午後の柔らかな風が、開け放たれた窓からゆっくりと吹き込んでくる。
顔先をゆっくりと撫でられるような感覚が、本を読んでいたロービィを掠めていく。
昼過ぎの、ちょうどお茶の時刻を少し過ぎたこの涼しい時間は、読書にはうってつけだった。
もともとコーセルテルは暑さがそれほどきつくなる事はないが、それでも一番寛げる時間というものはある。
だからロービィも、この時間は毎日読書に当てる事にしていた。
吹き抜けていく穏やかな風が、肌に心地いい。
彼は読んでいた本から目を離し、何気なく顔を上げて―――その視線が一点で止まる。
向かいに座って静かに本のページを捲っている少女、暗竜エリーゼに。
椅子に背をもたせかけた彼女は真剣な目で、手元に置いた厚みのある本に目を走らせている。
確かこの間、彼女に頼まれて地下の書庫から持ってきた歴史の本だったはずだ。
時折吹く風に揺られて、腰まである漆黒の髪が揺れる。
(髪、また伸びたんだ)
最初に彼女と会ってからの今までの、数年の間にロービィの身体が成長し、身長も肩幅も均整の取れた少年のそれになったのと同じ様に、彼女も変わった。
暗竜族の黒い衣装に包まれた身体は、物静かな魅力を持つ少女にふさわしく成長していたし、ページの上を滑る白く細い指や、背中まで届く黒髪は、彼女が歩くその度に、見る者の心を不思議に惹き付けた。
唯一、少女には一種、不釣合いな背中の黒い翼が、椅子の背もたれを避けてゆったりと伸ばされている。
ぼんやりと見つめている少年は、だから顔を上げた彼女が不思議そうに問いかけてきた時も、咄嗟に反応する事ができなかった。
「ロービィ?」
「…え?」
阿呆のようにぽかんと返事をした少年は、一拍置いてようやく我を取り戻した。
エリーゼは読んでいた本を膝に置いて、彼が大好きなあの漆黒の瞳で、物問いたげに彼を見つめている。
「あ…な、何でもないよ!」
「…?」
「ホ、ホントに!ちょっと、ボーっとしちゃってたんだ。あはは…」
「…そう」
未だ首を傾げながら、それでもエリーゼはそう言って、また手元の本に視線を戻す。
「その本…もうそんなに読み終わったの?」
「うん…そんなに難しい所、ないし。…難しい所は、またロービィに…教えてもらう」
「……」
微かに笑みを浮かべて、エリーゼは彼を見つめ返す。
教えてもらう、という言葉から思い出した、ある瞬間を思い浮かべて――少年の顔は勝手に熱くなった。
「ロービィ?本、読まないの?」
「あ、も、もちろん読むさ!速読で負けたら、地竜の沽券に関わるしね」
彼の言葉にエリーゼは微笑んだまま頷き、視線を本に戻す。
ロービィはひとまず安心し―――それからこっそりとため息を漏らした。
最近になって自分の中の、この手の変化がやたらとロービィを悩ませていた。
彼女の、エリーゼの事を、知らず知らずの内に目で追いかけている。
それだけなら今に始まった事ではないが、近頃では特に著しい変化が自分でも分かるのだ。
さっきのように、彼女が傍らにいる時は、それこそ食い入るように見てしまうのもざらだ。
一見無表情な横顔も、たなびく髪も、ほっそりした身体も、そのどれもが、視界に入らないと寸分足りとも落ち着いていられない。
さらに困るのが、体の奥から湧き出るような、「彼女に触れたい」という衝動が加わった事だった。
一度など、唐突に手を伸ばして抱き寄せようとした事さえあった。
その時は気付かれないように手を思い切り抓って、何とか押さえることに成功した。
視線を合わせることすら、容易ではない。
いや、合わせるだけならできるのだが、その時には件の「触れたい」という衝動が一段と強くなって、十秒と持たないのだった。
気を抜くと、彼の指はいつのまにか、彼女の頬に伸びそうになる。
白くて柔らかそうな頬、桜色の唇、触れたらどんな感触だろう。
そう思い浮かべ、咄嗟の所で正気を取り戻すという動作を彼は何度となく繰り返していた。
無論、今日も例外ではなかった。
『ここ……わからない。教えて』
そう彼女は言って、本を見せる。
一緒に本を見ている時、ふっと彼女から流れる、女の子特有のあの甘い匂いが、真面目な少年を何度ぐらつかせたか分からない。
普段でもそうなのだから、眼前でニッコリ微笑まれたりした日にはもう大変だ。
体中の理性を総動員して、彼女を力任せに引き寄せそうになる腕を、押さえつけなくてはならない。
一番の気がかりは、そうした事をエリーゼ自身が全く気にしていないらしい、という事だった。
「やっぱり…変に思われてるかなぁ」
自室のベッドに寝転がりながら、ロービィは悶々とした気分で一人ごちた。
外はもう暗くなり、台所からはユイシィが夕食の支度をする、いい匂いが漂ってくる。
毎回のように挙動不審になる彼を、エリーゼがどう感じているのかも悩みのタネであった。
気づいていないはずはないのだが、「なんでもないよ」という彼に対して、彼女の毎回の反応は決まって「そう」と呟くだけ。
そうして、いつも通りに会話していつも通りに別れるのだ。
少なくとも、彼のどう考えても不審な落ち着きの無さには気付いているはずだ。
初めて会った時からそうなのだが、彼は未だにエリーゼのあの捉え所のないクールさを掴みきれていなかった。
暗竜らしく無表情という以上に、彼女の性格がそうなのだ。
とてつもなく意味深な事を言ったと感じ、こちらが頭をあれこれ悩ませてみたら、実は特に何も考えていなかったという事もあるし、逆にほんの独り言のように零した一言に、無限の想いが込められている事もある。とにかく掴み辛いのだ。
もちろんロービィは、それが嫌だなどとは思っていない。
その方が彼女らしいし、そういう所もひっくるめて、彼はエリーゼが愛しいと思っている。
