耳の奥でずっと、音が響いてる。
日野ちゃんと、月森くんの音。
合宿最終日の夜、深いため息が火原の口から漏れた。
食堂の椅子に軽く腰をかけ、髪から頬に垂れた水滴を首に掛けたタオルで拭う。
「いいなぁ……日野ちゃんと合奏……」
楽しいだろうなぁ……うん、楽しかったな。
ほんの数週間前、割り込みだったけれど、校門前で一緒に合奏した時を思い出した。
そして香穂子の顔がはっきりと脳裏に浮かび、同時に昨日の出来事も浮かぶ。
香穂子をベッドに押し倒した。唇に触れる寸前まで、顔が近づいて。
偶然でも、それは変わらない事実。
今日だってそうだ。
間違いでも、香穂子のペットボトルに口をつけた。
いまどき間接キス位で動揺するなんてどうかしてる、自分でもそう思う。
けれど”キス”という、昨日の行為を連想させるものが、より火原を動揺させた。
「……違うよなぁ……やっぱり、日野ちゃんだから……かな」
気がつけば、あれだけ耳に入り込んでいた二人の音も止んでいた。
そして食堂の入り口に、顔を赤くした香穂子が立っていた。
「……私がどうかしましたか?火原先輩」
「うわあっ!?」
「ご、ごめんなさい、驚かせました?」
「あ、ごめんっ!おれ、大きな声だして」
「いえ……私が急に声掛けたりしたから……」
そう言いながらあからさまに視線を逸らし、静かにドアを閉めた。
「……日野ちゃん?」
「あっ、わ、私……お茶でも飲もうと思って……」
俯きながら早口で言うと、大きな冷蔵庫の前へ。
重い扉が開く振動で擦れた中の瓶が、独特の音を立てる。
その音がやけに大きく、食堂に響いた気がした。
どうしたんだろ、日野ちゃん……。
顔真っ赤だし、目合わせてくれないし……。
あ!やっぱり怒ってるのかな?そうだよね、だっておれ……。
椅子から立ち上がり、冷蔵庫の前で新しいペットボトルの蓋に苦戦している香穂子の手からペットボトルを取る時、一瞬指先が触れる。
その一瞬に顔を赤くし、視線を逸らしたままパキ、と独特の音を立てて簡単にキャップを開けた。
突然顔に落ちた影に頭を上げ、その何気ない動作を香穂子は見ていた。
目の前の光景に”見とれる”という表現が正しいように、思考が止まって。
「ごめんね、日野ちゃん……」
「え……?」
「だって何か怒ってるみたいだし、やっぱり昨日の……」
「あっ……ち、違うんです!」
どうしよう……。
覗き込むように迫った火原の寂しげな、辛そうな表情に我に返り、慌てて否定する。
「でも、それだけじゃないんだ!
昼間、日野ちゃんのお茶全部こぼしちゃったって言ったけど……
本当は、おれが間違えて口つけちゃって!」
「本当に、ごめ……っ!?」
「……っ!?」
衝撃に一歩下がると背中に冷蔵庫の感触が伝わり、同時にカシャンと音が響く。
至近距離で頭を下げたらぶつかるのは当然。
二人同時に額を押さえ、不意打ちの痛みに声を出さずに耐えていた。
「……っ……だ、大丈夫?日野ちゃ……っ!?」
「大丈……夫、ですか?火原先輩……っ!?」
同時に顔を上げ、互いを心配する。結果……。
「………………」
また、昨日と同じ光景が二人の視界に広がっていた。
そして思考も、止まる。
驚きに開いた瞳、二人の距離を知らせるような圧迫感。
「……先輩……」
「…………っ!?」
後ろへ飛ぶのではないだろうか。
その位の勢いで離れようとする火原の、首に掛かったタオルを掴んで静止させる。
「違うんです!」
「へっ!?」
「その、私怒ってないですから!ただ、あの……」
「…………」
「先輩、服……着てないから……目のやり場に困っちゃって……」
「……………………」
益々目を丸くして、見下ろしていた香穂子の頭から自分の体へ視線を移す。
文字では表現できないような声を上げ、今まで自分がどんな格好で居たのかを理解した。
