足元で鳴る雪にじわじわ奪われてゆく体温を惜しいとも思わない。  
 二枚の厚い手袋越しに彼女の手があることに安心と、興奮と、それから何故か物悲しさを覚える。  
 ボクは黙って彼女の手を引いて家路を急ぐ。  
 彼女は黙ってボクに手を引かれるまま歩く。  
 言葉が出ない。  
 なんと言っていいのか解らない訳じゃないけれど、それに形を与えてしまったらそれはそれでなくなってしまう気がして。  
 視線を空に向けると降ってくる雪のせいで自分が天に昇っているような錯覚が起こって、今の気分にちょうどいいと思った。  
 手を引いている彼女の名前はめぐみ。職業は消防士。趣味はガンダム。ボクの奥さん。  
 思わず頬が緩む。奥さんだって、なんて自分で突っ込むほど。  
 「……なーにニタニタしてんの」  
 その声にはっと驚くと、彼女の笑い顔がすぐ隣にあった。  
 「やっ!そのー……いいなあって。二人で家に帰るのって、いいなあって思うんスよ。  
 一緒に帰るのがめぐみさんで……いいなあって」  
 照れ隠しに後ろ頭など掻いていたら、彼女がふっと立ち止まって微笑みながら答えた。  
 「あたしも思うよ。  
 クロの助がいたって気付かないくらい真っ暗でもさ、誰かと手ぇつないでうちに帰るのってなんかいいよね」  
 小さな喜びを共有する人がいる幸せはなにものにも替え難い快感で、それが好きな人ならなおさらだ。  
 のどの奥の方から湧き上がってくる熱い衝動が、頭といわず身体中どこもかしこも痺れさせて動けない。じっと快感に耐えていたら彼女がボクの手を黙って引っ張った。  
 止めていた歩みを再開させて二人で歩く。  
 ざくざく足元で雪が鳴る。  
 暗い夜道、きみと一緒にうちへかえるよ。  
 
 「おーさぶぅ。イチロー、ストーブだストーブ」  
 ジャケットに積もっていた雪を払い、氷水が染み込んで重く冷たいズック靴を脱ぎながら彼女が玄関先から声をかける。一足先に部屋の中へ入っていたボクは電気の煌々と灯るダイニングのストーブの前に鎮座するそれに向かって口を開いた。  
 「……師匠どーやって入ったんです」  
 「毎度のことをいちいち気にすんな。」  
 「おじゃましてまーす」  
 返事をしたのは黒猫と、何かを抱えているそれより小さなロボット。会釈をしたメタリックな猫のサイボーグとトラ縞碧眼の猫が仲良くどっから引っ張り出してきたのか丁寧に座布団まで敷いて並んでいる。  
 「あらぁ、勢ぞろいじゃないの。ナニゴト?」  
 「えへへー。  
 アタイとクロちゃんの赤ちゃんが出来たの。そのお披露目ー」  
 いつの間にか後ろに立っていた彼女が声をかけると、小さなロボット…ナナちゃん…が抱いていた物を彼女に差し出し、彼女がそれを受け取る。  
 「うわー小さい!どうしたの!?」  
 彼女の片手に載るくらい小さな猫のロボットは、どうやら目を閉じて眠っているらしかった。  
 「コタローちゃんに作ってもらったのよ、成長するんだって。ついさっきまで起きてたんだけど」  
 嬉しそうにナナちゃんが話し掛けるのを彼女がふんふんと頷きながら聞いている。それを微妙な表情で見ている黒猫…ボクの師匠のサイボーグ猫で名をクロという…に声をかける。  
 「……師匠アレは一体……」  
 「言うな。――――――お前らで言う所のワカキ日のアヤマチってやつだ」  
 目を半開きにして苦々しそうに言う黒猫に、始終ニヤニヤとした顔つきだったトラ縞猫…師匠の古い友達のマタタビくん…が容赦なく笑い声を上げた。  
 「げらげらげらげら、認めたくないわけか。往生際が悪いぞキッド」  
 