けれど、今ロービィを悩ませている問題に関しては「分からないままでいいじゃない」で済ませるわけにはいかない。
寝転がって天井を見上げ、ぼーっとしていたロービィの耳に、台所からユイシィの呼ぶ声が聞こえてくる。
「ロービィ!もうすぐ出来るから、食器を並べてくれない?」
「…はーい」
聞こえてきたユイシィの声にそう答え、のろのろとベッドから起き上がる。
夕食の準備の間も、食べている時も、結局彼の頭はごちゃごちゃになったままであった。
よく晴れた翌朝、地竜家の食卓。
結局あのまま、眠れない夜を過ごしたロービィが、翌朝の朝食の席に着いた時には、既にリドやクレットは食べ終えてしまった後だった。
唯一ランバルスだけが、遺跡調査の予定表らしきものを見ながらトーストを頬張っている。
「お、珍しいな。ロービィが俺と同じ時間に食べに来るなんて。何かあったか?」
「別に…何もないですよ」
できるだけ、何もない風を装ってそう言いながら席に着く。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、ユイシィが彼の分の皿を並べながら聞いてきた。
「そう言えばロービィ、昨日エリーゼが来てたわよね?」
「?うん…そうだけど」
「これ、机の上に置きっぱなしだったのだけれど・・・あの娘のじゃないかしら」
そう言って彼女が差し出したのは、黒い小さな石のようなもので、先端に紐を通す穴がついている。
ロービィは一目見て、彼女がいつも付けていた「闇の勾玉」だと分かった。
暗竜族はある程度成長すると、一族の象徴であるこれを服の衣装に取り入れるだけではなく、実物を直接首に掛けるようになる。
たぶん、紐が切れたのに気付かないで、そのまま忘れていったのだろう。
ロービィはユイシィから受け取ったそれを、手の上に乗せてじっと見つめた。
彼女の私物を手に取るのは、これが初めてだった気がする。
ふと視線を感じて顔を上げると、ランバルスの目が何かに気付いたように細められている。
「ははぁ…」
「な、何ですか?」
「いやいや、そうか。ロービィ君も遂にそういう年になったか」
ニヤニヤと笑いながらそう言うランバルス。
ロービィの顔は目に見えて赤くなった。
「な、何がですか!変な事言わないで下さい、師匠!」
「照れるこたぁ、ないだろう?男としちゃあ、自然な反応だからなぁ」
「だからっ、何がですかっ!」
頬が羞恥心でチリチリするのを感じながら、ロービィは直感的に気付いた。
ランバルス師匠は明らかに知っている。
僕があの娘を見てどんな事を考えているのか、手に取るように分かるんだ。
言い訳しようとするロービィの機先を制するように、ランバルスは笑顔で、
「いや、言い訳する事はない。男はみんな、遅かれ早かれそういう時期にたどり着くもんだ。お前が本ばっかり読んでた時には、むしろ気付くのが遅れるんじゃないかって心配しぐっ!?」
言葉の最後はくぐもった変な声になってしまった。
ユイシィが彼の頭を、どこからか出してきたおたまで叩いたからだ。
「朝から何を下らない事を叫んでるんですか!いい大人が、全く…」
そういうユイシィは、頬が微かに赤い。
頭を擦っている、彼女の竜術士の発言に原因があるのは明白だった。
「ユ、ユイシィ…おたまはないだろう…」
「…フライパンの方が良かったですか?」
ユイシィがかなりの重量のフライパンをひょいと持ち上げるのを見て、ロービィは慌てて席を立った。
「あ、僕、これをエリーゼに届けてくるよ!三時のおやつは皆で分けていいって、リドとクレットに言っておいて!」
「お、おい待てロービィ!俺を見捨てるのか!」
追いかけてくるランバルスの声を背に、ロービィは手早くバンダナを締め―――ある程度成長した時から、彼はノーセを見習ってそうしていた―――脱兎の如く外に飛び出した。
「…どうしたらいいんだろう」
穏やかな陽気の下を歩きながら、ロービィは呟いた。
手には先程持ち出してきた、闇の勾玉が握られている。
どうすると言えば、もちろんこれを返しに暗竜家に行くに決まっている。
だが、今はダメだとロービィの本能が告げていた。
今のこんな状態で彼女に会いに行ったら、どんな行動を取るかわからない。
「男はみんなそうって言ったって…」
ランバルスの言わんとしている事は何となくわかる。
ロービィ自身、薄々ではあるが感づいていた。
自分が彼女に触れたい、抱きしめたいと思っている、その理由だって今更考え込むほどのものでもないはずだ。
だからと言って、ランバルスのようにさっぱりと割り切る事もできないのが、生真面目な彼の辛い所である。
それに何より、この気持ちを正直に表に出した時、彼女がどんな反応をするかが恐い。
ロービィ少年にとって、この悩みが夜も眠れない程になってしまったのも、詰まる所それが原因でもあった。
「嫌われては、いないはずなんだけどな」
いくら生真面目と言っても、流石にそれくらいはロービィもわかる。
自惚れではなく、好意を寄せてくれている事は、彼女が自分に向けてくれる笑顔を見れば伝わってくる。
けれど、自分が今抱いている感情と、彼女のそれは同じものだろうか。
彼女が同じ様に信頼し、笑顔を向けている相手、例えば姉のような存在のラルカや、兄であるウィルフに向けるものと、自分に向けるそれはどう違うのだろうか。
考えれば考えるほど、ロービィの思考は袋小路にはまっていくようだった。
(誰かに会ってから…行こうかな)
気分転換という以上に、誰かに相談する事の必要性をロービィは強く感じていた。
家族以外で、こういう問題を打ち明けて、意見を聞かせてくれそうな誰かを。
(けど、誰を?)
