「ごちそうさまでした」
くまやうさぎ、ふりふりレースのクッションといった、やたらとファンシーな
物体が場所を占める独身男の1DKに、その晩は客があった。
「毎度ながら、おいしかったよ」
エプロン姿で正座している倉本きずなを前に、武原仁は深々と頭を垂れる。
「よかった。そう言ってもらえるのが、わたしの生きがいですから」
新妻然とした恥じらいを見せつつ頷いた娘は、家事全般においてプロはだしの
実力を誇る現役女子高校生である。
対して、仁は小学校教師。ただし、頭に『ニセ』と付く。
本職はというと、公務員は公務員でも、日本政府が設けた対魔導師機関
《魔導師公館》所属の専任係官――もっともこちらはみだりに公にできない
職業だから、人に訊かれれば偽りの身分の方を名乗るようにしている。
こんな二人の関係は、本来属するべき世界も血縁もなく孤立した《魔法使い》と、
その庇護を上司から私的に言いつかった公務員。
しばらく前までは、それだけだった。
転機は突然、上司と、その居候であり仁の教え子でもあるサドっ気たっぷりの
美少女魔導師――彼のアパートに勝手に入りびたり、ぬいぐるみや生活用品を
持ち込む張本人――が、そろって留守にしていた十崎家で訪れた。
家主は、仁にとって上司であると同時に、姉とも慕う幼なじみである。そこに
引き取られた女子高生と、よもや『そういうこと』になろうとは。
自制心にかけてはそれなりに自信があった仁だが、言い訳のしようもない
事態を引き起こしてしまった。
それからというもの、顔を合わせるのがどうにも照れくさくて、きずなとは
ぎくしゃくした関係が続いていた。
だから彼女と一対一での会話は、仁には久々のように感じられる。
こうして以前のようにくつろいだ時間を持てたのはひとえに、ひじき、きんぴら、
里芋の煮っ転がし、茸ご飯に三平汁――仁がきれいに平らげた、きずな製・
おふくろの味定番メニューが、仲を取り持ってくれたおかげだ。
それでも、この先もうやむやのままではいけないと、頭の固い仁も考えては
いたのだ。
*
やがて、魔法を使わずとも速やかに後片付けを終えたきずなが、テレビと
仁の間の定位置に座り直した。ヘアピンからほつれたこめかみの赤毛を、
耳に引っかけようとして何度も失敗している。
「あの、あのですね!」
「ん?」
きずなのただならぬ様子に、自分で淹れた緑茶をすすっていた仁は、手を伸ばして
テレビの電源を切った。ちなみに付属のリモコンは過日、癇癪を起こした
教え子の雷撃を受けたばかりだ。
「その……えーと……」
エプロンの裾を、膝上で震える手に握りこんだきずなが、一大決心を告げた。
「シャ、シャワー、お借りしても、いいですかっ!!」
目をつぶってやけくそ気味に声を張り上げた少女の不意打ちに、仁が言葉を失う。
確かに十崎家の主には、なにもない内から「私んちを愛の巣にするな」と
釘を刺されていたが――
「……いや。でも。それは」
かろうじてしぼり出した返事のあまりの狼狽ぶりに、我ながら情けなくなった。
加えて、仁の答えを聞いたきずなの表情に、隠せない後悔がひろがるのが
見えて、惨めさに拍車がかかる。
いやじゃない。いやなわけがないのだ。
女の子に勇気出させて、俺って一体なんなんだろうと――じくじくと胸は痛むのに、
うまい対処法が見つからない。
「ごご、ごめんなさい、うそ! 今の、神和さんへのドッキリの予行練習って
いうか――いえ、あの神和さんがドッキリしちゃうとは到底思えないんですけど
――むしろ素で受け入れそうっていうか――ああもうなに口走ってるんだろ、
わたし……! とにかくごめんなさい、武原さん――や、やだ、早く帰らないと!」
仁の動揺ぶりとは正反対に、今にも泣き出しそうなのを懸命に押し隠そうとする
きずなが、鞄を探す手をさまよわせる。
そこに至りようやくにして、朴念仁は彼女の手を取った。
「ほんとに、帰らなくて平気なのか?」
きずながしきりにまばたきする。赤らんだ瞳で、物問いたげに仁を見た。
「風呂場さ、きれいにしてないんで恥ずかしいんだけど。それでもいいなら、
きずなちゃん、先に使っててくれないかな」
