アイドル:向井拓海
「熱かったり痛かったりすればちゃんと言えよ?」
「だッ……大丈夫に決まってんだろ」
「そっか」
ヤベエ。
ヤベエって、これ。
まじでヤバすぎんだろッ。
つつっ、と額に何かの雫が垂れていくのをアタシは忌々しげに目を細めて、それでも微動だにしなかった。
額を流れて、鼻筋を通って、そして唇へと辿り着いた雫をほんの少しだけ唇を開いて口へと含む。
しょっぱい味がしない、ということから先ほど浴びたシャワーの水滴だと知る。
自分が汗をかいていないことに不思議に安堵して――ふと冷静になったアタシは現状を振り返った。
――物理的に振り返れば問題は色々と解決なのだが……そこまでの勇気は無い。
アイドル――向井拓海。
それがアタシの名前だ。
天上天下唯我独尊、喧嘩上等の特攻隊長、向井拓海はもういない。
いないって言うか、そんなアタシでもいいってあいつが言ってくれたからというか、そんなアタシもアタシの一部だって言ってくれたというか。
ま、まあともかくとして。
アタシは、不本意ながらもアイドルとして活動している――本当に不本意なんだからな、無理矢理アイドルにされたし、無理矢理に仕事させるし、あいつは。
まあそれでも、アイドルとして活動をはじめてそれなりになって、アタシの名前と顔もそれなりに売れた。
昔に連んでた連中とか喧嘩してた相手とか、それなりに面倒な奴に売れたのもあれだが、そこはそれ、プロデューサーの色々な機転で助かったと言っておくことにしよう。
――というか、そういった面倒な奴らはプロデューサーが相手にした後日に、すみませんでした拓海さんプロデューサーの兄貴に宜しくとお願いします、なんて震えながら電話があれば、スルーするに限ると思う。
あまり怒らせないようにしようと固く誓った過去である。
まあ、そんなことで。
色々と売れて忙しくなってきたアタシは、休みを取ることになった。
どたばたと忙しい中であったが、これから本格的に忙しくなるのでその前に鋭気を養え、とプロデューサーに言われてしまえば、とりあえずは従わない訳にはいかない――決して怖い訳じゃねえぞ、アイドルがプロデューサーの指示に従うのは当然のことだからな。
誰にでもない言い訳だったが、休みとあってアタシのテンションはマックス爆発寸前だった。
何をしよう、あれをしよう、これをしよう、なんて普通の女の子みたいな思考に自虐的に笑って。
――そうだ、バイクを走らせよう、と心に決めたのだった。
……が、アタシが悪いのか神様が悪いのか。
バイクで家を出てから十数分後、それまで晴れ渡っていた空に暗雲が立ちこめたと思いきや、途端の豪雨。
絶好のバイク日和だ、なんて家を出たアタシが雨対策などしている筈もなく。
びしょびしょになりながら、とりあえず家より近くにあった事務所へと避難した訳である。
――そうだ、それで濡れたままだとなんだってことでシャワーを浴びて、控え置きのジャージを着て。
――髪、乾かしてやるよ、とプロデューサーの言葉に従ってアタシは椅子に座って大人しくしているのだった。
「……拓海の髪ってさ」
「な、何だよッ」
「……い、いや……別に怒るようなことは何も」
「怒ってねえよッ」
「いや、それ怒ってるだろ……」
「だから、別に怒ってねえよッ」
いやだからそれは世間一般では怒ってると言うんだぞ。
なんてプロデューサーの言葉に、怒ってねえよ、と唸り声を上げると、はいはい、とプロデューサーの苦笑に少しだけイライラが治まる。
声はいつものように少しだけ弱気で、けれども何処か安心して聞いていられる声で。
アタシよりもプロデューサーがアイドルになれば、なんて冗談に、俺にアイドルの衣装が似合うとでも、と冗談を返されたことをふと思い出した。
ざあざあと雨が降りしきり窓を叩く音が事務所の中を占めて、それを邪魔するようにドライヤーの音と手櫛で髪を梳く音。
バイクをかっ飛ばす音とは違う落ち着ける音に、アタシはぽつりと口を開く。
「……それで?」
「んー……?」
「い、いや……アタシの髪で、何か言おうとしただろ?」
「……ああ、そういやそうだったな」
ふわっ、と。
シャワーで使ったシャンプーの香りがドライヤーの温風で暖められて、鼻腔を微かにくすぐっていく。
雨と水の匂いの中に混ざったその香りは、どことなくプロデューサーの香りを連想させる。
――とそこまで考えて、その香りがシャンプーの香りとして自分を纏っている現実を思い出して、瞬時に顔が熱くなる。
