金澤鉱人は健康な成人男性である。ついでに性的嗜好は一般の範疇に収まっている。好きな相手と
一線を越えたい、越えたら越えたでまた抱きたい、と思うのは当然のこと。
しかしながら。金澤は良識という社会生活を営むには必要不可欠な――時に、特に恋愛事に関しては
邪魔になる場合も多々あるが――ものを持ち合わせていた。
金澤鉱人、職業、教師。
先日とうとう『男と女の関係』になったあの子は勤め先の女子生徒。
この御時世、非常にヤバい話である。
それに、こちらの方が重要かもしれないが、相手の日野香穂子は初めてというやつだった。そこで一発
大人のテクニックを披露できれば良かったのだが、残念なことに金澤の女性遍歴には長いブランクがあり、
カンを取り戻す暇もなく一回目終了になったのだ。
香穂子はそれでも幸せそうに身を預けてはいたが、金澤としては「何やってんだ、俺は」という心境である。
自粛しよう、という決心をつけたのはまあ当然の流れ。
彼女が心身共に大人に――『男』を受け入れるに相応しい年齢になるまで。
せめて彼女が卒業して『教師と生徒』ではなくなるまで。
ひとまわり歳の違う少女に対しての、それが金澤なりの責任の表し方だった。
そう、決めた。
決めたんだよ。
決めたんだってば。
「……」
嗚呼それなのに金澤鉱人の目の前に顔真っ赤にしての瞳潤ませなんて凶悪な表情してる日野香穂子が
いるのはどういうわけか頼むから誰か説明してくれ。
「せんせ」
いや分かっている、これに誑かされたというかほだされたというかちょっと待て年下の女の子のせいに
するのは大人としてどうなんだよ。
「先生」
「……ああ」
不安を滲ませる声をどうにか安心させようと答える。
ヴァイオリンを弾く白い指が、今はスカーフをほどくかたちに襟元へ収まっていた。震える指先が、外して
しまってもいいかと金澤に最後の問いかけをする。
話は多少前後する。
休日、音楽準備室、金澤がいて、香穂子が訪ねてくる。よくある光景。普段と違うのは、香穂子が妙に
思いつめた顔をしていたこと。
「先生。最近、私を避けてますよね」
質問でも疑念でもない真っ向からの詰問に、金澤はしばし言葉を失った。
「あー、そうだったか?」
はぐらかしは失敗に終わる。あからさまかもしれない、という自覚はあった。そうでもしないと欲して
しまいそうな自分が情けない……というのは流石に言えるわけもなし。
金澤は強いて真面目さをとりつくろう。
「日野、ああいう事は、しばらく無しにしような」
『ああいう事』というのが何を意味しているのかは香穂子にも理解できたらしく、緊張に唇を強く結ぶ。
「受験、卒業……お前さんはこれから大事な時期だ。余計なことにまで気を回すもんじゃあない」
あと半年。
告白から身体を重ねるまでの時間を考えれば短く、彼女への欲望を顧みればあまりにも長い期間。
「……先生」
「……おう」
香穂子は。
奇妙なことに、怒っているようだった。
「……先生は……」
だというのに。その声はまるで泣き出す寸前に聞こえた。
「日野?」
「先生は……私を嫌いになったんですか?」
・
・
・
「おいおい、ちょっと待て、どうしたらその結論に辿り着くのか俺にはさっぱり分からん」
「だって、そうとしか思えないんです」
噛み合わない。芝居でも現実でもよくある遣り取り、なのだろう。こういった可能性を考えなかった金澤
を責めてしかるべきではあるが、『香穂子を嫌いになる』という選択肢が存在しなかったせいでそこまで
思い至らなかった、というのは考慮に入れて欲しい。
「私が子どもだから? 『教師と生徒』だから? だから、厭になったんですか?」
――前者ふたつは距離を置く理由足り得る。
しかし、口にするのは躊躇われる。
――もし肯定して、彼女が離れてしまったら?
