婚するわ、ダイ君を待つために』
『え……?』
『名目上だけでも結婚すれば、相手が一応の王位継承者になってくれる。
あとは側妾との間に子どもを作ってもらえば、その子が次の国王になるわ。
国民が望んでるのは王位継承者の存在であって、私が誰かと夫婦になることじゃないもの。
誰の奥さんになっても、私はダイ君を待ってる。誰にも、指一本触れさせやしない』
卑怯ね私と、年若い女王は小さく笑った。
しかし、事はレオナが思ったようには進まなかった。
レオナの花嫁姿の美しさは国民を熱狂させ、レオナの血を引く子どもを後継ぎにと望む声は、
一段と強くなった。結婚から半年後、急逝したベンガーナ国王の跡を継いだ第一王子が
対外強硬派であり、パプニカ内でベンガーナを忌避する声が強まったことも、その声に
拍車をかけた。
それでもなお、レオナは白い結婚を貫き通した。夫となった第三王子は温厚な人柄で、
レオナのことをいたく気に入っていたが、相手が誰であれ、ダイ以外の男であれば、
レオナにとって違いはなかった。
その状態が2年続き、廷臣たちは焦り始めていた。もしもこのまま、レオナ直系の次期国王を
望む声と、レオナの信念とが平行線を辿り続けたら。レオナを慕う国民の思いが、裏切りを
感じることで憎悪の念に変わったら。密かにレオナに似た幼児を探し出し、レオナの子に
仕立てることも一時計画されたが、パプニカには王族の出産に貴族数十名が立ち会うという習慣が
残っている。なかにはベンガーナ王家との繋がりが濃いものもおり、全ての人間の口を封じる
ことは難しかった。
やがて、廷臣の一人が言った。
『母親がレオナ姫でさえあれば……父親は誰でもよいのではないか』
「俺に、ダイと姫を裏切れとおっしゃるのですか」
ヒュンケルは、努めて冷静に言った。廷臣団が跡継ぎ問題で苦慮しているとは聞いていたが、
まさかこんな、レオナの尊厳を踏みにじるような提案がなされていたとは。彼女に恩義の
あるヒュンケルにしてみれば、内心反吐を吐きたい思いだった。
バダックは嘆息した。
「ポップ君にも、同じ事を言われたよ。じゃがのう、お前さんも知っておろう?大衆は
無邪気で善良で、残酷じゃ。人望を失った王族の末路は、悲惨なものよ。
姫はそのことを覚悟しておられるのじゃろうが、わしは見ておれん」
姫を生まれたときから知っている老いた忠臣は、俯いて首を横に振った。室内を仄暗く
照らす燭火が、じりじりと呻いた。
「わしはこんなことは言いたくないが……廷臣のなかにはこんなことを言う者もおったよ。
『ヒュンケル殿は姫に恩義がある。姫を見捨てるような真似はなさるまい』と」
ヒュンケルは、雷に打たれたように立ち尽くした。あの日、この国を攻め滅ぼさんとした
自分にレオナが下した、公正にして寛大な裁きを、忘れたことなどない。
「今もダイ君を探し続けているお前さん達には悪いがの……わしはもう、姫はダイ君を
待ち続けてもお幸せにはなられぬと思っている。このままあの少年に操を立てて、
国民から忌み嫌われるよりは……血を分けた赤子とともに、王家として安泰に暮らすほうが、
お幸せなのではないかのう」
頼む、この通りと、まるで孫娘の幸せを願うかのように、バダックは手を合わせた。
姫と子をなすことのできる若い男で、女ながら勇者と共に大魔王と戦った姫を力ずくで
犯せる者。そして何より、生まれた子どもの父親であるという秘密を墓場まで持っていける者。
この条件に合う人間は恐らく、ポップとヒュンケルしかいない。ポップに拒絶され、バダック達
