「見るんじゃ…っ、ないわよ、」  
ルッカは嗚咽をこらえながら必死で言い放った。  
うつむいたままなので男の表情は見えないが、  
彼の身体に一瞬緊張が走ったように感じられた。  
「………」  
沈黙が研究室の中を支配する。ルッカの嗚咽が妙に大きく部屋に響いた。  
やがて、いたたまれなくなったのだろうか、  
緑の髪の男が崩れ落ちたルッカの肩にそっと手を伸ばそうとする。  
「触らないで」  
びくりと青年の身体が強張った。ぱたりとその腕が力なく床に落ちる。  
――なんなのよ、こいつは。  
いちいち人のペースを乱して、突然強引に迫ってきて、  
かと思えば一変して弱気になって。  
そう思うと、悔しさ、情けなさを通り越して、  
ふつふつとした怒りがルッカの脳内を支配した。  
何か言ってやらないと気がすまない。  
涙を右腕でぐいっと力強く拭った。  
「――大っ嫌いよ、あんたなんて」  
きっ、と男を見据えてルッカは言い放った。  
男の目に、一瞬傷ついた子供のような悲しげな色が浮かんだが、  
すぐにその状況に甘んじたかのように静かにルッカの目を見つめた。  
それを見て、ルッカは少し慌てた。  
が、なぜか同時になおさら怒りを煽り立てられた。  
「最低よ、勝手に決められた許嫁なんて立場を利用して好き勝手するなんて、最低」  
「……」  
「何なの、ちょっとかっこいいからって調子に乗って。  
あんたと結婚なんて、絶対にごめんだわ。死んでもよ」  
べらべらと相手への罵倒が勝手に口をついて出てくる。  
だんだんそれが八つ当たりになっていくのに、ルッカ自身も気づいていた。  
しかし、旅が終わってからというもの悩み続けてたまりにたまったストレスが、  
この機会にすごい勢いで放出されていくのは、  
心身ともに弱りきっていた彼女にとってはもはや不可抗力であった。  
 
「大体気に入らないのよ、そのしゃべり方も、その髪の色も。  
 全部、あいつに―――」  
そこまで言ってルッカははっと我に返った。  
それまで達観したようだった青年の瞳が、何か興味を示したように色が灯る。  
その様子を察してルッカは一瞬慌てた。  
―――何を言おうとしたんだろう、私は。  
よりによってこの男に。  
ぼっと顔が紅潮するのを感じた。  
しかし、これまで誰にも打ち明けたことのなかった心の内を、  
なぜかこの若葉色の髪の男になら話してもいい、ともルッカは思っていた。  
全く気に食わない奴。それは本心だ。  
しかし、あんなことをされたのにも関らずなぜか憎めない。  
それは、やはり彼の醸しだす雰囲気が自分の思い人に似通っているせいなのだろうか。  
ルッカは心を決めたように青年を見つめた。  
男の静かな色をたたえた双眸と視線が交わる。  
「……カエルに似てるの、あなた」  
一瞬、男の目が点になった。  
そりゃ、普通カエルに似ているなどと言われてショックを受けない男はいないだろう。  
「ただのカエルじゃないわ。バカみたいにでかいお化けカエルよ」  
「……」  
追い討ちをかけてやる。  
男は完全に口を閉ざした。ショックは最高潮に達したらしい。  
男の眉尻が情けなく垂れ下がるのが見えた。いい気味だ。  
彼のひたすら落ち込んだ姿をひとしきり堪能してから、ルッカは静かに話を続けた。  
「…でもね、そのカエルはもともと人間だったのよ。  
 恐ろしい魔王に呪いを掛けられて、カエルの姿にされてしまったの」  
男は黙ってルッカの話に耳を傾けている。  
その表情からは、逆光になってよく見えないせいというのもあるが、  
彼が何を考えているのかは読み取れなかった。  
 
