窓の外に、どんよりと曇った空が映っている。  
時折響いてくる、パラパラという雨音に耳を澄ませるまでもなく、大降りなのが分かる。  
普通の感覚ならば、出歩くのを遠慮したい気分になるだろう。  
けれど、それはあくまで、「ごく普通の」用事がある者のみに許される事。  
自分のように、重要な使命を帯びている人間は、多少天候が暗いからと言って休む事は許されない。  
 
自分の仕事は、ここコーセルテルに住まう者達の安全を守る事。  
その為ならば、例え雨が降ろうが槍が降ろうが、外に出るのを躊躇してなどいられようか。  
いや、そんな事はないはずだ。  
 
そう、これは使命なのだ。  
自分が外へ出かけたいと願うのは、一重に自分に課せられた使命の為。  
決して、外へ出て気まぐれに歩き回りたいとか、雨に濡れた遺跡の美しさを鑑賞したいとか、そんな個人的趣味の為では断じてない。  
 
だから…。  
 
「だから、な?ユイシィ。行ってもいいだろう?」  
 
圧倒的に分が悪い事を自覚しつつ、それでも尚、縋る様に発せられた地竜術士ランバルスの言葉に。  
 
「ダメです」  
 
にべもなく、という表現がこれ異常ない程合うであろう表情と口調で。  
彼の補佐竜ユイシィは首を横に振って、不賛成の意思を表したのだった。  
 
「なあ、いいじゃないか。そんなに心配するような事じゃないだろう。雨だってもう小降り…とは言えんかもしれないが、別にどうってこたない。ちょっと遺跡の方を見てくるだけさ。大丈夫、夜までには必ず帰るから」  
 
安心させるような笑顔を必死に浮かべながら、彼はもう何度目になるか分からない言葉をユイシィに言い聞かせる。  
だがそんな彼の努力も空しく、先程からユイシィの反応は相変わらずだった。  
冷ややかな目で自分の竜術士を見つめつつ、首を横に振るばかり。  
まあ、無理も無いのかもしれない。  
何せ言っているランバルス自身、何と説得力の無い言葉かと心中で嘆いているのだから。  
 
「遺跡の調査なら、新しく見つかったものも含めて調査は済んでいるはずです。他に新しい遺跡でも見つかりましたか?少なくとも私は聞いていませんが」  
「それは、だな…そ、そう!前に見つかった遺跡の補強を…」  
「そうですか。ならカディオさんやミリュウさんも一緒のはずですね。安心しました。師匠が一人で行くとろくな事になりませんから。戻られたらお二人にもお礼を言っておきましょう」  
「いや、それは…」  
「違うのですか?」  
 
言葉に詰まり、思わずたじろいでしまうランバルス。  
ユイシィは微かにため息をつき、そして顔を上げると断固とした口調で話し出した。  
 
 
「とにかく、何度仰られてもダメなものはダメです。外は大雨ですよ?  
こんな日に出かけられて、風邪でも引かれたらどうするんですか。  
ましてや、遺跡の周りは地盤が緩くなって崩れやすくなっている場所だってあるんです。  
師匠に何かあったら、それこそコーセルテルの安全の為に憂うべき事態ではないのですか?」  
 
理路整然と言葉を紡ぐユイシィに、流石のランバルスも返す言葉も無く、ただ呻くしかない。  
片や壮年に差し掛かった大の男、もう片方は人間で言うならば十代半ばの少女であるというのに、  
この場における二人の力関係は絶望的なまでに前者に旗色が悪い。  
 
(まいったな…)  
 
あくまで外出に強硬に反対する彼の補佐竜に、ランバルスは心の中で嘆息した。  
確かに彼女の言い分は正論だが、彼だって言われるほどに考えていないわけではないのだ。  
土砂崩れが起きそうな場所は、普段から歩き回って残らず頭の中に入れてあるし、  
この程度の雨でどうにかなるほどヤワな身体をしているつもりもない。  
 
