アイドル:渋谷凛  
 
 
「それじゃあ始めるからな、凛」  
「う、うん……お願い」  
 
 やばい、これはやばい。  
 どきんどきん、と胸が痛いほど高鳴って、そこから送り出される血が私の顔を熱くさせる。  
 遠いのか、近いのか。  
 ぶおー、なんて何処か気の抜けたような音に交じったプロデューサーの吐息に、びくん、と身体が震えた。  
 
「あ、っと……熱かったか、もしかして?」  
「……ううん、別に。大丈夫だよ」  
「そっか……じゃあ続けるぞ」  
 
 プロデューサーの声と吐息が、耳をくすぐる。  
 ボイストレーニングをしている訳でもないのに良く通る声が、耳から入って胸に収まる。  
 通る声を出そうとして私達アイドルはトレーニングをしているのに、何だかちょっとずるい、なんて。  
 そんな思考でどうにかクールな自分を取り戻そうとするも、髪を梳かれる感触に全身がかっと熱くなる。  
 ああ、なんでこんなことに。  
 そう思いながら、どうにか熱を逃そうと窓へと視線をやる。  
 そこから覗ける空は、既に漆黒の中に星が煌めくものになっていた。  
 
 渋谷凛、CD第2弾発売決定。  
 そんなコピーが世間に出回ったのが、そもそもの発端。  
 ネットで出回るデマなどではなく、本当の予定としてそれは私が所属する事務所から発せられた。  
 『Never say never』に続く第2弾として、結構な反響があると聞いたのは何時だったか。  
 ともかくとして、その話が出たことによって、私のアイドル活動はまたまた加速を始めていた。  
 だが、そうそう上手くいかないのが世の常というもので。  
 ボイストレーニング、ダンストレーニングをこなしてなお、中々に曲を自分のものに出来ないでいた。  
 今日もそんな日。  
 ボイストレーニングに続いてのダンストレーニングが終わったのは、既に日が完全に落ちて、しかも18歳未満の活動が禁止されるような時刻だった。  
 
 そうしてダンストレーニングが終わった後に汗を流したら、プロデューサーにちょいちょいと手招きされて。  
 何が何やらでイスに座らされたと思ったら、髪を乾かしてやるよ、とか言われて。  
 少し前に卯月や奈緒がされていた状況に、今度は私が嵌っていたという訳だ――どんな訳だ。  
 
「……プロデューサーってさ」  
「んー……?」  
「変態だよね」  
「失敬だな、凛は。俺の何処が変態だって言うんだ」  
「誰彼構わずに髪に触ろうとするとこ」  
「ごめんなさい」  
 
 認めちゃうんだ、へー。  
 そんな言葉を呟いて目を細めつつ、私はプロデューサーのこれまでの奇行を思い出す。  
 初めは卯月――島村卯月の髪を乾かして。  
 次いで奈緒――神谷奈緒の髪を乾かして。  
 髪フェチ、なんて言葉が脳裏のよぎって。  
 卯月と奈緒の時の光景を思い出して、ついつい心の中でむっとなる。  
   
「髪は女の命なんだよ。そんなに簡単に触っちゃだめだよ、プロデューサー」  
「ああ、まあそれは分かってるんだけど……でも、こう、つい、な?」  
「つい、じゃ分かんないし」  
「自分には無いものに惹かれるというか」  
「伸ばせばいいじゃん」  
「笑えるだろ」  
「確かに」  
 
 それなりに短く纏められているプロデューサーの髪では、触ってもあまり楽しくないのだろう。  
 試しに髪を伸ばした――うん、私と同じぐらいに伸ばしたプロデューサーを想像してみる。  
 ……確かに笑える。  
 思わず、ぷっ、と噴き出した私に、むー、なんてプロデューサーの声。  
 
「笑うことは無いだろ」  
「まあ、いいじゃん。プロデューサーが髪フェチだってことは間違い無いんだし」  
「何だよ、髪フェチって」  
「だってそうでしょ?」  
「いいや、違うぞ、凛」  
 
