「まぁっ! 虹が出てますわ……」  
 窓辺に立ったマリエルが、うっとりと呟いた。その夢見るような声音に惹かれ、  
光竜術士一家は一斉に振り向いた。  
 雨上がりの夕空は一面の淡いラヴェンダーに染まり、その頂きに七色の優美な  
橋がかかっていた。  
「何て綺麗なのかしら……」  
 虹を見上げたまま窓辺から離れようとしないマリエルの黄金の巻き毛が、夕暮  
れの光を浴びてきらきらと輝いている。けれど、もっと輝いていたのは、光竜術  
士邸の周りに広がる湖と同じ碧の色の、その瞳だった。  
「マリエルは本当に虹が好きですのね」  
 穏やかにモーリンが笑んだ。  
「だって、とても綺麗なんですもの」  
 答える間も、マリエルの目は虹に釘付けになったままだ。  
 話をするときはきちんと相手の目を見て、と普段から礼儀作法に重きを置いた  
教育方針のモーリンだが、今はマリエルを窘めようとはしなかった。モーリンが  
お小言を言わなくても、いつものマリエルは小さなレディのように優雅に礼儀正  
しく振る舞っている。  
 そんなマリエルが何もかも忘れて一心に虹に見惚れている様子は、憧れに一途  
な光竜の気質そのままで、モーリンには微笑ましいものに見えたのだ。  
 たった一つの想いのために里を捨て、光竜族長の座も投げ打ったラスエルのよ  
うに、いつかマリエルも自分の憧れを求めて羽ばたいてゆく日が来るのだろうか。  
 そう思うと、淋しいような、それでいて何処か誇らしいような気がする。  
「あ……っ」  
 不意にマリエルが残念そうな声を上げた。  
「虹が、消えてしまいますわ!」  
 
美しいアーチを描いていた虹は時と共に薄らぎ、もう天頂の部分を残すのみと  
なってしまった。  
 虹が完全に消えてしまうのを見届けると、マリエルは深い深いため息をついた。  
「ねえ、モーリン。どうして虹は消えてしまうんですの?」  
 名残惜しげに窓辺から離れると、マリエルはモーリンのドレスにまとわりつい  
て尋ねた。見上げてくる顔は、今にも泣き出しそうだった。  
「あんなに綺麗なんですもの、消えずにずっと空にあればよろしいのに……」  
 純粋で一途な心はその対象を失ったとき、より強く淋しさや哀しさを感じるの  
かもしれない。モーリンはそっとマリエルの肩を抱いて、優しく金の巻き毛を撫  
でた。  
「虹はいつか消えるものよ、マリエル。空の虹は、僅かな時間しかないから美し  
いの。――でもね。心に虹を持つことはできますわよ」  
「心に……虹を?」  
 モーリンの言葉にマリエルは目を見ひらいた。  
「ええ。あなたが本当に望むのなら。いつか必ず、あなただけの虹を見つけるこ  
とが出来ますわ。空の虹は消えてしまっても、心の虹は消えることはありません  
わ」  
「モーリンは、もうモーリンの虹を見つけたんですの?」  
「ええ、もちろん」  
 その答えに、再びマリエルの瞳が輝いた。  
「わかりましたわ! 私もいつか、私だけの虹を見つけてみせますわ。きっと、  
きっと」  
 幼い光竜の一番竜は、この時から自分だけの虹を夢見るようになった。  
 それがどんなかたちのものであるのか、この時のマリエルはまだ、知るよしも  
なかったのだけれど。  
 
 そして、時は流れる――――――。  
 
 
 
その日、コーセルテルの森はいつにない賑わいを見せていた。  
 木々の緑は紅や朽ち葉色に染まり、秋の日射しが柔らかく黄金の光を投げかけ  
ている。  
 もうすぐやってくる冬を前に、小さなお祭り騒ぎが繰り広げられようとしてい  
た。  
 少年竜達に武術指南をしている二人の内、冬の精霊であるカシが、しばらく仕  
事でコーセルテルを離れることになったのだ。  
「半年近くも俺様がみっちりしごいてやったんだからな。どれくらい腕前が上が  
ったか、きっちりと見せてもらうぜ」  
 旅立ちを前に、カシはそう宣言した。  
「あら、面白そうね」  
 エレがすぐさまそれに乗ってきた。  
「冬になったら集まるのも難しくなってくるし、カシへのお礼も兼ねて、武術大会でも開きましょうか」  
「おっ、そりゃいい!」  
 何しろカシも勝負事に関してはとことん熱い。あれよあれよという間に、企画  
は進行して、今日はその大会当日なのだった。  
 武術指南を受けている少年竜や子竜たちが練習試合をし、更に指南役のエレと  
カシ――そして、ランバルスが模範試合を行うことになっていた。  
「まさか、嫌だなんて言わないわよね?」  
 面倒ごとから逃げようとしたランバルスに、エレが笑顔で先制攻撃を放った。  
「だって、本当ならランバルスがやるはずだった役を代わりにずっと私がやって  
たんですものね? 怪我だってもうすっかり完治してるんですもの、たまには運  
動した方が体にいいわよ」  
 そこまで言われては、さすがのランバルスも断り切ることは無理だった。  
 エレからランバルスの強さを聞かされていたロービィが、おもいきり期待のま  
なざしを向けてくるのでは尚更だ。  
 
