俺がそれを見かけたのは、本当に偶然だった。  
 ドイツへの留学が本決まりになって出立を明々後日に控えた日、  
俺は多くの所用で学校に行った。二年と少しの間通って、コンクールにも出場した。  
それなりに思い出がある校舎を見納めにするつもりで、校内を一通り回る。この時間なら、  
日野はまだ練習室にいるだろうか。それとも屋上にいるだろうか。いや、それはないだろう。  
今は七月も終わりで、日焼けするのは嫌だと笑っていたのだから。  
 練習室に行けば会えるだろうかと足を向ける。流石にこの暑さではどの個室もエアコンを  
全開にしているらしく、窓もカーテンもぴったりと閉め切られていて、中を伺うことは出来  
ない。日野も同じ理由なのだろうか。付属大の音楽学部の特別入試を受けると言っていたから、  
夏休み中は練習室に籠もりっきりだと言っていた。我ながら、単純なものだ。  
―無駄だと分かっていても、会わずにはいられないのだから。  
 練習室の窓をいくつかそうして確認していく中に、一つだけ窓が開いている部屋を見つける。  
窓枠の下に、使い込まれたスパイクシューズが無造作に転がっていた。まさか、と思う隙を  
与えてくれなかったのは、誰なのか。ふわりとカーテンが揺れて、一瞬中の光景を曝け出す。  
 西日の差す部屋の中、普通化の制服を着た女子とサッカー部のユニフォームを着た男子が  
床に座って唇を重ねていた。他の誰か?そんな筈が無い。この時期は毎年音大を受験する生徒の予約で  
一杯で、普通科の生徒が割入って利用することはまず無い。そうしてその例外は校内でも二人だけで、  
練習室を利用する普通科の生徒、といえばそれ自体が代名詞になる程だった。  
 それ以前に、それ以上に。俺が日野を他の誰かと見違える筈が無い。  
 その後、どこをどう歩いて家に帰ったのか憶えていない。ただ憶えているのは、二人の後姿だけ。  
俺に背を向けて、俺の存在に気付かないまま愛おしむ様に唇を重ねていた二人の姿が、脳裏に焼き付いて  
離れなかった。  
 今更土浦に対する感情が変わる理由は何も無い。音楽表現も生まれ育った環境も才能も何もかもが違う。  
相容れないのも反りが合わないのもこの先も変わらない。それでもたった一つの共通点―日野に関しては、  
俺たちはおそらく全く同じ感情を抱いていて、そうしてそれをお互いに正しく認識していた。  
 次の日、昨日よりは少し早く、俺は学校に向かっていた。目的はたった一つ、日野に会うためだけに。  
 
 
あ〜、肩痛っ」ヴァイオリンを降ろして、時計を見る。もう四時を差していた。ここ最近は毎日そう。  
午前中は普通科の課題をこなして、十二時から六時までヴァイオリンの練習をする。家に帰ってまた課題をやって、  
の繰り返し。付属大の特別入試を受けるからって言っても、課題の量が変わるわけじゃない。普通科に残ったとき  
から覚悟はしていたけれど、他の子たちが受験まっしぐらなこのときに遊んでいていい筈が無いし、  
遊んでいるのでもない。何より梁くんだって部活と受験勉強とピアノと全部ちゃんとやってるんだから、  
私一人が弱音吐いてなんかいられないもんね。  
 六時を過ぎれば、部活を終えた梁くんが来る。これも、いつものこと。今年の県大会はかなりいい線まで  
勝ち残っていて、あと二つ勝てば国立競技場だって言ってたっけ。昔はサッカーのポジションどころか  
何も知らなかったけど、今は結構詳しいんだ。梁くんのMFはチームの司令塔で、中心で。私と付き合い始める前から  
そうだったらしいけど、やっぱり好きな人がそういう重要なポジションにいるっていうだけで、意識も変わってくるもので。  
・・・一瞬だらしなく緩んだ口元を直すのと、ドアのスリットをノックする音とは殆ど同時だった。  
「日野、いるだろうか」  
「月森くん?」  
 彼の姿を見るのは、久しぶりのような気がした。月森くんは今年、ドイツの高校に留学が決まった。そのまま  
向こうの高校を卒業して、ドイツ語圏の音大に行くらしいことを真奈美ちゃん(作者注・森真奈美。ゲーム中で  
主人公の伴奏をしてくれるキャラ。漫画では後付で音楽科二年、月森と同じクラス)から聞いていたから、  
別段驚きはしなかった。そもそも私はドイツ語とフランス語の区別さえつかないんだから、それだけでも  
十分尊敬する理由にはなる。  
「留学決まったんだって?おめでとう」  
「ああ。君は付属第に進学すると聞いたが」  
「まだ本決まりじゃないの。科目がどうしても足りないから。普通科から初めての受験者だから、特別に  
減らしてくれるって言われたんだけど、出来る限りちゃんとやっておこうと思って」  
 いまだに楽理なんか全然分からないし、皆が持っているような絶対音感も私には無い。あるとしたら、練習量だけ。  
それは肩を並べられる。  
 