「…カエルの生き方は、誰よりも誇り高くて、そして鮮やかだった。  
 私、思うの。カエルの姿に変えられたからこそ、彼という存在があったんだって」  
「…惚れてたのか?」  
ぐりん、と音がしそうな勢いで首を動かしてルッカは男の方を向いた。  
彼は子供のように心底楽しそうな目でルッカを見つめている。  
頬が発光しそうなくらい熱い。  
ふっ、と男は静かに笑みを浮かべて立ち上がった。  
先程まで座っていた椅子に再び腰掛ける。  
また、件の両生類を思い出させる自虐的な表情を取り戻して言った。  
「奇遇だな」  
「何が」  
「俺もカエルになったこと、あるぜ。まあざっと、400年前くらいにな」  
…………  
「……え?」  
思考が停止する。  
何を言っているんだろうこいつ。  
カエルになる呪いが世間では流行っているのだろうか。  
いや、そんなはずはない。落ち着いて、頭の中を整理して。  
床の上にへたりこんで呆然としたままルッカはつぶやいた。  
「……カエル…?」  
「…会いたかったよ、ルッカ」  
 
信じられないといわんばかりの表情で、  
ルッカは男をぼんやり見つめることしかできなかった。  
ここに彼がいるはずは無い。  
タイムゲートは完全に閉ざされた。シルバードも壊れたままである。  
過去と現在を行き来できる方法は皆無といっていいはずだ。  
「…嘘、でしょう?」  
「まだ信じられないか?…まあ、そりゃそうだろうな」  
青年は困ったように笑い、  
再度立ち上がって壁に立てかけてあった騎士剣を手に取った。  
新調したのだろうか、まだ真新しい拵えの宝飾が美しく光っている。  
鞘の部分を右手で握り、左手で静かに剣を抜く。  
瞬間、男の顔つきが真剣なものになるのを見てルッカは思わず息を呑んだ。  
シャッ、と鋼が擦れる小気味良い音がすると同時に、  
見覚えのある刀身が強い輝きを伴って現れた。  
この騎士剣に一体何度助けられたことだろう。  
ルッカ自身も散々苦労して復元に携わったのだから、見間違えるはずは無い。  
刀身の輝きは、装備した者の意志の強さを表すもの。  
いつかこの伝説の騎士剣に宿る子供姿の妖精が言っていたのを思い出す。  
これほどまでの高貴な輝きは、持ち主の心が精錬極まりないことを示している。  
「…グランドリオン…」  
もう目にすることは無いだろうと思っていた伝説の剣と、その所有者。  
剣を握る緑髪の青年と、かつてカエルと呼ばれた男の面影が完全に重なった。  
パチンと剣が鞘に納まる音が響き、夢心地だったルッカの意識を引き戻した。  
ルッカは胸をいっぱいにして男―グレンの方を見た。  
相変わらず笑みをたたえた表情のグレンと視線が交わる。  
どうしてここに?  
いつから?  
どうやって?  
何から話せばいいのか、頭の中に浮かんでは消える。  
 
と、今のルッカにとっては最も追求しなければならない重大事項があるのを思い出した。  
たちまち羞恥と怒りでルッカの顔が赤くなっていく。  
「こ、こ、婚約ってどういうことなのよ!しかもあんたとの!」  
グレンの襟首を掴んでぶるんぶるんと揺さぶる。  
グレンはルッカの勢いに全く動じず、  
むしろ楽しそうににやにやと笑いながらただルッカを見ているだけである。  
そんな彼の様子を見て、はっと思い至る。  
――マール、あの子も一枚噛んでたのね!  
グレンがマールに何を吹き込んだのか知ったところではないが、  
そう考えれば彼女の不可解な態度にも納得がいく。  
つまり、自分はグレンとマールにからかわれたのだ。  
「…ったく、しんじらんない…」  
ぼりぼりと頭を掻いた。くったりと脱力する。  
そんなルッカの様子を見て、グレンはぽつりとつぶやいた。  
「…こうでもしないとお前は応えてくれないと思ったんだ」  
「え?」  
グレンの表情が一変して真剣なものになる。  
「…どうして俺が今ここにいるのか、知りたいだろう?」  
「…そりゃあ」  
「ゲートが開いたんだ」  
「…え…」  
どうして。  
ラヴォスが死んで、全てのゲートは閉ざされたはずなのに。  
 