ユイシィとて、それくらいは分かりきっているはずだ。  
それでも尚、自分に分が悪いと自覚せざるを得ないのは、彼女の反対し続ける原因が、日頃の彼の行いにあると知っているからだ。  
遺跡と名の付く所に出かければ、必ずと言っていい程に、怪我かそれに近い類のトラブルに巻き込まれて帰ってくる。  
いったん家を空けてしまうと、何日も連絡無しで帰らない事もざらにある。  
普段からこの有様では、信用しろと言う方が無理かもしれない。  
無論、ランバルスが負っている役目は、危険を抜きにして考えられるようなものではない。  
危ないからといっていちいち外出を止めていたのでは、見回りと言う役目は果たせない。  
だからユイシィも、本当に役目で出かける時にはそんな事は言わない。  
ただ今日のように、大雨であるにも拘らず、  
ランバルスが趣味で遺跡の側に行きたいなどと言い出す時には、当然のように良い顔をしない。  
 
「いいですね?師匠は今日はお休みです。もし出かけたりしたら、  
明日から師匠の晩御飯はスープ一皿で終了に……」  
「わ、分かった。分かったって!」  
 
台所を掌握しているユイシィにそう言われてしまっては、もはや抵抗する術は無い。  
がっくりと肩を落としたランバルスは、ふとある事に気付いた。  
 
「なあユイシィ……ロービィはどうしたんだ?朝から姿が見えないようなんだが」  
「あの子なら今朝は早起きして、暗竜家に行きましたよ。何でもエリーゼに貸してあげる約束の本があるとかで」  
「あいつがか?雨の中を?」  
 
説明したユイシィの顔と、雨の降る外を見比べながら思わずそう叫んでしまうランバルス。  
確かに、最近のロービィは以前とは見違えるように大人びてきたし、外にも積極的に出かけるようになった。  
が、外に出かける目的が本絡みとは言え、まさか女の子とは。  
あいつもお年頃になってきたわけか、などといかにも保護者じみた考えが浮かんだが、それはさておき、彼には気になる事があった。  
 
「ユイシィ、ロービィは暗竜家にでかけたんだよな?」  
「はい」  
「なら、俺と方向は一緒じゃないか。何であいつは良くて、俺は外出禁止なんだ?」  
 
もしかしたら、ここから取っ掛かりを掴めるかもしれない。  
そう思って、多少意地の悪い口調でそう言ったのだが、ユイシィは至って冷静に返す。  
 
「その理由は簡単で、こういう場合、師匠よりもロービィの方が私の信用度では上だからです」  
「おいおい、そりゃ幾らなんでも…」  
「何か異論が?」  
「…いや、ない」  
 
そう言われると、反論する術が無いのが辛い。  
ロービィが事故にあった事が殆ど無いのは、子竜だから危ない場所へはいかないという、言って見れば当たり前の理由なのだが、  
それでもきちんと無事に帰ってくるという点でみればロービィの方が遥かに実績がある。  
 
(仕方ない。今日は諦めるか…)  
 
本当に残念そうに、大きく溜息をつくランバルス。  
それを見ていたユイシィの表情が、その時初めて崩れた。  
 
「…そんなに」  
「ん?」  
 
少女に向き直ったランバルスは、目の前の少女の変化に目を丸くした。  
さっきから吊上がったままだった眦が下がり、キッと睨みつけていた視線も床に落としている。  
生真面目そのものの顔から一転して浮かんだのは、寂しさとも、怒りとも取れる表情だった。  
 
「そんなに、外に出たいんですか?」  
「…ユイシィ?」  
「そんなに……雨も気にしないくらい、家に居るのが嫌なんですか?」  
 
ランバルスとは目を合わせず、小さな声でそう問いかけるユイシィ。  
予想外の言葉に、ランバルスはさっきとは違う意味で慌ててしまった。  
 
「落ち着けユイシィ。そんなわけないだろう」  
 
想いの他強い口調になってしまった事に自分でも驚いたが、この言葉は本音だった。  
確かにランバルスは、基本的に外に出るのが好きな人間だ。  
だがそれは決して、家に居るのが嫌いだと言う意味ではない。  
 
家の中ならば、家の中なりの一日の過ごし方があるし、それはそれで楽しいものだ。  
元々本を読むのは好きな方だし、しようと思えばこの間書庫でやった「蔵書探し早い者勝ち方式」のように遊ぶことだって出来る。  
何よりこの家には、彼の家族が、ユイシィやリド、クレットが居るのだ。  
 