「君は頑張っているようだが、土浦は?」  
 純粋に想っているだけなら、それだけでいられたらどれだけ幸せだっただろう。そうして  
もし彼女が、自分が向けている感情の半分でも返してくれていたら。けれどそうはならなかった。  
彼女は俺が一番嫌っている男と付き合い始め、そうしてそれはコンクール特有のロマンスと持て囃された。  
あいつが日野を「香穂子」と何の躊躇いも無く呼ぶ時、そうしてそれが俺の耳に届く時。どれだけ嫉妬させられたか、  
胸の掻き毟りたくなるような思いをさせられたか。分かるはずがない。  
「梁くんは、まだ結局決めてないんだって。ほら、あの性格でしょう?まだ一つに決めたくないみたい。  
受験したいところ全部受験して、合格してから決めるんだって。今だって理系クラスだし、この間は  
数学で三位だったかな?かなり良かったんだよ」  
 潰してやりたい、と内心に思った。残酷なくらい無邪気に俺を信頼しきって、日野は必要のあることもないことも  
躊躇い無く口にする。言の葉にすること自体が愛しい、というように。  
「ぜいたくだよね、どうせ受験するなら芸大のピアノ科受ける、なんて。そりゃあ梁くん上手いけど」  
このままずっと幸せな日々が続くと信じて疑わない日野も。他の誰かが努力しても手に入らないものを、まるでそれが  
当たり前のように何食わぬ顔で掴み取っていく土浦も。全て。  
「珍しいね、梁くんのこと訊いてくるなんて」  
 土浦のことなら何でも知っている。言葉より、表情がそれを物語っている。  
「ああ。・・・最後だろうし」  
「あ、そっか。もう行っちゃうんだ。いつ発つの?」  
「明後日だ」  
 平然と、何も疑う事もないまま―疑うという選択肢自体が存在しないまま、友人を笑って送り出すつもりでいる。  
「ね、ドイツに行っても頑張ってね」  
「・・・ああ」  
 扉のスリットのカーテンを閉め、鍵を掛ける。彼女は気付かない。花のように笑う。その手を一気に掴んで、引き寄せた。  
 
「どうしたの?」  
 いきなり引っ張られて、抱き寄せられる。何だろう。胸騒ぎがする。月森くんはこんな顔をしてただろうか。  
手が動かない。  
「月森くん?」  
 押し黙ったまま、手だけが痛い。不意に、顎を引っ張られた。顔が一気に近づく。何かを考える間もなく、唇を塞がれる。  
一瞬、頭が白くなった。私が今キスをしているのは、誰だろう。  
「・・・っ!」動けない。遮二無二唇が割られる。ざらりとした舌が、無理やり入ってくる。  
太腿をざわりとしたものが這い上がって来る。イヤだ。梁くんじゃない。  
「月森、く」  
 体が壁に押し付けられる。背中が悲鳴を上げた。  
「君のそういうところが本当に嫌いだ」  
何が起こったのか、わからなかった。ただ自分が、何か危害を加えられそうな状態にあること以外は。  
 
押し付けられているのが壁なのか床なのか、それさえ分からなかった。セーラー服の中に手が入ってくる。ひどく冷たい。  
「やあ・・・っ」  
涙が出る。こんなの月森くんじゃない。私の知ってる彼のすることじゃない。制服をたくし上げられて、胸がエアコンの  
冷たい空気に曝される。鳥肌が立つ。さむい。力任せに、ブラのホックを千切る音がした。  
「っ、やだ」  
男の手が探る。何か抵抗する間もあらばこそ、容赦なく掴まれる。よく、無理矢理されても感じる、なんて言う人がいる。  
あんなの嘘だ。痛い。本当に気持ちいいなんて感じるのは、自分から求めて相手に求められる、幸せなセックスの時だけだ。  
 
