日野は、ある日、ふと思い出した。  
 
以前、友人兼ライバルである、ある人物に、「指を大切にしろ」と  
言われたことがある。  
確かに、ヴァイオリンは繊細な指運びが問われる楽器だから、  
日野は彼の忠告を素直に聞き入れた。  
そして、今になって、こうも思う。  
 
指を大事にする。  
それは、楽器を扱う者におしなべて言えることではないだろうか。  
――特に、今、自分の側でくつろいでいる、この男には。  
 
「土浦君」  
「んー?」  
名を呼ばれた彼は、読みかけの雑誌から目を離すことなく、  
返事をした。  
 
――日野と土浦が恋人同士になってから数ヶ月後のある日。  
 
土浦の自室でのことである。  
 
「前ね、ヴァイオリニストは、指を大事にしなさいって言われた  
ことがあるの。  
でもそれって、ピアノを弾く人にも言えることだよね」  
「………。」  
 
ベッドの上にうつ伏せに寝そべり、雑誌をぺらぺらとめくる土浦は、  
しかし彼の視線は紙面を素通りしている。  
 
――誰が、何を言ってたって?  
 
その名は、「L・T」。  
彼女の話に出てくる「ある人」とは、自分と犬猿の仲の  
某ヴァイオリン弾きに違いないだろう。  
 
――そうだ。  
「指を大切に」なんて気障なことを言ってのけるのは、「L」なんて、  
日本人の名前にはありえないイニシャルをわざわざ使用する、  
あの男以外にいまい。  
 
――いいじゃねえか、ふつーに「R」と書いときゃよ!  
しかしそうなると、自分のイニシャルとかぶることになり、  
 
それはそれで嫌なのだが――今はそういう話ではない。  
 
土浦は苛立ちそのままに、雑誌のページを荒々しく繰るが、  
日野はそれに気付かず、暢気に話を続けた。  
 
「だよね?やっぱ演奏家にとって、指って大事だよね!」  
「…………。」  
「それなのに、料理とかして、大丈夫?」  
 
――今更。  
自分の指を労わらないピアニストなんて、いるわけがない。  
だから日野の話は、土浦にとって、本当に今更の話だった。  
そのうえ彼女は、自分の大嫌いな男の話を引き合いに出している――。  
 
――んなことは、分かってんだよ!!偉そうに!!  
「L・T」本人に説教されているような錯覚に陥ったのか、  
土浦はつい声を荒げた。  
 
「うるせーな!ほっとけよ!!  
第一、料理が趣味っつー音楽家は腐るほどいる!!  
レシピ本出してる奴もいんだろ!知らねえのかよ?」  
「え、そ、そうなの…?」  
「そーだ!――人の意見にすぐ左右されて、知ったかぶりすんな!」  
「……そういうわけじゃなかったんだけど。ごめん…。」  
 
それきり日野は黙り込んでしまった。  
 
――ああ、もう。  
「あいつ」が絡むと、すぐにこれだ。雰囲気が悪くなる。  
 
土浦は気まずくなった空気を払うように、乱暴に雑誌を投げ捨てた。  
 
「おい、悪かったよ。言葉、キツかった」  
「――ううん」  
「こっち来いよ」  
「――うん」  
 
とりあえず仲直り。  
だがベッドに上がってきた日野は、なんだかしょんぼりしている。  
 
――土浦にだって、分かっている。  
日野の先ほどの話に別に深い意味はなくて、  
「無闇に指を使っちゃダメ!危ないよ!めっ!」  
「日野は心配症だなぁ、ははは」「うふふ」的な展開を期待していたのだろう。  
そう。自分との会話の糸口にしたかっただけなのだ。  
 
土浦だって、指を〜云々の話をしたというのが「L・T」――いや、  
ずばり月森じゃなかったとしたら、もう少しはぬるい台詞を返せただろうに。  
 
――まったく月森は嫌な奴だ。  
そして自分と二人っきりだというのに、そんな男の話題を出す、  
彼女ときたら――。  
 
おさまったはずのイライラが、土浦の中で再燃する。  
当の日野は、土浦の胸に寄りかかり、彼の手を取った。  
 
「……。」  
彼女は何か言いたげだ。――まだ月森の話を続けるつもりだろうか。  
 
これ以上、あいつの話をされたらキレる。  
間違いなく、キレる。  
 
土浦は日野に先を言わさないために、彼女を後ろから抱きしめた。  
 
「確かに、無駄に指を使うのは良くないかもな」  
「え?うん…。」  
「じゃあさ、俺、今日は、指、使わない」  
「ん?え?何に?」  
「お前なー」  
土浦は、日野の体に回した腕にぐっと力をこめ、彼女の耳元で囁いた。  
 
「このシチュエーションで、『何?』って聞き返されるほど、  
経験ないっけ?俺たち…。」  
「!」  
 
日野の体がびくっと震えるが、土浦はそれに構わず、  
彼女の首筋に唇を落とした。  
 
「や……。」  
日野は反射的に、自分を抑える男の腕をはがそうともがくが、  
力で敵うはずもない。  
その間も、太い舌が、うなじから肩へ這っていく――。  
 
「や、や…!くすぐったい…!」  
抗議しようと振り返った彼女の唇に、齧り付いてやる。  
と言っても、もちろん歯は立てず、代わりに舌を捕らえ、  
ねっとりといたぶってやった。  
 
