ラヴォスを倒し、平和な未来が保証された。
勝利の余韻を分かち合う暇も無く、仲間たちはそれぞれの時代へと帰っていった。
(これで、よかったのよ)
閉ざされていくゲートを見守りながら、ルッカは心の中で自分に言い聞かせた。
所詮、彼は過去を生きる人だから。
思いを伝えたとしても、結ばれるはずが無い。
よかったじゃない、ルッカ。
下手に恋うつつになって研究に身が入らなくなるくらいなら、
きっぱり諦められる方が、サイエンスに身を捧げた自分のためにはありがたい。
そうとでも思い込まなきゃやっていられない。
かくして、ルッカは研究に打ち込む日々を送っていた。
そして、歳月は流れた。
「ルッカ…ちゃんと睡眠とってるの?」
とある昼下がり、マールとクロノがルッカの研究所に遊びに来た。
開口一番、眉をひそめて発したマールの一言が、これ。
あの後、マールの熱烈なラブコールを受けたクロノは、彼女の思いに応え、
めでたくガルディア王家に婿入りすることに決まったのである。
そんな次期国王様候補のクロノは相変わらず爆睡している。
ほんとによく寝るわね、このバカは。
後々には王族としての立ち居振る舞いや知識を身につけなければならない。
その勉強で疲れているのだろうか。
ラヴォスを巡る旅が終わった後、
この研究所は旅を通じて新しく友となった三人のたまり場と化していた。
しかし、月日が経つのは早いものだ。
最近ではマールとクロノの結婚が決まり、二人とも忙しいのだろう、
三人で集まってだべる、などということは希薄になっていた。
マールがコーヒーを入れて、
ルッカは機械の調整をしながらマールの話に耳を傾ける。
その横でクロノはいびきをかいている。
そんな日々を送っていたのが今では遠い過去のようにルッカには感じられた。
クロノもマールも、今までのように遊びまわっているわけには行かない。
二人一緒に生きていくという覚悟の末に、今の二人があるのだ。
―――私も変わった。
ずっと一緒にいられるはずは無い、旅の間でも頭の片隅で理解してはいたけれど。
自分より頭一つ分は小さな身体に背中を預けては守られた、
心地よかったあの日々は戻ってこない。
最終的には自分の思いを殺して、諦めた。
「いやねえ、マール。ちゃんと寝てるわよ」
「嘘。隈、ひどいわよ。あと、だいぶ痩せた」
「………」
ぐいっと目の下を指さされ、詰め寄られる。
そんなに私ひどい顔してるのかな…そう思って少したじろぐと、
それまでクロノの裁判のときの大臣ばりに強く糾弾するようだったマールの表情が、
とたんにへなっと力を無くした。
「あのね…ルッカ」
マールはちら、と惰眠を貪るクロノのほうを一瞥してから、視線をルッカに戻した。
いつもハキハキと歯切れのいい口調のマールがめずらしく口ごもる。
「もしかして…私たちに、気を遣ってない?」
「……え?」
「もしかして、あなたクロノのことが好きだったんじゃないの…?そうだとしたら、私…」
「………はい?」
何て?この才色兼備のルッカ様が?この熱血剣術バカを?
ありえない。
…なんて言ったらクロノにベタ惚れなマールに氷付けにされるかしら。
ふう、と一つため息をついて、ルッカは口を開いた。
「…マール、確かにクロノのこと、私好きよ。
でもね、あいつは幼馴染で、ずっと一緒にいて、
弟みたいにして大事にしてきた奴なのよ。
むしろあいつがあなたとこうなって、驚いてるくらいよ。
…そりゃ少し寂しいって思う気持ちもあるけど、
マールが相手で私は嬉しいと思ってる」
「ルッカ…」
「…幸せになってね」
マールが輝くような笑顔を浮かべる。
慣れないセリフを、本心とはいえくそ真面目に口に出してしまったルッカは赤面してしまい、しばらくの間マールの顔をまともに見ることができなかった。
「…あ、じゃあさ、」
「…何よ」
「ルッカは好きな人とかいないの?」
「!」
一瞬、全身を深緑に包まれた異形の騎士の姿が脳裏を掠めた。ルッカの体が強張る。
「あー、その様子ならいるんだー!
そこまで私たちのこと祝福してくれてるんだもん、
私、全力で協力しちゃうよ!」
「…サイエンスの前に恋愛なんて不要よ」
「あなただからこそそういう人が必要なのよ。
毎日研究研究、じゃ頭も身体もボロボロになっちゃうわよ」
コトリ、とマグカップを置く。マールの入れたコーヒーがさっと波を立てた。
「…そろそろ暗くなる頃よ。お城にもどったほうがいいんじゃないの?
