先頃、十年余に亘る初恋を実らせた木竜術士に待っていたのは、幸福と受難の日々だった。
一方通行規制が解除されてそろそろ半月になろうかという頃合いだが、ここの所どうもうまく行かない。
彼が自身で推測するに理由の一つは、付き合い自体は既に十年近いというのにいまだ何処で彼女の不機嫌スイッチが入るのか掴めないでいたこと。
もう一つは、彼自身が新たに抱えた問題。
袋小路と思っていた場所から急に道が開けて以来、前方に存在するさまざまなものが明瞭に意識されるようになり…意識しすぎてしまう。生じてしまったそれらひそかな願望を持て余し、彼女に悟らせまいと必死に自制しているのだが。
(そしてもう一つ、彼が気付かなかった理由がある。実のところ自制すればするほど裏目に出ていると気付かなかったこと。だった。)
若干気分屋なきらいがあるとはいえ彼女の1日の機嫌曲線は、会ってすぐを上限とするならば、時間の経過とともに下降の一途、夕方日暮れ頃には低空飛行から飲酒注意報発令……というのがここ最近のパターンになっていた。
さて、ここで問い。呑んべえが酒屋に足繁く出入り出来たらどうなるか?
答え。作り置いた酒は一晩一タルペースで飲み尽くされる。
それほどに飲んだならば当然の如くに暴れる。くだを巻く。絡む。不審に思って問い詰めて来る子竜達を誤魔化すのも一苦労だ。そして人が黙々と後始末している横で何とも幸せそうに眠ってしまう……
喜ぶ顔が見たいために、飲んで貰うために自分は飲みもしない酒をせっせと造っている。とはいえ、いくらうわばみだ酒豪だと言っても度が過ぎる。急性アルコール中毒で想い人を失うなど、笑い話にもならない。
悶々鬱々、困惑に浸りつつあったある日、彼は木竜家貯蔵庫で何度目かの飲酒現場に出くわした。
既に出来上がりかけていた彼女は何やらわめきながら突っ掛かって来た。慌ててよけようとしたがバランスを崩し……
咄嗟に彼女の背に腕を回し、強く抱きしめてしまっていた。
「え?!」
双方、息を呑んで時間が止まる。一瞬ののち、こわばった彼女の身体がくたりと脱力した。
「エ、エレ!?」
驚いて抱え直すと、腕の中でエレが真っ赤な顔で見上げていた。
「カディ、オぉ…」
小さく呟く。
―――意外な弱点…?
そのまま寝入ってしまったので、酔いつぶれた常の通り、律儀に彼女を水竜家に送り届け。単なる偶然か、気のせいかもと首を傾げながらその日は終わった。が。
―――知りたい。確かめたい。
寝付けない床で思い返されるのは、驚くほどおとなしく…可愛らしく…なったエレ。
もとより、猫を被らず、悪意をぶつけて来た彼女さえも嫌いになれなかったカディオだ。別にしとやかで言いなりになって欲しいというわけでもない。そんな彼女が彼女らしいとも思えないし。しかし腕に残る感触に胸の奥が熱くなった。
思えば、竜術士になってからこそ子竜と抱擁の機会くらい幾らもあろうが、もともと一国の王女だ。男に(それも、好きな相手に…と考えて一人赤面する)抱きしめられた経験はほとんどないのかもしれない。
そういえば、初めて想いが通じ、抱きしめた時も似たような反応を示してはいなかったか。あの時は気持ちを伝えるだけで一杯一杯、何かを考える余裕もなかったが。
翌朝、逸る気にまかせ考えもまとまらぬまま、足が水竜家を向いていた。
エレもまだぼうっとした様子で心持ち目を逸らしながら相対した。
「少し、散歩にでも出よう。大丈夫か?」
「…ええ。」
おぼつかない足取りなのを見て取り、水竜家をやや離れた辺りで手を差し出すと、びくりとした後、おずおずと握って来た。自然とほころぶ口の端を押さえるのに骨を折る。(その様子を盗み見てしまったエレの心中に彼は気付かなかった…)
しばらく歩いて手頃な場所を見付けると、二人並んで腰を下ろした。
「エレ…」
呟いたきり、止まってしまった。何を言ったらいいのか。どうきっかけを作ればいいか。
酒をもう少し控えて欲しい、あんたの身体が心配だ、今日だってまだ本調子じゃないだろう?、あんたの身に何かあったら俺は―――
「…カディオ?」
黙ったままの彼の様子に、上目遣いで見上げて来るエレ。その顔に、表情に、昨日の情景が重なり。寝不足の頭からは一点以外すべて吹き飛んでしまった。
「きゃっ?」
唐突に抱き寄せる。ああ、そうだ…俺は…
「好きだ、エレ…」
「か、カディオ…」
腕に力を込め、細い背に這わせる。
「は… んっ…」
ほどなくエレの身体から力が抜けた。と思うと、入らない力で必死にしがみついて来た。
「わ、たし、も…。好き…」
その言葉が終わらないうちに吐息ごと奪い、自分の想いを絡めて溶け合わせた。
長いような短いような時間は、脳天気に食事の準備が出来たと呼ばわる少年竜の声で終わり。
帰路、エレがぽそりと呟いた。
「やっとあなたと気持ちが通じたと思ったのに、いつもなんだか深刻そうな顔してるから。いつ別れ話でも切り出されるのかと怖かったわ…」
「深刻…?」
「ここに来る時もだけど、眉間に皺寄ってたわよ。一緒にいるのに心ここにあらず、って感じだったし」
…それは、あー……。
「気負い過ぎていたのかもな… どう接していいのか。その……、好き…、すぎて…」
最後は風に消えかけたが、握った手にやや籠もった力と真っ赤に染まった顔を見るに、通じたようだった。
…ああ、そうか。お互い不器用で想いを伝えるのが下手なんだな……
何となくわかってしまった。最初からこうすれば良かったのか。こうして良かったのか…。
しかし
それだけではまだ足りなかったことに彼が気付くのはもう少し先の話。
そしてエレの酒癖が改善されたかといえば、これはもう全く別の話なのだった―――