卵の頃から一緒にいて、何でも二人で分かち合ってきた。
おやつの残りも半分こ。補佐竜の役目も半分こ。いたずらの仕掛けは合わせて二倍、怒られる時も合わせて二倍。
嬉しい時も、悲しい時も、一緒に笑って泣いてきた。
お互いの気持ちがわからないことなんて、絶対にないと思っていた。
* * *
コーセルテルで長いこと少年期を過ごした竜が、里に戻ったとたんに急成長するのは有名な話。
わかっていても、それを目の当たりにするとちょっと戸惑う。ううん、正直な話、僕はすっかり困ってしまったんだ。
ノイが、まるで別人みたいに変わってしまったものだから。
別人っていうのはたとえ話でもなんでもなくて、一度なんか、本当に見間違えてしまったほど。里で歓迎を受けたあとそれぞれ両親の家に帰って、挨拶や案内なんかに引き回されて数日過ごして、しばらくぶりに顔を合わせた時のことだった。
はじめは知らない女の子が歩いていると思って、道を譲ろうとしたら、ぽかんとした様子で声をかけられた。
「ロイってば、何をぼんやりしてるの?私に気がつかなかった?」
「えっ!?」
改めて見直せば、たしかにノイの顔。
なのにそれは、僕の知ってるノイよりもどこか大人びていて。まるで初めて見る顔のような気がして。
「ノイ……だよね?」
つい尋ねたら、思いっきり眉を顰められてしまった。
「何ヘンなこと訊いてるのよ。私たち、これから里のお仕事にも参加していくみたいだし、挨拶回り位で疲れてる場合じゃないんだから。しっかりしないと」
「あ、うん……」
肩を叩いて励ましてくれる態度は以前と同じで。ああ、見た目が変わりかけてるだけなんだって、その時は思ったけれど。
芽吹いた不安は消えなくて、それ以来、何かにつけノイの様子を窺うようになった。
変わるのは見た目だけじゃないと気づくまで、そんなに時間はかからなかった。
* * *
道の前方を妙に華やいだ集団が歩いている。
夏の薄着に包まれた、曲線的な体つき。白い頬に薄紅の唇がくっきりと鮮やかで。何を話しているのか、始終楽しそうな笑い声が響く。
子竜より大人で竜術士より若い、コーセルテルではあまり接する機会のなかった年頃の女の子たち。その所為なのかどうなのか、ほんの少しだけ、なんだか眩しくて近寄りがたい感じがする。
……困るのは、中でもひときわ眩しくみえる子が、他でもないノイだということ。
ここへきてノイは、いよいよ大人っぽくなっただけでなく、明らかにきれいになった。そう思っているのは決して僕だけじゃないようで、行きあう若い男の竜は誰も彼も、彼女に一声かけていく。ああもう水竜じゃあるまいし、なんで皆そう浮ついているんだろう。
「気になるんだったら、君も声をかければいいのに」
隣から発せられた声に心臓が跳ねた。
「べっ、別にノイが誰と話そうと、ちっとも気にしてなんか――」
「おや?ノイのことだなんて僕は一言も言ってないんだけどなあ」
「……クルヤさんの意地悪!」
この人はいつもこんな調子。弟みたいな扱いでいろいろ面倒を見てもらっている分、遠慮なく玩具にされてしまう。拗ねたところで余計からかわれるだけだってことは解ってるんだけど。
「あーら珍しいわねクルヤ、喧嘩?」
「新入りのボウヤをいじめちゃダメじゃないの」
そのうちもっと年上のお姉さんたちまで寄ってきてしまった。この人たちはクルヤさんの取り巻き。なにしろ先々代の補佐竜で里の信用厚い守長で、しかもまだ結婚してないとなれば、まあとにかく女の竜たちが放っておかない。
クルヤさんの方も慣れたもので、お姉さんたちに囲まれても平然としたものだった。
「喧嘩でもないし、いじめてる訳でもないよ。そんなことより、ロイが照れちゃって婚約者に話しかけられないって言うんだ。みんな励ましてあげてよ」
「ちょっ……クルヤさんっ!」
抗議の声は、一気に盛り上がったお姉さんたちのはしゃぎ声にかき消された。
「まあ!わかるわー、ノイちゃんてば急にかわいくなっちゃったものね」
「だからって逃げてちゃダメよ、そんなんじゃ婚約してたって他の男に取られちゃうわよ!いいこと、女の子に声をかけるタイミングっていうのはね――」
クルヤさんみたいにお姉さんたちの矛先を上手くかわすなんて芸当、僕には真似できやしない。どぎまぎしながら逃げ場を求めて左右を見回す。
ふと、ノイと目が合う。
それは本当に一瞬のことで、次の瞬間にはふいっと向こうから視線を逸らされてしまった。
(……あれ?)