臣下にとってもはや、ヒュンケルだけが最後の望みなのだろう。
ヒュンケルは拳を壁に叩きつけた。無数の毒虫に胸を食い破られるようなその悪寒は、
かつての師に肉体をのっとられかけたときの感覚に似ていた。
ベンガーナ王国の顔を潰さぬよう、生まれた子は姫と姫の夫との子どもと万人に信じられねばならない。
そのため夫には、声と背格好がレオナによく似た娼婦を暗い寝室で抱かせ、レオナを抱いたものと思わせる。
その娼婦は、事が済んだらどうなるのかとヒュンケルが問うと、バダックは顔を歪めた。
不都合のない限り、テラン辺りに隠匿するつもりだと答えながら。
不都合、つまり女の口が軽いだとか、女が移住を拒むなどの事情が出てきた場合、
女は殺されるのだろうと、その表情から容易に推察することが出来た。
決行の日、レオナの寝室の前で、ヒュンケルは逡巡した。目の前の扉をくぐれば、このおぞましい
計画に加担することになる。仲間、殊に同じ選択を迫られて違う道を選んだポップは、恐らく
自分を軽蔑するだろう。
見損なったよこの大馬鹿野郎。いつもいつも心配ばっかりかけやがるが、肝心なところじゃ
道を誤らねぇ奴だって、信じてた俺も相当馬鹿だけどな。てめぇ、ダイにどうやって顔向けするつもりだよ。
ヒュンケルは固く目を閉ざした。ダイ。そうだ、今すぐにでも、あの弟弟子が帰って来てくれたなら。
レオナは喜んで、ダイとの間に子をなすだろう。ベンガーナは面白くないだろうが、大魔王を成敗した勇者に
手向かうほど不遜ではなかろう。こんな姦計など、何の役にも立たなくなる。
しかし、ヒュンケル達も察し始めていた。ダイはもはや、自分達人間には手の届きようのないほど遠くにいる。
それは天界か魔界か、彼岸か。いずれにせよ、レオナの身が国民の憎悪に晒されぬうちに戻ってくることは、
極めて望みが薄い。
自分に見ていられるか。誰よりも人を統べるにふさわしいあの女性が、いつか生涯を孤独に終えるまで、人々に
忌み嫌われるのを。
―――いつか、恐らくはあの世で。好きなだけ俺を殴れ、ダイ。
ヒュンケルは、扉に手をかけた。彼を愛しているかもしれないと言ってくれた、桃色の髪の天使を思うことは、
一度もなかった。一瞬でも彼女のことを考えたら、この任務を遂行することはできないような気がした。
「誰?」
強張った声が、広大な寝室の奥から響いた。天蓋に覆われた下の寝台で、華奢な女性の影が警戒を強めるのが、暗がりにも
分かった。夫と勘違いしているのだろう。
「……ヒュンケル?」
「お久しぶりです、女王陛下」
しかし、彼女らしい勘の良さで、レオナはすぐにかつての戦友を見抜いた。信頼からか懐かしさからか、レオナの顔には
明るい笑みがこぼれた。
「やーねぇ、公の場以外じゃ姫って呼んでって言ったでしょ。年食ったみたいだからやめてよ。
で、どうしたの、こんな時間に。もしかして、何か分かったの?」
枕元の手燭に火をともし、レオナがヒュンケルのもとへ向かおうとするのを、ヒュンケルは手で制した。そのまま
彼のほうから寝台に近づき、恭しく跪く。
「申し訳ありません。残念ですが、目立った成果は……。ここに向かう前、ダイを見たという村人に行き当たりましたが、
証言に矛盾が多く、恐らくはまた賞金目当ての輩かと。今、ラーハルトが確認に向かっております」
「そう……」
レオナは深いため息をついた。少しでもダイに近づけるようにと、目撃証言に賞金をかけたのは、ダイの失踪の翌年。
もう5年前にもなる。はじめのうちは勇者への尊敬から、嘘の証言をする者などいなかったが、大戦の記憶が薄れるにつれ、