ただランバルスにとって、外に出て歩き回るのは既に日課となってしまっているから、ああいう反応をしてしまっただけなのだ。  
あるいは、このコーセルテルに来てから、以前の盗賊暮らしのように隠れる必要が無くなった分、お天道様の下をのんびり歩けるのが嬉しかったのかもしれない。  
いずれにしても、決して家に居たくない訳ではないのである。  
 
「じゃあ、何でそんなに、外に出たがるんですか?」  
「何でって…」  
 
ユイシィはきゅっと小さく両手を握り締めたまま、俯いている。  
 
何も言えずに、そんな彼女の様を見ていると、唐突にズボンの膝が引っ張られる感触が合った。  
視線を下に落とすと、いつの間にやって来たのか、リドとクレットが不安そうな眼差しを、見上げるように自分に向けている。  
 
「せんせー、お出かけしちゃうの?」  
「……しちゃうの?」  
「お前ら…」  
 
縋るような視線を受けて、今更ながらランバルスは、留守にしていた時期が如何に多く、そして長かったかを実感した。  
いくらユイシィがしっかりしているからと言っても、まだ少女と呼ぶべき年齢なのだ。  
それをほったらかしにして、長い事を家を空けていれば、心細くなるのも当然だ。  
 
「…悪かった」  
 
きっぱりとした口調で言って、足元の子竜たちの頭をわしわしと撫でる。  
顔を上げたユイシィに、ランバルスはニッと笑いかけた。  
 
「よし、わかった。今日はどこへも行かない。一日ずっと、家に居るよ」  
『ほんと!?』  
「ああ、ホントだ」  
 
声を揃えて言い返す、幼い二人の地竜にそう答える。  
歓声を上げて飛びついてくる二人を受け止めながら、ユイシィに視線を向ける。  
驚いたように瞳を瞬かせている彼女に、ランバルスははっきりと頷いて見せた。  
 
「…本当、ですか?」  
「俺が嘘をついた事があるか?」  
 
しばらく見詰め合った後、少女の表情がふっと緩んむ。  
 
「…なら、師匠はそこに座って、ゆっくりなさってて下さい。今、お茶を煎れますから」  
 
そう言ってユイシィは踵を返して、台所へと向かう。  
くるりと背を向けるその足取りは軽く、先程までよりも明らかに口調も柔らかい。  
さっきまでは怒っていたのに、自分が残ると決めたのが、そんなに嬉しいのだろうか。  
首を捻りながらもその一方で、いざ家に居ると決めた途端、心から安心感が沸いてくるのを、ランバルスは確かに感じていた。  
 
 
読み終わった本をテープルに置いて、肩の凝りをほぐすように伸びをする。  
窓の外を見ると、先程よりも雨は弱まっており、この分ならば止むのも時間の問題かもしれない。  
最も、だからと言って、今更出かけようという気にはならなかったが。  
ランバルスは視線を戻して、正面に座っているユイシィを見る。  
彼女は今、膝に乗せているクレットと、横から覗き込んでいるリドに絵本を朗読してやっている最中だった。  
竜都コーセルテル最後の時代、とある竜族の王子様と、彼の幼馴染で、彼の竜術士の娘でもあった女の子の物語だ。  
この間地下書庫で二人の話を聞いて以来、しきりに聞きたいとせがむのに負けて、絵本の形になっているのを探してきたのである。  
 
「『……王子様は言いました。「じゃあ僕は、大きくなったら君をお嫁さんにしてあげる。この国をもっと大きく、立派にして、君を世界一のお妃様にするんだ!」……けれど女の子の方は、いつも通りにすました顔で、「あらそう。まあ、期待しないで待っているわ」  
と答えるだけでした。』」  
 
朗々と響く声が、部屋の中に心地良い感覚を残して消えていく。  
そう思うようになったのはつい最近だが、ユイシィは読み聞かせが上手くなった、と思う。  
今までこうやって下の子達に本を読んでやる機会が無かったわけではない。  
ただ以前のユイシィは心なしか声に堅さがあり、また抑揚を付けずに一定のリズムで読むので、物語の雰囲気を中々出せない所があった。  
けれど、最近になって、以前の張り詰めた何かを少し緩められるようになったからだろうか。  
今、流れている声は、ユイシィ自身の綺麗な声と相まって、聞く者を不思議と惹き付けた。  
その証拠に、リドもクレットも、目を輝かせながら話にじっと聞き入っている。  
 