なんだろう、ちょっと冷たい反応。まるで喧嘩をしたときみたいに――だけど今、僕たちは喧嘩なんかしてないのに。
気のせいだと思いたい。けれど……
その日の夕方、僕はいつもより早く帰途についた。持ち帰りの書類仕事がずっしりと重いけど、あえてまっすぐ家には帰らず回り道をした。
族長の家に向かう小道の手前で立ち止まる。
長く待つ必要はなかった。小道の向こうからこれまた重そうな書類袋を抱えたノイがやってくる。僕と同じで、早く仕事に慣れるようにとたくさん課題を与えられているんだろう。
ノイは僕に気づくと足を止め、それから何事もなかったかのように再び歩きはじめた。すぐ近くまで来たところで、ようやく顔を上げる。
「……何か用?ロイがこんなところに来るなんて」
「家まで送るよ。荷物、貸して」
少々強引に袋を受け取る。お互いに黙ったまま、並んで歩き出した。
以前、喧嘩をしたときもこうやって仲直りしようとした。でも今回のこれは喧嘩じゃない。なのにどうして、こんなにも気まずいんだろう。
「――あのね」「――あのさ」
意を決して話しかけようとしたとたん、言葉が被る。ああ、まったく間が悪い。
「あ……いいわ、ロイが話して」
そう言われても大した話がある訳じゃないのだ。ただ、今朝のことを確かめたかっただけで。
「えーと、その……僕、ノイに何か悪いことしたのかな。怒ってるんなら、謝らなくちゃと思って」
せっかく切り出したのに、ノイは首をかしげた。
「何の話?私なんにも怒ってなんかいないわよ」
「え?だって今朝、道で目を逸らしただろ」
「そんなことあったかしら」
心当たりがない、というにはなんだか声が冷たい。それに目も合わせてくれない。
「やっぱり怒ってるんじゃないか」
「怒ってません」
「嘘ついたって僕にはわかるよ。なんで怒ってるのか話してくれなきゃ、謝りようがない――」
「――話はそれだけ?」
ノイが足を止めた。ようやくこっちを見上げてくれた、まなじりがキッとつりあがっている。
「ここまででいいわ。送ってくれてありがとう。じゃあね、おやすみなさい!」
書類袋をひったくり、ずんずん歩き出す。僕は追いかけるタイミングを失った。
ノイの話を聞きそびれたことに気がついたのは、長いことその場に立ち尽くした後だった。
それからというもの、僕たちは忙しい仕事の合間に顔を合わせる機会も少なく、仲直りのきっかけもつかめずじまい。
不可解なノイの態度。すっかりおかしくなってしまった、僕たちの関係。
なぜ。いつのまにそうなってしまったのか。どうしたら昔のような仲に戻れるのか。
僕にはわからなかった。
* * *
「どうしたんだいロイ。恋わずらい?」
ある日ため息をつきながらクルヤさんの部屋に入ると、部屋の主にからかわれた。
今朝も男の竜たちに囲まれてるノイを、何もできず遠くから見送ったばかり。今の僕には反論する余裕も気力もない。いっそう肩を落として落ち込むしかない。
「……これはまた重症みたいだねえ」
さすがにクルヤさんも表情を改めた。
「仕事が手につかないようなら、二、三日お休みするかい」
「えっ」
「というのは半分冗談だけど。実は僕の方がしばらく仕事の手が空いてね、族長に言ってお休みを貰ってきたんだ。その間君も少し羽を伸ばすといいよ。最近ずっとがんばってたしね」
「いいんですか、そんな」
「丁度いい機会じゃないか。――相談したい人がいるんだろう?」
思わず目を丸くする。
それは、まさにこの数日僕が考えていたことだった。
空渡りの路を往く。
成長してから、ぐっと術力が安定したのには気づいていた。だからこんな難しい術も自在に使いこなせる。
里に戻ってノイとふたり術のお披露目をしたときには、実に精緻でそつがないと誉められた。そのように教えてくれた人のおかげで、今になって苦労しないで済むのだとわかる。
問題もなく目的の場所に近づき、地上に降りた。
とある人間の国の国境。今はなき国名で呼ばれていた土地と、今もなお竜族がもっとも警戒する土地の間にある、人里離れた山奥の谷。
そこに小さな家がある。
住人はその隣の畑を耕していた。何年も離れ離れになっていたわけでもないのに、その姿を見たとたんに懐かしさがこみ上げた。声をあげて駆け寄る。
「カディオ!」
相手も手を休めて振り返った。
「ロイ。よく来たな」
微笑んで、肩を抱いてくれる。なんだか昔に戻ったよう。
「すっかりでかくなって。もう追いつかれたかな」
「まだまだだよ」
