1  
 
 遥か天の彼方。雲を見下ろす高みに、その国はあった。  
 魔法王国ジール。  
 この国に住むものは、誰もが例外なく魔法の力を持っている。  
 国の南にある太陽神殿が島を浮揚させる原動力となり、あらゆるものを統理する。  
 人々は繁栄した王国の生活を享受し、終わることのない安寧に身を横たえている。数百年前人類に芽生えた魔法が、文明を飛躍的に発展  
させ、この空に浮かぶ庭園都市を作り上げた。  
 島には鮮やかな草花が咲き乱れている。澄みきった泉から沸く水が、小さな滝となって地上へ降り注ぐ。  
 この場所は暗い空を知らない。  
 今日も、絶えることのない静かな風が吹いている。  
 みゃあ。  
 島のはずれにある樹の上で、一匹の猫が鳴いている。  
 猫は自力で樹に登ったものの、怖くて下りることができなかった。  
 みゃあ。  
 弱々しく、しかし確かな、命の声。  
 しばらくすると猫は、一人の少年がこちらを見ていることに気がついた。  
 少年の瞳は空を映し、どこまでも透き通っている。  
 猫と少年はしばしの間、視線を交わしていた。  
「お前」  
 と、少年は言った。まだ声変わりしていない、明るい音色。  
「下りられないのか?」  
 みゃあ。  
 猫は小さな声で鳴いた。  
 少年はまたしばらく猫を見ていた。  
 が、ふと瞳を閉じると、意識を集中した。  
 猫が宙に浮かび、ゆっくりと地面に下りる。  
 みゃあ。  
「後は平気だろ。好きにしろ」  
 そう言うと、少年は踵を返して歩き去った。  
 猫は少年の背中をじっと見つめていた。  
 
 宮殿には、天窓からの光が燦々と降り注いでいた。  
 建物の中であっても、風は絶えず流れ、人々の肌を優しく撫でていく。  
 明るい一室で、美しい少女が本を読んでいる。  
 彼女の名はサラ。女王の娘。  
 海洋のように青く澄んだ瞳と、雪原のごとき銀色の髪を持っている。  
「あら」  
 サラは部屋の入り口を見てつぶやいた。  
「ジャキ。その猫はどうしたの?」  
 入り口にはさきほどの少年が立っていた。  
 ジャキ。サラの弟だ。姉弟のまとう紫色のローブは、王家の者たる証。  
「勝手について来たんだ」  
 みゃあ、と猫は鳴いて、サラの元へ歩いていった。  
「まあ、可愛い子」  
 サラは猫を抱き上げ、そっと頬を寄せる。ジャキは無関心な目で猫を見ていた。  
 
「猫なんて小さな存在だよな。木に登っただけで何もできなくなるんだから」  
 サラの腕の中で、猫はうとうとしはじめた。  
「ジャキ。命は平等なのよ。それはどれだけ小さなものであっても同じ。あなたも、私も、この子も……誰もが同じ」  
 サラは穏やかに微笑んだ。  
「だからこそ、弱きものには優しくしなければいけません」  
 姉の笑顔がジャキは好きだった。自然を愛し、生きものを尊び、何者にも平等な姉の笑顔。  
「それじゃ、姉上がその猫を飼えばいいよ。あげるからさ」  
「まあ。ジャキは猫が好きじゃないの?」  
「そういうんじゃないけど。僕には向いてないと思うし」  
「向き不向きじゃないわ。迷わず、まっすぐに接していれば、心はきっと通じるものよ」  
 ジャキは何か言おうとしたが、首を振って、  
「とにかくいいから。僕は」  
「失礼します、サラ様」  
 宮殿に住む民が一人、サラの部屋に入ってきた。サラは彼女に目を留め、  
「どうしました?」  
「女王陛下がお呼びです。女王の間へおこしください」  
「わかりました。ありがとう、下がっていいわ」  
 サラが答えると、黙礼して女は下がった。  
 サラはそっと猫をソファに下ろし、  
「また後でね」  
 背を優しく撫でた。  
 みい、と猫は鳴いた。さっきより甘い声になったとジャキは思った。  
「姉上、また母様から厄介な用を押しつけられるの?」  
「ジャキ。そんな風に言うものじゃないわ。お父様が亡くなってから、母様はたった一人でこの国を支えているのよ」  
 サラの言葉に、ジャキは少しだけうつむいて、  
「でも……、母様は僕たちに冷たくなった」  
 サラはふっと息をつくと、ジャキの前へ歩み寄り、彼の頬を両手で包んだ。  
「ジャキ。ものごとの悪いところばかりを見ていては、本当に未来が悪いほうへ傾いてしまうわ」  
 サラは瞳を閉じ、そっと、額をジャキの額に合わせる。  
「いいほうへ向かうと信じること。悪いことが起こるのは、そのための試練よ」  
 サラは微笑んで、女王の間へ向かった。  
 みい。  
 サラを見送るジャキの背に、猫の甘い声がかかった。  
 