 「いやークロの助がパパにねー」  
 「うるせぇ。パパゆうな」  
 祝い事だからと誰かが何処からかくすねてきたワインやら日本酒やらをかっくらって大騒ぎして、もう真夜中の2時。  
 サイボーグの癖に酒に弱いミーくんや、マタタビの粉を混ぜた日本酒をかぱかぱやってたマタタビくんが酔いつぶれて結構経つ。ナナちゃんと赤ちゃんはずっと前に別の部屋で寝ているし、起きているのは師匠とめぐみさんとボクだけだ。  
 「名前とかどうするんれすか?まだないんれしょ?」  
 酒が回っていて口調がとろんとしている。実は自分自身あんまりアルコールに強くない。同じくらいとろけている脳味噌を必死に奮い立たせて言葉をつむぐ。  
 「……鈴木、オイラはなー、オイラはなー……昔好きな女がいたんだよー……  
 でもナナとぜんぜん違うタイプなんだよなー……なんでだろなー……不思議だよなー」  
 「まあ、初恋とかって実らないって言いますし。」  
 ちびちび飲んでいる日本酒はけっこう口当たりが強い上に、少しでも減ったらめぐみさんが酔っ払うボクを面白がって注ぎ足してしまうのであんまり減らない。  
 「まさかあんたらに先を越されるとは思わんかったなー」  
 あははは、と軽い声で彼女がそんな事を言ったので思わずいろんな物を吹き出しそうになった。  
 「で、実際のとこどーやって誘ったの。  
 やっぱロマンチックな言葉とか囁いたり?……ぶあはははは!に、似合わねえー!」  
 げらげら笑い転げる笑い上戸のめぐみさんは飲み始めてからの上機嫌が翳る気配は微塵もない。  
 「あーそれボクも聞きたいれすなー。今後の参考の為に是非ご教授いたらきたい!」  
 何の参考だよ、何の。師匠の嫌そうな声も何処吹く風、二人でじりじり笑いながら追い詰めていく。  
 いつもならここで得意のガトリング砲でも乱れ打ちする所なのに、師匠はずりずり後ずさるばかりでバイオレンス反応は起こさない。  
 「ししょー、古今東西、酒のアテといえば猥談と相場は決まってるんれすよー」  
 
 「ボンボンの範疇からはみ出たセリフ禁止。つーかお前教師だろがー」  
 「いいんれすよここはエロパロ板なんれすから!」  
 ドンと畳を叩いて力説するボクを、何故か師匠は引きつった顔で見ている。  
 「鈴木、お前目ェ座ってんぞ」  
 フラフラ重心の定まっていない足取りで逃げようとする師匠を、見事な体捌きでとっ捕まえためぐみさんがぐりぐり掻き抱きながらやっぱり呂律の回っていない口調で言う。  
 「クロの助はナナちゃんとやったんだろー?  
 赤ちゃんまでこさえててカマトトぶる不逞の輩めー!」  
 「離せ!胸で口と鼻が塞がってる!息が出来ん!」  
 じたばたもがいている黒猫の顔が半分以上めぐみさんの胸に埋まっていて、トレーナー越しに動く猫の感触に彼女の笑い顔がますます緩んでいる(ような気がする)。  
 「わー!ずるいっす師匠!ボクだってめったにそんなことやってもらったことないのに!  
 チビッ子のヒーローが酒池肉林ですか!?『燃えた団地妻・主人が見てるのに』ですか!?講談社から抗議が来ますッ!  
 師匠がそんなんだからアニメ製作会社は倒産するしソフト化もしないんすよ!せめてケーブルTV会社に再々放送を希望!」  
 「…お前のセリフ方がよっぽどスタジオボギーからクレーム来ないか…」  
 「受けて立ちます!だから最後まで作ってください!あとボクにもいい目とか見させてください!」  
 「ばっからなー、いい年して猫にやきもち焼くなよ」  
 へらへら笑いながら彼女はわざとボクに見せ付けるようにして師匠を抱きしめる。  
 そんで。  
 よりにもよって。  
 キスまでした。  
 「めぐみー……流石にオイタが過ぎるぞ。見ろ、鈴木がマジになっちまったじゃねーか」  
 すっくり立ち上がったつもりなのに、くらくらフラフラ眩暈がする。足元がぬかるんで焦点が定まらないまま、黒猫を抱いている彼女の腕を掴んで立たせた。  
 