 頼みのユイシイも、『運動不足の解消にはいいんじゃないですか』と言って、  
ランバルスの味方にはなってくれず、ランバルスは本人の意志とは無関係にこの  
お祭り騒ぎに引っ張り出されることとなったのだ。  
 
「思ったよりすごいことになってるねぇ」  
 集まってきた人の多さに、リリックが嘆息する。  
「リリックー! 負けちゃ駄目よー!」  
 観客席から激しくプレッシャーを投げてくるのは、最前列にちゃっかり陣取っ  
たクララたちだった。  
 子煩悩な竜術士達はもとより、子竜達も各属性全員そろい踏みで、なおかつそ  
の上に、物見高い獣人族の村人達や、カシの応援の冬の精霊達までいる。  
「僕、こんなにたくさんの人がいるの、初めて見た気がする……」  
 ロービィも呆然と呟いた。  
「ま、予想はついてたけどね」  
 ロイが首を振る。  
「もうすぐ冬だからね。娯楽を求めてるんだよ」  
「……って、僕達、見せ物?」  
「いいじゃねぇか。見物人が多い方が盛り上がるってもんさ」  
 わざわざ自分から武術訓練に参加してるだけあって、メオは朝からやる気満々  
だ。  
「そうだよ! オレなんか、ゆうべ楽しみで眠れなかったんだからな!」  
 グレイスもすっかりハイになっている。  
「まあ……どうしましょう。私、何だかドキドキしてきましたわ……」  
「大丈夫だよ、マリエル。ただのお祭りなんだから、気楽に行こうよ」  
「リリックさん……」  
 密かに恋い慕っている人から優しい言葉をかけられて、ぼーっとなったマリエ  
ルだったが、その幸せは長くは続かなかった。    
 
「あ、ノイー♥♥見に来てくれたんだねっ」  
 一瞬のうちに、リリックは観客の中から女の子の姿を見つけて、光速でダッシ  
ュしていた。  
「ジェン♥♥、来てくれて嬉しいよ」  
「ラルカは僕の応援してくれるよね♥♥」  
「アグリナさーん、僕頑張りますから♥♥」  
 次から次へと女の子を見つけては愛想の大盤振る舞い、半期に一度の大セール  
をぶちかますリリックの姿に、マリエルは呆然とその場に立ちつくしていた。  
 これは幻だろうか。  
 あの春の日に運命的な出逢いをした――と、マリエルが一方的に信じている―  
―リリックが。  
 自分の目の前で、片っ端から女の子に声をかけまくってるなんて。  
 あんなに嬉しそうで生き生きとしたリリックなんて、今まで見たこともなかっ  
た。  
「うわー、マリエル、固まっちゃってるよ」  
「知らなかったんだろ、今まで。リリックがあーゆー奴だって」  
「武術訓練の時は、他の女の子、いないからねぇ」  
 ロイとメオが背後でこっそり囁いていることにも気づかず、マリエルはふらふ  
らと観客席の方に足を踏み出していた。  
「ああ、もうリリックったら。恥ずかしいんだから」  
 不意に、すぐ側でトゲを含んだ声がした。それは、さっきリリックに声援を送  
っていた子竜だった。  
「あの……」  
 思わずマリエルはその子竜に声をかけていた。  
「あなた、水竜の方?」  
 