よくよく考えてみれば、ロービィにはそういう意味で相談に乗ってくれそうな友人、特に同性の友達が圧倒的に不足していた。
彼の同い年の竜達は全て女の子だったし、彼女達の大部分はまだ男の子よりも自分の竜術士が好意の対象になっているだろう。
唯一、そういう事に聡そうなのはクララくらいだが、彼女にこんな事を話したら十中八九、話のネタにされてからかわれるのは目に見えている。
メオもそういう事には疎そうだし、ロイはそもそも詳しい、詳しくない以前に個人的な悩みを打ち明けるのに不安がある。
後、仲のいい友達と言ったらグレイスくらいだが、未だ色恋沙汰そのものに興味が無い彼に打ち明けても、期待できる答えは返ってきそうにない。
候補を頭の中で挙げては首を振りつつ歩いていると、ロービィはいつの間にか道の分かれ目まで来ていたことに気付いた。
片方は、目指す暗竜家に続く道。
そしてもう一つは―――。
ロービィは立ち止まったまましばらく考え、迷った末にもう一つの道を進んだ。
男の子ではないが、現状最も当てにできる人物の所。
仲が良くて、落ち着いていて、こういう事にも思慮深い答えを出してくれそうな人物の家に。
光竜家のドアを叩いた時、タイミング良くというか、目当ての人物はちょうど家にいた。
前触れもない客人を見て、彼女――光竜マリエルは少し驚いた顔をしたものの、すぐに落ち着いた笑みを浮かべて「いらっしゃい」と彼を中に招き入れた。
「珍しいわね、ロービィが家に来るなんて」
「ごめん…突然お邪魔しちゃって、迷惑だったかな」
彼女は笑顔で首を振ると、慣れた手付きで紅茶を注ぎ、テーブルに置く。
コーセルテルに来た日がそれほど離れておらず、またお互いの成長速度に対する事情も重なって、マリエルと彼は、実質的な同世代のようなものだった。
今日のように家にお邪魔することこそ少ないが、それでも訓練の合間や終わりには良く話す。
それに、彼女は数年前から、憧れだった青年と想いを通わせ、晴れて恋人同士になっている。
言わば、この手の事に関してはロービィよりも先輩と言えるのだ。
お茶とお菓子を並べ終え、彼の向かい側に座ったマリエルは、視線をピタリと合わせて切り出してきた。
「何か…相談があるのね?」
「…うん。正直な意見を、聞かせて欲しいんだよ」
そう言う少年に向き直るマリエルは、武術訓練とはまた違った雰囲気だった。
訓練時には後ろで纏めている金色の髪を丁寧に流し、薄い黄色を基調としたガウンを羽織っている。
「私で役に立てる事かしら?」
そう言うマリエルは微笑を浮かべていたが、目は真剣そのものだ。
頷くと、ロービィは自分の抱える問題を最初から、一つずつ話し出した。
マリエルは時折頷きながら聞き入っていたが、話が進むごとに、彼女は次第に頬を赤らめ、落ち着きをなくしていく。
「…え、ええと、ね。ロービィ…」
時折つっかえたり、息苦しくなったりしながら、ようやくロービィが説明を終えた時、マリエルは真っ赤になりながら話し出した。
「貴方が私を信用して相談してくれるのは、嬉しいわ。でも…その…こういう事は、なんて言うか…私に相談する事じゃ、無い気がするのだけれど…」
「………」
「そ、相談されるのが迷惑というわけじゃないの!本当よ!でも…」
「…うん、わかるよ。…ごめん」
ロービィは項垂れたまま辛うじてそう返す。
考えてみれば当然の事だ。
いきなりこんな相談を持ちかけられても困惑するだけだろう。
「でも、君しかいないんだよ。相談できそうな人が」
そう言うロービィ自身、顔から火が出る思いだったが、ここで尻込みしてはそれこそ聞いた意味が無い。
手を膝に置いて、じっと彼女の返答を待った。
「あのね、ロービィ」
マリエルはしばらく黙りこくった後、慎重に口を開いた。
まだ仄かに顔が赤いのは隠せないが、少なくとも落ち着いているのはわかった。
「私も、男の人のそういう気持ち、全然分からないわけじゃないのよ…一応」
意外な台詞に驚いているロービィに、マリエルはスーハーと深呼吸を何度かすると、
「もちろん、私はエリーゼじゃないし、ましてやロービィでもないわ。でも…男の人がそういう気持ちを持つのって自然な事で、別にいけない事じゃないんじゃないかしら…と、思うのだけれど?」
「…師匠にもそう言われたよ」
ロービィはお茶を一口飲んで呟く。
「でもさ…エリーゼはどう思ってるかわからないし、それに…」
「?」
「単純に『好き』っていうのと…その、こういう気持ちっていうのは、やっぱり違うじゃないか」
思いつめた表情でテーブルに視線を落とす彼の悩みは、何となくマリエルにもわかった。
たぶん、ロービィ自身、自分の変化に戸惑っているのだろう。
小さい頃から真面目で、我侭など殆ど言わなかったロービィにとって、こんな風に自分の腕に閉じ込めて放したくない、独占したい存在など、居なかったに違いない。
だから、必要以上に考えてしまう。
こんな気持ちを表に出したら、嫌われてしまうのではないか、そう思って。