 彼女の膝に座ってた猫が畳に上手く着地して、さーっと部屋の隅に転がっている二匹の猫を引っ張っていくのが見えた。パタンと襖が閉まる音が聞こえたような気もする。  
 「な、な、なによぉ。  
 やだちょっと痛いって。こら、イチロー、聞いてんの!引っ張んないでってば」  
 ああ、彼女の飲んでたワインの匂いがしてる。自分の飲んでた日本酒の匂いも漂ってる。頭が回らないのにムカムカ腹が立ってて気持ちが悪い。  
 「こ、この浮気ものー!この口かー!この口が悪いのかー!」  
 「ば…バッカじゃないの!浮気たあ何よ浮気たあ!クロの助よ?猫よ?酒の席でマジになんな!」  
 「めぐみさんの身体は全部ボクのもんだー!師匠といえど男に触ったらだめなんだー!」  
 言葉が勝手に出てくる。涙も勝手に出てくる。ああカッチョ悪いなあと思ってるのに止まらない。  
 「めぐみさんはボクのこと嫌いですかー?  
 ボカァね、あなたのこと、好きですよー!大好きですよー!なのにあなたは師匠の方が好きなんですかー!?」  
 「馬鹿かお前ー!」  
 「なんでボクの前で他の男とぱふぱふとかチューとかするんですかー!」  
 「ええーいこのアホたれ!いい加減正気に返らんかー!」  
 びんたが飛んでくる。頬に生まれる感覚は“痛い”というより“熱痒い”というのん気な状況で、アルコール麻酔が十分効いているのは間違いない。  
 「返りません!ええ返りませんとも!ボカァこう見えて嫉妬深いんスよ!  
 酒の力を借りなきゃここまで言えない根性なしですみませんね!  
 勢いついでにいいですか!さっきから胸が腕に当たってて気持ちいいです!」  
 もう一発びんたが飛んできた。やっぱり衝撃はあるけど痛いと感じない。どこか遠くにある目覚まし時計がじんじん鳴っているみたいに痺れている頬が他人事なのがおかしい。  
 「師匠ばっかりずる……」  
 言葉が途切れた代わりのように心臓が跳ね上がった。  
 
 ……どくん・どくん・どくん……  
 鼓動が急に聞こえ出して耳障りな大音量で脈と同じリズムを刻み、まるで鐘でも打つような衝撃が頭の中を駆け巡る。  
 指が、彼女の指が絡まった自分の手から流れ込んでくる触感が熱を連れて来た。  
 「……ばかなこと言わないでよ、情けなくなるでしょうが」  
 わかってます。どれくらい馬鹿なこと言ってるかくらい。でも同じくらい真剣な本音なんですよ。  
 「だって……いや、ごめん。」  
 呟いて抱きしめられた身体を抱きしめ返す。二人の間の空気が押しつぶされて弾け、ワインと日本酒の匂いがした。彼女の身体はトレーナー越しでも暖かさと柔らかさが伝わってくる。  
 心臓を掴まれたかのように胸の辺りが痛くなった。苦しくて悲しいと思うのに、身体を離そうなんて思わない。  
 「ごめんね」  
 掠れがちの優しい言葉が自分の心臓にダイレクトに押し込まれたような錯覚を起こす。  
 ボクは更に抱きしめる腕に力を込めて目を閉じた。言葉が出ない。  
 「本気で怒ると思わなかったから。だってクロの助だよ、猫じゃん。」  
 「猫でも、サイボーグでも、駄目です。駄目なんです」  
 腕の中にいる彼女は思いのほか小さくて、こんな人が燃え盛る炎の中に飛び込んで行くのが信じられない。自分ときたらそんな彼女を待っているしかないのか。  
 「ホントは消防士の仕事も、やなんです。酒の力借りてこんなこと言うのも卑怯でやなんです。生徒たちにかっこいい大人を見せてやれないのもやなんです、こうやってやだやだって言ってる自分もやなんです」  
 いやでいやで、泣けてくる。情けなくて恥かしい。  
 「いつも思ってるだけで言えなくて、ずるくてやだなあって思うんです。  
 でも、でも……めぐみさんがボクと結婚してくれて、とっても嬉しかった。やな自分がちょっと好きになった。めぐみさんがボクのそばにいてくれるように、やなとこ直そうって、頑張ろうって」  
 そう思ったけど、めぐみさんが師匠とキスなんかするから。  
 