そうは言っても、並んだ肩の差は拳ひとつ分。あれほど高く見えたカディオの背丈とほとんど変わらないのだと知って、自分でも驚いた。
「まあとにかく中に入れ、ここでは暑いだろう。何もないが茶ぐらい出すぞ」
家の中は、かつて僕らがすごした家と同様、小ぎれいに片付いていた。
「あれ、カディオ一人なの?」
この家の住人はもう一人いるはずだ。
「ああ、今ちょっと出かけてる。――ここは大国の動向を見張るにはいい場所だから」
そう言って出してくれたのは僕の大好きな葉のお茶と、やっぱり大好きなジャムをのせたクラッカー。まるで僕の来るのがわかっていたかのようだ。
「……ひょっとして、クルヤさんから何か聞いてる?」
「何のことだ?このところクルヤとは連絡を取っていないが」
すると偶然なんだろうか。いやいや、カディオのことだから何もかもお見通しなのかもしれない。僕のことも――ノイのことも。
「……ねえカディオ。最近僕、ノイの考えてることがわからなくなったんだ」
僕はこれまでの出来事を洗いざらい話した。ノイが急に大人びて話しかけにくくなったこと。僕より他の男の竜とばかり話していること。なぜかわからないけど機嫌を損ねて喧嘩になったこと。それからちっとも仲直りできないこと――。
「――どうしてこんな風になっちゃったんだろ。カディオにはわかる?」
返事の代わりに笑い声が返ってきた。
「もう、まじめに訊いてるのにっ」
「ははは、いや、すまん。でかくなっても、おまえらはちっとも変わらんと思ってな」
「変わったよっ。こんな喧嘩は本当に初めてなんだ。もうどうしたらいいのかわかんないよ」
「そんなことはないさ。――ただの背中合わせだ」
カディオは笑いを収め、まっすぐに僕を見た。
「単刀直入に訊くがな。ロイ、おまえ自身はノイのことをどう思っているんだ?」
「え!?な、何をいきなり……」
「里の木竜たちは、おまえらがいずれ結婚するものと決めている。そのことに不満やためらいはないか?」
「あ、あったらこんなに困ったり相談に来たりしないよ!」
思わず叫ぶ。叫んだ後で、自分が口走ったことの意味に気づいて顔面が熱くなった。再びカディオが笑う。
「じゃあ、それをノイに伝えてやればいい。それで万事解決だ」
「え……それだけ?」
「そう、それだけ。おまえがノイの気持ちを見失ったように、ノイもおまえの気持ちを見失って不安になっている。お互い同じ悩みを抱えて、それに気がついてないだけだ。ちゃんと話し合えばわかるはずだぞ」
そうなのだろうか。今もノイは僕と同じ気持ちでいるのだろうか。――いつも一緒にいたずらを考え、一緒に叱られない方法を模索していた、あの頃のように。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
「カディオ、ありがとう。僕もう帰るよ」
急いでお茶を飲み干し、席を立つ。
「なんだ、慌ただしいな……またいつでも訪ねてこいよ。今度はノイや、他の奴らも一緒にな」
「うん、今度はそっちも二人揃ってるときにね。せっかく念願の同居が叶ったんだから、夫婦喧嘩なんかしちゃダメだよ!」
カディオがまだ何か大声を上げていたけれど、僕の耳には入らない。家を飛び出し、谷を飛び出し、空の道を全力で駆ける。
はやく、一秒でもはやく。
ノイに伝えたいことがある。
* * *
里に着いたのは完全に陽が落ちる少し前。
僕はまず族長の家に向かった。
「ごめんください!ノイはこちらに来てますか!」
一息にまくし立てる。応対した家人は面食らったようすで教えてくれた。
「まあ少し落ち着きなさい。ノイならしばらく休暇を貰って家にいるはずだよ」
このタイミングの良さ。今度こそクルヤさんの手回しに違いない。そうでなければものすごい幸運が背中を押してくれてるってことだ。
お礼もそこそこにとって返し、ノイの実家に向かう。取次ぎを頼んで、深呼吸しながら彼女の出てくるのを待った。そしてその時がきた。
夏の宵、薄色のワンピースを着て立つノイは、一番長く一緒の時間を過ごしてきた僕でさえ見たことがないほどきれいで。――もう、完全に成竜の女性になっていた。
「……何か用?」
この前喧嘩した日も同じせりふから始まった。でも今日は、本当に大事な用がある。
「聞いて欲しい話があるんだ。人のいないところで話したい。いいかな」
そう言うとノイは少し驚いたように、いいわよ、と言ってくれた。家の人に断りをいれ、並んで夜道に出る。
白い月が昇っていた。
夜の呼吸に移ったひそやかな森をぬけ、小さな花畑に入る。ここなら月明かりが入って多少明るい。その真ん中で、どちらからともなく立ち止まる。