日野の体は、それでも女の身体をしていた。男を知る女だけが持つ、匂い立つような女の身体。心が沸騰する。冷静さが  
かき消される。押さえつける身体に容赦なく体重を掛けた。誰かに―その誰かはたった一人しか該当しない―とうにゆるされた  
身体。一番奥まであいつの侵入を許したことのある体。あいつはいつもそうだ。コンクールの優勝も、日野も、俺が  
手に入れたいと思ったものを、そのために惜しみない努力をしてきたものを、目の前で平然と奪い取った。  
 
「やだあ・・・っ!」  
熱い息に、力を奪われる。首筋を鎖骨を、色素の薄い髪が弄る。制服から見えるのが嫌で、梁くんにも一度も許したことが  
無い場所を土足で踏み荒らされる。怖い。嫌だ。嫌だ。嫌だ。この先身体がどうなるかより、今目の前にしている現実だけで  
心が潰れそうだった。胸を掴んでいた冷たい手が、足に伸びる。身体が竦む。  
「こんなの、やだ」  
視界が滲む。防音の練習室の声が余程のことが無い限り外には届かないことを、ここ一年の練習でいやというほど知っている。  
自分の身体なのに、思い通りにならない。助けて。怖い。誰か。梁くん。助けて。白い天井が見えて、それで自分が床に  
押し倒されているんだと分かった。下着が強制的に降ろされて、指先が身体の中を犯してきたとき、圧迫感で息が止まった。  
「どうして、こん、な」  
「君自身と土浦に聞いてみればいい」  
いつもと違う、殺気すら混じった言葉。耳が残酷な事実を伝えてくる。歯が鳴る。身体の奥を無遠慮に暴れまわる存在に、  
頭が考えることを拒否する。考えられない。考えたくない。  
 
一番大切なものが踏みにじられた、と知ったら、あいつはどんな顔をするだろう。短い爪が頬を引っ掻く。押しのけようと  
抗う腕がYシャツを掴む。儚い抵抗さえ、自分が招かれざる客であることを思い知らされる。こんな手荒な真似をしたかった  
んじゃない。ただ君が―他の誰でも良かった、土浦さえ選ばなければ。  
 今更何を言っても、遅い。生じた亀裂を修復する気はさらさら無かった。限界を感じて、ベルトに手を掛ける。ただ一度  
だけ、赦しを請うように口付けた。  
 
 金属の音が嫌に耳に響く。現実を見たくなくて目を閉じた。冷たい手が、太腿を掴んだ。  
「いやだ」  
 身動き一つ出来ないほど、体重がかかる。身体が震える。お互いの息遣いまで聞こえるほど近いのに、どうして  
わからないの。  
「お願い、やだ、月森くん、やめ―」  
 言葉は途中で途切れた。濡れてもいないところに、熱の塊が容赦なく侵入してくる。痛い、と思った。身体じゃない。  
今まで築いてきた関係が、音を立てて壊れていく。音楽の先輩への憧れも、同じヴァイオリニストとしての気安さも、  
何もかも。  
 
 悲鳴を無視して、組み敷いたまま身体の最奥を犯した。思ったよりたやすく侵入を許したそこはひどく熱い。  
「・・・つきもり、くん」  
 ぱたりと日野の抵抗が止む。絶望的に見開かれた瞳を、直視するだけの勇気は無かった。今更遅い。やめたところで、  
彼女は永遠に俺を赦さないだろう。それでもいい。これで彼女は俺を忘れない。優しくて無邪気で、残酷な日野。  
それでも、一緒に過ごした時間は幸せでもあった。土浦に向けられている感情の何分の一かでも、俺に向けられて  
いるのだと幻想を見ていた。君が知らなくて俺だけが知っていた土浦のたった一つ、それが俺の君への感情だとは、  
最後まで気付かなかった。  
 