きっとそれは二人の関係を考えれば正しい在り方なのだろうが、真っ平御免だ。
「違うぞ、日野」
首が振られて、赤い髪が左右に揺れる。
「分かりません」
信じられない、の間違いではないのか。皮肉な思いつきは忌々しいほど簡単に滑り出る。香穂子の顔が
歪むのに、自分で自分を殴りつけたい衝動に駆られた。
「違う、言いたいのはこんな事じゃあなくて……ああ、くそ」
どうすれば伝えられる。
大事だ。愛しい。
傷つけたくない。だから距離を置く。
抱けば――駄目になってしまうかもしれないから。
「――信じられないのは、先生じゃなくて――自分、なんです」
香穂子が呟いて、笑う。似合わない。自嘲という表情はあまりにも彼女に相応しくない。
白い指が自身の襟元へと向かう。ぎこちない動きで、
固く結んだスカーフを、ほどいた。
何を意味する行動かなんて分かりきっている。既視感。この場所での、行為。
「私は、ちゃんと、先生を受け入れられます。もう子どもじゃないんです」
言葉の裏にあるものが見えてしまう位には、金澤は聡い。年齢の差やなにやらで悩んでいるのは金澤だけ
ではなかったのだ。
本当に、自分でいいのか。
「だから――」
不安で。
「先生、わた――っ」
言葉の途中で抱き寄せ――強引に、キス。
言葉にすることを許さなかったのは金澤だ。証、が、愛されているという明確な拠所を欲しがるのは子どもも
大人も同じだというのに。
何度もくちづけを繰り返す内に、どんどん深くなる。香穂子の口の端から零れた唾液を拭ってやると、頬が
熱いのがよく分かった。
微かな音を立て、スカーフが落ちる。香穂子の手は両方とも金澤に縋りつくので精一杯だ。
制服の奥へと手を這わせ背中をなぞると、腕のなか小さな身体が跳ねた。ついでにブラのホックも外す。
裾が上がって、日に焼かない肌が覗いた。
抗議より先に唇を割り舌を絡める。かくんと力の抜けた香穂子を支え、ソファになだれるように腰掛けた。
香穂子は金澤の膝の上、向かい合って身体を預ける格好になる。呼吸が近い。
喘ぎが止まらない。
布と、他人の肌とに擦られて、身体はどんどん熱を増す。香穂子ばかりではなく、金澤も。
金澤は、とりあえず余力振絞って投げっぱなしの鞄から避妊具を探り寄せる。……よくよく考えれば決意を
遵守していれば必要ないものだろうに、後生大事に持っていたのはどういうわけか……悩むと自己嫌悪に
陥るので今は忘れてしまおう。役に立つんだからそれで善し。
「せん、せ……っ」
甘い、快楽の声。誘う声。
スカートへ手を移動すると、逃れるように腰が上がった。プリーツ生地に隠れたまま這う感触に、香穂子は
身を震わせて従う。
金澤の指が。触れる。
「お」
「え、や、何ですか」
「いや……」
意外にも下着を通して湿り気を感じた。
「ま、いいコトなんだろうよ」
濡れていればそれだけ挿入は滑らかになる。身体への負担も少ない。それに、もし自分の手でそうなったの
だとすれば――それは、金澤にとってとても嬉しいことだ。
下着をおろす。香穂子も脱ぎやすいようにと足を動かす。その仕草が妙に艶っぽい。
「あー、やらしい顔ー」
「そー言うお前さんは行儀が悪い」
下着がひっかからないよう、靴は脱いだらしい。しかし整える暇まではなかったらしくそれぞれ明後日の方向
に爪先を向け転がっている。ついでに下着も片方の足首にまとわりついたままだ。
どちらからともなく笑う。
共犯者めいた笑顔で、キスを。
唇が離れて。それが合図になる。
香穂子の腕が金澤へとすがり、金澤の手は香穂子を支える。
潤む箇所に指が触れて。
聞こえたのは――粘る水音。
金澤は少しだけ驚いていた。経験の薄い――なにしろまだ二回目だ――彼女が、最初の時のように
痛がるのではないかと心配していたのだが、懸念は外れたらしい。
もちろん痛みはあるのだろう、なかで動かす度しかめられる眉でそれと知れる。
だが。苦痛を上回る快さにか香穂子はきれぎれの吐息を洩らす。以前には固いだけだった肉が、動きに
応えて少しずつほぐれ蜜を滲ませる。指は、火傷したかのように熱い。
なのに何故、
「……日野、どうした」
ここまで不安げな目をする必要があるのやら。
「ちが、違うの、先生が考えてるのじゃない」
「いやだから何が」
問答を続ける横で、若い頃なら堪えきれず突っ込んで暴発していただろうに我ながらよーやるよ、と
感慨深くなる金澤がいた。歳を取るのも悪くない。
黙りこくる首筋に、唇を寄せた。痕が残るとまずいので舐めるだけ。それだけの僅かな刺激にも敏感に
反応する。逃げ場がないせいで全てが伝わってくる。
「痛いか?」
違うだろうなと思う。
実際香穂子は首を横に振った。
また沈黙。
苛立ちが無意識に外に出る。今度の水音はやたら強く響いた。
やわらかくて、熱い。
