何でそんなことを言ってしまったのか、香穂子には自分でもよくわからなかった。  
 昼間、友人たちに「志水君とはどこまでいってるの!?」と追求されたことが、やはり意  
識のどこかに残っていたのかもしれない。  
(ちなみに『コンサートに数回行った』という香穂子のお約束のボケに、友人たちからは  
総ツッコミが入った)  
 きっかけは志水への誕生日プレゼントだった。  
 学校帰りに寄った公園のベンチで、それを受け取った志水は、香穂子の大好きな天使の  
ような笑顔を見せて、とても喜んでくれた。何日も悩み抜いて決めたプレゼントだっただ  
けに、その志水の様子に香穂子もとても幸せな気持ちになった。  
(もっとも香穂子が何を贈っても志水は喜ぶだろうというのは、プレゼントを買いに行くのをつきあってくれた天羽の談だ)  
 その幸せな気分のまま、ベンチでほのぼのと楽しく会話していたのだが、話が香穂子の  
誕生日のことに転がってから雲行きがおかしくなった。  
「すみません、僕……香穂先輩の誕生日に何も……」  
「えっ、やだ、そんなの気にしなくていいんだよ」  
 香穂子はあわてて手を振った。  
 香穂子の誕生日は春。コンクールも序盤で、二人はまだ親しくなってなかった頃だ。志  
水は香穂子の名前すら、知っていたのかどうか。  
「今からでも……いいですか? 何かほしいものとかあったら……」  
「いいよー、本当に気にしないで」  
「でも……」  
 
 志水は、一度言い出したら意外に頑固で譲らない部分がある。  
「僕が、香穂先輩に何かあげたいんです。……だめですか?」  
 小首を傾げ、悲しそうな瞳でじっと見つめられて香穂子は降参した。  
 だが、何が欲しいかと聞かれても、すぐには出てこない。  
(CDはこの間買ったばかりだし、お化粧品とかはまさか志水君に頼めないし)  
「何でもいいですよ。欲しいものじゃなくても、して欲しいこと、とか……」  
「じゃあ、今度合奏して?」  
「……でも、それは、今日もしましたし。もう少し、特別なことで、何か……。僕、何で  
も聞きますから」  
 そう言われて、つるっと出てきてしまったのが  
「じゃあ、キス……して欲しいな、なんて」  
 だった。   
 言ってしまってから慌てたけれども、もう言葉は元に戻らない。  
 大きく目を見開いた志水の頬に、ぱっと朱が散る。たぶん、自分の顔も赤くなっている。  
「ご、ごめん、今のじょう――」  
「…いいですよ」  
 今の冗談だから、と香穂子がごまかそうとするより早く、志水が答えた。そうなれば、  
もう後には引けない。  
「うっ……い、いいの?」  
「はい。……そんな、僕が嬉しいプレゼントでいいのかなって思いますけど」  
 
「や、あの、私も……」  
 嬉しいから、と口の中でもごもご呟く。  
 顔が熱い。  
 恥ずかしくてまともに志水の顔を見られない。  
 いたたまれない気持ちをごまかすように、早口で喋る。  
「あ、あのね、フレンチキスでいいのよ。軽いので。ほっぺたにとかね」  
 香穂子がそう言うと、志水は困惑した顔をした。  
「フレンチキスで、軽い……」  
「うん、そう。フレンチキス」  
 こくこくと香穂子は頷く。その真っ赤な顔をしばらく見つめていた志水は、やがてふわ  
りと笑った。  
「……わかりました」  
 そのまま柔らかな笑顔がゆっくりと近づいてきて、香穂子は慌てて目を閉じた。  
 唇に温かな感触。  
(わ…くちびる、に……)  
 カーッと全身が熱くなった。心臓の音が志水に聞こえてしまわないだろうか?  
 香穂子の体がかすかに震える。それをなだめるように、志水が香穂子の肩に手を置く。  
引き寄せられて、抱きしめられる。  
「ん……」  
(……あ、あれ……?)  
 
 軽く吸われて、香穂子の唇が薄く開く。そこに志水の舌がするりと入り込んだ。  
(ち、ちょ……っ)  
 香穂子が内心でパニックに陥っている間にも、志水は香穂子を煽っていく。探るような  
動きから、舌先でくすぐり、奥で怯える香穂子の舌を優しく解いて絡ませ。  
「……っ、ふ……ぅ……」  
 顔が熱い。体が熱い。頭の中が真っ白になっていく。  
 香穂子は何も考えられぬまま、ただ志水についていくことしかできなかった。  
 ……どれぐらい時間が経ったのか。  
 やがて、志水がゆっくりと身を離した。  
 香穂子はへなへなと力が抜けて、そのまま志水の肩にもたれかかってしまう。  
「歌穂先輩……? 大丈夫ですか」  
 少し慌てたような志水の声と、香穂子の顔をのぞき込もうとする気配。だが、彼女は志  
水の肩にしがみついて顔を上げようとはしなかった。  
(だって、どんな顔をしたらいいのよ〜!)  
「先輩……いやでしたか?」  
 志水の声が不安に曇る。顔を伏せたまま、香穂子は急いで首を振った。  
 いやなわけはない。好きな人に初めて口づけされて、心地よくてどこかにいってしまい  
そうで――もう少し、触れていて欲しかったなんて思ってしまった。  
 だから、困る。その自分の気持ちが……欲望が、顔に出てしまっている気がして。せめ  
て、この火照りが収まるまで、顔をあげたくない。  
 
「怒って……ますか?」  
「そうじゃないよ。でも……」  
 つい、拗ねた口調になってしまう。  
「……フレンチキスって、言ったのに」  
「はい、だから……」  
「え?」  
 香穂子は少しだけ顔を浮かせて、志水を見た。天使の笑顔で彼が答える。  
「フレンチキス、です」  
「……ええっ?」  
 思わず顔を上げる。  
 いやだって、フレンチキスって軽く触れるだけの……待って待って。もしかして、私が思ってるのと意味が違う……?  
 ぐるぐる混乱している香穂子を見て、くすりと志水は笑う。  
「歌穂先輩……好きです」  
 そして今度こそ、軽く、頬にキスを送ったのだった。  
                            
 
                            
<蛇足>  
フレンチ‐キス【French kiss】  
舌と舌とをからめ合う熱烈なキス。ディープキス。  
大辞泉より。  
 

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