不逞の輩も複数出始めている。却って、捜索を混乱させるだけかもしれない。
「賞金は、もう打ち切ったほうがいいかもね……それで、今日はどうしたの?もしかして、とうとうエイミに
つかまっちゃった?」
茶目っ気たっぷりに、レオナが笑う。王族らしからぬこの気安さは、大戦の頃とちっとも変わっていない。いつもなら
苦笑するところだろうが、今のヒュンケルにはそれさえできなかった。夜更けに寝室に押し入られてなお、レオナは
少しも警戒していない。それだけ、ヒュンケルを信頼しているのだろう。彼がこれからしようとしていることなど、
夢想さえせずに。
「バダック殿に呼び出されました。俺からも、姫に頼んで欲しいと」
「頼み?」
「……ご夫君との間に、お子を。姫の御後継ぎを望む声は、日に日に高まっております。無視し続ければ、反乱や
暴動の引き金になるかもしれません。出すぎたこととは承知していますが、どうか……」
ヒュンケルは跪いたまま、深々と頭を下げた。彼にとって、最後の望みだった。レオナがこの願いを受け入れてくれれば、
ヒュンケルは、この気高い姫を汚すことも、仲間を失うこともなくなる。
レオナは身じろぎもせずに聞いていたが、やがて細く、深いため息をついた。
「……私ね、ヒュンケル。廷臣たちに結婚を迫られたとき、本気で思ったの。逃げちゃおうかなって。昔、ダイくんの
お母さんが、バランと駆け落ちして王家を捨てたみたいに。どこか森の奥で、誰にも知られずにダイくんのこと待って
られないかなって。そうできたらどんなによかっただろう。
でもね、私には王族の義務があった。パプニカ王族の最後の一人としての義務が。だから結婚したわ。ダイ君とは
似ても似つかない男の妻になった。これ以上、私は子どもまで産まなきゃならないの?
人を作るのは血筋じゃないわ、生き方よ。夫と側妾との間に子どもができたら、私がその子を育てて、私の
治世の全てを教えるわ。それで十分、義務は果たせると思う」
レオナは強い意志を感じさせる瞳をきゅっと上げた。
「あなたやバダックが私を心配してくれるのは嬉しいけど……ごめんね。これ以上はもう、譲れないの」
ヒュンケルは直感した。バダックの言っていた通り、レオナは覚悟しているのだ。裏切り者の女王としてそしられようと、
ダイを待ち続けることを。王族としての素養は血筋ではなく生き方が決める。それは真実であり、レオナが一から育てた
子どもであれば、誰よりもパプニカ王にふさわしい後継者となるだろう。しかし、大衆がそれで納得するほど聡明であれば、
もとよりレオナの直子を望むことなどありはしない。
ヒュンケルの胸を絶望が占めた。望みは潰えた。もはや姫を救う道は、一つしか残されていない。
「わざわざありがとう。城の貴賓室を開けるから、今日はゆっくり休んで」
「……レオナ姫」
ヒュンケルは、ゆっくりと立ち上がった。信頼に満ちた笑顔が、銀髪の剣士を見上げる。
「俺はあなたを、この世界で最も人を統べるにふさわしい王族だと思っています。血に汚れたこの身を裁いて頂いた
あの日から、ずっと。あなたにはいつまでも、その御身にふさわしく、人々に慕われる女王であってほしい」
「……」
夫との間に子をなせという説得の続きと思ったのだろう。レオナはその言葉に応じようと、軽く息をすいこむ。
が、次の瞬間、レオナの体は息をつめたまま硬直した。得体の知れない力が、彼女の五体の全てを拘束している。
指先一本動かすことが出来ない。何が起こったのか分からず、レオナは必死の思いで、傍らの剣士に目を向けた。