そうだ、風呂から上がって、二人の音が聞こえて。
暑いからとズボンだけ履いて、何も考えず首にタオルを掛けたままお茶でも飲もうと食堂に来て……。
「ごめん、日野ちゃん……おれ、最低だよね……」
離れようにも香穂子がタオルを掴んだままで。
身動きも取れないまま顔を赤くして俯く。
自分の行いを恥じるように閉じかけた視界の中、香穂子の頭上だけが映っていた。
火原の視界に映る香穂子が動いたのは、どれくらいの時間が経ったころだろう。
香穂子が必死に火原の状態を口にして、ふ、と目を開いた時。
目前に映るのは……。
理解したときには、これ以上にないくらい顔が熱くなって。
けれど、どこかに居る冷静な自分が、火原の体に見とれていた。
微かに視界の端に入る、綺麗に筋肉のついた腕。
火原の首に掛かった青いタオルを掴んだ自分の腕とは遙かに違う、男の。
意外な程に割れた腹筋から繋がった、綺麗に引き締まったウエスト。
少しだけルーズに履かれたズボンとの境目には、腰骨のライン。
当たり前だけど、改めて思い知らされた。
先輩は男で、私は女で。
意識した瞬間、顔の熱が余計に上がった気がした。
火原の体と自分の顔の合間に篭る熱に。自分の鼓動に息苦しささえ覚えて、頭を上げた。
すでに頭の中が白くなっていた火原には、その香穂子が顔を上げる動作はひどくゆっくりと見えた。
小さな頭から前髪が揺れて、恥ずかしさに細めた瞳と紅潮した頬。
掴まれたままのタオルのせいで、変わらない二人の距離。
今にも泣き出しそうな、切なそうな瞳に変わる。
愛しそうに見つめた火原の視線が、香穂子の瞳を捕らえた。
それは、互いに初めて見る表情で。
火原の濡れたままの髪から、香穂子の頬に雫が落ちる。
つ……と流れる雫に不思議な感情が湧き上がるのを、どこかで感じていた。
まるで自分の腕じゃないみたいに、自然に動いた。
火原の指先が、香穂子の頬に光る雫の流線をなぞる。
触れたのか、触れていないのか……。
触れられたのか、触れられていないのか。
互いに高まった体温にそんな思考すら理解できなくなっていた。
どこか遠くに感じる、柔らかな頬としっかりとした指先の感触だけが、行為を示していた。
視線が絡まったまま、二人の距離が近づく。
避けようと思えば、出来たはず。
けれど火原の視線に鼓動だけが早まって、体が動かなかった。
唇と唇の僅かな隙間から、互いの体温が感じられた時。
一瞬だけ火原の動きが止まり……ぼやけた視界に映る瞳が、閉じた。
軽く触れ、感触を確かめるように段々と押し付けられる唇。
いつの間にか後頭部に回された大きな右手からも熱が伝わってくる。
再びカシャン、と冷蔵庫が揺れた時。押し付けられているのに気がついた。
角度を変えて繰り返される熱っぽい唇に浮かされて薄く目を開けると、
これ以上にない切ない鼓動が香穂子の胸を走った。
なんて、格好いい男の人なんだろう。
普段の明るさが嘘のようなギャップに、胸が苦しくなる。
濡れた前髪の合間に見える閉じられた瞳、微かに映る肩のライン。
自分の髪に差し入れられた指先すら”男”を感じさせられて。
泣きたくなるくらい、鼓動が早かった。
タオルを掴んだままの右手が、ペットボトルを持ったままの左手の力が、抜ける。
ペットボトルが床に落ちる瞬間、火原の空いた左手が香穂子の右手を捉えた。
そして濡れた柔らかい感触が唇を割って進入する。
鼓動で胸と喉の奥が締め付けられるような錯覚を起こしながら、
より押し付けられた香穂子が無意識に空いた左手を背中に回す。
冷えた指先が広い背中に触れたとき、ピクッと火原の体が反応した。
ゆっくりと唇が離れると、まだ香穂子の鼻先に濡れた前髪が掛かる距離で。
その奥に見える”男”の表情で火原が、呟く。
「……ごめんね……?」
日野ちゃんだから、おれは……。