また大臣にお説教食らうわよ」
「…ルッカ…」
「ほら、バカクロノ!いつまで寝てんのよ!恋人を待たせんじゃないわよ!」
「…んぁー…?」
寝ぼけ眼の暢気なクロノと、それとは対照的な何か言いたげな表情のマールを背にして、研究所の玄関の扉を閉める。
―――あいつのことは思い出さないようにしてたのに…。
否、彼のことを思わない日などなかった。
研究に打ち込まなきゃ、余計なことは考えては駄目、
そう思えば思うほど、思い出さずにいられない。
最初、出会ったときは見かけのこともあって少し苦手だった。
それなのに、一緒に行動するうちに、彼の生き様を少しずつ垣間見ていくうちに、
恐ろしいほどの勢いで心惹かれていった。
「大嫌いなカエルだから」と、
出会ったとき嫌悪感を顕わにしてしまった自分に激しく後悔した。
―――まあ、こんなナリじゃ、信用しろといっても無理か…。
あのときの自虐的な彼の反応は未だに忘れられない。
これほどまでに彼に惹かれる自分が、かえって不思議に思えるくらいだ。
それでも、仲間との別れのとき、
思いを伝えるという選択肢はルッカの中には無かった。
生きる時代が違う人。最初から叶うわけがない。
もしそうしていたら、カエルにも迷惑をかけることになっただろう。無理を言って、困らせて。
後悔はしていない。これでよかった、何度もそう納得したはずだ。
ララのときとは違う。「あの時、こうしていれば」なんて、思う余地がないのである。
誰にも迷惑をかけない、ルッカ自身のためでもある。
自分は最善の行動をしたはずだ。
「…はず、なんだけどなあ…」
ぼふっ、と靴も履いたままルッカは仰向けにベッドに倒れこんだ。
―――今頃何してるかしら。
そう想像しかけて、そこではっと気づく。
カエルとルッカの間には、共有できる「今」は存在しないのだ。
400年近く前にとっくに死んでいる人。
本来ならば現代人のルッカにとっては、
ガルディア王国のために貢献した単なる歴史上の人物の一人、というところか。
そこまで考えて、虚しくてどうしようもなくなる。
これがいつもの思考回路のパターン。
もう何も考えたくない。
なんだか猛烈に疲れた。まぶたが重くて耐えられない。
解決策も見出せないまま、
ルッカは果ての無い闇に吸い込まれるように深い眠りにいざなわれて行った。
そしてまた無為に日々を送っていたある日、またマールがやってきた。
今日はクロノはいない。
「久しぶりじゃない。クロノは一緒じゃないの?」
「…ルッカ……」
いつも底抜けに明るい表情のマールが、今日は重苦しい雰囲気をまとっている。
「あのね、ルッカに大事な話があるの。一緒に城まで来てくれないかしら」
「?…いいわよ」
マールの態度に不信感を抱きながらも、
ルッカは彼女の雰囲気に圧倒されて止むを得ずついていくことにした。
そうして、ガルディア城のマールの部屋に通された。
この部屋には片手で数える程度しか入ったことが無い。
メイドが紅茶を淹れ、ルッカに差し出した。
自分のような庶民には手が出せないだろう高級な茶葉の香りが部屋の中に広がった。
改めて彼女が王家の一族であるという事実を思い知らされる。
パタン、と扉が閉まる音が聞こえた。先ほどのメイドが部屋を出て行ったのだろう。
扉が閉まる音を確認して、マールは一息つき、そして口を開いた。
「――さて、さっそく本題に入らせてもらうわね」
「うん」
一瞬躊躇したのかマールは少し目を泳がせたが、
すぐに一国の王女にふさわしい貫禄を取り戻して言った。
「突然だけど、あなたには婚約していただくわ」
……………
「………は…?」
「相手はガルディアの兵士よ。腕も立つし忠実で、今一番の出世株よ。
それにハンサムでいい男だし。すぐにあなたも気に入るんじゃないかしら」
「ちょ、ちょっと、待って!」
ルッカは慌てて割り入った。
婚約…あまりにもこれまでの生活とそぐわない単語に、ルッカは自分の聞き違いであることを切望した。
そんなルッカの態度とは対照的に、
マールは全く表情を乱さずルッカの方を見据える。
「い、今、マール、何て…」
「いい男だからあなたも気に入るんじゃないかと」
「そこじゃないわよ!今、こ、こ、婚約って…言わな」
「言ったわ」
「………」
とりつくしまがない。一瞬今日がエイプリルフールなんじゃないかとも考える。
だが、最もルッカの調子を乱させるのは、マールの態度だった。
いつもは懐っこい感じで気の効く冗談を言ってくるはずの彼女が、
今日は真面目な顔して一つも表情を変えずに恐ろしい宣告をしてくるのだ。
「マール…この間のこと、気にしてるの?