助けてと、声が出せたら叫んでいただろう。
そうしてヒュンケルを映したとき、レオナの瞳は、信じられないといったように歪んだ。ヒュンケルの掌が、
禍々しい闘気に満ちて、レオナに向けられている。暗黒闘気。大戦以来見ることのなかった、呪わしい
力の塊に、レオナの体は総毛だった。苦渋に満ちた紫の瞳を逸らし、ヒュンケルが呟く。
「ご無礼を」
「……な…に、を……?」
レオナは切れ切れの声で懸命に問うた。まだ信じられなかった。6年前、彼女の面前で正義のためだけに戦うと誓い、
その言葉通り、命を賭けて勇者と共に戦い続けた剣士の、突然の豹変が。
どうして。何するの。あなた、本当にヒュンケルなの。問いかける言葉は、声帯をも制圧しているらしい暗黒闘気
ゆえに、一つとして声にはならなかった。
その様を見ていられず、ヒュンケルは視線を床へ逸らしたまま、黒い気を操った。二度と使わぬと誓った、呪わしい
術ではあるが、姫を傷つけることも、護衛の兵に勘付かれることも万に一つすらなく事を終えるには、他に方法がなかったのだ。
レオナの指が、彼女の意思に反して、その身にまとう夜着に手をかけた。震えながら、細い指が一つ一つ、ボタンを
外していく。寝仕度ゆえ、この薄い夜着一枚が滑り落ちてしまえば、レオナの体を隠すものはショーツ一枚しかなくなってしまう。
「い……や、……め、て……」
掠れながら、レオナの細い声は訴える。それは、どんな罵りの言葉よりも強く、ヒュンケルの胸を苛んだが、ヒュンケルが
闘魔傀儡掌を緩めることはなかった。
ふぁさりと、夜着がシーツに沈む音が、広大な寝室の闇に飲み込まれた。この国一の権力者にして、パプニカ王族最後
の末裔。そして、ヒュンケルが師アバンの次に敬愛する女王であり、弟弟子ダイの生涯の恋人。その彼女が、無理矢理に
裸身を晒され、抗えずにいる。もしもこれが、自分以外の者のしわざなら、仲間の誰かでない限り、ヒュンケルは即座に
その不埒者を斬り殺していたかもしれない。
ヒュンケルは罪悪感に身を斬られながら、寝台に膝を乗せた。懐をさぐり、バダックに託された媚薬を取り出す。
「お苦しみの薄らぐ薬と聞いています」
短く囁き、レオナの口に、小瓶をあてがった。微量だが即効性の強いその薬は、バダック本人が調合したものである。
しかし、レオナが精一杯の抵抗をしているせいか、ヒュンケルの術で彼女の身体が強張っているせいなのか、液状の薬は
うまく飲み込まれずに、半分以上が唇の端から下頬へと流れ出てしまう。ヒュンケルはこぼれた媚薬を舐め取って
口に含むと、レオナに口付けた。ヒュンケルの口内から薬を流し込まれ、レオナがうぅ、と低く呻いた。
それは苦しさからではなく、ダイ以外の男に唇を奪われた悔しさからだったのかもしれない。レオナの頬を包んだ自分の手に、
彼女の涙を感じて、ヒュンケルはそう思った。
華奢な裸の肩をつかみ、レオナの身体にのしかかると、ヒュンケルは初めて彼女の顔と
正面から対峙した。黄金色の長い髪がシーツの上に散らばり、青い瞳は涙をたたえて
見開かれている。そこに、女王の威厳など微塵もない。ヒュンケルが組み敷いているのは、
ただ男に怯えるばかりの哀れな少女だった。
ヒュンケルは痛わしげに目を細め、術の力を弱めた。
レオナの目に安堵の光が宿る。しかしその顔は、すぐさま激痛に歪んだ。
「いやぁぁっ!!」
高く叫んだ声は、ヒュンケルの大きな掌に封じられ、くぐもった小さな悲鳴に変わった。
誰にも晒したことのない場所に、たとえようもない激痛が荒れ狂っている。