物語は進み、次第に終わりに近付いていく。  
王子様は若くして王様になり―――彼は暗竜だったので、都を守る為に王に選ばれたのだ―――女の子を王妃様にできるようになったが、女の子の方の返事は変わらず、男の子の求婚にもつれない返事を返すばかりだった。  
そんな穏やかな時間も、やがて終わりを迎える。  
彼らにとって親同然だった竜術士が魔族との戦争で帰らぬ人となり、その悲しみに怒り狂った彼は、我を忘れて都を、そして世界を破壊し尽くした。  
幸せな時間がたくさん詰まっていた都は崩れ去り、彼らの家だった城も無残な廃墟と化した。  
ようやく正気に戻った王が、それをやったのが自分だと知った時、彼は気も狂わんばかりに泣きじゃくった。  
物語がそこに差し掛かると、二人の子竜は涙を浮かべてすすり上げている。  
 
「『戦争は終わりました。けれど、王様にはもう、何も残っていませんでした。護りたかった国と都は崩れたガレキの下。何よりも愛した家族も友達も、もう居ない。何もかも失ってしまった、孤独な王…  
けれど、本当に彼には、何も残っていなかったのでしょうか?』」  
 
そこでユイシィは言葉を切ると、少しだけ二人の子竜を交互に見やった。  
 
そこでユイシィは言葉を切ると、少しだけ二人の子竜を交互に見やった。  
 
「『いいえ、たった一人、王様には傍にいてくれる人が居ました。それはあの、竜術士の娘だった女の子でした。何度プロポーズしても、つれない返事しか返してくれなかった彼女が、  
今は彼に、優しく微笑みかけていたのです』……」  
 
最後に大きく息を吐いて、ユイシィはぱたんと絵本を閉じる。  
未だにしゃくりあげているクレットの目元を彼女が優しく拭いてやっていると、一足早く立ち直ったリドが不思議そうに尋ねる。  
 
「女の子は、ずっと前から王様の事が好きだったの?」  
「そのようね」  
「じゃあなんで、結婚してあげなかったんだろう?」  
「王様が余りに雑把で子供っぽいから、その気になれなかったんじゃないかしら」  
 
意味ありげにランバルスの方にちらりと目をやりながら、ユイシィはそう答える。  
ランバルスは何故か、俄かに顔も知らない王様の弁護に回りたい衝動に駆られ、  
 
「いや、そうとは限らんぞ。もしかしたら何か、深い考えがあってそうしていたのかもしれんじゃないか」  
「………例えば?」  
「そう、例えば、大変な時期だから、皆に心労をかけないように、わざと脳天気に振舞っていた、とか…」  
「興味深いご意見ですね」  
 
そう言って、ユイシィはツンと横を向いてしまった。  
ドツボに嵌りそうな気配にランバルスが固まっていると、いつの間にか泣き止んでいたクレットが、膝の上から懸命にテーブルに身を乗り出した。  
 
「ねぇ、むかしは人間と竜と、結婚できたの?」  
「ああ。やろうと思えば、今だってできるぞ」  
「ホント!?」  
「ああ、まあ色々大変だから、やるやつは少ないが…」  
 
自分の知っている何人かを思い浮かべながら、敢えてぼかした答えを返す。  
その言葉を聞くと、クレットは目を輝かせた  
 
「じゃあわたし、大きくなったらせんせいのおよめさんになる!」  
 
想いもよらない言葉に目を丸くしたランバルスだったが、それでも笑顔で小さな頭をポンと叩く。  
 
「そいつは嬉しいが、まだ早いだろう。もしかしたら、俺なんかよりもっと格好よくて、優しい男が見つかるかもしれないぞ?」  
「そんなことないもん!」  
 
笑いながらそう言って、クレットはユイシィの膝からぴょんと飛び降りると、スタスタと隣の部屋に駆けていってしまった。  
微笑ましく思いながらそれを見送っていたランバルスだったが、ふと見るとユイシィが複雑そうな表情でこちらを見ている。  
 