(でもね、ロービィ。貴方は忘れてるわ)
マリエルは口には出さずに、そう呟いた。
ロービィが変わったのと同じ様に、エリーゼだって変わっている。
もちろん、だから彼も自分の変化に気付いたのだろうが、彼女の心も成長している事に気付いただろうか。
特にエリーゼは暗竜である。
好きな人を独占したいと思う気持ちは、ある意味で人一倍強いはずなのだ。
けれど、マリエルはその言葉は敢えて自分の胸の中に呑み込んだ。
彼がそう言うのであれば、自分に言えるのは一つだ。
両手を胸の前でぎゅっと握り締めて、彼女はロービィに訴えかける。
「でも…どうしてもわからないなら、やっぱり打ち明けなきゃ。そして、エリーゼに聞くのよ、あの娘の気持ちを」
「どうしても…それしかない?」
「ロービィ!」
マリエルの金色の目がキッと細められるのを見て、ロービィは思わず肩をすくめた。
「…ごめん。君の言うとおりだ。僕が勝手にうだうだ悩んでだって仕方ないよね」
そう言った彼の顔は、悩みをあらかた吐き出した者の、一種の開き直りがあった。
実際の所、彼はマリエルに相談して良かったと思っていたのだ。
彼女が言ってくれたのは、本当は彼の心の中に既にあった事だった。
ただ、自分の中で悩み悩んだあげくにそれを複雑にしてしまったので、答えが出ないような気がしてしまっていた。
それを、彼女が簡潔にしてくれた。
光竜の少女に特有の一途さが、ロービィを助けてくれたのは確かだった。
「でも、どう言えばいいのかな」
「それは、自分で考えなきゃ」
苦笑気味にマリエルは答える。
「例えばさ…マリエルは好きな人に、どんな事を言われたら嬉しい?」
「私?」
無論、エリーゼとマリエルは対極とも言える程に違うが、歳の近い女の子同士、何か参考になるはずだ。
彼女はキョトンとしていたが、やがてだんだんと俯いて、小さな声で言葉を紡ぐ。
「私は…」
「マリエル、お邪魔するよ…って、あれ?ロービィも来ていたのかい?」
突如、軽やかな声を上げて部屋に入ってきたのは、水竜リリックだった。
武術訓練の先輩であり、目の前にいる少女の恋人でもある彼は、目当ての人物を見つけるとぱっと顔を輝かせ、転がるように部屋に入ってくると目を白黒させている彼女の手を取った。
「リ、リリックさん!?」
マリエルは慌てて椅子から立ち上がる。
比喩表現ではなく、ロービィはその瞬間に彼女にパッと光が射したのを見た。
「やあマリエル。突然ごめんね。どうしても君に会いたくなって…迷惑だったかい?」
「迷惑だなんて、とんでもありません!リリックさんが家に来てくださるのなら、例え昼だろうと夜だろうと構いませんわ」
「嬉しいな。そうそう、美味しい水をエレが作ってくれたんだよ。特にこれが、紅茶に絶妙に合うんだ」
「まあ、それならすぐお茶を淹れますわ。それに、美味しいお菓子もあるんですよ」
「ならテラスで食べないかい?…二人きりで」
「リリックさん…」
「マリエル…」
ああ、なるほど。こういう言葉か。
人目も忘れて甘い空間に突入している二人に耐え切れず、ロービィは席を立った。
手を握り合いながら、二人がついでのようにロービィの方に視線を向けてくる。
「あれ、ロービィ。君はもう帰るのかい?」
「ええ。それじゃ失礼します……お幸せに」
未だに甘い言葉を囁きあっている二人を背に、ロービィは逃げるように光竜家を後にした。
「全くあの二人は…」
ブツブツと呟きながら、ロービィは砂利道を歩いていた。
武術訓練の時にはそんな気配はしないのに、一度日常に戻るとあそこまで甘くなれるのだろうか。
いや、ある意味、訓練の時に甘えられない反動が、ああやって出てきているのかもしれない。
二人とも、雰囲気にとことん酔いやすいタイプだから、歯止めがきかないのだろう。
それにしても、よくあんな胸焼けがしそうな台詞をポンポン吐けるものだと思う。
(正直に気持ちを伝えるって…)
まさか、あんな言葉を言わなければいけないのだろうか。
想像して、ロービィは思わず身震いした。
あんな台詞を言うくらいならば、クランガ山の火口に飛び込む方がよほど気楽だ。
けれど、と思う。
あの二人は、あそこに至るまでにも、今のロービィと同じ想いをしたはずなのだ。
気持ちを伝えたくて、怖くて、それでも勇気を出して。
自分の口で想いを伝えたから、今の二人があるのだ。
自分はどうだろう。
真面目な地竜だからこういうのは向いていない、とか、エリーゼだから考えている事が分かりにくい、とか、言い訳ならいくらでもできる。
それでも、自分の気持ちには決して言い訳はできない。
自分を読んでくれる声、涼やかな声でかけられる言葉、自分の心はそればかり考えてきたんじゃないか。
沈んでいた表情が徐々に引き締まり、決然と顔を上げる。
ロービィは踵を返すと、北に足を向けた。
数時間かけて辿り着いた暗竜家には、会いたいと思っていた人は居なかった。
応対に出たラルカは、料理をしていたのだと分かるエプロン姿で、エリーゼは森の方に行っている、と教えてくれた。
