手をつなぎましょう、と彼女は言った。 
 怖いから、手を、手をつないでいてください。離さないで、お願い。 
 片手は背中に、片手はぶら垂れた左手に。細くて冷たい柔らかな手。筋肉が少なくて頼りない腕が自分の身体に回されていて、変な感じ、と思った。いつも身体に回されるのは筋肉質で、別に太くはないけど、無駄な肉の一切付いてない均整の取れた腕だから。 
 「……うん。離さない」 
 手を握り締めて体を埋める。ゆっくり、ゆっくり、確かめるみたいに。 
 苦痛に歪む彼女の顔が目を閉じて浮かぶ間は、マァムとはとてもじゃないけど出来なかった。悪いとか後ろめたいとかそんなんじゃなくて、もう、なんというか。吐き気さえする。 
 自分の短絡的な行動に嫌悪感が立たなくなるまで、7ヶ月半掛かった。今でもすこし、マァムを抱く時に思い出してしまうのがもっと嫌だ。 
 俺は彼女を愛していたか? 
 ――――――もちろん。 
 世界中の誰よりも? 
 ――――――いいや…。 
 何万回と繰り返される問答に毎回苦虫を噛み潰したようにしかめっ面をする癖にも慣れた。 
 「……ごめんな、頼りない父ちゃんでさ……まだ自信ない…決められねんだ……どうしたらいい?なぁ、どうしたらダイを諦められる?」 
 まるで恋みたいじゃねぇかよ、なんて一笑した。限りない飢餓感、助けられなかった無力感。そんなもん抱えたままで俺が親父になるんだってさ、笑えるだろ、ダイ。まったく、信じられねぇよ。この俺が、親父だって。 
 ジャケットが矢のように空を翔るポップの耳元でバタバタと啼いている。うるさい風の音が思考を止めてくれる様な気がして、彼はもっとスピードを上げた。 
 ここに居たい、身重のメルルの、多忙なマァムの傍に、美しく平和な地上にいつまでも。 
 ……でも、ダイ、お前が、お前が姫さんの隣で笑ってなきゃそれだって意味ねぇよ…… 
 俺をここに引き止めるだけに生まれる子供なんてかわいそうだろ、そんなの、ねえじゃねぇか。ひでぇだろ、そんな人生ねぇじゃねえかよ!そんでその母親は、そのまま望む愛も受けられず死んじまうんだぜ! 
 「……クソッタレ!クソッタレ!クソッタレ!!」  
 
 
 うつらうつらとマァムは玄関先にすえつけてあるベンチに腰掛けて船を漕いでいた。黄色いショールを身体に巻きつけ、こっくりこっくり体が揺れている。 
 ポップはそれを見つけてすこし眺めていたが、マァムの体が殊更大きく揺れた時、とっさにその身体を支えた。 
 「っ!?……あ、なんだ、早かったわね」 
 驚いた顔を隠すように平静を装ってマァムはにこりと笑った。 
 「夜も遅いから心配したのよ。マントもなーんにも持って行かなかったでしょ」 
 帰って来ると思ってたから待ってたの。早く中に入って寝ましょう。彼女がそう言って家の中へ引っ込もうとするので、ポップはその腕を掴み、呪文を唱える。 
 「えっちょっ…やだっ!どこ行くのよぉぉ!!」 
 舞い上がる身体と逆方向に舞う黄色いショールが急激にその場に置いていかれる。いつの間にか腰をしっかりと抱かれていて、頬を叩く闇の風に吹かれながら高速で飛んでいた。 
 「もう、馬鹿、ドアの鍵開けっ放しなのに、ちょっと、なんなの、こらポップ!返事を……」 
 そこまで言ってマァムは口をつぐんだ。ポップの顔があまりに鋭く前を睨んでいたから。 
 ……そんな顔しないで……五年前みたいな顔、もう見たくないのに…… 
 何もかも睨むみたいに、荒れていた五年前。自分の無力に我を忘れるほど怒り狂っていた五年前のポップ。マァムはその顔に頬を寄せて何も言わずにキスをした。 
 どうしたの、何があったの、どうして肝心な事は何も言ってくれないの。そんな言葉が頭を何度も過ぎったが彼女は一切何も言わなかった。ただ彼を抱きしめてキスをするだけ。 
 そのキスを無言で受けていたポップの顔が、ゆっくりゆっくり落ち着きながら柔らかい表情を取り戻していく。 
 ――――――ああ、やっぱ、俺ぁ……コイツじゃなきゃダメだ…… 
 マァムを連れて向おうとしていた先を変え、ポップは大きな弧を描いて少し戻り、小さな滝のある場所でようやく地に足をつけた。 
 「……ここ……」 
 「覚えてるか?俺が……お前、襲った場所」 
 ばつが悪そうに彼はそう言って、マァムに向き直る。 
 「……覚えてるわよ。背中が痛かったのだって……思い出せる」 
 滝を見て、まだあったなんてね、と彼女が目を伏せながら呟いたのが合図だった。  
 
 「本当は言わないつもりだったけど、言うよ。もう、言う。 
 俺はダイを探しに魔界へ行こうと思ってる。……多分、帰れない確率のほうがずっと高い。禁呪を数回試した。恐らく師匠より寿命が短いと思う。 
 姫さんも連れて行くつもりだ。もう、俺たち二人には後がないんだよ。姫さんも、もう正気を保てなくなってる。最後のチャンスなんだ。……どうか……許して欲しい」 
 固い声でポップがそう言い終わった時、マァムは沈痛な表情のままそう、と呟いた。 
 「風のうわさで聞いたの。ヒュンケルもクロコダインもラーハルトも居なくなったんですってね。……きっとみんなダイのところへ行ったんだわ。 
 その場所が魔界なんでしょう」 
 問いかける言葉ですらなくなった独り言を止め、マァムは彼の体を抱く。 
 「いいの……いいのよ、もう、我慢しなくたって…… 
 けど、約束して。メルルの子供が生まれるまでは行かないって、メルルが逝くまでは……ここに、お願い……」 
 彼女の事を愛してるんでしょう?だったら、お願いだから。押し殺す涙声でマァムが彼の胸に言葉を残す。 
 「俺……いや“おれ”は…メルルをお前ほど愛してない。けど、やっぱり……心のどっかで好きなんだと思う。卑怯でホントやな奴だと自分でも思うけど…ほっとけないんだよ。二股だろうなって思うし、否定もしない。これが罪なら喜んで裁かれる。どんな罰だって感謝しながら受けるよ。 
 だから……無理を承知で頼む……子供を見ないまま行かせてくれ。“おれ”は意志が弱いだろう?見ちゃったら、多分、行けない。そんで一生後悔する。一生、一生、死ぬより後悔する」 
 固さの変わらぬ彼の言葉を理解した時、マァムが動いた。 
 「……変わってない、全然成長してないじゃないの、ポップ。」 
 ガン、と厳しい声でマァムが言い放ちながらポップの顔を拳で殴った。そういえばこの場所では彼を殴ってばかりだ、と冷静な心のどこかが笑う。 
 「辛い事から逃げてばっかり。嫌な現実から目を背けてばっかり。 
 あたしの知ってるポップはそんな腰抜けじゃないわ。必死で食い下がって、不可能を可能にしちゃう勇気の使徒なんだから! 
 アンタなんかポップじゃないわ!アンタなんか、大っ嫌い!」 
 思い切り叫んだ。声が滝の音にかき消されてしまわないように、全身全霊で。  
 

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