私はまだ結婚なんてするつもりもないし、全然大丈夫だから、
そんな気を遣わなくても」
「ルッカ」
強い口調で言い据える。
「これはガルディア王女としての命令です。
逆らうことは許しません。従ってもらいます」
あーそっか、こりゃ夢だ…。
ルッカは自分にそう言い聞かせながら、とぼとぼと帰路に着く。
自分には全く縁がないだろうと思っていた婚約という単語。マールの強硬な態度。
今日あった出来事は、あまりに現実味を帯びないことばかりで頭がおかしくなってくる。
マールをしてあんな強硬手段を取らさしめたのは、
おそらく数ヶ月前の煮え切らない自分の態度が原因なのだろう。
こんなことになるのであれば、あの時もっと真面目に応対していればよかった。
結婚なんて…。
マール曰く、相手は「腕も立つ、忠実でハンサムないい男」。
マールのことだからその辺の大したこと無い輩を選ぶなんてことはないだろうが、
自他共に認めるミーハーである自分でも、ハンサムと聞いても全く興味がわいてこない。
それは、ルッカ自身の人生を左右する存在となりうる男だからなのか。
それとも、緑に身を包んだ異形の剣士の存在がまだ心の中で燻っているからなのか。
―――もう、何もわからないわ。
はああ、と長いため息をついて、自宅の研究所の扉を開けた。
ガルディア城からトルース村への道のりはそれなりに長い。
すっかり夜も更け、家の中は暗闇に包まれている。
ララもタバンももう床に着いているだろう。
今日はいろいろありすぎた。電気をつけるのもおっくうだ。もう寝てしまおう。
靴を脱ぎ、ベッドにダイブしようとしたそのとき。
「ずいぶんお疲れだな」
聞き覚えのあるような、笑いを含んだからかうような口調。
……………
あんまり疲れているせいで、幻聴が聞こえるみたい。
自嘲しつつ声のするほうをぼんやり振り向くと、
暗くてよくは見えないが長身の人影が確かにあった。
ララやタバンのものではない。
(不審者!!?)
腰につけたままの自作のエアガンに手をかける。
そんなルッカの行動を見ても、相手は全く動じない。
その様子を確認して、ルッカは恐る恐る電灯をつけた。
そこには全く見覚えの無い青年が椅子にもたれていた。
緑色の髪が印象的だ。ガルディア兵の服装に身を包んでいる。
男は手を軽く組んでテーブルの上に置き、じっとルッカを見つめている。
その視線に何か熱っぽいものを感じた気がして、ルッカは慌てて目をそらした。
(何よ、なんでこんなじろじろ見られなきゃいけないのよ!)
「…あんた、誰よ」
「…わからないか?」
「記憶の限りだと初対面だと思うんだけど」
そうか、と言って男は口角を緩く上げ静かに笑みを浮かべた。
その自嘲的な様は、以前も見たことがあるような気がする。
――あいつに似ている。
ルッカは、ふと脳裏に思い浮かんだカエル姿の剣士の姿を必死に打ち払った。
何を見ても、誰を見ても彼を連想してしまう。重症だ。
「そもそも何で勝手に人んちに入って来てるのよ!
