「…はぁ…いい演奏だったね…面白かった」
コンサートホールを出て早々、香穂子はドレスの裾を翻しながらうっとりと溜息を吐き横の恋人を見る。
「気に入って貰えたなら良かった。大きめのコンサートには来たことがないと言っていたから、丁度いいかと思ったんだ」
その恋人とは、昨年行われた学内コンクール――そこでライバルとして出会った相手、月森蓮。
最初あれだけ不穏な空気が流れていた人物とこうした仲になるとは、人生わからないものである。
付き合い始めのころはヴァイオリン・ロマンスの再来だのなんだのと随分騒がれたものだが、それも今は大分落ち着いた。
と言うより、何ヶ月も経った今ではすっかり慣れたものである。
「うん、誘ってくれてありがとう…凄いね、最後の曲なんかまだ耳から離れないよ」
「ああ、確かにあれは特に良かったな…」
満面の笑みで言葉を紡ぐ香穂子につられるように、月森も微笑で応える。
もともと整った容姿を持つ月森だが、今日はスーツ姿と言うせいもあって普段より大人びて見える。
香穂子も合わせてシンプルなドレス姿なのだが、さっきからヒールで躓いてみたり裾が引っかかったりと落ち着きがない。
こういうの、慣れなんだろうか…と、香穂子は喋りながら月森をじっと見詰めてみた。
「どうした?」
「え?あ、何でもない。ね、それよりこの後…」
その立ち姿に見惚れていたのが気恥ずかしくて、香穂子はとっさにある提案を持ちかけてみた。
「……―――うん、今の結構良かった?」
「ああ…そうだな。…今日はあそこで間違えなかったしな」
気分が新鮮なうちに――そう主張する香穂子に従い、部屋に着いて早々、上着だけ脱いでいきなり合わせてみる。
「それにしても、ドレスで弾くなんてセレクションの時以来かな?何か変な感じ」
「そう言えば…そうか。確かに久しぶりに見た」
そう言って窓辺に腰掛ける香穂子の姿をじっくり見ると、月森はある事に気付く。
「…香穂子、その首筋」
月森の指が香穂子の首に触れると、癖でもついたのだろうか、そこは少し硬くなっていた。
「あ、これ?そうなの、ちょっとタコが出来ちゃったみたいで…やっぱり目立つ?」
首筋に添えられた月森の指に自分の指を重ねて、香穂子が呟く。
練習をするうちに癖になってしまったらしく、そこだけ目立つのが気になるらしい。
「君のヴァイオリンの持ち方は独特だからな…まあ、気にする程じゃない」
少しだけ香穂子の顎を持ち上げてみるが、傍目から見てそんなに目立つほどでもない。
だから、余程気をつけて見ない限りは誰も気付かないだろう。
そんな些細な変化に気付いてしまう自分が少し可笑しかったが、そんな事は絶対に口に出さない月森だった。
「そう?なら良かった…って、くすぐったいよ、月森くん」
月森の指が、流れるように香穂子の項へ回る。
いつもは下ろしている髪をアップに結い上げているせいで露わになっているそこに触れられると、何となく照れくさい。
「…この髪型を見るのも久しぶりだな……」
「…ん……」
これもコンクール以来か、と呟くと月森はそのまま香穂子の頭を引き寄せて唇を重ねる。
香穂子もゆっくり目を閉じてそれに応える。迷いも拒絶もない、ごく自然な流れだった。
その反応を見て、月森はゆっくりと溜息を一つ吐いてネクタイを緩めた。
「……いいの?」
月森の意図を読んで、香穂子が問う。
「…こんな時間に部屋に来たがる君が悪い…どうせ誰も居ないんだ、泊まっていけばいい」
「なーんか、いつも悪いなあ………」
やれやれ、とでも言いたげな顔で月森が呟くが、それが彼なりの照れ隠しだと言う事を香穂子は知っている。
そして、悪いなあなんて言いながら嬉しい自分がいる事もまた、知っている。
「……脱がしにくいな…」
いつも通り香穂子をベッドに横たえたはいいが、ドレスと言うのは脱がすのがいちいち面倒な作り。
背中のファスナーを下ろしながら月森は小声でそう呟く。
だが、いくら面倒でもさすがにドレスを着せたまま抱くわけにもいかない。