返事を待つ間、仁は冷蔵庫のモーター音に一心に耳を傾けていた。
そして、回転音が頭からはみ出そうになった頃、
「へへ……」
ようやくきずながもらした照れ笑いにつられて、仁の頬も自然と崩れた。
*
きずなは浴室を見て、軽く卒倒しかけた。
彼女が入浴前に徹底的に掃除を始めてしまったのを幸いと、仁は外に出る。
鍵をしつこく確認し、中からもチェーンをかけるようきずなに呼びかけて、
アパートからすこし離れたコンビニエンスストアまで足を運ぶことにした。
近所のコンビニや薬局をやり過ごしながら、明日は晴れか、と鮮やかな半月を
見上げる。
アーモンド――七回忌、遺骨のない墓前に手向けられた花。
部屋で待つ家族が消えて、そろそろ六年になる。
「……便利な世の中になったもんだよな」
店内で目が眩むばかりの蛍光灯にさらされながら、地味なパッケージに
心躍るフレーズが印刷された箱を手に取る。
昔を知らないくせにそう独りごちて、しみじみと眺めていたら、ちょうど
きずなと同い年くらいだろうか、部活帰りの女子学生に嫌悪含みの視線を
向けられた。
いい年をした男が合意の上での計画的行為に励んでなにが悪い、とあくまでも
心の中だけで反抗する。
それでもやはり傷ついてしまうのが、青さというものか。
そう自問してみた。
きずなが好きそうなデザートや雑誌をカモフラージュにカゴヘ放り込み、
仁は肩を落としてレジに向かった。
*
「あ、お帰りなさい」
帰宅すると、すこし無理した笑顔のきずなが出迎えてくれた。
ささやかな感傷にふける仁の鼻を、湯気とともに嗅ぎ慣れない匂いがかすめた。
きずなが自分専用のシャンプー類を持参したからだ。
「ただいま。これ、後で食べよう」
なんの後だ、なんの――という自虐突っ込みが、仁のすました表情の裏で
激しく入った。
七つも上の男がこんなことを考えていると、あえてぶちまけて幻滅させたい
欲求に駆られる。
だが、会ったばかりの頃ならともかく、今となっては単におもしろがられただけで
終わる気がした。きずなはそういう娘だ。
いろいろとボロが出る前に買い物袋を預けて、仁はそそくさと浴室にこもった。
予想はしていたが、中はあまりにも清潔になっていた。きずなが浴室の時間
だけを、仁の入居時の状態に巻き戻したのだと信じたくなったくらいに。
甘い残り香に悶々としかけた頭を手荒く掻きむしるように洗いながら、仁は
買い物袋から例のものを抜いておかなかったのを、ふと思い出した。
「ま、いいか……」――どうせすぐに出さねばならないのだから。
仁が浴室を出ると、持ってきておいた着替えの上に、新品のバスタオルが
載っていた。
波打つ厚地のブルーは、あの日バベルを満たした海を連想させる。
いかにも仁のために買ってきてくれたそれで水気を拭って、きずなに礼を言おうと
顔を出したら、パジャマ姿の彼女はコンビニ袋から現れた箱を、ためつすがめつ
観察しているところだった。
細い肩から続く豊かな胸までを、オレンジのタオルが包んでいる。
きずなの養父が逝った夜明けの空の色だが、彼女はその光景をまだ《引き出し》て
いないはずだ。
きずなは気まずそうに立つ仁に気づくと、「はわわっ!」と箱を布団に投げ出して、
すいません見てませんと無意味に慌てまくった。
その様子がおかしくて、けれどどうしようもなく愛しくて、仁の肩から変な力が
抜けていく。
自然に距離を詰め、自然に抱き寄せていた。
濡れ髪に頬を埋めると、きずなの体に震えが走った。
浅く息を吐いた唇に、吸い込まれるように触れる。口づけが深くなるほどに、
いつもの歯磨き粉の味がして、そこからきずなと同化しそうな気がした。
それでも違う体、違う思考を持つ証に、仁の手がきずなの肌をまさぐるたびに、
仁には感じることのできない、きずなしか知らない感覚を、控えめな鳴き声が
訴え続けた。
二人が繋がったときに、同じものを得るまで。
*
「食感が似てる」
「……武原さん、それってオジさんの発想ですから」
衝撃の事実にショックを受ける仁を見て、胸を隠しながらきずなが噴き出す。
豆乳プリンの白くてつやつやした表面を、プラスチックのスプーンが何度も
掬った。