 感情が破けた。珍しく酒が入ってたのも原因かもしれない。だらだらみっともない泣き言が溢れ出てくる。彼女が黙ってそれを聞いていてくれるのをなんだかすまないと思った。  
 「めぐみさんはボクのこと――――――」  
 「……クロの助より、ずっとイチローが好きだよ」  
 言葉を遮るように唇に触れた掌の冷たさが意識を強烈に現実へと引き戻す。彼女はボクの胸に顔を押し付けたまま曇った声を続ける。  
 「あんたいつも何も言わないからさ、言いたくないのかと思ってた。  
 言いたいことあったら言いなよ。せっかく夫婦になったんだから」  
 でも自分のことヤダなんて言うな。そんなこと言ったらあんたのこと好きなあたしもヤになっちゃうじゃないか。たまに言うのは許してあげる。だから何度も自分のことヤダなんて言うなよ、思うなよ。  
 彼女の声が震えているような気がして、腕に力を込める。瞑る瞼に力を込めて歯を食いしばり涙を引き止める。泣くな、泣くな、泣くな。念じるように何度も口の中で唱えた。  
 「ぼかぁね……ぼかぁ……君が好きだよ……とてもとても好きだよ。  
 猫にでもやきもち焼くよ。悪いか?」  
 「……悪くない」  
 「君のこと独り占めしたいよ。悪いか?」  
 「……悪くない」  
 「君を離したくない。悪いか?」  
 「……あたしも離したくないよ。悪い?」  
 こみ上げてくる衝動に任せて唇を重ねた。種類の違うアルコールの味が混ざり合って奇妙な味がしたけれど、痛みを覚えるくらいに苦しい胸が少し和らいだ気がした。  
 「イチローからくちにチューしてくれたのって結婚式以来じゃない?」  
 「…………そうかな」  
 「恥かしがってしてくれないくせに」  
 「……ホントはいつもしたいと思ってんですよ。でもなんか……照れて」  
 いいじゃん、夫婦なんだから。そんな言葉が聞こえた途端、背後で電気が消えた。  
 
 背中に回っていたはずの彼女の手がいつの間にか電気のヒモを引っ張っていたらしく、急に真っ暗な視界に彷徨う視線のボクを彼女が引き倒した。  
 「めっ……めぐみさん?」  
 うろたえた声を上げたボクの口にまた冷たい手が触れる。  
 「声出しちゃだーめ……クロの助たちが起きちゃう」  
 こそこそ小声が耳元で踊ってこそばゆい。と同時に背筋がそそけたった。  
 「起きちゃうって……まさか、ここで……誘ってんですか?」  
 どくん、どくん、どくん。穏やかになり掛けていた心臓の鼓動がまた跳ね上がる。ドン、ドン、ドンと胸の内側から叩かれているような振動に息が苦しい。  
 彼女は何も言わないでトレーナーの上から跳ね続けているボクの心臓の鼓動に手を添えた。  
 「すっごいどきどき……あたしも、してる」  
 左手を持ち上げられて、彼女の胸に押し付けられた。柔らかい胸の感触の向こう側で、どきどきどきという規則正しい振動が手に伝わる。  
 そこまでで精一杯押さえていた何かがドン、という衝撃に似たものに押されるようにして決壊した。  
 衝動というのは川に似ている。決壊したらもう元には戻らない。  
 トレーナーの下にもぐった自分の手が勝手に動いて彼女のブラウスのボタンを次々はずしていくのを他人事のように眺めてた。捲り上げたトレーナーがいつそうなったのかさえもう覚えてないような始末だ。  
 思えばこれは三度目だっけ?四度目だっけ?結婚してからもう2ヶ月も経つのに、ボクら夫婦は数えるほどしかエッチをしてない。二人がなんとなくこの手のことに免疫がなくてどう誘えばいいのかお互い解らないから。  
 朝起きて顔を合わせるのがなんだかとても恥かしくて仕方なかった。  
 なのにこんなことできるのはきっと酒が入ってるからだ。そうだそうに違いない。酒が入ってるからあの翌朝の気まずさの記憶も吹き飛んでしまってるんだ。  
 輪郭も良くわからない闇の中に、色さえ知らない彼女の下着がまろび出た。  
 「えっへっへっへ……」  
 