「あはは、ごめんね。じゃあネクタイ解いてあげる」
脱がせにくいと言う割に手は止まらない月森に苦笑しながら、香穂子も月森のほうに手を伸ばす。
一度やりたかったんだ、と首のネクタイを取ろうとなにやら手を動かしていた、が。
「…香穂子、逆だ。それでは首が絞まる」
「……あれ?」
思いっ切り絞める前に、月森にその手を制止される。
「…ちょっと、大人しくしててくれ」
「はーい…」
えへへ、と照れたように笑いながら、香穂子はおとなしく手を引っ込めた。
「……ん…ぅ……」
先ほどよりも数段深い口付けに、香穂子の唇から艶めいた吐息が漏れる。
もう何度も交わした行為だが、香穂子はどうしてもこれだけの事で頬が紅潮してしまう。
月森はこういう時でもほとんど表情を崩さないが、香穂子の方はどうにも分かり易すぎるのが今でもちょっと悔しい。
「いつもより、熱いな」
「そう、かな」
唇を離した月森の台詞に、香穂子は思わず頬に両手をあててみる。
言われてみれば、確かに熱いかもしれない。
久しぶりにドレスを着たせいで気持ちが昂ぶっているのか、それとも。
「…スーツの月森くんが格好良いから、…かも」
「……なんだって?」
香穂子としては自分の正直な気持ちを告げたまでなのだが、対する月森はいきなり何だ、と驚いた表情。
思わずネクタイを解こうとした手を止めてしまう。
「コンクールの時からずっと思ってたんだけどね、月森くんってやっぱりスーツ似合う」
「…そうか?別に普段とそう変わらないと思うんだが…」
「ううん、変わる。なんていうのかな…いつもより、大人っぽいし」
だから、なんだか照れる…と香穂子は笑う。
もともと少なからず「憧れの人」であった相手なので、深い仲になった今でも不意打ちであの時の気持ちが甦るのだ。
ふとした仕草ひとつを目で追って、いつもと違うところを見つけては小さく嬉しかったあの頃。
ヴァイオリンの先輩として追っていた相手は、いつしか恋する相手になっていた。
「それを言うなら香穂子こそ…」
「え、私?」
すると月森もどこか難しい顔をしてそう呟く。
言いよどむ相手に対して香穂子が問うと、月森はさらに難しい顔をして口を閉ざしてしまう。
「どうかしたの?」
「いや、…香穂子こそ、その、十分綺麗、だと思うんだが」
普段目にする制服とも私服とも違う、華やかなドレス。
派手すぎず、かと言って地味なわけでもなく香穂子は自らに合う服をきちんと選んでいる。
それは、普段あまり感情を動かさない月森の目から見ても十分に魅力的なものだった。
「…………」
「……何だ、その目は」
月森の口から出た意外な言葉に、香穂子は思わず目を丸くして相手の表情を伺う。
伺われた月森の顔は、しまったとでも言うように香穂子の方を見ない。
それが照れたときの彼の癖だと言うことは、香穂子が一番良く知っている。
「月森くん、可愛い」
「……香穂子」
それが可笑しくて香穂子はついついそんな本音を漏らしてしまう。
すると、月森は月森ですぐに表情を戻し―――否、先程より意地の悪い表情を浮かべて。
「……お喋りはこのあたりにさせて貰うからな」
と告げて、もう一度何か言いたげな香穂子の唇を塞ぎにかかった。
「……は、ぁ……」
丁寧に、しかし確実に香穂子の感じるところを狙ってくる月森の指。
唇を塞いで宣戦布告をされたが最後、香穂子の制止は意味を成さずその指で、香穂子の体を狂わせる。
あまり大きな声を出さないようにと唇を噛んでも、熱の篭った吐息が零れればそこがいい、と言っているようなもの。
――防音設備の整った家なんだから声を殺す必要はない。以前そう言われた事がある。
だが、これはそういう問題ではない。いわば個人的なプライドの問題だった。
初めのうちはお互いに遠慮があったおかげで恐る恐るの行為、と言うようなものだった。
しかし、回数を重ねるに連れて月森の愛撫はどんどんその遠慮が消えていく。
触れる指は驚くほど簡単に香穂子の性感帯を探り当て、確実にそこを攻めてくる。
簡単に言えば、月森はそう言う事に対してもとんでもなく覚えが早かった。