「そうよ。私、二番竜のクララっていうの。あなたは……光竜? その格好、今  
日の試合に出るの?」  
「はい。一番竜のマリエルと申します。あの、失礼ですが……リリックさんて、  
いつも、ああなんですか?」  
 おずおずとマリエルはクララに尋ねた。  
「そう。全くいやんなっちゃうわ。女の子なら誰彼かまわずなんだもの。あれは  
もう、リリックのビョーキね」  
 あきれ果てたようにクララは首を振った。  
「え……っ?!」  
(女の子なら誰彼かまわず……そんな……そんなことって……)  
 マリエルの目の前が真っ暗になる。  
(嘘……私、リリックさんにあんな風に声をかけてもらったことなんて一度もな  
いのに…………私……私……女の子だと思われてないってことーーーっ?)  
 この半年の間、ずっと、ただひたすらリリックのあとを追いかけてきた。少し  
でも近づきたくて、武術訓練にも参加した。  
 それなのに、リリックに女の子としてカウントされていなかったとは。  
 まさに青天の霹靂。生涯最大の大ショックだった。  
「あ、今度はユイシイさんの所に行った」  
 クララの言葉に反射的に振り向くと、丁度リリックが長い黒髪の少女のところ  
へ駆け寄っていくところだった。  
「やあ、ユイシイ。君に逢えるなんて感激だなぁ。それ、もしかしてお弁当? ユイシイの手作りのお弁当かぁ……いいなぁ」  
「あ、ランバルス師匠」  
 満面に笑みを浮かべて話しかけるリリックを一顧だにせず、ユイシイは踵を返  
した。  
 
「師匠、ロービィも出るんですから頑張って下さいよ。お弁当、皆の分作ってき  
てますから、お昼には忘れずにこっちに来て下さいね。あ、それからくれぐれも  
怪我はなさらないように……」  
 きびきびとランバルスに注意するユイシイの後ろでがっくりとうなだれるリリ  
ック。  
「あの方は、地竜の……? ユイシイさんておっしゃるのね」  
「そうよ。いくら冷たくされても懲りないんだから、リリックったら。水竜が皆、  
リリックみたいに節操がないと思われたら困っちゃうわ」  
(冷たくされても、懲りない……もしかしてリリックさん、あの方のことを…  
…?)  
 恋する乙女の勘が、リリックの他の女の子への態度とユイシイへの態度の温度  
差を本能的に告げていた。  
 マリエルの瞳が、まっすぐにユイシイに注がれる。  
(ユイシイさんて、知的で大人っぽい方……それに、あんな風に竜術士の方と対  
等にお話なさってるんですもの、きっとすごくしっかりしていらっしゃるんだわ)  
 真っ直ぐな黒髪も、落ち着いた物腰も、マリエルとは全然違う。  
(だから……だから、リリックさんは私のことなんて眼中にないのかしら……)  
 そう思うと、たまらなくなった。  
 そして、気がつくとマリエルはユイシイの後を追って駆けだしていたのだった。  
 
 
「あ……あの、お待ちになって」  
 人混みをかいくぐって、やっとマリエルはユイシイに追いついた。  
「あなた、どなた? 光竜の人ね」  
 怪訝そうにユイシイが振り向く。  
 
「はい。一番竜のマリエルと申します」  
 さっきと同じやりとりの繰り返しだ。比較的フットワークの効く少年竜たちと  
違って、マリエルはまだ、武術訓練仲間とマシェルの子竜達以外のよその子竜と  
はほとんど面識がないので仕方ない。  
(私だって……一番竜なのに……)  
 そう思うと胸の奥が重くなったが、今はそれよりも大事なことがあった。  
「あのっ、私、ユイシイさんに伺いたいことがありますのっ」  
 気後れしないように、一気にマリエルはユイシイに告げた。  
 その思い詰めた様子にユイシイの表情がかすかに動いた。  
「話があるなら、静かなところへ行きましょう」  
 そう言うと、ユイシイは先に立って歩き出した。  
 
 
 広場から少し離れると、さっきまでの喧噪が嘘のように静かになる。秋色の木  
立の中で、マリエルはユイシイと二人きりで向き合って立っていた。  
「お話って、何?」  
静かな口調でユイシイが切り出した。  
「あの……っ、あの……っっ」  
 どう言っていいのかわからなくて少し逡巡した後、思い切ってマリエルは顔を  
上げた。  
「ぶしつけですが、ユイシイさんは、リリックさんのことをどう思ってらっしゃ  
るんですか?」  
「――それを聞いて、どうするの?」  
 大地の色の瞳がマリエルを見据えた。その毅然とした態度に、マリエルは急に、  
取り乱している自分がとても愚かで子供じみているように思えてきた。  
 