 嬉しそうな声に気分が更に高揚する。  
 「あっ……いやっ」  
 手をブラジャーに滑り込ませた途端、細かでかすれる声がした。  
 ボクはそれに返事をしない。  
 頬にキスをすると、うっすら化粧品の匂いが口の中に広がって眉を顰めた。ちょっと駅前まで食事に出かけただけなのに彼女がわざわざ化粧をしているとは思わなかったから。  
 片手で余るくらいの彼女のおっぱいは2週間前に触ったときと同じようにぬくくて柔らかで、すこし張っている。指に力を込めるのがもったいないくらい触れるだけでへこんだりしていい手触り。  
 ボクの手が動くたびに、子犬の鼻を耳元に当てたような息遣いでめぐみさんは声を殺す。  
 彼女はあまり声を上げない。……というか、少なくともボクは聞いた覚えがない。  
 「んッ……冷たいから、外すよ……」  
 いつもと違う熱っぽく低い声にゾクゾクする。自分でわかるほど全身の血脈が踊っている。彼女のズボンと下着に手を掛け、ずるずる引き下ろしている自分がなんとなく情けない。  
 眼鏡が外される。真っ暗でほとんど利かなかった視界がさらにぼんやり霞んでいよいよ目が役に立たない。  
 視力は良くないから朝起きて夜寝るまで眼鏡は必需品。運動するときも、授業するときも、うどん食べるときも、風呂入るときも、眼鏡は掛けたまま。  
 でも、えっちをするとき決まって彼女が勝手に外してしまう。  
 「……眼鏡、嫌い?」  
 「肌に当たって冷たいし、曲がっちゃうよ……それにイチローの顔、良く見えない」  
 細い忍び笑いに胸が熱くなる。  
 「……ごめん……止まんなくなっちゃった」  
 畳と服が擦れる音が耳に付いて、期待感と罪悪感と征服欲で満たされる自分がどんどん肥大化する。  
 ブラジャーとぱんつを捲り上げられた無体でいやらしい姿の彼女は恥ずかしそうに笑っていて、そこに折り重なる自分自身も眉をひそめて笑っているに違いない。  
 
 なんか無理やりしてるみたい。  
 馬鹿なこと言っちゃいけませんよ、嫌がる人を抱く趣味はありません。  
 じゃもしここであたしが嫌って言ったらやめる?  
 ――――――。  
 んふふふふ……言わないよ。  
 舌が這う首筋のあたりが冷たい。ストーブのあるダイニングとは(さっき師匠がミー君達を連れて行くときに)襖で仕切られてしまったから、ここには暖房器具がない。じわじわ下がっていく室温を汗ばんだ肌で感じる。  
 きっと彼女も胸に滑るボクの舌のぬるさと、12月の夜中の空気の冷たさを感じてるだろう。  
 柔らかい肌に密着する幸せをかみ締める。  
 幸せを感じているのに心の底で誰かが何かを呟いている。その言葉の詳細も発生場所もわからない。けれど止むことなく声は聞こえ続けている。  
 「ボクね、新作ガンプラの箱を開ける瞬間とか、真新しい靴を床に下ろす時とか、消しゴムの使ってない角をノートに付けた感触とか……嬉しいのにもったいないっていうか、切ないっていうか……全然正反対の感情がせめぎあって、なんだかいっつも変な気分になるんですよ。  
 めぐみさんとこうしてる今も、変な気分なんだ。  
 触りたいのに引っ込めようとする手の筋肉といつも戦ってんですよ」  
 キスもしたい。  
 手もつなぎたい。  
 君と話をしたい。  
 「――――――覚えてる?プロポーズの、アレ」  
 不意に彼女が口を開いた。  
 「……覚えてますよ、もちろん」  
 ボクは返す。沸きあがりリピートされる事象の断片は、遠く近く瞬いていてもはや掴む術がない。  
 「あたしもそんな気持ちだった」  
 
 「言葉にするとヘンだけどさ、うん。わかるよ。わかると思う。……わかりたい、イチローのこと」  
 彼女の唇が這う。舌が頬を伝って、顎、唇、歯と滑っている。  
 手が誘導されて温かいおっぱいに触れた。  
 「あんまり見ちゃだめ、恥ずかしいから」  
 片手で顎を上げられたけれど、もう片手は自分の胸の近くでボクの手を支えていた。こんなこと今までしたことない。  
 圧し掛かっている彼女の身体は意外としっかりしてて、さすがに羽根のような軽さという訳ではない。だけどその重さがまぶたの奥を刺激して液体を作る。  
 服の隙間から手を這わせ、背中に指を走らせる。ところどころにあるケロイドのつるつるした感触を確かめるみたいにして。  
 「あっ……」  
 腰を通って下着の中へ指が入った時に、小さく彼女が呟くように悲鳴を上げた。  
 「あ、あたし、おフロ、まだ」  
 「……ボクだっておさけくさいままチューしちゃったから……おあいこってことで」  
 うむを言わせぬようにそのまままた唇を重ねる。こんなに何度も何度も……夢みたいだ。  
 ぬかるむ裂け目に指を沈ませると足を閉じようとするので、自分の足でそれを阻止する。絡まった衣服がボクに味方していてくれるのか、彼女の動きが芳しくない。  
 「あの……、えとね……」  
 「黙ってて」  
 舌で舌をなぞるように深く唇に侵入する。  
 唇の温度、感触、味、それから動きをまるで味わうようにゆっくりゆっくり確認する行為は、自分でもちょっと偏執的だなと思う。ヘンタイかどうかはともかく、興奮の度合いは尋常でない。  
 痛みさえ覚えるズボンの下のそのまた下の窮屈とモドカシさを案外どこかで楽しんでいるのかもと思考が逸れたとき、新たに生まれた感覚が脳天のその先を突き抜けた。  
 「な、なっなっなななにを――――――!?」  
 「………え、えーと…」  
 
