はじめは怖い人なんだと思っていた。  
 
でも、練習室で聞こえたピアノの音。  
あんなに切なくて、でも情熱的な、そんな音を聴くのははじめてで。  
気がついたら、いつも先輩の姿を探していた。  
 
「俺、冬海のクラリネットの音、いいと思うぜ」  
先輩にとっては何気ない一言だったのかもしれない。  
でも私にとってそれは、何物にも変え難いくらい心を強くさせる。  
先輩と一緒なら、人前で演奏することも、不思議と怖くなかった。  
 
王崎先輩が出るからと誘われたライブ  
飛び入りで楽しそうに、キーボードに指を滑らす先輩。  
戸惑いながら差し伸べる掌。  
つっけんどんに差し出してくるのに、その掌は温かくて。  
また私は先輩の素敵なところを、ひとつ見つける。  
 
先輩の傍にいると、嬉しい。でも、それと同じくらいすごく、苦しい。  
先輩が誘ってくれるのは、私が後輩だから。  
それだけですか?  
そんなこと聞ける勇気なんて、どこにもなくて。  
時々困ったような、でも嬉しいようなそんな表情で見つめるときの先輩は、  
あのときのピアノのようにどこか儚くて、目をそらせない。  
 
 
今日も重たい気持ちを抱えたまま、先輩と奏でるメロディが空に消えていく。  
 
 
第3セレクションも終わり、穏やかな日差しが窓に差し込むその日。  
金澤先生に頼まれた最終セレクションの内容のプリントを配って歩く。  
あとは、土浦先輩に渡すだけ。  
日野先輩に教えて貰った場所に向かって歩き出す。  
 
練習室から漏れるピアノの音が、いつもとは違って聞こえる。  
先輩…調子、良くないのかな…?…  
躊躇いそうになる気持ちを叱咤しながら、ドアをノックする。  
鳴り止むピアノの音。  
 
「…はい」  
ドアが開かれたかと思うと、目の前に先輩の姿があって。  
…だめだ。緊張してきて、声が出てこない。  
「……おい、俺に用事があるんだろ?…だったら、そんなところに突っ立てないで、中に入れ。…な?」  
真上から聞こえるため息交じりの声。きっと呆れられてる。  
きつく唇を噛み締めながら、ぺこりと頭を下げて中に入った。  
 
「…ぁ、あの……金澤先生に、これを渡すようにって頼まれて…それで…」  
 
差し出すプリントに、ありがとな、そう呟いて受け取る先輩。  
先輩の邪魔にならないように、もう帰らないと。  
そう思うのに、身体が言うことを聞いてくれない。  
すこしでも先輩の傍にいたくて、必死に言葉を探していると  
 
突然、視界が塞がれた。  
それが、先輩の着ていた普通科のジャケットだと気付くまでに時間がかかった。  
「……ぁ…あのっ……先輩……?」  
 
身体中が暖かい体温に包まれる心地よさと、先輩に抱きしめられているという事実に  
頭の中がすっかり混乱してしまい、身体が硬直してしまう。  
ただ、胸に抱えていたクラリネットケースを落とさないようにするので精一杯で。  
「……前が………きなんだ……」  
「……ぇ…?」  
 
掠れた声が耳に届く。  
その苦しそうな声に、自分の胸も締め付けられそうになって、  
不安になりながら顔を上げれば、先輩の顔がすぐそこにあって。  
「…お前が……好きなんだ…っ…」  
 
気持ちを搾り出すかのような、掠れた声と同時に、唇に暖かい感触が降りてきた。  
胸を締め付けられるような言葉と、呼吸さえもままならなりそうな程の激しい口付け。  
その激しさと、力が込められていく腕の力に、気が遠くなっていく。  
練習室ではじめて聴いた、あのピアノの音が遠くに聞こえた気がした。  
「……っ…」  
 
突然肩を掴まれたかと思うと、眩暈がしそうなほどの温度から解放され、先輩の身体から引き離された。  
肩に食い込む指の力が強くて、私は思わず眉をしかめる。  
「…………ごめん」  
 
呟かれた言葉の意味が飲み込めなくて、思わず顔を上げる。  
その横顔は苦悩に満ちていて、目をそらすことができない。  
声が、出てこない。こんなときに言葉ひとつ出せない自分が、嫌いだ。  
 
沈黙に耐え切れなくなったように、先輩が苦笑を漏らす。  
「……今のことは…忘れてく……っ……」  
「…嫌です。忘れたくなんて…ないです。……私…先輩のこと…ずっと……」  
 
好きだったんです。  
その声はまるで喉が燃えるように掠れて、声になっていたかは、わからない。  
ただ、立ち去ろうとする先輩を掴まえようと、制服の裾を掴まえるのに必死で。  
再び視界を塞ぐ制服の緑と、胸に耳を当てれば聞こえてくる心臓の音が、  
先輩も同じ気持ちなんだと気付かせてくれる。  
「俺…冬海が思うような…いい先輩なんかじゃないぞ?…優しくだって…なれないかも、しれない…」  
 
耳元に聞こえる吐息が熱い。  
思わず小さく身体をすくめながらも、先輩の言葉に必死に首を横に振って。  
その様子に、先輩が小さく笑いを漏らす。  
「…そんな顔するな。そんな顔したら俺…本当に我慢、できなくなりそうだ。…そろそろ送ってく」  
 
うまく伝えきれないもどかしさに、切なくなりながら見上げていると、先輩が困ったように呟く。  
慌ててクラリネットケースを抱え直し、追いかける背中。  
振り返りながら手を差し出す先輩の顔は、まるでいとおしいものを見るかのように甘くて。  
私は、その幸せを噛み締めるように、そっとその大きな掌を掴まえた。  
 
 

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