「母様、サラです。入ってもいいでしょうか?」  
 返答を待って、サラは女王の間に入った。  
 先王が逝去して数年、女王ジールは一人で国政のほとんどを執りおこなってきた。  
 ある日は三人の賢者と一日中会議をし、ある日は魔法研究の進捗状況について代表者と話し合い、ある日は機械文明の展望について声明  
を披露し、ある日は太陽神殿に赴いたきり出てこなかった。  
 机に積み重なった分厚い書物の山は、入室するたびに顔ぶれが変わっている。「時間が足りぬ」とは数年来のジールの口癖だった。  
「サラか。待っておった」  
「母様。用件とは何でしょう」  
「ふむ。用というほどのものでもないが……」  
 ジールは窓から雲海を眺めていた。今日も空は晴れている。それは王国が始まって以来変わらぬ風景だった。  
「サラ。太陽神殿の調査報告はガッシュから聞いているな?」  
「はい」  
 ジールはサラを振り向いた。  
 ジールにはこの数年で備わった女王の威厳と偉容があった。些細な感情を寄せつけぬ、冷たく、確固たる意思の力。  
 
「太陽石のエネルギーは、むこう数千年は絶えることがない」  
「はい」  
「それゆえ、この国が今後も隆盛し、なおいっそうの富を得ることは違いない」  
「はい」  
 サラの眼差しは何かを憂っているようだった。  
 ジールは気に留めず、淡々と言葉を次ぐ。  
「ならばジールの民は、このままとこしえの安寧と平和の中で暮らしてゆける。そうであろう?」  
「はい」  
 すると、ジールは視線を落とし、長い溜息をついた。  
「しかし、人間はいつか年老いる」  
 女王が言うと、サラは沈黙した。やわらかい光が机上の書物を照らしていた。  
「ハッシュの研究で、我々は寿命を永らえることに成功した。通常の人間であればとうに年を取り、死にゆくような歳月を経てもなお、生  
き続けることができる。そうであるな?」  
「ええ……」  
 サラは愁眉を寄せ、困ったような表情をする。ジールは意に介さず、  
「しかし。太陽石、魔法、機械文明。これらの力を持ってしてもなお、永遠の時を生きることはかなわぬのじゃ」  
 重い口調だった。沈痛な面持ちで母を見ていたサラは、ローブの袖を自分の頬に寄せた。  
「そなたもわらわも、やがては老い、そして死ぬのだ」  
 ジールは机まで歩み寄ると、豪奢な肘掛け椅子に身を沈めた。両手を組み、額に当てる。  
「力が必要じゃ。何者も寄せつけず、しかも尽きることのない力が」  
 サラは黙っていた。視線は机に注がれていたが、意識はどこか別の場所を向いているようだった。  
「太陽石は不完全じゃ。あれはいつか光を失う宿命にある。それは果てしなく遠い時間ではあるが、永遠ではない」  
 女王は深く、長い溜息をついた。石のような重みのあるひと息だった。  
「下がってよい、サラ」  
 女王はサラを見ずにそう言った。サラは不安そうに母を見ていたが、やがて「失礼いたします」と言って、女王の間を辞去した。  
 