「森、ですか」
「…この時間…いつも、行ってるの。一人で…行きたいって」
エリーゼそっくりの漆黒の瞳がじっと見つめてくる。
緊張しながらそれを見返すロービィだったが、やがて彼女はふっと笑みを漏らすと、
「森に入って…西に真っ直ぐ行けば、会えるから…渡してあげて」
「…いいんですか?」
「ロービィなら、大丈夫」
彼女の言葉にロービィは虚を突かれたように目を見開く。
が、それも一瞬の事で、彼はキリっと表情を正して頭を下げた。
「ありがとうございました!」
駆け出していくロービィの背中を、ラルカは黙って見送る。
と、後ろから、兄ウィルフが声をかけてくる。
「ラルカ、お客さんだったのかい?」
「うん…ロービィが来て…エリーゼに会いに行くって」
「ええっ!?」
振り返ったラルカが見たウィルフは傍目にも気の毒なほど狼狽している。
彼は決してロービィを嫌っているわけではない。
ただ、本人に自覚は無いが、そこにエリーゼが絡んでくると冷静ではいられなくなるのだ。
年頃の妹を持った男の悲しい性である。
「じ、じゃあ僕も行こうかな。夕飯までまだ時間はあるし…」
「ダメ、邪魔になる」
言いながら早くも出かけようとする彼の腕を、ラルカはむんずと掴む。
瞬間移動術で逃げようにも、この状態だともれなく彼女もくっついてくる。
「でも、もうすぐ暗くなるし…」
「ロービィがいる。だから平気」
「く、暗い森の中で男女が二人っきりっていうのは、色々と…」
「…お兄ちゃん?」
睨むような目つきで見られて、ウィルフはうっと言葉に詰まり、やがて、がっくりと肩を落とした。
「…わかったよ」
消沈した様子の彼の手を取って、ラルカは家に入る。
ドアを閉める間際、彼女は愛すべき妹分がいるであろう森の方を見て、ひっそりと笑みを漏らした。
ザクザクと音を立てながら、早足で森の中を進む。
この辺りはあまり馴染みのない場所だったが、地竜である彼には自分の通ってきた道が正確に分かる。
帰り道に迷う心配ならこれっぽっちもないはずだ。
が、悲しい事に彼はもう一つの問題点を見落としていた。
探し人がどこに居るかという問題を。
「…見つからない」
それほど広い森ではないから、とたかを括っていたのが命取りだった。
先程から歩き回って、もうこの近辺は探し尽くしたと思うのだが、未だ探し人の影すら無い。
「『うす灯り玉』でも、借りてくればよかったなぁ…」
今更嘆いても後の祭り。
いつの間にやら日はとっぷり暮れ、辺りは闇に包まれている。
けれど、引き返す事はできない。
そもそも、頭に思い浮かびもしなかった。
会ってどうなるかはわからない。
ただ、絶対に今すぐにエリーゼと会って、話をしたい。
頭に浮かんだのは、それだけだった。
「誰?」
本当に何の前触れも無く、足音すらも無しに、声がかけられる。
前にもこんな事があったな、などと思いつつ、ロービィは背筋を伸ばして硬直して――――ゆっくりと振り向く。
「ロービィ?」
振り返った先に、捜し求めていた彼女が立っていた。
いつも通りの無表情で、けれど少年を見るその顔には、微かに驚きの色が混じっている。
それは家族以外では彼だけがわかるであろう、微かな感情の揺らぎだ。
ロービィは片手を上げて微笑みかけた。
「…やあ、こんばんは」
「どう、したの?」
言いながら、滑るような動きで彼女はロービィの傍に寄る。
これくらいの闇なら、彼女には昼も同然なのだ。
下から覗き込むように、じっと見つめられて、ロービィは途端にあたふたとし始めた。
「あ、ええと、わ、忘れ物!ほら、昨日うちに来た時に!」
情けない事に、さっきまでの決意はどこへやら、俄かにロービィは落ち着きを無くしてしまった。
突き出すようにして差し出した右手にあった物を見て、エリーゼの目が丸くなる。
「これ…」
「う、うん。家に届けに行ったけど居なくって、それでラルカさんが森に行ってるって教えてくれて…」
緊張の余り早口で喋り続けるロービィ。
エリーゼは手に取ったそれをしばらく見つめ、そして顔を上げて、
「…ありがとう」
ふわりと微笑んだ。
真っ赤になって慌てているロービィを他所に、彼女はそれを元通り首に掛け、それからまた彼に視線を戻して、二、三度瞬きをして、近くの気の幹を指差す。
「…座ろう?」
「あ、うん」
ぼけっとしていたのを気付かれたかどうか、土壇場でロービィは何とか正気を取り戻す。
結局、彼女に促される形で木の根元に、彼女と並んで座り込んだ。
ふっとため息をつくと、彼は隣に座る少女の横顔を眺めた。
エリーゼは先程受け取った「闇色の勾玉」を掌に乗せてじっと見つめている。
何かを言う必要に迫られて、ロービィは口を開いた。
「…ずっとここに居たの?結構前から探してたのに、全然見つからなかった」
「ここ…夜の精霊が、たくさんいる。だから、あんまり見えない」
言いながら手を伸ばすエリーゼ。
その途端、手の平ほどの大きさの黒い光が、あちこちから集まってくる。