(でも……みっともなくてもいい……本当のことを聞かなくては)  
 ここで何も聞かずに逃げ出してしまってはいけない。その方がずっとみっとも  
ないことだ。  
「初対面の方にお聞きするようなことじゃないのはわかってます……でも、知り  
たいんです。私……私は、リリックさんのことが好きだから」  
 頬が熱くなる。握りしめた拳が、声が、震える。それでもマリエルは、はっき  
りと自分の想いをユイシイに告げた。  
(そう……はじめてお逢いしたときからずっと……リリックさんが好き……)  
 小川のせせらぎのような優しい笑顔。  
 落下してきた剣から庇ってくれたときの、凛々しさ。  
 穏和な物腰。  
 一緒にいればいるほど、どんどんリリックに魅かれてゆく。――まるで、深い  
深い、湖のように。  
 だからこそ、ショックだった。今日、はじめて見た、リリックの、自分の知ら  
ない姿が。  
「今まで私、何も知らなくて……リリックさんに好きな方がいらっしゃるなんて、  
思いもしなくて……でも、今日お二人を見て、気づいたんです。もしかして、リ  
リックさん……ユイシイさんのこと……。ですから、知りたいんです、ユイシイ  
さんのお気持ち。もし、ユイシイさんもリリックさんを思ってらっしゃるなら…  
…私……」  
 そこまで言って、マリエルは唇を噛みしめた。  
「諦めるの?」  
 ユイシイが問うた。口調は静かだったが、その言葉は鋭い刃物のようにマリエ  
ルの心を切りつけた。  
(泣いては、駄目)  
 必死で自分に言い聞かせないと、涙が堰を切って溢れ出しそうだった。  
 
「……お二人が同じ想いでいらっしゃるなら……リリックさんが、幸せで、笑っ  
ていて下さるなら私、それでいいんです。でも――――私がリリックさんを好き  
な気持ちは、変えられません」  
 そんなに簡単に思い切れるなら、最初から好きになんてならなかった。  
 恋に落ちるのは突然で。  
 走り出した想いは止められなくて。  
 切なくても、苦しくても、もうこの気持ちを手放すことなんかできない。たと  
えリリックが他の誰かを選んでも。  
「じゃあ、私はリリックのことは何とも思ってないと言ったら?」  
「それなら……私、絶対に諦めません。リリックさんが振り向いて下さるまで、  
私、頑張ります」  
 マリエルのきっぱりとした答えに、ふっ、とユイシイが笑みをこぼした。  
「ユイシイ……さん?」  
「ごめんなさい、笑ったりして。――マリエル。私、あなたがうらやましいわ」  
 それは思いもよらない言葉だった。  
「え……っ? だって、ユイシイさんは綺麗で、大人っぽくて、知的で、とても  
素敵でいらっしゃるのに?」  
 羨ましいのはマリエルの方なのに。どうしてユイシイはそんなことを言うのだ  
ろう。  
「私も、あなたと同じなのよ、マリエル。私が好きな人も年上なの。――でも、  
私はあなたみたいに、そんなに真っ直ぐにひたむきに気持ちを表すことはできな  
い。だから羨ましいのよ」  
 そっと、ユイシイがマリエルの手を取った。  
「ユイシイさん……」  
 
「試したりするようなことを言ってごめんなさい。リリックが相手なら、簡単に  
諦められるような気持ちでは太刀打ちできないと思って。……でも、あなたなら  
大丈夫ね。お互いに頑張りましょう、マリエル。私も、絶対に諦めるつもりはな  
いの」  
「は……はいっ!」  
 ユイシイの手を握りかえして、マリエルは力一杯答えた。  
(不思議……ユイシイさんみたいな素敵な方でも、私みたいに片想いしたりなさ  
るなんて……)  
 最初に見たときよりも、何故かユイシイがもっとずっと素敵に見えた。  
「いいことを教えてあげる。リリックが誰にでもあんな風に声をかけるのは、本  
当に好きな人がまだいないからよ」  
「でも、ユイシイさんは?」  
 他の誰よりも、ユイシイに対する時が一番熱意があるように見えたのに。  
 マリエルの素朴な疑問に、ユイシイはことさら真面目な顔で答えた。  
「あの程度では本気だとは言えないわ」  
 その時、マリエルの脳裏に、一人の男性の姿がよぎった。  
(もしかして、ユイシイさんのお好きな方って……)  
「さ、そろそろ戻った方がいいわ。リリックとメオの試合、はじまるわよ」  
「あっ! 大変!」  
 今の今まで、すっかり忘れていた。慌ててて駆け出そうとして、マリエルはユ  
イシイに向き直り、優雅に一礼した。  
「ユイシイさん、ありがとうございました!」  
 金髪をひるがえして一生懸命走ってゆくマリエルの後ろ姿を見送りながら、ユ  
イシイの笑みが深くなっていた。  
「本当……可愛いわ、あの子。リリックにはもったいないくらい」  
 