「ほう。女王陛下が冷たくなったとな」  
 命の賢者、ボッシュは言った。  
 分厚いメガネの向こうで、叡智をたたえた瞳が光る。  
 その言い方では子どものわがままみたいだ、とジャキは思った。  
「別に、僕はどうでもいいけどさ。そんなの」  
 これではなおさらダダをこねているようだった。歯痒い思いで、ジャキはきゅっと奥歯を噛む。  
 ボッシュは天井を見上げた。視線の先で、球形をした真鍮製の模型がくるくると回っている。ここは彼の研究室だ。  
「確かに」とボッシュはつぶやき、指先でパイプに火を点した。糸のような煙が細くたなびいた。  
「このところのジール様は何かに追われておるようじゃ。もともと絶え間なくはたらくお人じゃが、近頃それに拍車がかかっておるのう」  
 ボッシュは静かに目を閉じると、パイプを吸った。ゆっくりと息を吐き出す。煙が広がって、ジャキとボッシュの間に白い靄をつくる。  
「姉上がつらそうにしてる」  
 一人用のソファに座っていたジャキは、視線を落として言った。ボッシュは、ジャキがかすかに声を震わせているのに気がついた。  
「ジャキ。そのような時こそ、お主が傍にいてやらねばならん。ジール様を除けば、サラ様の肉親はお主ひとりじゃ」  
「……うん」  
 ジャキは顔を上げ、まわりを見渡す。  
 ボッシュの研究室には得体の知れない小道具が沢山ある。  
 天秤や剣をはじめ、天体模型、銀色の鎖、水蒸気を噴出すポットのようなもの、レールの上を走り回るおもちゃ。  
 口には出さないものの、ジャキはこの部屋が二番目に好きだった。ここに来ると、心配事の重みから少しの間開放される気がしていた。  
「ジール様は力を欲しておる。尽きることのない、永遠の力を」  
 ボッシュが静かに言った。頬に刻まれた皺の間に、憂いの色がにじんで見える。  
「そんなものが何の役に立つんだよ」  
 ジャキは独り言のようにつぶやく。  
 力。  
 ジャキは、力が欲しいと思ったことなど一度もない。  
 ジャキを見ていたボッシュは、パイプを受け皿に置くと、椅子から立った。  
「力があれば、自分のみならず誰かを救うことができる。……たとえば」  
 ボッシュは壁にかけてある剣を手に取ると、  
「剣じゃ。素手で戦うより、遥かに強い力を得ることができる」  
 一回転させて床に突き立てた。  
「しかし、力には常に代償が伴う。剣を振るう者は、その刃が命を奪うものであることをいつも心に留め置くべきじゃ」  
 ジャキは剣を見つめた。白銀の刃が、彼の頼りない表情を映し出した。  
 
 首を振ったジャキは、  
「解らないよ。どうして母様はそんなものを欲しがるんだ」  
 ボッシュは答えず、目を細めた。言うべき言葉が見当たらないという表情だった。  
 部屋の入り口でノック音がした。ボッシュが何者か訊くと、サラの返事が返ってきた。  
「ジャキ。ここにいたのね」  
「姉上」  
 入室したサラの足元にはさきほどの猫がいた。薄紫色の毛並みがサラのローブと揃いになっている。  
 サラはボッシュを見ると、  
「ボッシュ、母様がお呼びです。ハッシュとガッシュも呼ばれています」  
「ふむ」  
 ボッシュは愛用の杖を取ると、自室を後にした。サラとジャキが部屋に残った。  
「ジャキ。私はこれから地の民のところへ行ってきます」  
「えっ。どうして?」  
 ジャキは弾かれたように立ち上がった。  
「またあそこへ行くの? あんな奴ら、放っておけばいいじゃないか」  
 するとサラは悲しそうな表情になって、  
「ジャキ。あんな奴らなんて言わないで。絶対に言ってはだめ」  
「でも」  
「ジャキ。命はみな平等なのよ。上もなければ下もないの。私たち光の民は、たまたまここにいるというだけ」  
 ジャキは少しの間不満そうな顔をした。が、すぐに元に戻り、  
「いってらっしゃい」  
 そう言うとそっぽを向いた。サラはジャキの背を見つめて、  
「留守のあいだ、この子をお願いね」  
 ボッシュの研究室を後にした。  
 みゃあ。  
 姉上のときと鳴き方が違う、とジャキは思った。  
 
