「チャコ、ここでいいか?」
「ええ、ケン、ここが落ち着くもの」
助手席のチャコはそれだけ答えるとシートを倒し横たわった。車内灯のおぼろな
あかりが横たわったチャコの顔を浮かび上がらせる。相変わらず何の表情もないが、
まなざしは静かにケンに向けられている。やがてチャコが静かに口を開いた。
「ケンこそ、早く寝たら?疲れているでしょう?」
「ああ…」
チャコに言われて、ケンもシートを倒す。フロントグラスから見えるのは深夜の
ドライブインの駐車場のいくつかの車だけ。五月の夜だ。このまま寝てもどうという
ことはない。
チャコの考えている事はケンも同じだ。イエスタディ・ワンスモアを失った今日、
二人に残されたのは、このトヨタGT2000だけしかない。そこを離れてどこかのモーテル
に泊まるなんて出来ない事なのだ。
その昼、イエスタディ・ワンスモアはあっさりと崩壊した。一人の子供ーしんのすけ
によって。自分たちのユートピアを一人の子供があっさりと打ち砕いてしまった。
「はやくオトナになってきれいなおねいさんといっぱいおつきあいしたい!」
子供の足で必死に階段を駆け上がり、擦り傷だらけで、鼻血さえたらした傷だらけの
しんのすけ。
そんなに早く大人になりたいのか…未来を信じられるのか…お前は…
ケンはぼんやりと駐車場の闇を眺める。思えば、あの一家ー野原家はおかしな奴らだった。
あの男女はいったんは子供を見捨てる事さえしたのに、結局は子供達と生きる未来を選んで
しまった。
未来か…
あの後、二人はどこともなくさまよい続けた。本当はイエスタディ・ワンスモアと運命を
ともにするつもりだった。しかし、今生きてここにいる。しかし明日から何が俺たちにある?
「ケン…眠れないの?あの人たちのこと考えていた?」
ケンの横顔を見つめたまま、チャコがそっと問う。そう言えば、チャコの笑顔を見たことは
出会って以来なかったことだ。チャコの歳はケンよりはるかに若い。しかし、初めて出会った
時から、チャコのまなざしはいつもはるか遠くを眺めているようだった。その目に軽やかな笑み
が浮かんだ事は一度もない。何がチャコをそうさせているのか、ケンはおぼろに感づいても問う
ことはなかった。ただチャコのまなざしを見つめているだけだった。
「ああ…たいした奴だったよ…あんな強い奴らなら大丈夫だろう…」
ケンはため息混じりにつぶやく。チャコが首を緩やかに振った。
「ケン…あの街…本当はケンと二人きりでもいいからいつまでもいたかった…だってケンの生きていた
時代ってそんな時代なのでしょう?私もケンの生きていた時代を生きたかった…」
その問いはケンのなかに投げかけられた小石だった。オレの生きていた時代はそんな良いものか?
チャコはオレが生きていた時代を知らない。
その時代は…水俣の海はヘドロで汚れ、チッソ本社に抗議する患者たちを薄笑い浮かべた守衛が
突き倒した時代。イタイイタイ病が報告されても、三井金属鉱業が政府との連係プレーで黙らせた
時代。
学生たちは能天気なほど狂っていた。安保反対だの共産主義との連帯だのわめいては、安田講堂で
暴れまくり、はては造反有理だの総括だの滅茶苦茶に迷走した挙句が、浅間山荘で延々と篭城かまし
てテレビの一大ショーを演ずる始末。その裏で、聞くに堪えない歌をがなりたてていては、有頂天で
いた能天気さ。
そして、その頃の連中は…それを忘れて生きていられる。
そんな時代のどこが良かった?オレはあの時代に何を求めていた?
チャコ…お前はそんな時代に生きていたいのか?
押し黙ったままのケンの唇から自然に吐息がもれる。
「…オレたちはただ憧れていただけかも知れんな、勝手に。あいつらが未来がいいと思うように、
オレたちも過去に勝手に憧れていただけさ…」
薄い笑みがその唇に現れる。自嘲の笑みだ。
チャコがわずかに目を見開く。
「そんな…ケン…それじゃあ私たちどこへいけばいいの?行くところなんてないじゃない…もう…」
そして目をぐっと瞑り、何かをこらえているようだった。
その表情がケンの心を刺す。オレには何もない?いやチャコは…こいつにこんな思いはさせたくは
ない。きっとチャコはオレに会う前からそんな思いでいたのだろう。
左手を伸ばし、チャコの手に触れ、握り締める。その手の冷たさを温めようとするように。
「探すさ…どこへいけばいいのかなんてまだわからん。だが、探してみるさ。」
チャコの手がゆるやかにケンの手をつかむ。
「…信じているの?見つかるって?」
わずかな沈黙。しかしケンはそっと答えた。
「…信じるのさ。人は何か信じなければいられないものさ。オレたちは過去を信じていた。
これからは見つかるのを信じるしかないさ」
チャコの目がケンを真っ直ぐ見据える。まるで薄闇の中の道しるべを見極めようとするように。
「…私にはまだわからない。でも、私はケンを信じている」
そして握った手に力がゆるやかにこめられていく。
その手の力を感じながら、ケンはそっとフロントグラスからの闇をみやる。夜明けまでまだあるのか、
闇は深い。だが、夜明けはそれでも訪れるのだ。それを望まなくとも、容赦なく明日というものはやって
くる。
「ああ…」
闇にさまよわせたまなざしをチャコに向けた。両手を握り合ったまま見つめあう二人。
二人はそのまま何も語らなかった。
明日ー未来を信じられるか?でも明日はそれでもやってくる。これからどうなるかわからない。
ただ信じられるのは、この手のぬくもりだけだ。それだけが二人にとって確かなものなのだから。
(完)