「……ひゃっ、そこ、は……」
「…随分大人しいな、香穂子」
秘所を探る手はそのままに、空いた方の手で乳房の先を軽く摘まれると、香穂子の体がぴくんと動く。
それでも頑なに声を抑えようとする恋人の姿を、月森は苦笑しながら眺めている。
「そんなに嫌か?」
「……!い、嫌なわけ、ないから!」
冗談のつもりで言った月森の言葉に、香穂子は全力で反論してくる。
思わず体を起こしてしまうほどの勢いで「嫌じゃないから、全然!」と香穂子は尚も捲し立てる。
嫌なわけはないのだ。好きな人に、好きだと言ってもらって、触れ合う行為が嫌なわけがない。
「わ、悪かった……その、ならそんなに我慢することもないだろう」
「…え?あ…その。あ、あるの……」
「どうして」
「どうしてって、そんな」
どうしても何も、ただ単に恥ずかしいのである。
月森以外の相手を知らない香穂子にとっては比較する相手がいないのだが、それでも思う。
月森の抱き方は、凄く優しい。傷つけないように、無理させないように。
そういう彼の優しさを、とても愛しく思う。
だから、なおさらこんな風に感じすぎてしまう自分が気恥ずかしい。
「だから、月森くんはずるいと思う…」
月森としては、何がだからなんだ?と言いたいところだが、ぐっと我慢する。
頬を赤らめてそんな事を言う香穂子の前に、そんな事を言えるほど大人でもない。
「……俺は、香穂子の方がずっと卑怯だと思う」
「んっ……あ、ぁっ……!」
香穂子のそういう無防備な発言こそ、月森にとってはとんでもない爆弾である。
抑え込んだ理性もなにもかも、簡単にふっ飛ばしてしまうわけだから。
「だから、力を…抜けって…」
「う、うん…やってるんだけ、あ、ぅ…!」
受け入れる準備の出来ていた香穂子の秘所は、何の抵抗もなく月森を受け入れる。
何度となく繰り返した行為、だがしかし挿入の異物感はいつまでも付き纏う。
力を抜いて、息を吐けばいいと分かってはいてもあまり器用でもないので簡単には行かない。
「香穂子、腕」
「……ん、ぅん……は、ありがと……」
それが分からない月森でもないので、こうして背中に腕を回させて体を支える。
シーツを握るくらいなら背中を掴んでろ、と一番最初に言ったことから、気づけばいつもこうなっていた。
こうすることで、香穂子の体は安心感からなのか自然に抵抗を緩めて力が抜ける。
「……ん、ぁ、ああっ……」
「…香穂子、大丈夫か…?」
「うん、平気…っ…もっと強くしても、大丈夫、だから」
「……無理はさせたくない」
「ううん、へいき……だから、お願い」
「…辛かったら言ってくれ」
紡ぐ音の一つ一つにも、意味を成さないものは無い。
互いに互いを労わりながら、求めながら見えない気持ちを探っていく。
二人でヴァイオリンを奏でることも、体を重ねあう事も。
どちらも同じ、簡単だけど二人でしか出来ない、ひとつの感情を表す行為。
誰より美しく旋律を紡ぐその指先が、楽器に触れるように自分の体に触れる。
丁寧に、優しく、それから愛しげに。
ヴァイオリンに捧げられていたその想いが、今は自分の方にも向いている―――
そのことが、香穂子にとってはなによりも嬉しい。
本当は優しい、それでもって少しだけ不器用な月森の気持ちを理解出来ることが嬉しかった。
今でも、時々思い出す。
この出逢いを、この気持ちを与えてくれたのはひとつの楽器と一人の妖精。
「ね、月森くん……」
「どうした?」
涙目で見上げてくる香穂子の頬に触れながら、月森が問い返す。
「なんでもない、ただ、好き……って言いたかっただけ」
勇気を出せ、そう言って背中を押してくれたあの日。
あれからずっと変わらないこの気持ちをいつまでも忘れたくないから、言葉にしてそう伝えた。
「……やっぱり卑怯だな、君は」
蕩けそうなほどの甘い微笑でそう言ってくる香穂子に対し、月森はそう言うしかない。
だがやっぱり、香穂子から見れば卑怯だと言う月森の表情の方が余っ程卑怯に見えるのだった。