 魔法王国ジールの遥か下。天蓋を雲に覆われた地表には、絶えず大雪が降っている。  
 峻厳なこの土地に、地の民と呼ばれる人々が住んでいる。彼らは魔法の力を持たず、洞穴の中で原初的な営みを細々と続けている。  
 入り組んだ穴倉の突き当たり。暗闇を明るい炎が照らす。  
「おお……」「ありがたい」「暖かい」  
 人々の中央で、サラが大きな松明に魔法で火をつけていた。  
 光の民にしてみれば、火をつけることなど片手間でしかない。しかし地の民にとって、火は何より貴重なもののひとつだ。  
「サラ様、ありがとうございます。本当にありがとうございます」  
 長老が膝をついて頭を下げた。サラは首を振り、  
「長老様、おやめください。私は当然のことをしているだけです」  
 しかし長老をはじめとした地の民は頭を上げなかった。サラが来るたび、彼らは大儀そうに彼女へ頭を下げる。  
「サラ様がいなかったら、わしらのようなものはとっくの昔に滅びています。今日のわしらがあるのも、ひとえにサラ様のおかげ」  
 長老はやっと頭を上げたが、まだひざまずいていた。  
 サラはかがみこんで、目線を長老と同じ高さにし、  
「本当ならあなたがたもジールに来るべきなのです。何年も主張しているのに、なかなか賛成が得られなくて……」  
 言いよどむサラに、長老はぶんぶん首を振って、  
「とんでもない。わしらはここでやっていけばいいんです。光の民と地の民とは、生まれつき住む世界が違うのですから」  
 こういう言葉を聞くたびに、サラは胸を痛める。  
 平等。  
 それは自分がジャキにいつも言っていることだ。  
 しかし実際には、とても平等とはいえない。天の民のほとんどは地の民を下に見ている。その認識はどうやっても揺らぎそうにない。  
 二つの民が一つになって、共に歩んでいける日が来れば……。  
 それがサラの願いだった。窮状にある人々を救い、誰もが幸福でいられるように。  
 でも、私が一人ではたらきかけても何にもならない。  
 そう思うたび、サラはいつか母が言っていた言葉を思い出す。  
『地表の雪を晴らしたい。さすれば大地にも春が来る。住みよくなれば、光の民は地表にも下りよう。その頃には、もはや地の民、光の民  
などという呼称は不要じゃ。誤解も蔑視も存在しない』  
 
 いつか。たった一度だけジールがサラに吐露した願いだった。  
 サラが願うだけだった思いを、ジールは人知れず実行しようとしていた。  
 いつか。ずっとずっと昔。  
 もう覚えていないくらい遠く。  
 あの時の母様と、今の母様は違うのだろうか。  
 サラは、ジールが今もその思いを忘れずにいると信じていた。  
 だからこそ、ジールのどんな命にも従ってきたし、これからもそうするつもりだ。  
 母様は私よりずっと気丈で、聡く、立派なのだから……。  
 
 
       2  
 
 時が過ぎていく。  
 ジール王国には四季がない。国土は、美しい常緑樹や多年草に絶えずおおわれている。  
 それは、太陽石の力を制御することで、王国の気候が年間を通じて常に一定に保たれていることによる。  
 しかし、それでも確かに時は流れている。  
 サラは、母が日ごと表情を険しくする様子から時の移ろいを感じていた。日ごと、口癖を呟く回数や、調べる書物の数が増えていく。  
「母様、少し休まれてはいかがでしょう」  
 ある日、サラがそう問いかけた。するとジールは峻厳な眼差しを向けて、  
「休む? サラよ。わらわをからかっておるのか? 休息など無用じゃ。わらわが安らぎを得るのは、王国が真なる光に包まれ、永遠の時を約束された後じゃ。それまで、一国の猶予もない」  
「ですが母様、このままではいつか母様の身が危険にさらされます。私はそれが心配なのです」  
 ジールはしばらくの間サラを見ていたが、  
「サラ……。そなたに見せたいものがある。ついてまいれ」  
 そう言って席を立った。サラは伏し目になって逡巡したが、頷いて、母に従った。  
 
