”水の宴”  
 
最近、ぐずついた天気が続いている。  
雨が嫌いではないぼくら水竜術士の家も、すっかり静かになってしまった。  
雨の音に喧騒は消え、夜はいつもより早く眠りに就く。  
ぼくは雨が嫌いじゃない。  
だけど、明日は晴れるといい。  
そうしたら、みんなでピクニックにでかけるんだ。  
 
「おやすみ、エレ」  
「おやすみ。ティルク」  
静かな家に、エレが子竜たちを寝かしつける声が聞こえる。  
「また明日ね」  
リリックは風呂掃除や、明日着るみんなの服の準備など  
細々とした仕事をこなしながら、その声を聞いていた。  
最後にパタン、と扉が閉まる音がして、辺りは静まり返る。  
けれどその音が、玄関の戸が閉まる音に聞こえて、机を拭く手を止めた。  
「エレ?」  
リリックがそっと玄関の戸を開けて覗きこむが、暗くて辺りの様子が分からない。  
雨が降っているのだ。当然、星明りもない。辺りは完全な闇に近い。  
ぱしゃん、と水たまりを踏む足音がして、リリックはびくりと肩を震わす。  
「エレ・・・」  
白い寝巻きを羽織ったエレは、少しだけ周囲から浮き上がって見えた。  
髪から、ぽたりと雫が落ちた。  
「まだ起きてたの、リリック」  
「ひょっとして、酔ってる?」  
薄く微笑んだエレの、きらめくような美しさに、リリックはかすかな恐れを感じた。  
「ど、どうしたの・・・?」  
「酔えたら」  
エレは雲に覆われた空を見上げる。そこにあるのは暗闇だけだ。  
「いいんだけど」  
 
「酔ってるわけじゃないの・・・?」  
「あなたはもう寝なさい。私はもう少しここにいるから―――」  
「ダメっ!」  
自分も濡れてしまうにも関わらず、リリックは玄関を出てエレの手を掴んだ。  
「何があったか知らないけど、このままじゃ風邪ひくよ。  
 酔ってるわけじゃないんなら、余計ダメだよ。前のお茶会のあと、  
 風邪ひいて散々、クララたちを心配させてたじゃないか。  
 また、それを繰り返すの?」  
サラサラと、雨音が静かに静寂を破る。  
エレは微笑みを消して、リリックの手を握り返した。  
「ごめんなさい。忘れてたわけじゃないのよ。ただ、・・・不安で」  
エレは、つないでいない方の手を、胸の前でぎゅっと握り締めた。  
「・・・あの日も、雨が降っていたわ」  
横を向いたエレの目は、どこか遠くを見ていた。  
リリックの知らない、遥か遠くの世界を。  
「あの日?」  
「私は、間違っていたのかもしれない」  
小さな声。けれど、それは雨音に消されることなくリリックの耳に届いた。  
「エレ・・・ひょっとして、ここに来たことを、コーセルテルに来たことを、  
 後悔しているの?」  
「それは違うわっ。後悔はしてない。私はここにいられることが、すごく幸せだもの。  
 だけど、私が置いてきた人々は―――」  
エレが言葉を切る。つないだ手から、かすかに震えがつたわってくる。  
リリックは濡れることで寒さを感じることはないが、エレは人間だ。  
このままでは、本当に風邪をひいてしまうだろう。  
「エレ。とにかく、水をはじこう。エレは一人になりたいのかもしれないけど、  
 今のエレを一人にすることは、ぼくにはできないよ」  
「リリック・・・」  
黒い瞳がリリックを見つめる。酔っていないとは言っていたけれど、  
お酒を飲んだのは確かなのだろう。目が潤んだようになっている。  
 
頬もわずかに赤い。  
リリックは不意に、びしょ濡れになったエレの姿を意識した。  
水を吸って、皮膚に張りついた白い寝巻き。肌の色が透けている。  
いつもより薄着な分、体の線がよく分かる。  
なめらかな肩、細い腰、形の良い腕。豊かにふくらんだ胸。  
「ありがとう、リリック。じゃあ、少し力を貸してね」  
「う、うん」  
つないだ手から、自分の早くなった鼓動がつたわりはしないかと  
リリックは危ぶんだ。  
二人の周囲を淡い光が舞い、エレは服は水気を失った。  
残念に思う気持ちを隠すように、リリックはエレに笑いかける。  
「ぼくで良かったら、話を聞かせてよ。ぼくはエレの補佐竜なんだから、  
 エレのことならなんでも知っていたいんだ」  
つないだ手に力がこもる。  
「・・・・・・今はまだ、詳しいことは言えないけれど・・・、いいえ、  
 リリックのことを頼りないと思っているわけじゃないけど、私自身がまだ、  
 言う勇気を持っていないから」  
「うん・・・」  
「ただ、私はここに来る時に、たくさんのものを置いてきてしまったの。  
 ここに来なくても、どのみち一緒にはいられなかったけれど。  
 だけど、私が置いてきてしまったことに、変わりはないから―――」  
「その、置いてきてしまった日が・・・雨だったの?」  
「・・・ええ」  
雨ににじんだエレのひたいの紋章に、リリックは指の先でそっとふれた。  
「エレは、寂しいんだね」  
「さ、びしい?」  
「エレは、みんなのことが、好きだったんだね。だから、もう会えないことが  
 寂しいんじゃないのかな・・・。ぼくだって、一人でこのコーセルテルを  
 出て行くことになったら、どんな理由があったって、寂しいよ」  
「・・・」  
「だから、思い出してもいいんだと思う。全部忘れちゃうのは悲しいよ。  
 だけど、雨の日が寂しい思い出でいっぱいになるのは嫌だな。  
 ぼく・・・雨の日も好きだから」  
 
胸の前で握り締めていた手をゆるめ、エレはリリックの背に腕を回した。  
「エレっ?」  
「リリックは、優しいのね・・・」  
「そ、そ、そんなことは・・・っ」  
「ありがとう、リリック」  
エレの声が涙声ではないことに少し安心しつつ、リリックはエレの背中に  
腕を回すかどうか迷っていた。  
腕を不自然に動かしながら、顔が赤いことがエレにバレませんようにと祈った。  
「大好きよ」  
リリックの頬に、なにか柔らかいものがふれる。  
固まって動かないリリックに、エレが微笑みかける。  
「ね、リリック。明日も雨なら、どこか安全な遺跡にでもピクニックに  
 でかけましょうか。みんなで、お弁当を持って。ね?」  
「う、うん」  
「さあ、わたしたちも寝ましょう。明日は早いわよ」  
エレとリリックは、手をつないだままで家の中へ入っていった。  
扉の閉まる小さな音を、雨音が静かにかき消した。  
 
そうだ、明日はピクニックに行こう。  
たとえ、明日が雨でも。  
 
 
”水の宴” END  
 

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