それは光というには余りに小さく、小さな「闇」がわだかまっているようにも見える。
夜の世界の精霊達―――ロービィは息を呑んで見つめた。
暗闇そのものの精霊を初め、精霊の中には闇の中で活動するものも多くいる。
彼らの殆どは、昼間は眠りの中にいる為に、他の竜たちとは付き合いが浅い。
その代わりに、闇を司る暗竜には惹かれるものがあるらしい。
特に暗竜族が空の向こうに旅立ってしまってからは、話し相手がいなくて退屈している、との事。
「だから…時々、お話してるの」
「ふうん…」
エリーゼの解説に耳を傾けつつ、ロービィは改めて宙を舞う光に目を移す。
黒、あるいは紫の光を放つそれらは、エリーゼの周りをくるくると回りつつ、何かを伝えるように発光している。
それらの持つ意味は、当然ながらロービィにはさっぱりわからない。
ただ、その小さな光達に囲まれて目を閉じるエリーゼは、綺麗だと心から思える。
どんな本を読んでもわからないであろう、不思議な美しさがそこにはあった。
見つめるロービィの顔もいつの間にか和んで、二人の間には心地良い沈黙が流れる。
やがて、話したいだけ話したのか、小さな精霊達は、尚も飛び回りながら少しずつ離れていく。
「どんな事を話したの?」
「いろいろ。母さんの事、お兄ちゃん、ラルカの事…森の夜の話…」
そこまで言ってエリーゼは少し沈黙する。
一拍の間が空いた後、彼女は夜空を見上げた。
「それに、声…も」
「声って…」
「みんなの、声。ここ…『力』が強いから…たまにだけど、聞こえる」
それだけで、ロービィには分かった。
彼女がただ「声」という時、それが指すのは一つしかない。
ロービィは無意識に全身が強張るのを感じた。
空の向こうの、暗竜族の声。
エリーゼの同胞が居る、遠い空の向こうからの声。
硬直するロービィに、彼女は少し躊躇った後に、呟くように言う。
「『来たいなら、いつでもおいで』って…遠いけど、行けない距離じゃないから」
「………!!」
その言葉に、殴られたような衝撃が全身を走る。
目の前にあるエリーゼの横顔は、物憂げで何を考えてるか分からない。
混乱する思考を、必死で彼は掻き集めた。
彼女が手の届かない所へ行く。
遠い空の彼方、彼女の一族の元に。
それは初めて思う事ではなかった。
にも拘らず、全身が震えて、目が、首筋がカッと熱くなる。
「?ロービィ?」
彼の様子をエリーゼが不思議に思ったのか、少年の名を呼びながら覗き込んでくる。
二人の距離が近くなったその一瞬。
ロービィの手は自然と目の前の少女を引き寄せていた。
「!?……ロー、ビィ?」
戸惑っていることがわかる声が、耳元に響く。
吐息がロービィの耳をくすぐり、腕の中で彼女が不安そうに身じろぎをしている。
それでも、ロービィは力を込めて、エリーゼを抱きしめた。
華奢な少女を壊さないように、けれど絶対に逃がさないように、力を込めて。
「嫌だ」
言葉が勝手に出てきたようだった。
腕の中のエリーゼが、そっと彼を見上げる。
今にも触れ合いそうな距離で、彼女のあの漆黒の瞳が自分を見上げている。
「僕は嫌だ。君を行かせるなんて、もう会えないなんて、絶対嫌だ!」
「ロービィ…」
彼女の声は、どこか困っているような響きがあった。
無理もない、こんな想いを押し付けられたって困るだけだ。
けれど、ロービィには離すつもりなど欠片もなかった。
ずっと悩んできた迷いも恥ずかしさも、どこかへ吹き飛んでしまった。
エリーゼの身体を、力いっぱい引き寄せて囁く。
「…君が好きだ」
「…!」
「ずっと前から好きだった。君と、ずっと一緒に居たい。身勝手って言ってもらったって構わない!」
「ロービィ…わたし、は…」
戸惑いながら言葉を紡ごうとする少女の額に、そっと口付けを落とした。
「好きだよ、エリーゼ」
触れて、繰り返した瞬間、エリーゼがびくんと震えたのが伝わる。
もちろんロービィだって、今でも顔は火が出るほど熱かったし、身体は緊張の余り震えている。
けれど不思議な事に、彼の腕はますます強く少女を抱きしめていた。
例え怒ったエリーゼに、暗竜術で吹き飛ばされようと同じだ。
と、不意にエリーゼが、少年の胸にぎゅっと顔を押し付けた。
「あのね…ロービィ」
「………」
少し篭った声が聞こえてくる。
ロービィは不思議なくらいの穏やかな気持ちで、彼女の次の言葉を待った。
「わたし、行かないよ」
「……」
「……」
「……え?」
が、次の瞬間聞こえてきた言葉に、ロービィは硬直してしまった。
彼の胸板に頬をくっつけたエリーゼは、視線だけを上に向けて、小さいがはっきりとした声で言う。
「ずっと、ここに居る。…空の向こう……行ったりしない」
「だって、さっき…」
「声が来た…だけ。昨日、返事を送ったの…ここに居ます…って」
そう言って、エリーゼは顔を上げてロービィを見た。
その顔はいつも通りの無表情・・・・なのだが、どこか笑いを堪えているような色があった。
瞬間、ロービィの顔は羞恥心で一気に沸騰した。
行かない?どこへも?