「どうしたんだ?」  
「いえ……なんでもありません」  
 
ユイシィはそう言って、静かに首を振る。  
顔を上げた時は、彼女はもういつもの生真面目な表情に戻っていた。  
 
「…もうそろそろ、お昼の時間ですね。私、支度しないと」  
「ん?…ああ」  
 
ゆっくりと椅子を立って台所へ行く彼女に、ランバルスは何か声をかけようとして…留まる。  
その場に残っていたリドは、微妙な雰囲気に「?」と首を傾げたのだった。  
 
 
ユイシィが作った昼食は、今更再確認するまでもなく、とても美味かった。  
外に珍しく出かけていないせいで腹が空いていなかったランバルスが、二人前を完食してしまう程に。  
後片付けが終わった食堂では今、ランバルスが今日二冊目の本を読んでおり、ユイシィはいそいそとお茶菓子の支度をしている。  
ちなみにリドとクレットは、食事が終わると急激な眠気に襲われたようで、早々とお昼寝部屋に直行。  
そんな訳で今この部屋に居るのは、ランバルスとユイシィ、二人のみである。  
読んでいた本から顔を上げて、忙しく手を動かしている彼女を見る。  
その動作、一つずつが、どことなく弾んで見えるのは気のせいだろうか?  
 
「何か、いい事あったのか?ユイシィ」  
「?……別に、いつもと変わりませんが」  
「そ、そうか」  
 
不思議そうにそう問い返されて、ランバルスは頷くしかなかった。  
きょとんとしながらも、ユイシィはお菓子の載った皿を彼の前に置く。  
 
「はい。どうぞ、師匠」  
「おう、すまんな」  
 
礼を言って一つ手に取り、口に運ぶと、優しい甘味が口中に広がる。  
さすがユイシィだけあって、菓子作りの腕前も並ではない。  
 
「うん、美味い。やっぱりユイシィの作る菓子は最高だな」  
「褒めても何も出ませんよ」  
 
クスリと笑いながらそう言って、ユイシィは二人分のお茶を注ぎ、彼の向かいに腰を下ろす。  
彼女の手元にあるのは本だと思うのだが、何故かその横には何も書いていない、白紙の紙が何枚も重ねられている。  
最初は何かと思っていたが、程なく一つの結論に達する。  
写本だ。  
ランバルスが一向に書庫の保存に手を付けないので、業を煮やした彼女が代わりにやってくれているのである。  
 
“地竜術士の補佐竜である以上、蔵書の完全な保管は私の義務です。何十年か後、書庫を見た人に『ランバルスの書庫』だけ異常に少ないなんて思われたら、私は恥ずかしくてたまりません。”  
 
キビッとした態度でそう言っていたのを思い出して、彼は思わず含み笑いをする。  
だが、彼がどう思おうと、この家と地竜術士の役割が上手く廻っているのが彼女のおかげである事は紛れも無い事実だ。  
ランバルスは誰よりもそれを自覚していた。生来、大雑把な性格の自分だけでは、地竜術士などという几帳面さが何より大事な職はやってこれなかったし、これからもそうだろう。  
仕事だけではなく、それは日常でもそうだ。  
ユイシィは本当に、あらゆる面において自分を支えてくれている。  
それだけに……。  
 
(いい娘なんだがなぁ…)  
 
一生懸命、作業に打ち込んでいる姿をじっと見る。  
育ての親の欲目ではなく、本当にいい娘だと思う。  
生真面目すぎるのは玉に瑕だが、それだって別にマイナスに成る程ではない。  
今はまだ花より団子ならぬ、花より書物状態だが、それでもリリックを見れば分かるように、彼女に惹かれる男は大勢居るはずなのに。  
 
(何も、こんないい加減なのを選ばなくてもいいだろうに)  
 
以前のユイシィとのやり取りと、つい先程の彼女の顔を思い起こす。  
どうにも考えが年寄りじみているな、と苦笑していると。  
 
「……師匠」  
 
唐突にユイシィが顔を上げ、その視線がまともにランバルスとぶつかった。  
じっと見ていたのを気付かれたかと内心慌てたが、ユイシィの口から出たのは、問いかけだった。  
 