 ズボンのボタンが外されて、チャックがぢ、ぢ、ぢ、ぢ、とくぐもった悲鳴を上げながら下ろされている。おなかの辺りに冷たくて細い指がするする差し込まれて、ボクはわき腹に戦慄が走る。  
 「な、な、なんてことを!だめ、だめですってば!」  
 「黙って」  
 赤い顔で精一杯平然を装って彼女が目を閉じた。  
 ああ、なんて意地っ張りで負けず嫌いで強い人なんだろ。  
 それに比べてボクと来たら。  
 ぎゅっと目を閉じて震える唇にキスをした。闇色に輝いている熱く柔らかい唇。ぬるぬる唾液で濡れる粘膜の擦れる感触。冷たい指は、小さな手は、時々止まったりもするけれどやっぱり動いている。  
 愛しくて、苦しくて  
 悲しくて、嬉しくて  
 満足なのに、寂しくて  
 ボクはたくさんキスをする。それだけが唯一ボクが彼女に出来ることだった。  
 手を引いている彼女の名前はめぐみ。職業は消防士。趣味はガンダム。ボクの奥さん。  
 ボクの奥さん。  
 ボクの好きな人。  
 ボクのすべて。  
 ピン、と頭の中の理性チップが壊れた音を聞いた。  
 「ちょっと、取って来る」  
 立ち上がり彼女の身体を引き剥がして服を調え、手早く綿入れを羽織る。  
 「な、なにを?何処へ?」  
 ビックリしたような彼女が声を上げて上半身を持ち上げた。  
 「ゴム。隣の部屋」  
 「ちょっ……!大きな声で!隣、クロの助たち居るんだよ!?」  
 「帰ってもらう。布団敷いてて」  
 言い捨てるようにしてあっけに取られる彼女をそのままに、襖を少しだけ開けてその隙間に身体を滑らせた。襖の向こう側はぼんやり暖かい。  
 
 “客の前で盛り上がるんじゃねえよ!”  
 師匠のミミズの運動会みたいなのたくった字にボクは片手で顔を追おう。  
 「たはは、お気遣い感謝します」  
 いつの間にどこから抜け出したのかサッパリ分からなかった。が、テーブルの上には汚い書置き、火が消えて少し経っているストーブ。  
 ボクはキッチンの電気を豆球だけ点けて、戸棚の中から任意のものを取り出す。抜き足差し足忍び足で襖のもと居た場所に立ち戻る。  
 「ねえ、奥の寝室で、ベッドじゃダメなの?」  
 言いながらもシーツも敷かない敷布団の上にタオルケットを広げ、その上に客用の羽根布団を瞼ギリギリまで被っている彼女が転がっていた。  
 「……かわいい……」  
 「聞けっ!」  
 がばっと布団を引っぺがすと、さっきの格好のままの彼女が現れた。半分脱がされた、卑猥な格好のまま彼女は大急ぎで、ボクに抱かれる為にこの布団を敷いたのだ。メチャクチャで適当に、敷いたのだ。  
 ぶつん!  
 鋭い強力な音がした。どうにも止まらない。いつもの自分じゃ絶対に考えられないほど暴力的な衝動が突き上げてきて、半脱ぎになっている彼女の下着を乱暴に引っ張り、トレーナー、ブラウス、ズボン、靴下、何処をどうしたのか記憶がないほど必死で取り払う。  
 「あんっ!ちょっ……こら!おいっあっやだっ……もう、イチローったら!」  
 時々小さな悲鳴みたいなのが聞こえたのに、その悲鳴はどこか可笑しそうでちっとも抑制になりゃしない。  
 「や……あーっ!」  
 はぁはぁ息切れした自分がようやく正気になったのは裸の彼女が困ったみたいな顔をして、身体を丸めながら自分を見上げているのに気付いてからだった。  
 「……はぁっ…はぁっ…!」  
 「もう!イチロー、急になんなの!?」  
 