金澤が戸惑う程に。
指を引き抜く。体液をこそげ落とすようにわざと乱暴な手順を取り、香穂子が怯えたように身を捩じらせる
のを多少の罪悪感と共に眺めた。
「――じゃあ、怖いのか」
まだ持ち主とは別の体温が残る指は、とろり照明を反射する液にまみれている。これだけ反応しておいて
何を今更――とは言わない。唯でさえ失言続きなのにそこまで口にしたら真剣に駄目になる。
香穂子の答えは。
「……ひっ…く……」
「――っていきなりどうした――うおっ?!」
ぱたぱた涙が零れたかと思うと、本日最大の密着度でしがみついてきた。突然の行動に為す術なし。
ズボン越しに性器が重なって、急速に熱を帯びる。タイミング掴み損ねて脱いでいないのは残念なのやら、
いや避妊具も付けぬままコトに及ぶ事態を避けられたのは僥倖なのやら。
焦る金澤の耳に小さな嘆願。
「……嫌わないで……ください」
神様仏様ファータ様。頼むからこの女子高生の思考回路をジジイにも理解できるよう説明してくれや。
十五年のジェネレーションギャップは非常に辛い。
「嫌う理由がないだろう」
「だっ、て……」
ぐず、と洟をすする音。
「こんな、いやらしくて、先生に嫌われるかも、って……」
――汗と香料に混じる甘い蜜。やわらかな肉。
どうすればいいのか分からなくなって、とりあえず赤毛の頭をぽすぽす叩いてあやしてみる。
「前の時は、痛くて、先生だから我慢できて」
「……そうか」
「初めてだから痛いのは当たり前なんだろうな、って思って」
「おう」
照れ隠しの茶々入れも忘れひたすらに相槌を打つ。彼女が、全て吐き出せるように。
「でもあれからベッドに入ると先生のこと思い出して、我慢できなくて。私だって自分がこんなにいやらしい
なんて知らなくて、」
……はい?
「でも先生はあれ以来避けるからもしかしたら先生も気づいたのかも、それで嫌いになったのかも、って
考えたら不安で、自分でもおかしいって分かってるけど止まらなくて――!」
「ちょっと待て、休憩! タイム!」
今、とんでもない告白をされている気がする。
「ええと……つまりアレか? お前さんは自分でしてたと」
抑えていたものが溢れ、嗚咽に変わる。失言教師再び。
「ごめ、なさい……もうしませんから、嫌いに、ならないで……っ」
「いやまあ生理欲求だし無理に抑える必要もないだろ――って問題はそこじゃないだろ俺」
後半は半ば独り言だ。
すがる香穂子を強く抱く。言い聞かせるように囁いた。
「嫌うわけがないだろう」
自分を『男』として欲してくれる好きな『女』――認めてしまえ、日野香穂子は少なくとも身体は成長
しきっている。それには確実に金澤自身も一枚噛んでいる、と――を、誰が嫌いになるというのか。
そういったことを台詞にするのが大人の余裕の見せ所だろう。しかし金澤は、唯、同じ台詞を繰り返した。
抱きしめる。
そのまま、香穂子の緊張が解けるまで、ずっと。
飾る言葉よりたった一言の方が有効な場合もある。
――大切な『音』より、触れる熱が重要な時も。
薄いゴムで包んだそれと、熱と湿りを持った箇所が、繋がる。
出来得る限り時間をかけて慣らしても、まだ異物の侵入に粘液では隠し切れない軋みを上げている。
それでも香穂子からは苦痛ではない声が生まれる。
小さな身体を揺らすごとに声が鼓膜を打って、金澤も限界の思わぬ近さに歯を食いしばる。
ぎっ、と音すら立てて。香穂子が全身を硬直させる。繋がる場所が強く収縮し――弛緩する。
「せんせ……」
「……っ」
初めてだったのだろう絶頂に浅く息する恋人のなかで、金澤も果てた。
「――しかし、こういうのはしばらく無しにしなけりゃならんと思うぞ」
身繕いをしていた香穂子の手が止まり、不安そうに見上げてくる。
「先生やっぱり」
「違うっての。……お前さんだって、この事がばれたらどうなるか分かってるだろう?」
『生徒に手を出した教師』 露見すれば金澤は懲戒免職、香穂子は自主退学、というかたちに落ち着く
だろう。
「だから、我慢、な」
「でも」
「……お前さんが失うところなんざ見たくない」
抱き寄せると、「そんな言い方、ずるい」と泣くような返答があった。
むしのいい話だったのだろうか。恋も、これからも、両方を望むのは。しかし香穂子を失うのは耐え難いこと
だったし、同時に彼女が金澤のせいで何かを失うのも絶対に許せないことだった。
「それでも私、先生と――」
言葉は途切れて、代わりに香穂子は金澤の胸元へと頭を預ける。顔を見られてしまわぬように。
『どちらも』大切なのは金澤も香穂子も同じで、相手に傷ついて欲しくないのは共通していて。
――だとすれば、この身体の熱は何処へ求めればよいのか。
『どちらか』を選ぶときが来ないように。願うしか、今は術がなさそうだった。