 後ろで一度束ねた髪が持ち上げられて、涼やかになったうなじに柔らかく温かい温風が当たって、どことなくくすぐったい。  
 ――例えば人の吐息みたい、なんて思ってしまって、どきん、と一際高い心臓の音に顔が一気に火照る。  
 いやそんな訳ないじゃん、いやいやでもプロデューサーだし、いやけどそれはさすがに、でもプロデューサー変態だし、いやいやでもでも。  
 なんて考えて、決してイヤだとは思わないことに、またどきり。  
 そんな私の葛藤や苦悩を知ることなく、またふわり、とうなじに風が当たる。  
 
「ッ……ん」  
「あっ、悪い……熱かったか?」  
「別に……大丈夫、だよ」  
 
 どきん、と高鳴る胸に押し出された吐息が、自分でも予想外の声を放とうとする。  
 思わず唇をかんで我慢するが、知らずのうちに目を瞑っていたみたいで髪を梳くプロデューサーの手の動きに意識が向いてしまう。  
 ――状況を考えてみると、自分が漏らそうとしていた声が凄い危ないものみたいで、汗が吹き出しそうなぐらいに顔が熱い。  
   
「まあ話を戻すと、だ……俺、凛のこと好きだからな。好きな子のことは何でもしたいとか思うもんだろ?」  
「……え?」  
「好きだと思えるような子じゃないとプロデュースにも熱は入らないしさ。まあ、コミュニケーションの一環ってとこだな。あっ、もちろん凛や卯月、奈緒のことも含めて、ちゃんとみんなのことは好きだぞ、俺」  
「……何それ。そういうの、いけないと思うよ、私。節操無しみたい」  
「まあ例え話だよ、そう重く受け取るな」  
 
 ――その時、私の鼓動は確かに止まった気がした。  
 痛くなるほどの鼓動、聞こえてしまうのではないかと思えるほどの胸の高鳴り――その頂点。  
 ドキンッ、とそれまでで一番高鳴った鼓動は、確かに一度、その時に停止した。  
 無音の中、プロデューサーと私の息遣いだけが聞こえる、そんな空間。  
 ……プロデューサー、も?  
 と、そこまで思考が及んだ所で、いつもの笑う声に意識を取り戻す。  
 ……そっか、そうだよね。  
 
「ん……よしっと。これでいいだろ」  
「ん……うん、大丈夫。意外と上手いんだね、プロデューサー」  
「まあな。これ日々研鑽なり、だな」  
「……卯月や奈緒を使って?」  
「今日からは凛も練習台としてそこに入る」  
「やっぱり変態じゃん」  
 
 ぽんぽん、と頭を軽く叩かれてから確かめると、確かにきちんと乾いている髪。  
 長い髪を乾かす時にムラ無く乾かすのは意外と難しいのだが、あっさりとこなしてみる辺り、プロデューサーの経験値が垣間見える。  
 ――何故だかイラッ、と。  
 けれど。  
 私も練習台だ、なんて言われて。  
 この時間をまた過ごすことが出来る、なんて思えば、それまでただ熱かった顔と身体が心地よい温かさで満たされた。  
 
「送ってくれるんでしょ? ジュースでも奢ってよ」  
「下の自販機でもいいか?」  
「別にそれでいいよ」  
「そか……んじゃまあ、帰るとするか。忘れ物は無いか?」  
「んー……大丈夫だよ」  
 
 ぽんぽん、とスカートをはたいて椅子から立ち上がる。  
 ふわり、とスカートが舞うように振り向いて、にっこりと――それでいて試すかのような笑みをプロデューサーに向ける。  
 顔はまだ少し熱いが、先ほどまでではなく、極限にまで高まっていた鼓動は少し早いだけのものだ。  
 満たされた、満ちた温かさが心と身体を浮き足立てるが、少し落ち着けと、常の私をどうにか演出してみる。  
 こんなところにトレーニングの成果が、なんて笑って。  
 ふわふわと浮いては心を満たしていく感情が温かくて。  
 ほわほわとしていた温かった時と空間に後ろ髪を引かれながら。  
   
 
 
 ――私は、一つ笑みを浮かべてプロデューサーの背中を追った。  
 
 
 
(その温もりの名は)  
 
 
 
「珍しいな、甘いミルクティーとかいつもは飲まないだろ」  
「別にいいでしょ。今日はそんな気分なんだ」  
「? まあいいけど。そうだな、俺も今日はミルクティーにするか」  
「……一緒、かぁ。……えへへ」  
 
 

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