そんなつもりは無いって?
だとしたら、要するに自分は…。
「ロービィ…早とちり」
「っ…!!!」
小首を傾げて、どことなく呆れたようなエリーゼの呟き。
余りと言えば余りな展開に、ロービィは恥ずかしさで死にたい気持ちになる。
パニックに陥って百面相している彼を、エリーゼはじっと見つめて。
それから、顔を伏せて言った。
「でも……ありがとう」
「!?」
言葉が聞こえた直後、エリーゼの唇がロービィのそれに重なる。
数秒だけの口付けが離れた後、エリーゼの顔が間近にあった。
「嬉しかった」
慌てふためく彼の、間近にエリーゼの顔がある。
そこにあるのは、少し可笑しそうな、けれどどこまでも優しい微笑み。
ロービィが、この笑顔の傍に居たい、離したくないと思った笑顔。
それに込められた想いが伝わった瞬間、ロービィの顔はかつてないほど真っ赤になった。
彼の胸元に再び顔を埋め、エリーゼは囁くような声で呟く。
「ロービィ…私と居るの、嫌だって…思ってた」
「…どうして」
心外な言葉に、ようやくロービィもまともに返答ができるようになる。
もっとも、衝撃の連続で未だに心臓はバクバクといっているけれど。
「私と話す時…真っ直ぐ見てくれなかったし…何だか…いつも変だったし…」
「悪かったね…いつも変で」
不貞腐れたような声が思わず出てしまったが、自分が悪いという事はわかる。
彼女をもう一度しっかりと抱き寄せると、あの艶やかな黒髪が頬をくすぐった。
「…その…こんな事話したら、エリーゼに嫌われるんじゃないかって思ってさ…そうしたら…何だか何にも話せなくなっちゃって…」
「こんな事…って?」
「今、やってるみたいな…事さ」
口にすると、改めて今の状況が分かってきて、ロービィの顔はますます赤くなった。
エリーゼは顔を上げると、若干怒ったような、険のある声で言った。
「…ロービィ…いつも、考えすぎ」
「…ごめん」
素直にロービィは謝った。
誤解を抱かせて、不安にさせていたのは自分だった。
その事に気付くと、彼女にそんな想いをさせてしまった事への後悔が湧いてくる。
答えはもっと、簡単な所にあったのに。
けれどエリーゼは、首を振りながら、人差し指を彼の口元に当てた。
「いい…謝らないで。…せっかく…大好きな人と…居るんだから…勿体、ない…」
俯いて、消え入りそうな声で言うエリーゼ。
その時初めて、ロービィは彼女の頬がほんのり赤くなっているのに気付く。
何だか本当に、彼女が愛しいと思う気持ちが溢れ出てきて、彼は回した腕に力を込めた。
温かい少女の体温が、これは夢じゃないと教えてくれる。
嬉しかった。
彼女も同じだったのだろう、強張っていた小さな身体から、少しずつ力が抜けていく。
「ラルカに…何て言われる、かな」
「…心配ないさ。ここを教えてくれたのは、ラルカさんだもの」
エリーゼが腕の中で微かに身じろぎして彼を見上げる。
「わたし…料理は、あんまり上手くない、よ?」
「そんなこと無いさ。むしろ食べすぎを心配しなきゃいけない」
「暗竜だから…すごくヤキモチ焼く…と思う」
「恥を忍んで白状すると、僕も結構なものなんだ」
「…あんまり上手く、笑えないし」
「普段のエリーゼでいい。十分可愛いよ」
言いながらロービィは、これじゃリリックさんの迷台詞の事を言えないな、と心の中で苦笑した。
最後の言葉に、エリーゼは顔を上げて、ほんの少し悪戯っぽい色を湛えて、くるりと漆黒の瞳を動かす。
「いつか…突然空の向こう…飛んで行きたくなる…かも」
「…っ…そ、その時は、君にしがみ付いてでも、一緒に行くさ!」
明らかに動揺が見えつつも、ロービィはきっぱりとそう答えた。
エリーゼはきょとんとして彼を見たが、不意に衝動に襲われたらしく、声を殺して笑い始めた。
「わたし…そんなに重いの、持てない」
「…笑う事ないだろ」
思わずむうっとなるロービィだったが、腕の中の少女は未だに笑いをかみ殺している。
何だか、不公平な気がした。
結局、最後まで彼女に動揺させられっぱなしだったじゃないか。
衝動的にロービィは手を伸ばして、エリーゼの細い顎をくいっと持ち上げた。
そして目を見開いている彼女が何か言うより早く、今度はロービィから唇を重ねる。