あんた、ガルディアの兵士でしょ。
いくら庶民の家だからって礼儀くらいわきまえなさいよ」
「勝手に、じゃねえよ。
快く親父さんが家に入れてくれたぜ。あんたの知り合いだって言ったら」
タバンめ…。明日から口聞いてやらないわ。
「大体電気くらいつけなさいよ。
暗い中ずっとここで座ってたわけ?気持ち悪いわよあんた」
「こうした方があんたの驚く顔が見られるだろうと思って」
「………」
もうまともに相手にするのも面倒だ。
きっとこれも、今日一日の信じられない出来事の連続のうちの一環なのだ。
そう割り切って、半ばやけくそ気味にルッカは青年の向かいの席にどっかと腰を下ろした。
そうして、初めて男をまじまじと観察する。
短く切られた若葉色の髪。
その容貌は美しく整っているが、
それなりに経験を積んで来たというような壮烈な雰囲気を感じられる。
年は三十歳前後くらいだろうか。
それにしては、笑みを含んだ表情からはどことなく子供めいた無邪気さが感じられた。
(…いい男じゃないの…)
「何だ?惚れたか?」
「!?」
ついいつもの癖で見とれていたルッカははっと我に返った。
男の方を見ると、いたずらに成功した子供のような笑いを浮かべてルッカの方を見ている。
確かにいい男は好きだが、無礼な男は別だ。
ルッカは、ミーハーな自分をこのときばかりは呪った。
少し落ち着かなければ、これではいつまで経っても男のペースのままである。
それにしても、どうにもこの男を相手にすると調子が狂う。
その理由が、ルッカにはなんとなくわかっていた。
この男がどことなく、中世を生きるカエル姿の剣士に似ているのだ。
若葉を連想させるエメラルド色の髪。時々自虐的だけど子供っぽい笑い方。
時折おどけたように抑揚をつける話し方。
それら全てが、いちいち彼を強く思い出させる。
その事実が、今のルッカをかえって苛立たせるのであった。
「…で?あなたは何しにうちに来たわけ?」
男はふっ、と口元に嫌味な笑みを浮かべた。
「今日、王女様から話を聞いたんだろう?」
「…それがどうしたっていうのよ」
「まだわからないのか?いつも勘の鋭いお前が、珍しいな」
初対面だっていうのにどうしてそんなことが。
そう言うつもりでルッカが口を開いた瞬間、
ふと脳内で今日一日の展開がようやく一本の線で繋がった。
婚約。ガルディアの兵士。ハンサムないい男。
「…まさか、あんた」
向かいの青年が、相変わらず嫌味な笑顔のままゆっくり立ち上がった。
ルッカは本能的に恐怖を感じ、さっと身体を強張らせる。
コツ、コツと静かに靴音を立てながらルッカのほうに近づいてくる。
ルッカは反射的に立ち上がり、逃げようとした。
しかし、先ほど以上に情熱めいた視線を以って凝視してくる男の瞳に、
ルッカは目をそらすことができなかった。
まるでメドゥーサの視線を浴びたかのごとく身体が動かせない。
緑髪の男との距離が、これまで誰とも経験したことが無いくらいまで近づく。
ふいに顎をつかまれた。
ルッカは我に返って身じろいだが、
鋼のような腕が背中にすでに回っていて動くこともままならない。
「――んむっ……!」
唇を塞がれた。
ルッカは初めての経験に思わず目をぎゅっとつぶった。
かぶりを振って抵抗しようとするが、凄まじい力で顎を押さえつけられてかなわない。
すぐに舌が入ってくる。
あまりの展開に驚いて、ぎょっと目を見開く。
相変わらずルッカを凝視する男の瞳と視線がぶつかった。
そこには先程感じた情熱めいたものの他に、何かを切望する意志があるのを感じた。
――嫌だ。
男が何を求めているのか、考えたくも無い。
必死で抵抗しようとするが、
腕の立つ兵士だという男の力強い腕に完全にからめとられたルッカには、
身じろぎすることすら許されなかった。
「………っ…ん…」
さんざん口腔を弄ばれ、唾液が溢れる。
顎をつ、と熱い液体が一筋、二筋と流れて行くのを感じた。
男は奥で縮こまったルッカの小さな舌を無理やり引き出して引き寄せ、絡ませる。
くちゅ、と水音が頭の中で響いた。
そのまま強く舌を吸われ、一瞬頭が痺れた感じがする。
「………」
必死でこらえていたが、我慢できずに涙が一筋流れる。
どうして、こんなことに。
(カエル…)
こんなことになるのなら、ゲートが閉じる前に意地でも好きだって言ってキスしておけばよかった。
なんとなく彼に似てるからって油断して、
好きでも無いしかも初対面の男にまさか無理やりキスされるなんて。
しかも、無理やり結婚させられるなんて。
情けなくて涙が出る。
そう考えると、なおさら涙が止まらなくなった。嗚咽まで出てきた。何て情けない。
ルッカが泣いているのに気づき、緑髪の青年は驚いた様子で慌てて唇を離した。
おろおろと慌てふためいたような表情でルッカの顔を覗き込む。
こういう不器用なところまであいつに似ている。
痺れた頭の中でも冷静にそう思える自分をルッカは不思議に思った。