 
 リリックとメオの一本勝負は、結局メオの勝利に終わった。  
「へっ! 俺に勝とうなんて100年早いぜ」  
 剣をリリックの喉元に突きつけてメオは自信たっぷりに言った。  
「そう言ってる割りには、息が上がってるよメオ。君のは力押しなだけで、技術  
は僕の方が上さ」  
 状況もわきまえずに言い返すリリックに、メオは剣を引くと、不敵に笑って見  
せた。  
「何とでも言えよ。負けたくせに」  
「う゛……っ!」  
 ▼メオの精神攻撃。リリックは1000のダメージを受けた。  
 
 
「あ〜疲れた」  
 クララやラティから責められる前に、リリックは早々に観客席を離れた木陰に  
退避した。もっとも、今逃げたところで、どうせ夕食の時にガタガタ言われるの  
だろうが。  
『リリックが負けるのはかまわないけど、エレに恥かかせないでよね!』  
 クララの台詞まで予測できてしまうのが哀しい。  
 本当は家で個別授業という名の強制居残り修行をやらされているのだから、リ  
リックの方が他のメンバーよりも有利なことは確かなのだ。そんなリリックが負  
けたのでは確かにエレの面目丸潰れといわれても仕方ない。  
「リリックさん」  
 何の前触れもなく、ひょこっ、とマリエルが木陰から顔を出した。  
 
「やぁ、マリエル」  
 内心の葛藤を巧みに押し隠し、リリックはマリエルに微笑んだ。  
「リリックさん、お疲れ様でした。あの、タオル、使って下さい」  
 真っ白のふかふかのタオルをリリックに差し出すと、マリエルはそのまますと  
ん、とリリックの隣に腰を下ろした。  
「ありがとう、マリエル」  
「いえ……。さっきは、惜しかったですわ。もう少しのところでしたのに」  
 何だか悔しそうにマリエルが言った。  
リリックも敗因はわかっていた。さっきメオに言ったのも負け惜しみではない。  
技術的には確かにリリックの方が上なのだ。だが、体力は水竜と火竜では火竜の  
方が上だ。素早く勝負を決められず、持久戦になったのが痛かった。  
 だが、そんな勝ち負けのことなんかよりも、目の前の小さな女の子が自分のこ  
とのように悔しがってくれるのがリリックには嬉しかった。  
「練習の時だって、互角なんですもの。次の時はリリックさんが勝ちますわ、き  
っと!」  
 力一杯マリエルは言う。どちらかといえばおっとりとして可愛らしい方なのに、  
こういうときのマリエルは妙に前向きなのだ。  
「そう言ってくれるのは君だけだよ……ああ、君の素直で可愛いところを、うち  
のクララやラティに見習わせたいよ」  
 ふっ、とリリックは自嘲の笑みを浮かべた。  
「そ……そんなこと……っ」  
(可愛い……可愛い……可愛い……リリックさんが私のこと可愛いって……)  
 『可愛い』の一言でマリエルの心が桃源郷に飛んで行ってるのにも気づかず、  
リリックは続けた。  
「何しろ、あの二人は生意気でね。前に水竜の同調術でお城作ってお姫さまごっ  
こしたときも、僕は柱役さ。人を何だと思ってるんだか。で、王子役はティルク  
ってわけ」  
 
「まあっ! どうしてですのっっ?」  
 途端にマリエルが憤慨しだす。  
「リリックさんなら、絶対王子様役がお似合いですのに!」  
 というか、マリエル的にはリリックは本物の王子様なわけなのだが、それをリ  
リックが全く気づいてないのが……馬鹿である。  
「本当にそう思う?」  
「もちろんですわ!」  
 お互いに、全く別の意味で勢い込むリリックとマリエル。  
 しばし見つめあったのち、リリックが深々とため息をついた。  
「……君の優しさが身に沁みるよ、マリエル。君が妹だったらよかったのに」  
 マリエルのように素直になついて来てくれる子が妹なら自分の生活はもっと楽  
なはずだと思うリリックだったが、実のところ、リリックの最大の不幸は別の部  
分にあった。  
 つまり。  
 一言、余計なのだ。  
(妹……妹……妹……)  
 さっきとはまるで違う言葉がすさまじい勢いでマリエルの中でこだまする。  
「マリエル?」  
 急にうつむいて黙りこくってしまったマリエルの顔をリリックが覗き込もうと  
したその時。はじかれたように、マリエルが立ち上がった。  
「私、急用を思い出しましたの。それでは失礼いたしますわっ!」  
 口早に言うと、弾丸のような勢いでマリエルはリリックの視界から消えて行っ  
た。  
 