それがヒュンケルに犯されかけているからだと、想像することさえレオナにはできなかった。
「んんぅ!んう!!」
「………!」
前戯なしに、処女であるレオナを犯すこと。いささか無茶ではあったが、一刻も早く
事を終えたいヒュンケルは、バダックの媚薬の力を信じ、ひたすらに急いだ。
「んーーっ!」
あまりに性急さに、レオナの膣壁はぎしぎしと軋んだ。まるで拒むように
締め付け、ヒュンケル自身の侵入を半分も許さない。とても射精に至ることは
できず、ヒュンケルは諦めてその身をレオナから引き抜いた。
破瓜とも、膣壁を傷つけたともつかない鮮血が、引き裂かれたショーツに落ちる。
レオナは放心したように、天蓋を見上げて泣いていた。
「さわらないで」
再びレオナに触れようとしたヒュンケルに、レオナは低く言い放った。手を止めた
ヒュンケルを睨みつけた、レオナの目は、いつもの勝ち気さを取り戻していた。
「それ以上私を汚したら、許さない。殺してやる」
燃えるような彼女の目を、ヒュンケルは眩しく感じた。彼女の強さは、どこから
くるのだろう。大戦の最中、ヒュンケルは彼女の強さを数え切れぬほど目の当たりに
してきた。戦う強さ。恐れぬ強さ。そして、許す強さ。
「……姫の、お心のままに。もとより、俺の命は貴女から頂いたものです」
本心から、ヒュンケルは言った。6年前、罪人として斬り殺されて当然だった自分を許し、
正義の使徒として戦わせてくれたのは、他ならぬレオナである。彼女の手にかかって
死ぬことに、何の未練もあるはずはなかった。
自らの旅着を脱ぎ捨て、逞しい上身をレオナの胸上に重ねる。首筋に口付けると、レオナは
喉の引き攣ったような短い悲鳴をあげた。
「いや……!!」
レオナは渾身の力でヒュンケルの身体を押し返す。しかし、女の腕力、ましてヒュンケルの術で弱められた力である。
鍛え上げられた剣士の肉体は微動だにせず、レオナの両手はヒュンケルの肩にかけられたまま震えるばかりだった。
抗えない。絶望に挫けそうになる心を、レオナは持ち前の強さで懸命に奮い立たせた。
負けるものか。このまま抱かれてなどやるものか。目の前の男―――今の今までかけがえのない仲間だったこの男を、
たとえ殺してでも。レオナは、指先に残された力を振り絞り、ヒュンケルの肩に爪を立てた。戦士の身体とはいえ、
皮膚の脆さは常人のそれと変わりなく、形の良い爪を突き立てられた彼の肩は、幾筋かの血を流した。
ヒュンケルは眉一つ動かさず、その様を見ていた。これ以上続けたら、姫の手に痛みが残ると判断したとき、
初めて彼女の手首をつかみ、シーツの中に押し込めた。
レオナの胸に数滴、ヒュンケルの肩から紅い血が落ちる。ヒュンケルはそれを唇で吸い取ると、そのままレオナの
蕾を口に含んだ。
レオナの身体に異変が起こったのは、その時だった。
「…………!!」
華奢な白い身体が、弾かれたように跳ねる。全身を占める未知の感覚が自分のものと、レオナは信じることが
できなかった。戸惑う間にも、ヒュンケルの手がレオナの全身を這い、甘やかな感覚は坂道を転がるように
速さを増していく。
「ぁんっ!」
耳朶を舐られ、自らの口をついた声に、レオナは耳を疑った。違う。こんなのは違う、私じゃない。
自分の身体が内部から瓦解していくようなその恐怖を、レオナは知っていた。そなたは余のものになるのだ、と。
まるでもう決まったことのように大魔王に断言され、ダイが無力に痛めつけられるのを見せ付けられたとき。
ほんの一瞬、レオナは大魔王の言葉を信じた。ダイ以外の男にこの身を委ねることを。あのときと同じだ。