 ジールが向かったのは、王国領土の西、王立都市カジャールに程近い場所だった。  
 空に浮かぶ国土の端、切り立った断崖に、鋼鉄の骨組みで巨大なデッキがしつらえられている。  
 直線に延びるデッキの先端、青く大きな翼を持つ飛行機械が停留している。  
「黒鳥号……」  
 サラは呟いた。  
 この数ヶ月、ジールは労力の半分をこの計画に費やしていた。  
 理の賢者、ガッシュと何度も会合して意見を交わし、研究を進めさせた。  
 大型の飛行機械である黒鳥号に乗れば、魔力を持たぬものであっても空の旅に出ることができる。  
「長かった。ようやく完成したのじゃ。空駆ける機械の翼、ジール文明の象徴」  
 ジールは厳然たる面持ちで黒鳥号を眺めていた。  
「人は空を飛ぶことができぬ。ゆえに、このようなものに頼らざるを得ない。が、これがあれば飛べるのじゃ」  
 ジールは瞳を閉じ、ゆっくりと呼吸してから、  
「限界と考えられていた領域を突破し、宿命を大いなる力と共に乗り越える。わらわが使命と感じていることじゃ」  
 サラは片手をそっと頬に当て、静かに黒鳥号を見ていた。  
 確かに、ジールがいなければ黒鳥号が完成することはなかったかもしれない。  
「これも王国の繁栄を願えばこそ。そのためであれば、わらわは眠る時間すら捧げて国に寄与する。サラ、そなたであれば解ってくれるな?」  
 デッキの上は風が強い。サラはローブと髪がなびくのを押さえつけながら、  
「ええ……」  
 とだけ言った。  
 
 午後。サラはガッシュの元を訪れた。  
 ガッシュの研究室は限られたものにしか扉が開かれていない。  
 本人しか知らない技術によって、入り口で訪問者を識別し、認められた者のみが入室を許可される。  
 
「何者じゃ?」  
 ガッシュは短く言った。彼はせわしい気質をしている。「研究の邪魔じゃ」が往々の口癖であり、余計な文言をのたまう輩を極力遠ざけたがる。  
「何じゃ、サラか」  
 ほんの一瞬サラを見ただけで、ガッシュはまた作業に戻った。計器に向かって延々と何かを入力している。放っておけば、彼は日がな一日そうしているだろう。  
 来客用の椅子すらない部屋にたたずむサラは、しばらくガッシュの仕事ぶりを見ていたが、  
「ガッシュ。母様は近頃働きすぎていると思いませんか」  
 研究室の天頂にひとつだけついた窓を見上げる。円柱形に切り取られた光が、部屋の半ばまで差し込み、消えていた。  
 こんなところにこもっていては精神がねじれてしまう。ここに来るたび、サラはそう思う。  
 サラの言葉にガッシュはかすれたような笑いを浮かべ、  
「ジール様は自ら望んで国のために尽力なさっておるのだ。サラ。お前にも解っとるじゃろう」  
 その間にもガッシュは、小型機械と計器の間を忙しく行き来した。その姿は、どことなくサラに対し「早く帰れ」と言っているようだった。  
「ガッシュ。あなたもです。母様と同じか、あるいはそれ以上に多忙なのでしょう? 少しは休息したらどうですか」  
「っほ。愚問じゃな、サラ。研究を怠るわしは死人も同然じゃ。亡霊になってでも意思を完遂する……それが研究者というものじゃ」  
 表示板から照射する人工の明かりが、ガッシュの横顔を青白く映した。  
『あやつに何を言ってもムダじゃ』  
 とはボッシュの弁だ。ガッシュはこの国で女王と双璧をなすほどに頑迷な人物だ。王国の機械文明は、彼なしにここまで発展することはなかっただろう。  
 サラは思う。ガッシュにとって、人々のことは興味の対象外なのだ。だからこそ、あの黒鳥号のように大きな塊を、躊躇うことなく空に飛ばすことができる。それによって人がどのような進路を辿るかなど、考えないのだろう。  
 サラはひとつの質問をガッシュに投げかけた。  
「ガッシュ。もしも母様が、あなたに人を殺す機械を作れと命じたら、あなたはどうしますか?」  
 ガッシュは作業を中断し、サラを見た。すっかり白くなった眉がひそめられ、  
「ジール様がそのような命を下すはずがないじゃろう。サラ。気でも狂ったか?」  
 それきり、ガッシュは何も言わなかった。  
 