「……どうしちゃったのかな」  
 いつものマリエルらしからぬ態度に、リリックは首を捻った。  
「見ーたぜ」  
「見たよ〜」  
 背後からいきなりハモられて、リリックは反射的に飛びすさった。  
「メオっ、ロイっ! 何なんだよ、いきなり」  
 後ろ暗いところなどどこにもないはずなのに、何故か心臓の鼓動が早くなる。  
「お前ら、随分仲いいなぁ。いくら女好きだからって、ロリコンに走るなよ?」  
「だ……誰がロリコンなんだよ! 失礼だなぁ、僕みたいな紳士に向かって!」  
 ムキになるリリックの肩を、ぽん、とロイが叩いた。  
「――なーんて言ってられるのも今のうちだよ? リリック」  
「え? 何が?」   
 ロイの黒い微笑みに、わけもなく不安になる。  
「マリエル、君に随分なついてるじゃない。でもさ、あの子だって光竜の一番竜  
で、僕や君と大して年は変わらないんだよ? 今はまだ子供だけど、すぐに追い  
ついてくる。マリエルは、美人になるよ、絶対。それに、ラスエルが族長の座を  
蹴っちゃったから、マリエル、かなり期待されてるんじゃないの? 里に戻った  
ら、みんな放っとかないよ? あ、もしかしてもう、許婚候補とか上がってたり  
して」  
 立て板に水とばかりにロイがまくし立てる。  
「ななな……何言ってるんだよ、ロイまで」  
 と、言いつつ、リリックの脳裏にはいつの間にかマリエルの成長予想図がしっ  
かりとイメージされていた。  
 ふわふわと渦巻く黄金の巻き毛。温雅な表情に、強い意志を宿した湖の碧の瞳  
を持つ、光り輝く美少女の姿が――――。  
(い……いいかも……っていうか、ものすごく、綺麗じゃないか)  
 
「をい、何か目がイッちゃってるぜ」  
「これだからリリックはさー」  
 こそこそとメオとロイが話しているのも、当然リリックの耳には全く入ってい  
ない。  
「あら、あなた達こんなところにいたの?」  
 そこへ通りがかったのはエレだった。  
「ねえ。誰か、マリエルともめたりしなかった?」  
 エレの言葉がリリックの心臓を直撃した。  
「……何で?」  
 とてもとても、嫌な予感がした。  
「さっきすれ違ったとき、何だか泣いてたみたいだったから」  
「え゛え゛え゛……っ?!」  
 硬直したリリックに、エレの表情が一変した。  
「――何かしたの? リリック」  
「別に何かしたってわけじゃ……」  
「じゃあ、どうして目を反らすの? 正直におっしゃい!」  
 うろたえるリリックをおどろ線しょったエレが追いつめる。こうなってしまっ  
ては、洗いざらい白状するしかないことを、リリックは経験上嫌というほど知り  
尽くしていた。  
「……というわけで、マリエルが妹だったらいいって……」  
 最後まで言い終えることは出来なかった。  
 稲妻のような素早さでエレの鉄拳制裁がリリックの脳天を襲ったのだ。  
「バカ?」  
「バカだな」  
「バカだね」  
 地面に昏倒したリリックに、3人が同時に言い捨てた。  
 
「……僕の、せい?」  
 すぐに起きあがったリリックが上目遣いにエレに尋ねた。  
「それくらい、自分で考えなさいっっ!」  
 容赦ない叱咤が飛んだその時。  
「あれ? 雨だ……」  
 ロイが空を見上げて呟いた。  
 言われて初めてリリックは気づいた。濃厚な雨の気配が大気中に満ちているこ  
とに。これは、強い通り雨になる。  
 その時リリックの脳裏に浮かんだのは、雨の中で一人で泣いているマリエルの  
姿だった。  
「行かなきゃ……」  
 ふらつきながら、リリックは立ち上がった。  
「……って、リリック?」  
「どこ行くんだよ?」  
 背中に投げかけられる問いに答える余裕もなく、リリックは降りはじめた雨の  
中にさまよい出た。  
 
