「夜中にご挨拶ねぇ。
パプニカの選りすぐられた近衛兵に見つからないなんて、流石は大魔道士サマ、ってところかしら」
天蓋付きのベットの足元に人の気配を感じて、レオナはむくりと起き出す前にそう言った。
「いやいや、カーテン開けずに俺が誰だか分かるんだから賢者さまこそ油断なんねぇよ」
カーテンの向こう側にはいつも羽織っている黄金色のマントもなく、トレードマークの緑のジャケットだけの彼が居たのでまったくしょうのない男だなぁと一人ごちてレオナは頭をかいた。
「マァムに放り出されたの?」
……ほら、油断なんねぇ。
口の中で笑うようにして彼は短くそう呟いたが、顔はちっとも笑ったりしなかった。それを情けなく思う。
「間男なら間に合ってるわ」
「とんでもない、ダイと姫さんを取り合う気はねぇよ」
ひひひ、と引きつり笑いをして彼がカーテンの向こうで肩を揺らす。レオナはそれを見て、あたしとアンタでダイ君を取り合うって言うんだったら絶対に引かない癖に、と鼻を鳴らした。
「諸国漫遊の調子は如何?何か新しい情報でも持ってきてくれたわけ?」
「いや。手がかりなんて無いに等しい。
ただ最近どうもクロコダインのおっさんを見なくてよ。ブラスじっちゃんが言うにはフラッと託もなく出てったらしいからそのうち帰って来るのかも。あとは……そうだな、ラーハルトとヒュンケルの野郎の足取りは全く掴めてねぇ。どこ消えやがったんだか」
流れるような言葉を、まるで咀嚼しないで居るのかのようにどんどん垂れ流す彼のセリフに違和感を覚えたレオナだったが、その違和感は手に取る前に霧散した。
「男の子ってズルイわ。自分ばっかり先に行って……あたしだって男の子に生まれればよかった。
そしたらダイ君にずっと着いて行けたのに。探しにだって行けるのに。…お姫様なんかに生まれるんじゃなかった」
くやしい。最後にそう呟いてレオナは沈黙する。この5年、待って、待って、待って……もう飽きた。罠を張ってもきっと彼は掛からない。会えないという確信だけが日増しに強くなっていく。彼の居ない苦さばっかり身に染みて嫌になる。
どうして帰ってきてくれないの、こんなに待ってるのに。まだあたしキミに言ってないよ、何も、何も……大切な事を一つだって言ってない。
「…………姫さん……男だって、置いていかれちゃうんだぜ?」
探しても見つからない絶望だって一緒なんだから、自分を否定するなんて姫さんらしくねぇことすんなよ。ポップは天蓋から垂れ下がるカーテンを開けたりなんかせず、レオナの居るベットからそっぽを向いたまま吐き捨てる。
「一番最初っから一緒に居る俺だって置いていかれたんだから、仕方ねぇよ」
「なに言ってるの、ダイ君に会ったのはあたしが先よ。初めての人間の友達なんだから」
「年季が違わぁ、俺はあの三ヶ月間ほとんど24時間休み無くずーっと一緒にいたんだぞ」
「あら、それで自慢のつもり?あたしなんかダイ君が帰ってきたら一生ずーっと一緒に居られるんだから」
そうよ、一生、一生、もう一秒だって離れないくらい、ずっと一緒にいるんだから。
あまりに彼女が必死な調子で断言するものだから、ポップはああ、そうだ、もちろんだ、俺は一度逃がしたから選手交代といこう、と言葉を細切れにして宥めた。
このところどうも彼女が情緒不安定気味なのは、多分メルルに子供が出来たからだろうな、と思う。時間が無常に過ぎてゆく焦燥は俺だって同じだが……きっと女にゃ、あいつを好きな女には――――――もっともっとすごい重圧なんだろう。
彼女は軽く頭を振り、細く彼に聞こえないようにため息を付いて話題を変えた。
「まぁそれはいいけど、何でマァムに放り出されたの?どーせまた一人で勝手にヘタって弱音ぶちまけて呆れられたんでしょ」