 自室に戻ったサラは、窓越しの景色を眺めて、静かに息を吐いた。  
 室内を見渡すと、猫がいないことに気がつく。  
「あら。あの子、どこにいったのかしら?」  
 みい。  
 戸が開いて、猫が入ってきた。続いてジャキも。  
「まあジャキ。その子と一緒だったの?」  
「え? ああ。うん、まあね」  
 サラは歩み寄ってくる猫に手を伸ばした。しかし、猫はゆっくり歩くと寝床に向かい、そのまま丸くなってしまった。  
「姉上、さっきまでどこに行ってたの?」  
 ジャキがソファに座って言った。サラは猫の背を見たままで、  
「ガッシュに会いに行っていたのよ」  
 するとジャキは苦い顔になって、  
「……あの偏屈じいさんのところか」  
「ジャキ。その呼び方はやめなさいって言っているじゃない」  
 サラがたしなめると、ジャキはどういうわけか少し嬉しそうな顔をした。  
「ジャキ、どうしたの?」  
「え? 何がさ」  
「何だか嬉しそう。何かあった?」  
 ジャキは二回瞬きをすると、こほんと喉を鳴らして、  
「気のせいだよ」  
 そう言うと、ソファから立って部屋を出て行った。サラは首を傾げたが、しばらく猫の寝顔を見ているうちに忘れてしまった。  
 
 時を重ね、ジールの仕事がいよいよもってその手に収まりきらなくなると、その一部はサラに課せられた。彼女は分担を自分から申し出た。それで母の荷が少しでも軽くなるのなら、喜んで引き受けよう。そう思った。  
 ジャキや猫と接している時だけ、サラの心に安寧が訪れた。ジールやガッシュ、国の行く末を思うと、サラの心には暗い影がさし、気持ちが重たくなった。  
 時が過ぎていく。  
 
 
       3  
 
 数ヶ月が過ぎた。  
 月日の経過と共に、サラにはジールがますます冷たくなっていくように思われた。  
 かつて静かに燃えていた意思の炎は、今や青い色をしている。母はこの頃、まるで機械にでもなったかのようにサラに命令する。  
 母様は冷たくなった。サラはそう感じる自分をいつも否定した。  
「姉上」  
 声がした。  
 窓辺にいたサラは、慌ててドアの方を向いた。微笑んで、  
「どうしたの? ジャキ」  
 