「んっ…ふぅっ…んん…」
柔らかな感触と甘い声に、今まで押さえていた衝動が解放される。
黒い髪を指で丁寧に梳きながら、ありったけの想いを込めて口付けた。
エリーゼはじっとしていたが、最後の方には流石に息苦しくなったようで、結局翼をバタバタと動かすに至って、ロービィは彼女の唇を解放した。
大きく息を吐いて彼の胸に倒れこむエリーゼを、ロービィはしっかりと受け止める。
「…ロービィ…意地悪」
「じゃ、これでおあいこ、だね」
言った言葉にエリーゼが潤んだ目を開けて。
目が合った瞬間、どちらともなく笑い出した。
そうしてエリーゼは、もう一度彼の肩に手を回す。
「ロービィ」
「ん?」
「…好きだよ。わたしは、ロービィが好き」
「…ああ、僕もだ」
言葉と共に、エリーゼは彼の身体をそっと抱きしめた。
初めて会った時から大きく成長して逞しくなった、けれどその手の暖かさはちっとも変わらない彼。
この温もりが教えてくれる。
例えどんなに暗い闇でも、帰るべき大地がここにあるんだ、と。
少年と少女の影は抱き合ったまま、柔らかい草の上へと倒れこむ。
仄かな光を放つ夜の精霊たちだけが、二人を静かに見つめていた。
休日の暗竜家の居間。
ラルカは昼食の洗い物をしており、メリアは椅子に座って編み物をしている。
エリーゼは読んでいた本を置いて、流し場に歩み寄った。
そうして、彼女にだけ聞こえる声で、そっと尋ねる。
「ラルカ」
「?」
「ロービィに…私の場所、教えた…よね?」
ラルカはこくんと頷いた。
一段と声を潜めてエリーゼは問う。
「ラルカは…知ってた…の?ロービィの…その、考えてる…事」
「何のこと?」
知らない、というラルカだが、明らかに演技である事は一目瞭然だ。
他人ならまだしも、ずっと一緒に育って来たエリーゼは、彼女の一見して無表情に見えるその中に、面白がるような表情が隠されているのを見抜いていた。
「教えちゃ、ダメだった?」
「いい…もう」
微かに顔を赤くして、エリーゼは席に戻る。
背後でラルカがほくそ笑んでいる気がして、何だか悔しい。
が、ここで色々と問い詰めると、逆に昨日の夜の事を根掘り葉掘り聞かれそうなので、ここはぐっと我慢する。
椅子に座って、読んでいた本にまた意識を集中する。
「…エリーゼ」
今度はラルカが声をかけてきた。
本から目を離して、エリーゼは彼女に視線を移す。
「なに?」
「…よかったね」
ラルカの顔に浮かんでいたのは、面白がっているような笑みではなかった。
自分の事をずっと姉のように見守ってくれた彼女の、包み込むような微笑。
二人だけが共有できる、大切な想い。
それが伝わったから、エリーゼは自然と顔を綻ばせた。
「…ありがと」
ラルカは頷いて、また洗い物に戻った。
午後の日差しにまどろみながら、エリーゼは昨日の事、それに帰ってからの事を思い出した。
当然ながら、みんなびっくりして、心配していた。
二人して居なくなって、しかも帰ってきたのが朝だったのだから、当たり前だと思う。
ロービィはこれも予想通りというか、ユイシィに大目玉を食らっていたが、ランバルスが上手く取り成してくれたので何とか家の手伝い一週間と引き換えに解放してもらえた。
ただ、その時ランバルスが自分と、それからロービィとを見比べて、急ににやりと笑った時には、思わず顔が熱くなるのを押さえる事ができなかったが。
家ではと言えば、メリアは遅くなったことについてはとても怒っていたけれど、それ以外については何も言わなかった。
ただ、優しく彼女の肩に手を乗せて、微笑んでくれた。
たぶん、メリア母さんは全部知っているんだろう、と思う。
でも、いつかはちゃんと言いたい。
自分の口から、大好きな人の事を。
ふと胸元の感触に気付いて、エリーゼは首にかけていたものを手に取った。
鈍く輝くそれは、ロービィが届けてくれた闇の勾玉だ。
本当はもう効果が切れかけていたけれど、エリーゼは頑張ってまた力を込めた。
だってこれは、彼が持ってきてくれたものだから。
彼の想いが篭った、世界中で自分だけの宝物。
目を閉じてそっと口付け、エリーゼはもう一度窓の外を眺める。
降り注ぐ陽の光はどこまでも優しく、暖かかった。
〜了〜