狐につままれたような顔をしているルッカを見て、グレンは笑った。  
「前、フィオナのところで400年間働いたロボを迎えにいった時のこと、  
 覚えてるか?」  
「え?…うん」  
「あの日の夜中、お前が小さい頃、  
 お前の母さんが足を失くした日のゲートができただろ」  
「!…気づいてたの…」  
「結果的に、お前はお前にとっての『最もやり直したい時』を実現したんだ。  
 今、お前の母さんは何事もなかったかのように元気に過ごしている。  
 お前が一番強く望んでいたことだ。  
 あのゲートはお前のためのゲートだったんだよ」  
「……」  
「…つまり、俺が通ってきたゲートは、  
 同じように考えれば俺にとっての『最もやり直したい時』に繋がってるんだ。  
…そして、その『時』ってのが、お前のことなんだ」  
「…どういう…こと…?」  
ドクン、と心臓がうるさく鳴った。  
答えを促すと、躊躇するようにグレンは目を泳がせる。  
しかし、観念したように一息ついて、ルッカの目をまっすぐ見据えて言った。  
「…お前に、何も伝えないで自分の時代に帰っちまったことを、俺はひどく後悔した。  
 初めはさ、サイラスの意志を継いで王と王妃様をお守りするのに命を捧げるのが  
 俺の余生の過ごし方だと思ってたんだ。  
 俺自身も、それが最高の幸せだと思ってた。  
 …でも、そうやって日々をすごしてるうちに、だんだん虚しくなってきてな。  
 もちろん王と王妃様への忠誠心は変わらないし、この生活に生きがいを感じてる。  
 でも…俺もこのまま一人でこの時代で年をとっていって、  
 お前らと旅をしたことも次第に忘れていって、  
 …お前のことも忘れていくのかと思うと、なんだか堪らなくなったんだ」  
「グレン…」  
「そう思ってたら、このゲートがあったってわけさ。…女々しいな、俺も」  
そういって自嘲的な笑みを漏らす。  
 
「でも、あなたはよかったの?万が一帰れなくなる、なんてことになったら…」  
「それは大丈夫だ。何があっても絶対戻る、王様と王妃様にはそう言って出てきた」  
ルッカはなんだか泣きたい衝動に駆られた。  
彼はそうは言っているが、  
ゲートホルダーも持たない彼が必ず自分の時代に帰れるという保証は無いのだ。  
ゲートが開いた時点で奇跡と言うほか無い。  
グレン自身もわかっているはずだ。  
亡き親友の思いを継いで、  
命尽きるまでガルディア王家に仕えることが彼の一生の願いであるはずなのに。  
彼自身も、あれほどまでリーネに執着していたのに、  
二度と彼女の元に戻れなくなるかもしれないというリスクを冒してまで、  
思いを遂げるために自分のもとに来てくれた。  
私なんかのために…。  
そう考えると、胸が張り裂けそうに苦しい。  
「…あんたはバカよ。大バカよ」  
「…そうだな」  
グレンが苦笑する。  
ふと、抱き寄せられた。  
驚いて、昔とは逆に頭一つ分高い位置にあるグレンの顔を見上げる。  
さっきの自嘲の色はいつの間にか消え失せ、熱を含んだ「男」の顔がそこにはあった。  
「好きだ」  
――ああ、やっと。  
ルッカは感慨深く目を閉じた。  
その拍子につ、と熱い液体が流れる。  
その感触で初めて、自分が涙を流していることを知った。  
 