しかも、あのときのようにその恐ろしい考えをすぐさま捨て去ることが、今はできない。
「……薬の、せいです。お気に病まれることはありません」
「!!」
レオナの心を見透かしたように、ヒュンケルが耳元で囁いた。
薬。彼の口から無理矢理に含まされた、あの液体のことだろうか。
レオナの心の最奥で、誰かが笑う。あんなものが何だというのだ。もっともっとと、まるで娼婦のように性感を
求めるこの衝動も、薬のせいだというのか。
「やめて……やめてぇ!!」
闘魔傀儡掌で抑えられていなかったら、その声は絶叫になっていただろう。悪夢に怯える子どものように、
首を振りながら泣きじゃくるレオナが哀れで、ヒュンケルは再びその手でレオナの口を覆った。
考えるな。何も考えてはならない。思案なら、この寝室に向かう前にし尽くした。レオナが王族でさえなければ
などという、愚にもつかない仮想も、何度も繰り返したものだ。ヒュンケルは自分に言い聞かせながら、
機械的にレオナの身体をまさぐり、その性感を高めた。
その場所に触れられたとき、レオナは「ひっ!」としゃくりあげるような悲鳴をあげた。
指先にはっきりと感じる潤いは、高潔なレオナが恥じるには十分すぎたかもしれないが、確実に性交を遂げるには
まだ足りない。ヒュンケルはできる限り優しくその溝をなぞると、慎重に指を差し入れた。
「あ……!」
叫びかけた彼女の口を、唇で塞いだ。舌先で口内を侵しながら、柔らかく指を動かす。戦士にしては繊細な
ヒュンケルの指さえ、レオナのそこはきつく締め付けた。しかし、最初の挿入のときの、拒むような締め付けとは
明らかに性質が違う。ヒュンケルの指が緩やかに進退する度、細やかな襞が絡みつき、淫らな水音を増していく。
「んん!!」
一際大きくレオナが反応した場所を、ヒュンケルは目敏く捉えた。親指で肉芽を擦りながら、レオナの最も感じる
場所を繰り返し刺激する。
「んっ!んん!」
首を振り、口付けから逃れようとするレオナを、ヒュンケルは許さなかった。片手でレオナの頬を押さえつけ、
いっそう深く舌を絡める。レオナは気づいていないが、身体が強張っていては挿入時に痛みが増すため、
闘魔傀儡掌は既に解いてある。声をあげることを許せば、近衛兵に気づかれてしまう。
唇を封じられたレオナは、キスをしながら呼吸する術など知る由もなく、そのまま絶頂を迎えようと
していた。性交しながら首を絞められているようなものである。
「んん、ん、んーーーーっ……!!」
瞬間、レオナのそこはびくびくと収縮し、蜜にまみれた。ヒュンケルが唇を外すと、レオナの口端から、どちらのものとも
つかない唾液が彼女の頬をつたった。焦点の合わない瞳と、だらしなく半分開かれた唇はひどく淫らで、玉座の上の
彼女とは別人のようだった。
これがレオナか。あの気高い王女か。
ヒュンケルの意識下に、彼自身気づかないまま、黒々とした劣情が芽生えた。
乱れてしまえ。もっと、もっとだ。この腕の中で、狂ってしまえばいい。
肉茎を挿し入れられ、レオナは一瞬硬直したが、力を抜けと、耳元で囁かれた言葉に素直に従った。
言う通りにすれば、もっと気持ち良くなる。経験がなくても、本能がそう教えてくれた。心の壊れたレオナの身体が
従うのは唯一つ、本能だけであった。
「あぁ……あん……っふ………」
ずるずると、熱いものが体内で往復を繰り返しては、時折外に出て、また侵入してくる。焦らされるようなその
行為に、レオナは身を捩る。固く凝った胸の蕾をヒュンケルの上身に擦り付け、熱く喘いだ。
「はぁ……あ……」