 
どこをどう走ってきたのかも覚えていない。気がつけば、マリエルは知らない  
道に一人でいた。  
「妹……」  
 泣きはらした目をして、マリエルは呟いた。  
 どうりでリリックに女の子扱いされないわけだ。妹――つまりは、全く子供扱  
いされていたのだから。  
(私ったら、馬鹿みたいですわ……)  
 
 泣かないと決めたのも、絶対諦めないとユイシイに言ったのも、ついさっきの  
ことなのに。  
 お互い頑張りましょうと言ってくれたユイシイ。あの時、この想いは絶対に手  
放せないと強く思った。  
 そう信じていた。  
 なのに、リリックのたった一言で、こんなにも気持ちが揺れてしまうなんて。  
ユイシイとリリックが両想いかもしれないと思ったときよりも、リリックに妹の  
ように思われていたことの方が衝撃が大きかった。  
 哀しくて、切なくて、胸がつぶれてしまいそうだった。  
 不意に、マリエルの頬を、涙ではないものが伝った。  
「雨……?」  
 さっきまで晴れていたのに、いつの間にか空は鈍色の雲に覆われ、大粒の雨が  
降り出していた。  
 髪も服も、またたく間にぐっしょりと濡れて、重く冷たくなってゆく。けれど、  
雨宿りをする気にはなれなかった。  
 雨は、リリックを連想させる。あのひとは、水のひとだから。  
 こうして雨に濡れていれば、少しはリリックに近づけるだろうか。  
 水にはかたちがないから、いくら掌にすくってもこぼれていってしまう。けれ  
ど、降りしきる雨に濡れたなら――水を、この身にとどめておけるだろうか。  
(リリックさん……どうすれば、あなたに振り向いてもらえますの……? どう  
すれば、私を子供じゃなくて、あなたを好きな一人の女の子だと認めてもらえま  
すの……?)  
 答えの返らない問いがマリエルの中を幾度も繰り返しよぎり、その度に銀の針  
を突き刺したように胸が痛んだ。  
 いっそこのまま、雨の中に溶けてしまいたい。リリックと同じ、水の気配に包  
まれて――――――。  
 けれど、それは叶わぬ願い。通り雨は激しく、そして短い。  
 通り雨が止んでも、マリエルはそこを動けないでいた。  
 
 雨が止んでしまっても、空に虹は浮かばない。せめて虹が浮かんでくれたら。  
(モーリン……私には、無理かもしれないですわ)  
 虹を、見つけたと思った。  
 リリックがそうなのだと、ただ一心に信じていた。  
 憧れて。恋をして。追いかけて。  
 それでも、つかまえられなかったら?   
 どんなに頑張っても、手が届かなかったら?  
 夢も憧れも、走り続けるから追いかけていられる。一度立ち止まってしまった  
ら、もうそこから一歩も動けなくなってしまう。そう、今のマリエルのように。  
 冷え切ったマリエルの膝が崩れて、座り込んでしまいそうになった、その時だ  
った。  
「マリエル!」  
 名前を、呼ばれた。とても大好きな声で。  
(空耳かしら……? あの人が、こんなところにいるはずないのに)  
「マリエル!」  
 もう一度呼ばれて、マリエルは振り向いた。  
(嘘……)  
 走り寄ってくる人を、マリエルは目を見ひらいて見つめた。まばたきをすれば、  
幻のようにその姿が消えてしまう気がして。  
「リリック……さん……どうして……?」  
 呆然とマリエルは呟いていた。  
「探したよ。ああ、こんなに濡れちゃって。どうして雨宿りしなかったんだい?」  
 優しく顔を覗き込まれて、また涙があふれそうになった。  
「……濡れたい気分だったんです」  
 掠れる声でそう答えるのがやっとだった。  
 
「駄目じゃないか!」  
 はじめてリリックが、マリエルに声を荒げた。  
 驚いて肩をびくりと震わせたマリエルを、そのままリリックが抱き寄せる。  
「リ……リリックさん……?怒ってらしたのでは……?」  
 いつも優しいリリックにあんな声を出させるほど怒らせてしまったのなら、も  
う嫌われてしまったのだと思ったのに。  
 それなのに今、マリエルはリリックの腕の中にいる。  
「ほら、こんなに冷え切って……駄目だよ、風邪をひいたらどうするんだい?」  
 リリックの腕から、温もりが伝わってくる。その暖かさに蕩然としかけて、マ  
リエルは我に返った。  
「いけません! リリックさんまで、濡れてしまいます!」  
「僕は濡れないよ。水竜なんだからね」  
 リリックの腕から抜け出そうとじたばたしていたマリエルの動きが、その一言  
でぴたりと止まる。  
(私ったら……)  
 恥ずかしさに顔が赤くなる。水竜が水に濡れないなんて基本的なことを忘れる  
ほど、取り乱していたなんて。  
「さ、もう暴れちゃいけないよ。今乾かしてあげるから」  
 水竜術の気が辺りに満ちたと思うと、マリエルの周りで、水の粒子が雲間から  
覗く太陽の光を浴びて一斉にキラキラと輝いた。  
 次の瞬間にはもう、ぬれねずみになっていたマリエルの髪も服も、すっかり元  
通りにふんわりと乾いていた。  
「これで大丈夫」  
 優しい温もりが離れてゆくのを惜しんで、マリエルはリリックを見上げた。碧  
の瞳と青の瞳がまともにぶつかった。  
 