 「あなたを抱きたい」  
 「ぶっ」  
 吹き出す彼女の唇を塞ぐ。舌で唇をこじ開けて主人とはまるで正反対の引っ込み思案な舌に軽く歯を当てる。覆い被さったボクの背中に、あの冷たくて細い手が回った。力なく、でも確かに。  
 背中に、細い指が文字を辿る。  
 僕にはその文字が何かわからない。  
 平仮名なのか、片仮名なのか、漢字なのか、はたまたアルファベットなのか、或いは数字なのかさえ。  
 なんて言ったの?ねえ。  
 そんなことを心配してる頭とは裏腹に左手は蠢きながら彼女の胸を這っている。柔らかくて温かな掌にちょっと余る、おっぱい。かわいいおっぱい。愛しいおっぱい。  
 そして右手は懸命に閉じようとしている太ももに割り入って、その根元に中指と薬指で触れようと悪戦苦闘している。ぎりぎり音を立てるように緊張している肌が汗ばんでいて肌と肌が引っ掛かる。  
 はあはあはあはぁ  
 うくっうん、うぁ、あぁぁ……  
 結婚してからもう2ヶ月も経つのに、ボクら夫婦は数えるほどしかエッチをしてない。理由はこの手のことに免疫がないから、っていう建前をどかせると、毎回、何故か彼女が泣いてしまうから。  
 何度も終わってから、悲しいから泣いてるんじゃないよと解説を入れられたってボクは全身が苦しくなる。息も出来なくて泣けて来る。どうしてそんなに涙が出るの?  
 ボクが怖いの?  
 セックスするのが嫌なの?  
 それとももっと別の理由があるの?  
 言いたい言葉に焼き殺されて、次の朝は照れる彼女とは別の理由で僕は彼女と顔を合わせられない。  
 ぼくはこんなに好きだから、キミとこうしているのが幸せなのに。  
 「めぐみさんはボクのこと好きですか?」  
 「……すきよ。だいすきよ」  
 もう涙が光っているのに彼女はそう優しい声でボクに言う。ボクはもうどうしていいのか分からなくて、ただひたすら暴力衝動と戦いながら太ももの根元に中指を突き立てる。  
 
 「あっ!」  
 貫かれた彼女の身体が弓形に反る。肢体がビクビクと薄く痙攣して突っ張っていて、ひどく優越感だか征服感だかを感じた。  
 指をゆっくり曲げては伸ばし、その仕草で彼女の手足を操っている気分。力を込めるたび、抜くたび、身体が素直に反応する。  
 「……痛い?」  
 鼻で笑うように訊ねた。彼女の性格上、こう言われたら絶対にはいと返事なんかしない。本当に痛かったらボクが訊ねるより前に高速のパンチ一発、頬か腹にカマされている。  
 ふやけてる右手の中指が小さな子に握られるようにぎゅっぎゅと締め付けられて、胸がきゅんとなる。  
 彼女はボクに抱かれている時、素直で従順で泣き虫になる。昼間の彼女とは似ても似つかない女になる。少女になる。それはボクを心から嬉しいと喜ばせる半面、ボクの心をたまらなく不安にもした。  
 そうやって泣きたいのをいつもは必死で我慢してるのか?  
 彼女が泣いている夜、ボクのどこかから強気で頼り甲斐があってちょっと意地悪なエロエロの男が出てくる。本当のボクは傲慢で卑怯で強引だ。そんな自分が嫌だから昼間は何とか理性で押さえつける。  
 でも もしも彼女が こんな 自分でも嫌いなボクを 許してくれるなら  
 ……許してくれると言うのなら……  
 「いじわる…しないで…」  
 潤んだ瞳で夜の声……細くて上擦っててとびきりキュートなえっちぃ声……で、そんな風に彼女が呟いた。  
 ――――――男がさ……「男が」だよ。好きな女にこんな顔されてそんなこと言われたらさ、なんつうかさ…………狂うよな?ボクが特別おかしいんじゃないよな?  
 ぞわぞわ背筋を這う戦慄とも悪寒ともつかない何かが動悸を早くするのと同じように、目の前が瞬きもしないのに瞬いていて喉がヒリヒリ痛む。  
 言いたい言葉がたくさんあるのにそのどれもが言葉に出来ない。  
 ボクはただ自分の情けなさに腹が立って仕方がなかった。  
 あなたが好きだと、あなたを愛していると、何も介さずに思うだけで伝わればいいのに!  
 