「ん、何だ?」  
「師匠はさっきの話……どう思いますか?」  
「さっきって、あの昔話か?王様がいい加減かどうか…」  
「そうではなくて!いえ、その話には違いないんですが、その部分じゃありません。人と竜が、その…」  
「結婚できるかって話か?」  
 
ユイシィは黙って頷いた。  
しばらくは沈黙していたランバルスだが、ややあってゆっくりと言葉を紡ぐ。  
 
「…まあ、昔は上手くやれてたんだろうから、不可能ってわけじゃないだろうな。それに本なんか見ると、昔は身分差やら何やらあったらしいし…その意味じゃ、今の方が楽と言えるかもしれん。  
何せこんな、こじんまりとした場所じゃ、そんなもの意味無いからなぁ」  
 
話しつつもランバルスは、俺は一体何だってこんな事を口走っているんだと、甚だ疑問だった。  
 
「あ〜…とは言え、今は今でそれなりに大変ではあるか。特にこのコーセルテルに来るような竜は、里に戻って要職に、ってのがお決まりコースなんだろうしな」  
「でも、私達のような場合は、余り関係ありませんね」  
「まあ、な」  
 
彼女も含めて、一番竜は補佐竜なのだから、確かにその意味では関係がない。  
ユイシィはふっとため息をつくと、いくらか拗ねたような口調で零す。  
 
「まあそうは言っても、私には縁のない事ですが」  
「………」  
 
平静を装ってはいるものの、その顔は微かに赤い。  
何だか居心地の悪さを感じて、ランバルスは椅子の上で身じろぎをした。  
 
 
外も薄暗くなり、そろそろ夕食を作ろうかという時間になって、ユイシィがこんな事を言い出した。  
 
「今日の食事は、師匠主導で作ることにします」  
「はぁ?」  
 
お茶の時間からこっち、何を考え込んでいるのかと、もしかしたら自分の言葉のせいではと心配していたランバルスは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。  
包丁や鍋、その他料理に使う道具をせっせと運びながら、ユイシィはニッコリと笑う。  
 
「ですから、今日の夕食は師匠が作ってください。たまにはいいでしょう?せっかく家に居るんですから」  
「今日の俺は休みだって言ってなかったか?」  
「もちろん、私も手伝います。ただし、私は最初から最後まで動くだけです。材料をどうするか、どうやって料理するか、指示するのは全部、師匠です」  
「おい、ユイシィ…」  
 
まだ話についていけていないランバルスに、ユイシィは手を止めて尋ねる。  
 
「駄目ですか?」  
「いや、駄目ってことはないが…」  
 
正直、普段から家事をユイシィに投げっぱなしにしてしまっていたから、やるのは別に構わない。  
だが、彼女がどうして急にこんな事を言い出したのか、その真意が掴めなかった。  
ランバルスは確かに料理は出来るが、あれはあくまでも野外で、しかも大人数分を想定して作る類のものだ。  
まずいわけでない。自分で言うのも何だか、そこそこ美味いものを作れる自信はある。  
だが、作り方から何から大味そのものだし、材料選びにはランバルスの好き嫌いが激しく反映されていて、とてもではないがユイシィには及ばない。  
実際彼女もそれが原因で、「師匠は炊事場からは離れていてくださいね」などといつも言っていたのに、どういう風の吹き回しだろうか。  
 
が、そんな事を考えていられたのも束の間、気がつけばランバルスはぐいぐいと台所に押しやられ、その横にはユイシィがすっかりサポートする体勢に入っている。  
 
「さ、始めましょう、師匠。まずは何をするんですか?」  
「あ、ああ。じゃあ最初は…」  
 
かくして、抗議の言葉を発する間もなく、ランバルスは何年ぶりかになるか分からない厨房に立つ羽目になってしまったのだった。  
 
「肉を切ってくれないか。そんなに大きなサイズじゃ無くていい」  
「はい」  
「あ、それともうその鍋は煮えてるはずだから、火を止めてもいいぞ」  
「分かりました」  
 
