午後6時5分前になると、香穂子はいつも練習室の窓を開ける。途端、むっとした熱気が押し寄せてきた。  
七月も終わりの今はどこの練習室も冷房の効きを良くするために窓もカーテンも閉め切っている。香穂子が  
それに倣わないのは、それなりの理由がある。  
 そろそろだろうか。外の様子を伺うと、サッカー部のユニフォーム姿の男子が一人歩いてきて、香穂子は  
声をかけた。  
「佐々木くん」  
「よ」  
 佐々木は去年のクラスメイトで、サッカー部員でもある。土浦と付き合うようになって一年、サッカー部  
つながりで彼ともよく話すようになった。尤もサッカーに関しては全く門外漢の香穂子が話すことといえば  
土浦のことかサッカーに関する基礎知識ばかりで、多少佐々木は呆れ気味に付き合ってくれていたのだけれど。  
「相変わらずラブラブじゃん。土浦待ち?」  
 佐々木は茶化すつもりで言ってみたのだが、  
「うん。もう練習終わったのかなあって思って」  
 あっさりと惚気に転換されてしまう。内心吹き出しそうになるのを堪えて、香穂子が望んでいるだろう情報を  
話してやる。  
「俺はもう終わり。土浦はMFだろ。ポジションとか部長と話してたからもう少し遅くなるんじゃね?」  
「ありがと」  
「・・・まさか」  
 窓から練習室の中を伺う。グランドピアノの上に広げられた大量の楽譜。  
「日野もこの時間まで練習してたとか?」  
「俺はぜってーーーーー無理だな。真似しろって言われても一時間も保たねえ」  
「誰も佐々木くんに真似ろなんて言ってませんよーだ」  
「俺楽譜見ただけでソッコー眠気するし。お前とか土浦とかよくあんなの」  
 解読出来るよな、と言いかけて、不意にぐいと頭を掴まれて後ろに仰け反る。  
「何ナンパしてるんだ」  
「土浦」  
「梁くん」  
 噂をすれば影。  
「悪い、部長と話してた。・・・・で、コレは?」  
「ひでーな、俺コレかよ」  
 あまりの扱いに佐々木が眉を顰めるも、土浦が彼を構う様子はない。  
「私が先に声をかけたの」  
 佐々木はいててて、と掴まれた頭をさする。とはいえ自分を無視して早くも漂い始めた甘い空気と土浦が  
発し始めた言外の退散要求に、それ以上のことは遠慮しておく。  
「おー怖ぇ怖ぇ。じゃ、お先」  
 今度サッカー部総出でからかってやろうか、なんて思いつつ。  
 
 いつものようにスパイクシューズを脱ぎ、土浦は窓から練習室に入った。先程まで冷房が効いていた部屋の  
空気が夕方の熱気と混じる。それでも炎天下のグラウンドよりは大分涼しい。床に腰を降ろすと、香穂子が  
楽譜を片付け始めた。  
「ちょっと待ってて。今帰り支度しちゃうから」  
「ああ」  
 ひらりと目の前に楽譜が一枚落ちた。手に取ると手垢で汚れ、あちこちが破れている。練習した証拠だ。  
「・・・随分懐かしい楽譜持ってるもんだな」  
「へへ」  
 パガニーニのラ・カンパネラ。最終セレクションで普通科二人が揃ってこれを弾いて、虫の好かない音楽科の  
観衆の肝を抜いたのもいい思い出だ。あの時の高揚は今でも憶えている。出番を待つ緊張感も、弾き終えた充足感も、  
何もかも。  
 楽譜を片付けた香穂子が、物も言わずに弓を構える。予想に違わず流れ出した鐘の音に、土浦は瞳を細めた。一年が  
経ってあの時よりは表現力も技術力も磨き上げられた彼女の、それでもこの曲は原点だ。認めるのは悔しいが、  
何だかんだ言ってもリリには最終的には感謝せねばなるまい。あの羽付きが自分たちをコンクールに引っ張り込んで  
くれなければ今この瞬間この関係は成立していない。最後の音の余韻が空気中に溶けると、  
「ブラボー」  
 一人だけの観客は贅沢なリサイタルに満足した。  
 
「梁くんも何か弾いてく?」  
 香穂子が弓と弦を緩めてヴァイオリンを仕舞う。  
「いや、俺はいい。・・・それより」  
 土浦が手招きすると、香穂子は素直に寄ってくる。手首を引いて抱き寄せ、口付けた。  
「ん」  
 香穂子は目を閉じて受け入れた。土浦のキスは好きだ。日焼けした肌は浅黒くて、夏の陽射しの匂いがする。  
膝をついて床に座り、恋人の下唇を甘く噛むと、それに応えるように土浦が髪に手を差し入れてきた。  
 開けた窓の外を湿った熱風が通り過ぎ、ふわりとカーテンが揺れる。自分たちの関係はほぼ全校生徒が知っている。  
今更キス一つ見られたところで構いやしない。深くなる口付けに合わせて背を抱き寄せてくれる逞しい腕も、  
ピアノを弾く大きな手も、一見怖そうで本当は優しい瞳も、広い肩も全部香穂子は好きだった。  
伴奏して貰うのも、キスをされるのも、抱かれるのも何もかも全部好きだった。その彼に求められるのは嬉しくて、  
応じることは幸せだった。身体がひたりとくっ付いて香穂子が僅かに被さる形になると、髪を梳いていた土浦の手が  
耳の後ろの窪みに回される。その指先の撫でるような優しさにしばし酔いしれる。  
 
 下校時間を知らせる無粋なチャイムが鳴って、ゆるゆると二人は唇を離した。お互いの唇に柔らかいぬくもりが残る。  
「・・・帰りたくないなあ」  
 胸に凭れて、可愛らしく我侭を言ってみた。  
「ん?」  
「もう少しだけ一緒にいたい」  
「もう少し我慢な」  
 土浦が香穂子の前髪を払う。二人で過ごす時間が少ないのは、ひとえに大会のせいだ。とはいえ三年生の夏という  
大切な大会で、自分の都合一つで早々と負ける気もない。まして今年は激戦区神奈川で、いい線まで勝ち残っている。  
「・・・司令塔相手に負けてくれなんて言えっこないじゃない」  
「・・・今言ったろ」  
「そういうの揚げ足取ってるって言わない?」  
「冗談だよ。マジで取るなって」  
 少々膨れた香穂子の空気をあっさり土浦は抜いてしまう。背を撫でる手が心地良い。  
「勝っては欲しいんだよ。勝てば嬉しいし。・・・でも毎日毎日練習ばっかりで、それが少し淋しいだけ」  
 サッカーをしている土浦は好きだ。子供みたいに夢中になっている姿も好きだ。ただそこに自分が入り込めないだけ。  
独占したいとは思わない。邪魔をしたいとも思わない。でもこういう時くらい少し甘えることは許されると思う。  
「分かってる」  
 香穂子は膝立ちになって土浦の頬に触れて頭を抱く。先程外の水道で流したのか短い髪は汗臭くなく、練習室の冷房に  
弄られて僅かに湿っていた。  
「・・・頑張ってね」  
「ああ」  
   
 ずっと続くと思っていた。それが私たちの日常で、笑いあって、じゃれあって、時々喧嘩もして―、そんなささやかな満足が。  
どうして、許されなかったんだろう。  
 
 

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