ルッカを胸に抱え込んだまま、照れた様子でふと思い出したようにグレンは言った。  
「…今話したこと、マールに洗いざらい話したんだ。  
 じゃないと、何しろ姿が変わってるし、  
 この時代に俺がいるなんて絶対信じてもらえないだろうしな。  
 そしたらあっさり、『わかった。協力してあげる。』だと。  
 あいつ、俺の話聞いてめちゃくちゃ楽しそうな顔してたぜ」  
ばつの悪そうな顔で言う。  
「それで婚約なんて突拍子の無いモンが出てきたのね…」  
ルッカに思いを告げることができたグレンは、  
また自分の時代に帰らなければならない。  
生きる時代の違う二人は、一生の伴侶となることは適わないのだ。  
そんな彼らにとっては、  
「婚約」という単語はもはや口約束だけの儚い言葉でしかない。  
今日という日の逢瀬のための言い訳として機能するだけ。  
しかし、今のルッカにとってはそれでよかった。  
もう、これまでのように迷う必要はなくなった。  
今までは散々遠慮して気を遣いまくって、  
返ってギスギスしてしまい結局誰のためにもなっていなかった。  
そして、グレンも同じ気持ちだったことが分かった。  
悩みぬいた末に自分のもとに来てくれた。もうそれだけで十分だ。  
グレンの胸に顔をうずめる。  
日なたの匂いと汗の匂いが混じった健康的な男の体臭が鼻腔いっぱいに入ってきた。  
頬ずりをすると、細身に見える割には鍛えられた厚い胸板の感触が頬に当たった。  
五感を使ってグレンという男の存在を確かめる。  
改めて、彼が呪いから解き放たれたと言う事実を確認する。  
全身で男の感触を楽しんでいると、グレンがじれったがるようにして身じろぎをし、  
ルッカを抱きしめる腕の力を徐々に強めていった。  
 
(…あ…)  
腰のあたりに何か熱くて硬いものが当たっているのを感じる。  
最初の内はそれがなんなのか、疎いルッカにはよくわからなかったが、  
それがグレンの熱情であるという考えに至ったその途端、  
顔が見る見るうちに熱を帯びていく。  
開いた窓から入ってくる夜気がひんやりと感じられ、  
余計に自分の身体の熱さを理解する。  
――グレンが自分を欲している。  
熱気と羞恥をどう発散していいかわからず、  
ぎゅうぎゅうとひたすらグレンの背中にしがみつくばかりだ。  
これでもかというくらい二人の身体が密着する。  
「…ルッカ」  
興奮を抑えきれない、といわんばかりに掠れた男の呼ぶ声が、  
妙に大きく研究室の中に響いた。  
彼と自分の二人分の熱に浮かされたように顔を上げる。  
先程は穏やかだったグレンの目に、  
鋭く熱っぽい光が灯っているのを確認するのもつかの間、  
唇が塞がれる。  
さっき無理やりされたときの激しさが嘘のように、優しく重ねるだけの口づけ。  
 
ちゅ、ちゅと小さな音を立てて、小鳥がするように軽くついばむ。  
時折そっと舌を伸ばす。  
上唇に軽く舌を滑らした後、ちゅうっと吸い付く。それを何度も繰り返す。  
真っ赤な顔で硬直してなすがままになっていたルッカも、  
やがて決意したかのようにおずおずと舌を伸ばし、グレンに触れてくる。  
その様子に、彼はひどく興奮した。  
一瞬触れただけでも、怖いほどの痺れが彼の舌を、唇を走り抜ける。  
耐えられず、激しくルッカの唇に吸い付いた。  
ん、とくぐもった声で抗議されるが、  
構わず彼女の小さな両肩を押さえつけて口内を蹂躙する。  
思いっきり舌を伸ばしてルッカの上顎をざらり、と舐める。  
ルッカの身体がビクリ、と大きく震えた。  
そのままそこに舌を何度も往復させると、  
感じる場所なのか、ん、んと甘い声を上げる。  
口蓋を通じてグレンの頭の中に直接響くようで、彼の情熱はどんどん昂ぶってゆく。  
「――キャアッ!?」  
突然視界がぐるりと回転する。グレンがルッカを抱き上げたのだ。  
抱きかかえたまま、ルッカの額に、頬に唇にと軽く口付けながら、  
興奮を隠し切れない掠れた低音で、グレンはルッカに問うた。  
「…いいか?」  
恥ずかしさのあまり、思わず目をそらしてしまう。  
しかし、耳まで赤くなるほどに上気したこの顔では、  
真の答えは目に見えて明らかだろう。  
グレンはふっと優しく笑って、熱を帯びた彼女の耳にちゅ、とキスをした。  
 

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