シャワーの水滴ではない何かが流れそうで、その匂いがどうだろうなんて考えて、いやシャンプーの匂いが、なんて考えて顔が熱くなって、の繰り返し。
「拓海の髪って触り応えがあるよなって話」
「は……?」
「いや、噛み応えとか言うだろ? それの髪の毛触りバージョン、みたいな?」
「……それは何か? アタシの髪がごわごわしてて固いとでも言うのか?」
カチン、と頭の中にある回路の何かが切り替わる。
もわっ、と心の中で湧き出た感情はすぐさまに意識へと達してイライラへと変換されていく。
……ばかやろー、アタシはこれでも女なんだぞ、なんて言う訳ない。
けれども、アイドルになったその日から髪の手入れは女の嗜み、なんて色々と木場さんや川島さんに言われてからは、気を付けてきたっていうのに。
そんなことを知る由もないプロデューサーに気付けっていうのは無理かもしれないけど、それでも――。
「固いというか……芯があるけど柔らかくて、何処か優しい感じがするのは拓海らしいよなと思って」
「……は、はぁっ?」
「触ってても飽きないっていうか、楽しくなってくるし、もっと触りたくなってくるし」
「いや、ちょっ」
「柑橘系のさわやかな香りも似合うけど、今みたいな甘い匂いも合ってるし」
「いや、あの……ぅぅ」
「俺、拓海の髪、好きだな」
「ッ」
それでも、少しは気を回してくれれば――なんて思ってたことが確かにあった。
けれど、これ以上気を回されたら目を回してしまいそうなほどにアタシの髪を褒めるプロデューサーに、頭の中にある回路は既にショートしてしまった。
むわっ、と心の中で噴き出した感情はすぐさま意識へと達してぐぼんっ、なんて勢いでアタシの頭を熱に染める。
ちょっと落ち着けってアタシッ、こんなのアタシらしく……でも、こんなアタシがアタシでも良い、だなんてプロデューサーは言ってくれて。
ぐるぐるぐるぐる、と頭の中がこんがらがって、さっきまでのイライラなんて跡形もなく吹き飛んでしまった。
何処か甘いような笑みで、何処か甘えるような口調で、何処か甘えてもいいんだと思わせるような手つきで、プロデューサーはアタシの髪を梳いていく。
雨の降る音、ドライヤーと櫛の音――それをかき消すかのようなアタシの高鳴り過ぎる胸の鼓動。
何言ってるんだよ馬鹿、と怒鳴り上げないとアタシじゃない。
もう終わりだ終わり、なんて照れ隠し――いやいや違うだろ――をしないとアタシじゃない。
これでもアタシは女なんだぜ、なんて悪ぶってみないとアタシじゃない。
けれど。
こんなアタシでも――胸を高鳴らせて、今が過ぎ去るのが寂しいと思うアタシでも、プロデューサーはアタシの一部だと認めてくれた。
特攻隊長の向井拓海。
アイドルの向井拓海。
普通の17歳の向井拓海。
どんな向井拓海であっても見守っていく。
そんなプロデューサーの言葉を思い出して、アタシは熱い顔のままふっと息を吐いた。
「……変態だったんだな、プロデューサー」
「……何で?」
「いや、だって髪フェチなんだろ? 変態以外の何物でもねえよ」
「うむ? 髪フェチ……髪フェチ、なぁ……」
「何だよ?」
「いや、拓海の髪だから好きなんだっていうのは、果たして髪フェチと言えるのかと思ってな。……どちらかと言うと、拓海フェ――」
「ちょッ……言うなッ、それ以上言うなァッッ」
向き直ってプロデューサーの口を塞ごうとすれば、器用に立ち回ってアタシの髪を梳いたままに後ろへと回りこんでくるプロデューサー。
がたっ、がたんっ、と音を立てながらくるくる。
向きは違えど何処か踊るような足取りが何だか可笑しくて、面白くて。
――アタシとプロデューサーは、いつしか笑い合いながらくるくると踊っていた。
(ゼンブのアタシ)
「……おわっ、どうしたんだ拓海ッ? びしょぬれじゃないか」
「……別に。大したことじゃねえよ」
「大したことじゃないって……待ってろ、すぐタオル持ってくるからな」
「やれやれ……あの子犬、大丈夫かな」
「? 何が大丈夫なんだ?」
「ッ? いたのかよッ」
「だから何が? まあいいや、ほら座れって。拭いてやるよ」
「あ、ああ……言っておくけど、プロデューサーのために濡れてきた訳じゃねえからな、ばーか」
「それはいいんだけど……とりあえず着替えて来い。……制服、透けてるぞ」
「へ………………きゃっ。……ぅぅ、ばかやろー」