俺は、ただひたすら、自分の行くべき道を歩んできた。
目指すべき場所は遥か遠く、しかし少しでも早く、そこに近付きたくて。
だから必死に、己の技術を研鑽し続け――気が付けば、独りだった。
別に、いい。
遊び方が分からない。
親友と呼べる存在がいない。
それらを指して、周囲は俺を寂しい奴と評価する。
しかし俺からすれば、それらは努力の証。
恥じることなどない。
――ない、が。
最近は少し、己を歯がゆく感じる。
日が落ちて数時間のち、月森は学園の廊下を歩いていた。
消灯は既に済み、周囲は薄暗い。
早く帰ろう。そう急ぐ足先で、ある一室の扉が開いた。
「わっ、もう暗いですね」
「ああ、うっかりしていた。もうこんな時間か……。」
開いた扉の隙間から、聞き慣れた声が漏れてくる。
「………。」
月森は軽く唇を噛み、足を止めた。
音楽科教棟にある「練習室」。そこから出てきたのは、
月森の友人である日野 香穂子と、先輩の柚木 梓馬だ。
「あっ、月森君。月森君もまだ残ってたんだね」
「こんばんは、月森君」
日野は無邪気に、柚木は優雅に、それぞれ声をかけてくる。
月森は仏頂面でそれに応えた。
「……おつかれさま。精が出ますね」
言ってから、月森は自分の声が妙に尖っていることに気付き、
心の中で舌打ちした。
そんな彼の機微に気付くことなく、日野たちは気安く話しかけてくる。
「ふふっ。なんか夢中になっちゃって。ね、先輩」
「うん。今日は、特に調子が良かったからね」
そこまで言うと、柚木は月森に、ちらりと視線を這わした。
「日野さんは、しごき甲斐があるから――とても楽しいよ」
「……。」
成績優秀で、運動神経抜群。
教師やOBからの信頼も厚く、後輩からの人望も集める。
――そんな完璧な男が、実は、いやらしい棘を持っている。
最近それでちくちく刺される月森は、柚木の緩やかな変化に戸惑っていた。
――自分が知っている柚木は、例え表とは違う裏の顔を持っていても、
それを決して人には見せなかっただろうから。
――そして、これは牽制なんだろうな。
今、彼と寄り添う少女を独占するための。
しかし当の日野は、男たちの静かな戦いになど、
全く気付いていないようだ。
「もー。先輩は、本当に厳しいんだから!
今日だって私、結構泣きそうになりましたよ!」
「ふふ。これでも優しいつもりなんだけどなぁ」
「……。」
居場所がない。
だけど、譲るつもりもない。
月森がその場から動こうとしないのを見て、
柚木は小さく――恋敵にしか聞こえないほど小さく、ため息を吐いた。
「……じゃあ、僕は生徒会室に寄っていくから。
月森君、よければ、日野さんと一緒に帰ってあげてくれないかな?」
本当は、「お前、どっかいけ」くらい言いたいだろうに、
それを飲み込んだ優等生の申し出に、月森はこっくりと頷いた。
「はい」
「……二人とも気を付けてね。もう暗いから」
心の内はいかようか分かりかねるが、柚木は爽やかに去っていった。
その後ろ姿に手を振ると、日野は月森に向き直る。
「んじゃ、帰ろうか。月森君」
「……ああ」
日野は可愛い笑顔を向けてくれているというのに、
月森の気持ちは晴れなかった。
――俺は、変だ。
今日だって、熱心に練習する日野を褒めるべきなのに、
何故こんなにイライラしている?