俄か料理人となった地竜術士とその補佐の夕食作りは、まずまず上手くいきそうな気配になっていた。  
まずまず、と評されるのは、最初の方でかなりの失敗があったからだ。  
原因の大半は、やはりランバルスだった。  
時間の計算をいい加減にしていたせいで危うくフライパンを焦がしそうになったり、逆に野菜の切り方が大雑把過ぎて火が通っていなかったり、とにかくブランクが長かったのを実感する。  
ただ、ユイシィの方も奇妙と言えば奇妙だった。  
料理を始めてから、ユイシィはランバルスが指示を出すまで動こうとしない。  
次に何をやるのか、それくらいは彼女ならば分かるだろうに、彼が何も言わないとただ黙っているだけなのだ。  
それでありながら、一度指示を出すと、普段の有能さを遺憾なく発揮して、瞬く間に自分の分担を終えてしまう。  
一体、ユイシィは何がしたいのだろう、とランバルスは思う。  
 
(別に怒っているわけじゃあ、なさそうだが…)  
 
強いて言うなら、自分からは一度も手助けをしようとしない所だろうか。  
何時もならば、彼が言う前に察して、素早く動いてくれるのに―――  
 
(…いつもなら?)  
 
そこまで考えて、ランバルスは頭に浮かんだ答えに衝撃を受けた。  
そうだ、今日のユイシィは、手助けを拒んでいるわけではない。  
ただ、自分から「こちら側」に踏み込んで来ないだけだ。  
自分が今まで、そうだったように。  
 
(…そうだったのか)  
 
思えば、このコーセルテルに来てから、ずっとそうだった気がする。  
何時だってユイシィは、自分から彼に近付いてきてくれた。  
それが嬉しくて、そのままでいるうち、いつの間にかランバルスは、自分からユイシィの側に踏み込まなくなっていた。  
だから、彼女の心が分からなかった。  
自分への好意にも、言われるまで気付かないままで。  
寂しいのも当然ではないか。  
 
(我侭な奴だったんだなぁ、俺は)  
 
その事実に気付いて、思わず隣を見る。  
すると、偶然にもこちらを見ていたユイシィと目が合った。  
いつもと様子は全く変わらない、だが彼の顔を見たユイシィは、少しだけ嬉しそうに微笑む。  
それは、長い事霧のようなものに隠れて見えなかったものがようやく見えたような、そんな心地良さを与えてくれた。  
 
「…ユイシィ」  
「はい?」  
「…いや、なんでもない」  
 
問い返すユイシィに、首を振ってそう答える。  
 
「さあ、もうすぐ完成だ。仕上げにかかるぞ」  
「はい、最後まで気を抜かないで下さいね」  
 
そう言ったユイシィを見てランバルスは、あいつが満面の笑顔を見せたのは、今日では初めてじゃないか、と心の中で呟いた。  
 
 
食事の支度を済ませると、ユイシィは食器を並べ始める。  
ランバルスがその横で、外套を引っ掛けて外に出る準備をしているのに、彼女は不思議そうな顔をして尋ねた。  
 
「どうされたんですか?」  
「ロービィを迎えにいく。もうそろそろ、帰ってくる頃だろう?」  
 
目を瞬かせていたユイシィだったが、やがて大きく頷いた。  
 
「そう、ですね。お願いします、師匠。でも、身支度はしっかりして行ってくださいね」  
「おう」  
 
部屋を出る時、一度だけランバルスは振り返った。  
ユイシィはいつも通りに、食事の支度をしてくれている。  
当たり前の風景なのに、なぜか心が安らぐのは、自分の方が、今までとは違うからだろうか。  
 
「ありがとうな、ユイシィ」  
 
言葉が、無意識に零れ落ちた。  
明日からは、自分から一歩を踏み出そう。  
今まで踏み込んできてくれた彼女に、今度は自分から。  
それがどうなるかは、その時になってみないと、わからないが。  
 
外に出ると、もう雨は止んでいたが、代わりに冷え込んできた外気が吹き付ける。  
外套の襟を閉めながら、ランバルスの脳裏に、今日聞いた物語の一節が甦る。  
 
“何もかも無くした王の傍に居てくれたのは、一人の少女だったのです”  
 
窓から漏れる明かりに目をやると、ランバルスはもうじき帰ってくるもう一人の家族を迎える為に、夜道をゆっくりと歩き出した。  
 
 
 

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