「……虹が……」  
「え……?」  
「虹が出ないかと、思ったんです……」  
 空に虹は出なかったけど、リリックは来てくれた。  
 マリエルを探しに――――そのためだけに。今はもう、それだけでいいような  
気がした。それで、マリエルはまた走り出すことができる。  
「虹、好きなの?」  
「はい」  
「じゃ、水と光の同調術で作ろうよ」  
「で……でも、私、多種の方との同調術はまだ……」  
 突然のリリックの申し出に、マリエルはすっかりうろたえてしまっていた。  
 さっきまで地の底にめり込んでいた気持ちが、今は空まで舞い上がって行きそ  
うだった。  
 リリックだけが、こんなにもマリエルの気持ちを大きく揺るがせる。  
「やってみよう。できるよ、きっと」  
 リリックの笑顔につられて、思わずマリエルはうなずいていた。  
 向かい合って、そっと、てのひらを合わせる。  
 リリックから水の気が、マリエルから光の気があふれだして、混じり合う。  
 あたたかくて、それでいて涼やかな、不思議な感覚がマリエルを取り巻いた。  
どうしてだろう。今リリックと触れているのはてのひらだけなのに、さっき抱き  
寄せられた時よりも、強く強く、リリックの存在を感じる。  
(リリックさん……大好き……)  
 今はまだ言葉には出せないその想いのありったけをこめて、マリエルは術に集  
中した。  
 水の気と光の気がくるくると螺旋を描いて踊り出す。  
 やがて、二人の間に、小さな七色の橋がその美しい姿を現した。  
「できましたわ、虹……綺麗……」  
「うん、綺麗だね」  
 しばしの間、二人は言葉もなく、その小さな虹を見つめていた。  
 
 
 結局、あの虹は空の虹よりも短い時間で薄らいで消えていった。けれど、その  
輝きは鮮やかにマリエルの胸に焼き付いた。  
(私の心の、虹……)  
 モーリンの言うとおり、時間がたっても心の虹は色あせることなく、マリエル  
の中で息づいている。  
 
 
 その夜。  
(――――――あーーーーっっ、びっくりしたーーーーーっっ!)  
 うるさい妹たちと厳しい師匠からやっと解放されたリリックは、自室にたどり  
着くと、そのままずるずると扉にもたれて座り込んでいた。  
 今でもまだ、思い出すだけで心臓がばくばくと鼓動を乱す。  
 竜術は自分の持つ気を使うから――――慣れてないと、同調術の時は、強い想  
いが伝わってしまうことがある。  
(マリエルが……僕のこと……)  
 リリックに伝わってきたのは、真っ直ぐでひたむきな、マリエルのリリックへ  
の思慕。そんな想いを向けられたことなど今までなかったから、動揺してしまう。  
『リリックさん♥』  
 マリエルの愛らしい笑顔が脳裏から離れなくて、リリックは真っ赤になって床  
の上で煩悶した。  
(落ちつけ、僕っっ!)  
 必死に自分に言い聞かせるが、落ち着くどころか『ロリコンに走るなよ』とか  
いうメオの言葉まで浮かんできて、ますます混乱する始末だ。  
 今日一日を何とか乗り切っただけで自分を誉めてやりたい。  
(明日から、どんな顔してマリエルに逢ったらいいんだよーーーっ?)  
 
 いつも通りにできるのか? それは可能なことなのか? 可能だとして、いつ  
までそうしていればいいんだ? ――――っていうか、自分はどうしたいんだ  
よ?  
 考えれば考えるほどわからなくなってゆくリリックなのだった。  
 
 そうやってリリックが悶々と眠れぬ夜を過ごしている頃。  
 マリエルは、安らかな寝息を立てていた。胸の中に、消えない虹を抱きしめて。  
 
<終>  

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