 「あっ…いやっ……!」  
 伸びやかなよく通る声が布団をくぐっているせいで篭っていて、何だかとてもいやらしい。必死で飲み込もうとする吐息がどうしようもなく漏れてしまうのとか聞いているだけで気が遠くなる。  
 「あっあっあっ!やぁっイ・チロ…っ……あっあっやだぁっ!」  
 はずかしい、こんなかっこ、やだぁ!  
 どうして。めぐみの顔よく見えるよ。  
 やっうそっ暗いもん!みえないもん!  
 真っ赤でエッチな顔してる。……もっともっとって顔してる。  
 …しっ!てないわよ!そんな顔!そんな!いやらしいっ!  
 ――――――キス、していい?興奮してきちゃった。  
 ……なによ、あたしん中で暴れてるくせにこれ以上興奮もないも……ん……んっん……  
 熱い唇が蠢く。粘膜が擦れる。……涙がぽたぽたボクの頬に降った。  
 君がどうして泣くのかボクには分からない。それを訊ねていいのかさえ戸惑うようなボクだけど、でもいつか笑いながら、こうして抱き合えたらいいね。  
 たった一枚の粘膜の向こうで、ボクは強く念じながらそう言った。言葉ではなく、不思議な力ではなく、もっと別の何かで伝わればいいと願う。  
 この愛が。  
 ……なーんつって、気障だねぇボクったら。どうしましょうこんなこと考えてるなんてめぐみさんにばれたら笑われるかな?師匠ならなんて言うだろう?ミーくんなら?マタタビくんなら?  
 「こらっ!イチロー、今あんた別のこと考えてたでしょ!?」  
 急に顔を固定されてグリっと無理に彼女の顔の方に振り向けられた。その顔がちょっと拗ねた表情だったのでボクはもうたまらない。  
 「考えてませんよ。……ボクの心はめぐみさんでいっぱいなんですから、他の誰も入る余地はありません。少佐だって付け入る隙はありませんよ」  
 熱っぽいキスをする。キスをする。キスをする。  
 祈りながら、念じながら、願いながら。  
 
 「ああ、あれ。きもちいいと、涙出るのよ」  
 「は?」  
 「や、だから、あたし気持ちいいと何でか知らないけど涙が出るの。」  
 だからマッサージとか格好悪くて行けなくってさー。あはははははー。気軽に彼女が笑う。  
 いつもの帰り道、夕食の買い物の帰り道、雪の降る帰り道。  
 「だって、結構前から聞いてたのにそんなこと一度も」  
 「……新婚のお嫁さんが旦那様に向かって"あなたに抱かれて気持ちよすぎて涙が出ちゃうの"なんて言えると思ってんの?ええっ!?」  
 「ぐえええぇ」  
 ざくざく理路整然と踏みしめている雪が急にぞんざいに蹴散らされて、そこに二人分の乱れた轍が描かれる。薄暗い空からは音も立てずに白い雪が舞い落ちて来た。  
 「昨日はゴム、結局つけないでやっちゃったね」  
 ぽつりと彼女が僕の襟ぐりを締めるのではなく、捕まっているような格好で、頬を染めてそんなことを言った。  
 「……うん」  
 「赤ちゃんできたらどうしよう?」  
 「産んでくれないの?」  
 「だって……あたし、お母さんなんてまだ自信ないから……」  
 「ボクもない。……でもボクとめぐみさんの赤ちゃんなら、自信ないけど頑張ってお父さんやるよ」  
 ぼろっと、まるで瞳が零れたかのような涙が溢れて流れていた。  
 「……ずるい、イチローばっかり、大人になっちゃったみたい」  
 ぐしゅぐしゅ涙を啜り上げる彼女の頭を撫でて、ボクは彼女と手を繋いだ。  
 のどの奥の方から湧き上がってくる熱い何かが、頭といわず身体中どこもかしこもを飛び起きさせて止まってられない。飛び跳ねそうになる衝動をギリギリ押し込めながら彼女の手を黙って引っ張った。  
 止めていた歩みを再開させて二人で歩く。  
 ざくざく足元で雪が鳴る。  
 暗い夜道、きみと一緒にうちへかえるよ。  
 
 
おしまい。  
 

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