ベットから立ち上がってカーテンを開け放つと、眉を八の字にしたポップが窓と同じ形をした月のスポットライトの中心に立っていた。あれから五年、彼の身長はもうずいぶん前に自分を追い越し、髪形も少し変わった。あのダサいバンダナは元のままだけれど。
「やだねぇ、女ってどうしてこう鋭いんだろ」
「男が鈍感なだけよ。特にアンタが」
「俺は姫さんの前でもそんなに情けないか?これでもあんたの前じゃ一生懸命特に意地張ってるつもりなんだがね」
分かるわよ、鏡の前のあたしと同じ顔してるんだもの。
彼女がそういいながらテーブルに腰掛け頬杖を付き、窓の外の景色に視線を這わした。周りに気を使ってばっかりで消耗してて、逃げ出せない顔。あたしは国、あんたは女と子供。身に余る重量背負ってるって条件は同じよね。
「そんでほんとは、そんなモン投げ出してダイを探しに行きたいってのも同じだわな」
そうそう、そんなこと言ったって絶対に投げ出さないくせにね。あたしたちは無いものねだりと理想論、それから威勢のいい事ばっかり出る口に困ってる共犯者ってとこかしら。レオナがくくくっと嘲笑にも似た笑い声を上げた。
夜風がカーテンを弄ぶ。何度もくるくると清潔な白い薄絹が翻って微かにハタハタと音を立てている。
「ねえ、マァムを…メルルを……捨てないでね」
視線を外したままぽそりとこぼした彼女の言葉を彼が拾う間もなく、レオナはさらに続けた。
「みんなを捨てないでね。あたしも捨てないから、絶対、あんたたちを捨てたりしないから……お願い、もうこれ以上誰も居なくならないで……お願い……」
ポップはぎくりと固まったまま、身じろぎすらしなかった。呼吸も止まり、ただ心臓の鼓動だけが早鐘のように脈打っている。
「知ってるのよ、最近、隠れて禁呪の研究してること。魔界に通じる穴を開けるつもりでしょ?
そうよね、こんなに世界中探し回っても見つからないんだから、推論は当然地上に居ないかも知れないってとこに行き着くべきだわ」
だからみんなの目の前でメルルの告白受けといて、いざ子供ができた時にあんなに取り乱したんでしょ。あんたのつまらない企みは全部分かってるのよ、そんな風にレオナがどうでもいい口調で言うので、彼はぐっと俯いた。
「あたしは投げ出さない。ここに居て待つ。苦しいけど、そうしなきゃいけないような気がするの。ここで待つことがあたしの使命なんだわ。
ダイ君が帰ってきたときにここに居て迎えてあげる事が一番いいことだと思うの……思いたいの……だから、あたしの心を崩さないで……決心が揺らいじゃうじゃない……」
はらはらと、あの負けん気の強いレオナが涙を零していた。俯き加減でもそのことが肌に刺さるようにポップには理解でき、彼はますます俯いてしまう。
「もしかしてもう二度と会えないかも知れないけど……待つってあたしが決めたのに……横からくだらないチャチャ入れないでよ。あたしあんた達が思ってるほど意思強くないんだから」
ダイの元に行きたい。ダイに会いたい。元気なことを確かめたい。この身がどうなってもそれだけ確認できたら、いっそ死んだっていい。
その思いは二人とも同じだった。身が焦げそうなほど――――――強く毎日願っている。
「メルルだって知ってる。だからあんたを引き止めようと思ってあんな……」
「黙れ」
「……子供が出来たのよ、あんたは父親なの」
「黙れよ」
「もうこの世界から逃げられないんだから」
「…黙っ…頼む…」
「観念して、ここに居て頂戴」
分かってるよ、分かってる、分かってるのに、体がいうこときかない。今だってこの窓を飛び出して探しに行きたいんだよ、あんたと同じようにもう二度と戻れなくたっていいと思ってる。ポップは必死で歯の裏にまで出掛かったその言葉を押さえ込み、半ば叫ぶように掠れた声で言った。