いつ、から?  
「どうして」  
 身体の中を抉り削られていくようだった。いつからこんな風に憎しみをぶつけられるほど、憎まれていたんだろう?  
いつ私は、憎まれるようなことを言ったんだろう。そんなことをしていたんだろう。いつだって呆れながら、小言を  
言いながら、それでも教えてくれた人。  
 痛みに気が遠くなる。自分の身体が今どんな状態か、知りたくない。信じたくない。床に押し付けられた背中が痛い。  
子宮の感覚がなくなりそうだった。このまま壊れてしまえたら、一生思い出さずにいられたら、どれだけ楽になれるだろう。  
「・・・っ!」  
 そう思った一瞬、気が遠くなる。慣らされた体が、熱を思い出す。  
 
 打ち捨てられたように呻き声さえ忘れていた日野の身体が、一瞬大きく揺れる。弱いところを探り当てたらしい。  
受け入れるに任せていた秘所が喰らい付くようにぐっと締まる。達することを教え込まれている身体が、意思に反して  
限界を迎えようとしている。  
「っ、あ、ああ」  
 拒否する声に、甘さが混じる。土浦がおそらく聞き慣れて、他の誰も聞くことはないと信じきっていた声を、初めて  
聞いた。男の欲情を煽る、甘い啼き声。暗い悦を覚えた。これで、共犯だ。  
 
 慣れた感覚に押し戻されるように、身体が達することを要求してくる。このひとじゃない、と叫ぶ理性を、目を閉じて  
彼の顔を否定することで打ち消した。  
「や、お願い、梁くん、苦し」  
 耐えられなくなった手が、Yシャツに縋る。今更この状況を変えられないんだったら、何もかもどうでもいい。汗が  
胸と頬を伝って落ちる。脳の奥が、白く染まる。押し戻されて、揺り動かされて、最後にいつもそうしてるようにいちばん  
大切な人の名前を呼んだ。  
 
「・・・あ」  
 私、今、誰の名前を呼んだ?  
 途切れた意識が、緩やかに戻ってくる。そうして、ある瞬間一気に血の気が引いた。私をいまだに組み敷いている身体の  
持ち主と、身体の奥に居座ったままの異物とを正しく認識した。そうしてもうひとつ理解した。彼は避妊してない。  
「ーーーーーーーーーっ!」  
 目の前が真っ暗になる。身体の奥から抜け出さないそれが、獰猛な硬さを取り戻していくのが襞越しに分かる。  
 
「梁くん・・・っ」  
 達する前に、恍惚といった表情で呼んだ名前が、達した意識を一気に引っ張り戻した。それほどにあいつが大事か。  
犯されても憎まれても、あいつが大事なのか。今度こそ容赦する理由を全て失う。意識を取り戻して抵抗を始める手首を、  
襟元のタイを引き毟って縛り上げ、先ほど探り当てた急所を力任せに抉った。  
「いや、梁くん、助けて、お願い、いや!」  
 来ないと知りながらそれでもあいつの名前を呼ぶ唇を片手で制する。もうどんな言葉も聞きたくなかった。  
「ーーーーーーーーっ」   
 狂っていたのは、どちらだったか。  
 
おい!」  
 誰かの声が聞こえる。肩が揺さぶられる。頭が痛い。頭だけじゃない、どうして全身が痛いんだろう?  
「香穂子!」  
 うるさいほど耳鳴りがする。視界に色が無い。白と青と黒の色をしている。私を覗き込んでるのは、誰?  
「・・・あ」  
 おなかがいたい。手首を掴まれる。  
「わた、し」  
 両手首を、タイが縛っていた。視界に赤が無いのに、それは鮮やかな赤だと理由も無いのに分かった。  
「香穂子?」  
「・・・っいや!」  
 分かった瞬間、全ての記憶が一気に引っ張り出される。きもちわるい。さわらないで。誰も触らないで。  
 肩に触れてきた手を振り払った。涙が溢れた。いやだっていったのに。やめてっていったのに。  
くりかえし、くりかえし。  
「落ち着け、もう終わったから」  
 目の前にいるのが梁くんだと、そこでやっと気が付いた。手にタイは結ばれてなかった。体中が痛い。  
そうして、一番知られたくなかったことを、よりによって本人に最初に知られたことに、気が付いた。  
でも、梁くんは何も言わなかった。  
「・・・立てるか?」  
 肩に腕を回されて、立たされる。何かが壊れる音がした。身体の奥底を、生理のときのように伝い落ちていく  
何かがある。  
「・・・あ」  
 腿を伝って膝まで滑ったそれは、白く濁っていた。気が遠くなった。名前を呼ばれた気がする。私の名前。  
でも、聞こえない。視界が、黒くなった。  
 
 

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