「……っく……」
レオナの女の部分がひくつき、熱い蜜を撒き散らす。それを感じて、ヒュンケルの自身はレオナの体内でびくびくと
膨れ上がった。
ヒュンケルは、魔王軍に身を置いていた少年の頃、数多くの魔族の女を抱いた。育ての親である魔王軍の参謀から
あてがわれたのはいつも、サキュバスと呼ばれる種族の女で、その身体は男の欲望を満たすためだけに作られていた。
不自然なほど豊満な胸も、きつく男根をしゃぶりあげる膣口も、性交の相手としては、人間の女に望むべくもない極上品であった。
しかし今、レオナを犯しながらヒュンケルは、どんなサキュバスを抱いても感じることのなかった快感を得ていた。
気高い王女の身体を蹂躙しているからか。それとも、人間の女と子をなそうとする人としての本能ゆえか。
ヒュンケルはほとんど衝動的に、レオナの膝裏を高く押し上げ、その身体の最奥を突き上げた。
「あっ………!!」
貫かれ、レオナは我を忘れてよがった。がくがくと全身を揺さぶられ、快楽の波に溺れる。
「あん、あ、あ、あ、あ」
気持ち良い。レオナの全てを、ただその一言だけが占めていた。初めて身体の最奥を突き破られる痛みさえ、
そのときのレオナには気持ち良いとしか思えなかった。陶然とヒュンケルに身を任せ、レオナは考える。
こんな気持ち良いこと、どうして嫌がってたんだっけ?どうして………?
虚ろな視線の先、ヒュンケルの鎖骨の辺りで、何かが揺れているのが見える。小さな、小さな首飾り。
あれには見覚えがある、私も持っている。あれをもらったとき、とても嬉しかった。王宮にそろっている
いくつもの豪奢な首飾りなど、あの小さな首飾りに比べたら、玩具と同然だった。飾り気のない、あんな
小さな首飾りだったのに、どうして?
遠くで、誰かが笑っている。これで一緒に戦える、これでどこへでもついていける。私はもう、遠くから
見守るお姫様じゃない。あなたと同じアバンの使徒なんだから。
ねえ、ダイ君?
「………駄目!!」
弾かれたようなレオナの声に、ヒュンケルの理性が目を覚ました。自らが手をついたシーツの上で、レオナが目を見開いたまま
泣いている。汗にまみれ、息を弾ませてはいるが、その凛とした表情は紛れもなく、いつもの彼女だった。
眉を寄せ、レオナは哀願する。
「お願い……お願い、やめて」
切々と訴えかける言葉が、ヒュンケルの胸に忘れていた痛みを甦らせた。
「私……ダイ君が好きなの。ずっと好きだったの。ダイ君じゃない人の赤ちゃん生むなんて、いや。いや、よ、ヒュンケル」
はらはらと、レオナの瞳から涙が溢れた。
交わったまま、ヒュンケルはレオナの華奢な痩躯を抱き締めた。哀れな少女。その血筋ゆえに愛しい男を待つことも出来ず、
その強さゆえに情欲に溺れ続けることもできない。このまま、彼女を哀れと思う心が命じるまま、彼女を解放することが
できたらいいのに。そうできないことを、ヒュンケルは知っている。
『―――割れるような喝采の声が聞こえます。舞う花、祝砲の音、人々の熱狂。その全てはレオナ姫と………
姫が腕に抱く、銀髪の赤子のために』
城に向かう前に立ち寄った、テランの霊廟。神秘的な黒い瞳が、ヒュンケルを見据えて断言した。メルルの予知は、既に
占いの域を大きく超えている。誰の未来であれ、数年先までなら確実に言い当ててしまうのだ。縋るように、ヒュンケルは
もう一つの問いをメルルにぶつけた。メルルは目を伏せ、苦しげに言った。
『ダイさんの影は………どこにも、見えません』
「姫……レオナ姫」