「俺は!マァムと家庭持って!ささやかでも人の役に立って!実家継いで!アバン先生とマトリフ師匠の幸せな最後を見取るのが夢なんだよ!だから!だから……」
魔界なんか、行かねぇよ、行くわけねぇだろ、馬鹿だな姫さん、そんな危ないことするわけねぇじゃん、馬鹿だな、ほんと、何を突拍子も無い事を。くだらねぇな、本当に、ツマんねぇ空想だ。
そのセリフはほとんど怒鳴り声だった。まるで自分に言い聞かせるかのような怒鳴り声。
「ったく、誰も俺を甘やかしてくんねんだから、よく出来た女共だよ。みんなで俺を追い詰めやがって…ほんと……なんてひでぇ奴らだ」
大きく深いため息を付いて、ポップがこれ以上ないくらいの苦笑いをした。
「当たり前じゃない。
一応、この地上で唯一大魔王と張り合った世界最強の人間なんだから。一度甘やかしたら手が付けらんないのよ」
ふん、と鼻で笑いながら、レオナもようやく一息付いた。
「……一応、な。」
相変わらずの手厳しい彼女の批評に厭きれたポップだったが、彼女らしい調子に安心した。
「もし本当に行くのなら、あたしにだけは黙って行かないで。絶対、一緒に連れてって。じゃなきゃマァムとメルルにあたしの寝室に夜中音もなく忍んで来るってバラしてやるから」
こわー、と大げさに身震いしながらポップが窓辺に身を翻す。
「分かった、行くなら一緒に。」
そのセリフを残して、彼は月明かりの届かぬ闇に溶けて消えた。レオナは彼の消えた窓辺に立ち、しばらく月明かりを眺めていたが……ため息を付いて窓を閉める。
この窓の鍵はダイ君用に開けてるのにすっかりポップ君の専用出入り口になっちゃったわね。
カーテンを握り締め、気付く間もなく涙が頬を伝った。
ダイ君、あたし、毎日身体キレイにしてる。髪形はちょっと変わっちゃったけど、あの時のまま……ずっと待ってるのよ。背も高くなって、胸だっておっきくなったけど…なにも変わってない。
なのに男の子はどんどん変わって行っちゃう。ポップ君を見た?あんなに頼りなかったへっぽこ魔法使いクンが、あたしもビックリするくらい男の顔になっちゃって。あたしの弱さだって受け止められるくらい強くなったんだよ。
ずるいじゃない……ずるいでしょ?あたしも連れてってよ。ねぇ。
「迎えに来てよ!あたしあれから強くなったの!ポップ君には敵わないけどベホマだってもう完璧なのよ!……絶対に、絶対に足手まといになんかならないから……おねがい……連れてって……」
ガラス越しに射す月光が、降り落ちてゆく銀色の雫をきらきらと輝かせたが、レオナはその美しさなど全く意に介さなかった。がくがく振るえる自分の体が止まらない。
「あたしまだ、ダイ君に、好き…言ってな……っ」
わあああ、とその場に崩れ去るようにして大声を出して彼女は床にへたり込んだ。ぼたぼたと、流れるというよりは撒き散らすという表現が似合うほどの大粒の涙をネグリジェに降らせながら。
一年目はひどかった、二年目に気を取り直して、三年目にため息付いて、四年目に絶望した。そして五年目。もう我慢なんか出来ない。あたしこんなに弱かったっけ?こんなに、ダメな女だったっけ?
レオナは自分が必死で突っ張っている事に自信がなくなっていた。人の上に立ち、平気よ、大丈夫、心配ないわと言い続ける苦悩。自分が一番懐疑的でいても続く職務。たまらない。
あたしまだ19にもなってないのに未亡人?やだよ、こんなの、あたし、やだ。
一気に噴き出した今までで貯め抜いていた子供っぽい感情が暴走する。
吹き荒べ醜悪なエゴイズム、思うさま暴れ狂うがいい。ひどい嵐、でも身を任せるとなんて気持ちいいんだろう。
「好きなの、大好き、ダイ君となら魔界でもどこでも平気」
その空々しく響く自分の言葉にレオナはさらに泣いた。
ハウリングする自分の泣き声が、まるで伝わることのない言葉を嘲っているようだと思った。