――いや。
彼女の相手が、例えば冬海辺りだったら、
百時間でも、二百時間でも、思う存分練習して欲しいと思う。
だが、柚木なんてもってのほかだ。
というか、相手が男なら、誰であってもダメである。
そう、一分一秒たりとも、二人きりになって欲しくない。
なぜそんなことを思うのか。
その理由に気付かないフリをするほど、月森は器用ではない。
――だから、モヤモヤと悩んでいるのだ。
「でも最近、日が落ちるの、だいぶ遅くなったよねぇ」
暗い廊下を二人で歩く。
日野は世間話をしたいようだが、月森は――。
「日野は、柚木先輩と仲がいいんだな」
――直球勝負を挑んだ。
「え?」
「いや…。よく一緒にいるようだから」
「うん、えーと……。」
日野はしばし沈黙する。何か考えているようだ。
「まぁ柚木先輩も、ちょっと難しい人だから」
「――へえ」
月森の胸がどきんと鳴る。
「難しい人」。
控えめな表現ではあるが、自分が察する柚木の正体を、
彼女はとっくに気付いているということだろうか。
――つまり、それだけ、二人は親しいというわけか。
「あ、『難しい』って、別に悪い意味じゃなくて!
ほら、柚木先輩みたいなリーダータイプの人って、
きっと色々と苦労があるんじゃない?
だから、ちょっと羽目を外したいときもあるんじゃないかなぁ」
「羽目を外して…、君をからかったりするわけか?」
「はは、そうだね。私、先輩によくからかわれてるね。
犬とか猫とかにちょっかい出す感じなのかな」
「それはひどい扱いだな」
月森が馬鹿にするように笑うと、日野も笑った。
「でも楽しいよ。先輩といるのは」
どういう意味で?
月森がもんもんと考えこんでいるうちに、
日野は話題を彼自身に変えた。
「柚木先輩でも、そういうときがあるのに……月森君はすごいよね。
迷いなく、自分の目標に向かってくって感じ!強いね!」
日野が熱く語る。
――その信頼が。
今は。
「私、月森君のこと、本当に尊敬してるんだよ!」
とても痛くて。
月森が不意に足を止める。
「――君に」
「え?」
数歩先に進んだ日野が、遅れた道連れを振り返ると、
月森は――燃えるような目で、彼女を見詰めていた。
「君に何が分かる……!」
月森は、まさに吐き出すようにそう言うと、日野の肩を掴み、
そのまま彼女の体を壁に押し付けた。
「痛…!」
したたかに後ろ頭を打ち、日野は小さな悲鳴を漏らした。
何がどうなっているのか。
なぜ、月森は怒っている?
「月森君…?」
見上げた彼は、とても悲しそうで。
「ひ、の……。」
ゆっくりと降りてくる。美しい彼の――。
思わず見惚れているうちに、唇が重なった。
「!」
日野は動けず――ただ呆然と、月森の長い睫を見詰めていた。
どうして。
あの得体の知れない男のことは理解できて、俺のことは分かってくれない?
ああ、違う。
こんなのは、本当の俺じゃない。
俺は一人でも、平気だったはず。
なのに。
――なのに。
「君がいけないんだ……。」
わずかに離れた唇から、苦しそうなつぶやきが漏れる。
「私…が…?」
「君が、君が――俺に…!
孤独の意味を、教えた……!」
そうだ。日野がいけない。
だから、壊してしまえば。
彼女を壊して、俺も壊れて。
――楽になってしまいたい。
「月森、くん……。」
しかし、こんな状況になっても、
自分を見上げる彼女の瞳に信頼が宿っているのを認め、
月森はこれ以上何もできなかった。
――笑ってしまう。
自分はどこまで臆病なのか。
「…一人で帰れるか?」
月森はゆっくりと日野から離れると、声をかけた。
「えっ…。う、うん…。」
「なら、今日はここで……。――気を付けて」
そう言うと、今までと反対の方向に歩き出す。
――闇は、月森の姿をあっという間に覆い隠してしまった。
彼が消えてしまうと同時に、日野の足からは力が抜ける。
――なに…?どうして…?
ずるずるとその場に座り込み、先ほどのことを思い返すが、
彼女はいつまで経っても、納得のいく答えを出すことができなかった。
【終?】