「ちょっと来て」  
 何かしら、と思いつつ、サラは弟の後にしたがった。  
 ジール宮殿を出てしばらく歩く。洞穴から洞穴へ、ワープを通って、王立都市カジャールを過ぎ、花の咲き乱れる道をなおも歩き続ける。  
 澄んだ水をたたえる泉を両脇に、橋をわたって。  
「なあに? ジャキったら、いったいどうしたの?」  
 しかしジャキは答えずに道を急いだ。ジャキは早足で歩いていたものの、不思議とどこか躊躇しているようでもあった。  
「あら……? そういえばあの子、どこへいったのかしら」  
 サラは彼女の猫がついてきていないことに気がついた。いつもは一緒なのに。  
「ついた」  
 ジャキが立ち止まったのは木陰だった。  
 大きな樹。枝が屋根のように伸び、葉が青々と茂っている。木漏れ日が草の茂った地面をまだらに照らす。サラは幼い頃、この樹の周りでよく遊んだ。  
 ふと、サラは猫の声がすることに気がついた。それも一匹ではない。  
「見て。姉上」  
 ジャキがそっと下がった、その後ろ。  
「まあ、ジャキ。これって……!」  
 数匹の子猫が、親猫の乳を飲んでいた。  
 みいみい、みゃあと鳴き声がする。まだ目もよく見えない子猫は、微弱な力で、必死に親猫の乳を探していた。  
 その様子を見ていたジャキは、  
「この猫、メスだったんだ。最近様子がおかしかったからボッシュに見てもらった。そしたら」  
 サラは透き通った瞳を猫たちへ向けた。  
「そうだったの……。やだ、私ったら全然気がつかなかった」  
「姉上、この頃すごく忙しかっただろ。だから僕がこいつらの面倒見てたんだ」  
 サラは両手で口元を多い、うっとりした様子で猫の親子を見つめていた。  
 本当にまるで気がつかなかった。私は母様と自分のことばっかり考えて。ジャキにあれだけ偉そうに言っておきながら。  
「そう、そうだったの……。ジャキ……」  
「姉上?」  
 サラは涙が流れるのを止めることができなかった。  
 何と素敵なことだろう。私の知らないところで、この猫と、その子どもが……そしてジャキも。しっかりと育っていた……。  
「ジャキ!」  
「わっ!」  
 サラはジャキを抱擁した。  
「ごめんなさい。私、もっと早く気づくべきだった。そうすれば、この子たちにもっと早く出会えたのに……!」  
「姉上……くすぐったいよ。それにちょっと……いや、けっこう恥ずかしいんだけど」  
 小声で言いながら、ジャキは頭をかいた。ここまで喜んでくれるとは思ってもみなかった。  
 サラは何度もジャキの名前を呼び、その間ずっと弟を抱きしめていた。  
 それから、姉弟は二人で猫たちを眺めた。  
 幸福な時間だった。こんなに嬉しいことがあったのはいつ以来だろう。  
 サラは親猫が気持ちよさそうに目を細めるのを見ていた。たまらなく愛しい気持ちになる。  
「姉上、僕らだけじゃこんなにたくさんの猫は飼えないよね」  
 弟が言うと、姉は、  
「そうね。誰か他に面倒を見てくれる人を探さないとね」  
「そんなに簡単に見つかるかな?」  
「大丈夫よ。こんなに無垢な姿を見たら、誰だって傍にいてほしくなるわ」  
 サラはそう言って、近くで横になる子猫に手の平を差し出した。子猫は未熟な頭突きでもするように、サラの真っ白な指とじゃれあった。サラはまた微笑んだ。  
 風が吹いて、木々がそよいだ。  
<サラ>  
 偏頭痛のような痛みに、サラは顔をしかめた。  
「姉上?」  
 ジャキが首を傾げて、不思議そうにサラを見た。  
<サラ、わらわの下へ来るのじゃ>  
 ジールの意思がサラの意識に直接響いていた。  
「母様……」  
 サラはつぶやいた。彼女の声に、ジャキは目をすがめて、  
「姉上、母様がどうしたの」  
「ジャキ。ごめんなさい……。私、行かなくては」  
 
 サラは立ち上がると、急いでジール宮殿へ引き返す。  
「姉上、待って!」  
 ジャキが呼びかけてもサラは足を止めなかった。その背後で、猫の家族が和やかに合唱していた。  
 