レオナを抱き締めたまま、ヒュンケルは動いた。身を捩って逃れようとするレオナを、力ずくで腕の中に押さえ込む。
「お心を、強くお持ち下さい。何があろうと、貴女ならできる」
強く、強く。レオナはダイを待ち続けるだろう。ヒュンケルなど及びもつかぬような強靭な心で、どんな痛みからも
立ち上がるのだろう。その様が、見えるようだ。
「いや……っやだぁ!!」
泣き叫ぶ声は、ある瞬間に終(つい)えた。どくん、どくんと、身体の奥に熱い迸りを感じ、レオナは気が遠くなるのを
感じた。既に自分ではない別の生き物が、身体の中に息づいているような錯覚を覚える。悪夢のような現実から、
ほんの刹那逃れようと、レオナは意識を手放した。糸が切れたように表情をなくすレオナの瞳から、涙が一筋つたって、落ちた。
数ヵ月後、パプニカ国女王レオナは、世継ぎとなる男児を産み落とす。名は、ディーノ。
よぉ。何だよ、そのツラ。馬鹿、殴りに来たんじゃねーっつうの、マァムじゃあるまいし。
お前さぁ、前から言おうと思ってたけど、やめろよな、何でも一人で背負い込むの。そんで、自分一人が悪いみたいな
勘違いすんの。むかつくんだよ。背負い込まずに逃げちまった奴から見たら、ほんと、それこそぶん殴りたくなるぐれぇ
むかつくんだよ。
分かってんだよ、俺にだって。ダイが帰ってくる可能性なんか、もう万に一つもねぇことぐらい。頭じゃな、分かってんだ。
だけど嫌なんだよ。信じられねぇ、信じたくもねぇ。冗談じゃねぇってんだよ、姫さんとガキ作るなんて。
もうあいつは姫さんと会えないって、認めるようなもんじゃねぇか。それがどんだけ姫さんのためでも、パプニカを
救うことになっても、できねぇよ、俺には。ああ、パーティ一クールな魔法使いが聞いて呆れらぁ。
凄ぇよな、姫さんは。子どもの名前、聞いたか?ディーノだとよ。バランと戦った俺達しか知らねぇが、あいつのほんとの名前だ。
赤ん坊さえ、あの人はダイを待つ力に変えちまった。強ぇよな。ここの強さで言ったら、間違いなく世界一だ。どんだけ
泥にまみれようが、あの人は死ぬまで、ダイを待つんだろうぜ。は、こんなことならあんとき、俺がじいさんの頼みを
引き受けて、役得にあずかるんだったね。
おい、睨むなよ。冗談だ冗談、決まってんだろ。待てったら。俺だって用もなく、てめぇのしけたツラ拝みに来ねぇよ。話があるんだ。
単刀直入に言うぜ。ダイは魔界にいる。生きてるか死んでるか、どんな姿になってるか、皆目分からねぇが、とにかくいるんだ。
どうやって分かったかって?メルルだよ。あの子の力を利用したんだ、力ずくでな。そんな顔すんなよ。俺だってやりたくてやった
わけじゃねぇ、お前と一緒だ。
まぁ、居場所が分かったからって、連れ戻せるのが万に一つなのは変わりねぇがな。何せ魔界だ。たどり着く方法があるのか、
着けたところであいつを探し出せるか、あいつは連れて帰れる状態にあるのか。考えたらきりがねぇ。まともな脳みそ持ってる
奴なら諦めるだろうが、生憎俺はいかれちまってる。何十年かかろうが、何もかも無駄になろうが、やってやるさ。
お前も同じだろ?分かってるよ、だから真っ先に話したんだ。他にいかれた野郎っていえば、ラーハルトぐらいか?
ああ、姫さんには黙っとく。可哀想だけど、あの人は王様だ。あの人が治めててくれるから、俺達はこの世界を後にすることができる。
大切なもん、何もかも置いてな。
ああ畜生、面倒かけやがってあの野郎!とっ捕まえたら、思いっきりぶん殴ってやらぁ。どんなに嫌がろうが、ふん縛ってでも
連れて帰って、そんで………姫さんに、返してやろうぜ。