「ん…うぅん……。」  
瑞々しい唇を存分に堪能してから離れると、日野の瞳はとろ  
 
んと溶けそうになっていた。  
 
「――俺、指使っちゃダメだからよ」  
「え?」  
「服、自分で脱いでくれないか?」  
「………。」  
 
日野は土浦の言葉に従い、ゆっくりと自らの衣服を取り去っていった。  
 
「――あと、俺のも脱がせてくれよ」  
「え?」  
「ほら、俺、指、使えないだろ?」  
「………。」  
 
日野の表情に一瞬だけ戸惑いが見えたが、結局彼女は土浦の要請に従った。  
 
生まれたままの姿になった二人は、ベッドでゆっくり絡み合う。  
しかし、ここでも「ルール」は生きていた。  
 
指を使わず、愛撫は口で、だけ。  
土浦は、日野の形の良い胸を口に含み、乳首を舌で転がした。  
 
「んっ、あ…ん」  
「悪いな。もう片方も触ってやりたいけど、指は使えないし。  
口は一つだけだからなぁ」  
「も、もう…!!」  
 
そんな軽口を叩きながら、土浦は日野の全身に口付けていった。  
 
胸、腹、腕、太もも。  
唇が触れた箇所は、桜色に染まっていく。  
――そんな丹念な愛撫を繰り返すうちに、土浦の心は  
日野を愛おしく思う気持ちで満たされていった。  
 
「日野…。可愛いな、お前…。」  
「嬉しい…。ありがとう……。」  
 
人が聞けば、どれだけ恥ずかしい台詞だろうか。  
しかし今は二人きりだからいいのだ。  
 
「足、開いてくれないか?」  
「う……。やだ……。」  
それはさすがにすぐには聞き入れられないのか、  
日野はもじもじと身じろぎした。  
 
「いや、ほら、俺――。」  
「――指が使えないからって言うんでしょ?」  
「正解」  
「もう……。変なこと言うんじゃなかったなぁ」  
 
そうそう。そうやって反省すればいいのだ。  
土浦は内心ほくそ笑む。  
 
そして――。  
おずおずと開かれた足の奥にある彼女の中心は、  
しっとりと濡れていた。  
 
「うわ、すげ。いつもより濡れてないか?」  
「だって…。土浦君が、いっぱいキスしてくれるから…。」  
「ふーん。ああいうのがいいのか…。」  
 
秘部をぺろりと舐めると、舌先に小さな突起を感じた。  
 
「ふあ…っ!」  
日野の体がびくりと反る。――今までの反応とは明らかに違う。  
土浦は玩具で遊ぶかのように、楽しげにそこを攻めた。  
 
「ひゃ、やっあ…!そこ、だめ……!」  
「気持ちいいくせに…。嘘つくな」  
 
閉じようとする足を己の体で防ぎ、しつこく舐める。  
舌全体を使ってだらだらと絡めたり、舌先でつついたり――そのうち、  
日野の反応は大きくなっていった。  
 
「あっ、あっ、あっ……!だめ、だめだめ…っ!  
そんな、の…、も…だめだよっ……!」  
「お前…すげえ、やらしい声…。」  
 
我慢できないと訴える切なげな嬌声は、逆に、  
彼女を翻弄していると思われた男を追い詰めていく。  
 
「――いけよ…!」  
 
次の瞬間、日野は大きく体を震わせた。  
「う、ああああっ!!」  
 
土浦は例のルールを忘れ、達した彼女の秘裂を指で左右に開いた。  
 
いつも己を埋める小さな膣。その口からは、愛液がとろとろと滴り落ち、  
男を誘っている。このうえなく、いやらしい光景――。  
 
「――日野。入れていいか?」  
「うん……。」  
 
その言葉に甘え、土浦は避妊具を着けると、すぐに日野の体に伸し掛かった。  
 
「んっ…。」  
挿入を終えると、彼女の中の心地良さに、思わず声が漏れる。  
 
「気持ちいい…?」  
「ああ、すごく…。すぐイっちゃいそうだ」  
「いいよ。イキたいときにイって…?」  
 
そうは言っても、土浦にだってプライドがある。奥歯を噛み締めて何とか耐えていると、  
日野は、ベッドで自身の体を支えている彼の手に触れた。  
 
「…?」  
彼女が自分の手をどうかしたいようなので、土浦は前屈した背を垂直に戻し、  
体は膝で支えるようにした。そして、腕は日野に預けてやる。  
 
――彼女は土浦の手を取ると、そっと頬擦りした。  
 
「どうした…?」  
「ううん…。さっきの、指を大切にしてっていう話の後、  
ちょっと嫌な雰囲気になって…土浦君に抱っこされたじゃない?  
そのとき、土浦君の指のこと、考えちゃって」  
 
繋がりあったまま、淡々と彼女は語る。  
 
「なんかね、いっつもどんな風に触られてるかなんてことまで考えて、  
一人で勝手に興奮しちゃった。――あはは、私って、変態だね」  
「日野……。」  
 
いつもは清純な彼女がそんなことを言うと、輪をかけていやらしく聞こえる。  
そのうえ、健気だ。  
 
「土浦君、大好き。土浦君の指も、大好きだよ…。」  
そう言うと、日野は土浦の指を口に含んだ。  
 
「……ん……。」  
「あ…!」  
 
小さな舌が指をちろちろと這うたびに、土浦の全身には電流に似た感覚が走る。  
 
不思議だ。  
彼女が今愛してくれているのは、自分の体の総面積から比べれば、極小なのに。  
 
いや、そりゃそうだ。  
敏感だからこそ、音楽家にとって要となる器官なのだから――。  
 
「好きだよ、土浦君」  
そう言って、無骨な自分の指をしゃぶってくれている日野が。  
 
その唇から漏れる、愛のささやきが。  
 
――あまりに可愛くて。  
 
「日野…!!」  
土浦は猛然と腰を動かし始めた。  
 
快感でいっぱいになる頭の片隅で、料理をやめることはないけど――  
でも、気を付けるようにはしよう。  
彼は、そう思った。  
 
 
――「物は言いよう」という話である。  
 
【終】  
 

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