「それで。話って何」
上目づかいにほんの少し尖った唇。本当はまだ怒っているんじゃないか、そんな不安を悟られないよう、僕は努めてなんでもないような顔をして話し始めた。
「実は僕、南の海に行こうと思ってるんだ」
「え?」
いきなりそう切り出すとは思ってなかったんだろう。ノイは目を丸くした。
彼女の感情がまた隠れないうちにと、急いで続きを話す。
「ほら、昔話しただろう、僕の夢。南海の秘密の小島におもしろ植物の楽園を作るって。仕事の合間にちょっとずつ準備しててね。リリックと手紙もやりとりして、ちょうど良さそうな群島も見繕ってもらってある。
――本当はもっと前に返事が来てたんだ。近海の水竜たちに知らせて、いつ来てもいいよう用意はできてる、って」
文面は『避難勧告』とか『難民の受け入れ態勢』だったような気もするけど、細かいことは気にしない。リリックは僕たちより少しだけ早く里に戻っていて、今では立派な若守長なのだとか。
「それでね」と、僕は改めてノイの方に向き直った。
本題はここからだ。
「僕の夢は、きっと一人じゃ叶えられない。だから――ノイに手伝ってほしい」
気持ちが伝わるようにと、祈りを込めて言葉を綴る。
「他の誰かじゃダメなんだ。どうしてもノイじゃないと嫌なんだ。……どう、僕と一緒に来てくれる?」
そこまで言って、言葉を切る。
ノイはすっかり俯いてしまっていた。その表情は僕には見えない。覗きこむほどの勇気はなくて、僕はただ待った。
ほんの短い時間が、まるで永遠のように思えた。
やがて顔を上げたとき、ノイの目はしっとり濡れていた。けれどもそこに浮かんだ表情は、晴れ晴れとした笑顔だった。
「……やっと言ってくれた」
「ノイ?」
「ずっと待ってたのよ、いつその夢の話をしてくれるのか。ロイったらもう忘れちゃったのかと思ってた」
「忘れるわけないじゃないか、僕は本気でこの夢を叶えるつもりなんだから」
そうよね、と安心したような微笑み。
「はじめはお仕事が大変でまだ余裕がないんだと思ったわ。それから、成長したら子竜の頃の夢なんか忘れたのかしらって腹が立った。――おしまいには、ロイが忘れたのは夢じゃなくて私のことなんじゃないかって……そう思って、すごく悲しくなったの」
「え?」
「だって、ロイってば里に来てからぐんぐん大きくなっちゃって。前は同じ身長だったのに、今じゃ私、あなたの肩にも届かない。私が一生懸命見上げても、あなたが見下ろしてくれなきゃ視界に入ることもできないのよ」
そういえば僕も、ノイが顔を上げてくれないと顔色がわからなくて不安だった。あれは身長差のせいだったのか。
「だから、ロイにはもう私が見えていないような気がして。実際、私にはちっとも話しかけてくれないし、そのくせ他の女の竜たちとはよくお話してるみたいだし」
「あ、あの竜たちはクルヤさんを追っかけてるだけだよ。ノイの方こそ男の竜たちにちやほやされてさ。本当はやめてほしかったけど、ノイが急に大人っぽくなっちゃったもんだから、なんだか話しかけづらくて」
ノイはきょとんとし、それからプッと吹き出した。
「やだもう。カディオの言ったとおりだわ」
「へっ?」
カディオだって?
「この前ロイに送ってもらった後ね。どうしてあんなことになっちゃったのかわからなくて、カディオに相談しに行ったの。そうしたら、もっとお互いの心の近さを信じていいって言われたの。
『考えてることはいつでも同じ、今は背中合わせになってて互いの心が見えないだけ。二人の間には誰も入り込む余地がない』――って」
「ああ、僕も似たようなこと言われたよ」
ノイが目を瞠る。
「言われたって、カディオに?……まさかロイも相談に行ったの?」
「実はそうなんだ」
二人、顔を見合わせる。そして同時に笑い出した。
「私たち、本当に何もかも同じこと考えてるのね」
本当にそのとおりだった。ここまで想いを共有できる相手は他にはいない。お互いに世界中でたった一人。
なんだか無性にいとしさがこみ上げてきた。
僕はノイの肩を引き寄せ――唇をふさいだ。
「!?……ロイ……?」
「……里の意向とかじゃなくて、僕たちの間でちゃんと約束した方がいいと思って」
ノイの頬は月明かりの下でも赤い。きっと僕もそうなんだろう。
「もう一度訊くよ、ノイ。――僕についてきてくれる?」
彼女は泣きそうな顔で笑い、答えた。
「――もちろんよ!」
そして僕はしっかりと、ノイを抱きしめた。
<終>