 サラが女王の間に入ると、三人の賢者が集結していた。  
 彼ら――ボッシュ、ハッシュ、ガッシュの三名は、たった今入室したサラを振り返った。  
「サラ。待っておったぞ」  
 三賢者の向こうから、氷のようなジールの声がした。サラは背筋がひやりとした。  
「母様」  
 サラが歩み寄ると、ジールは回転椅子をこちらへ向けてサラを見た。  
 ジールと視線を交わしたサラは戦慄した。  
 ジールの瞳は輝きを失いかけているように見えた。サラは息を飲んだが、ジールはそれに気づかなかった。  
「サラ、次からは呼ばれたらもっと早く来るのじゃ。わらわは時間が惜しい」  
 その言葉にサラは恐怖を覚える。  
「ええ……母様。承知しました」  
「返事ははいだ」  
「……はい」  
 ジールは明らかに様子がおかしかった。  
 これまで、疲労や心労を蓄積させていることはあっても、ここまで鬼気迫る様子はなかった。  
 何かがあったのだ。母様をこんな風に変えてしまう何か。  
 ジールは椅子から立つと、せわしなく室内を歩き回り、  
「ふ、フフ……。喜べサラ。ついに、ついに見つけたのだ……わらわの求めていた力を」  
 サラははっと声を漏らした。三賢者が溜飲を下げるような気配がした。  
 ジールは椅子から立ち上がる。片手をかざして、  
「『その者』は遥か太古より地中深くに住み、今なお眠り続け、力を蓄えている」  
 ジールの声は不思議な自信に満ちていた。聞くものを問答無用で沈黙させる。  
「これよりその者に会いに行くぞ。……よいな?」  
 ジールは一同を再度見渡した。返答がないことを是と受け取ったのか、  
「その前に、そなたたちに紹介する人物がいる」  
 女王が指輪のはまった手で机をノックする。  
「ダルトン、入れ」  
 室内に、目に見えない圧力が感じられた。厚みのない黒い球体が現れたかと思うと、それはみるみる大きくなり、やがて中から一人の男が出てきた。  
「お呼びでしょうか、女王陛下」  
 大胆不敵にも、その男は三賢者とサラの眼前に出現した。  
「空間転移か……?」  
 ガッシュがつぶやくのをサラは聞き取った。  
「ふー。ようやく舞台に立てるってもんだ」  
 男はいけ好かない風体だった。マントはところどころほつれていたし、格好はどこかいびつだ。おまけにニヤニヤ笑っている。  
「皆のもの、紹介しよう。ダルトンだ。こやつはカジャールで風変わりな研究をしておった。ダルトン、あとはそなたから説明しろ」  
「はっ、女王陛下」  
 ダルトンは女王へ慇懃に礼をすると、サラたちのほうへ向き直り、  
「陛下のお言葉通り、俺の名はダルトンだ。俺は空間を自在に歪め、任意の物体を離れた場所へ飛ばすことができる。他にゴーレムの研究なんぞしているが、まあそれはじきに嫌でも解るだろう」  
 ダルトンはマントをひるがえし、大仰な仕草で女王に敬礼した。  
「以上です、陛下」  
「うむ」  
 ジールはサラたちを見て、  
「サラ、そして三賢者よ、このダルトンが今から我々を目的の地へいざなう」  
 女王は天窓を振り仰いだ。  
「今日は記念すべき日だ。王国に永遠が約束されるかもしれない。クク……アーッハッハッハ!」  
 ジールの高笑いは、サラの懸念を強くする。  
「それでは女王様、参りましょう」  
 ダルトンが言った。ジールは首肯する。その顔にはまだ笑みが残っている。ダルトンは指を鳴らし、  
「それじゃ皆様方、レッツ、ゴー、トゥ、ジ、アンダーグラン!」  
 ブラックホールが広がり、一同を飲み込んだ。  
 
「!!」  
 その異様な姿を目にした途端、サラは立っていられなくなった。まるで毒を飲まされたかのように、全身から力が抜けていく。  
 目の前に存在する、あまりにもまがまがしく、おぞましいもの。  
 
「なんと……」  
 ボッシュが眼鏡の縁を押さえ、固唾をのんだ。  
「ラヴォス様だ」  
 ジールの声が一同の耳朶を打った。  
「ラヴォス……これが」  
 ハッシュがかすれた声を出した。サラは何とか立ち上がろうと力を入れてみたものの、かなわなかった。  
 ラヴォスと呼ばれた異形の存在は、全身を鋭く硬い棘に覆われていた。棘は暗い色をしていて、触れるすべてのものを貫きそうだった。  
 棘にびっしりと覆われた殻の中央で、繭のように閉ざされた口がてかてかと不気味に光っている。  
 これほどまでに恐ろしいものに、サラも、そして三賢者も、これまで対峙したことがなかった。  
「太陽石に代わり、これからはこのラヴォス様がわがジール文明の支柱となる。そなたらも感じるであろう? この莫大で、無尽蔵のエネルギーを」  
 ジールは高笑いした。  
 サラは変わり果てた母の声を聞いて、胸が締めつけられるような思いだった。  
「サラ。何を座っておる。しっかりするのじゃ。そなたには役目がある」  
 とがめるようにジールが言った。その口調にはわが子を思う色など到底見受けられない。  
「立つのじゃ、サラ」  
 ジールはサラを一瞥した。サラは首を振ろうとしたが、思うように力が入らなかった。  
「母、様……」  
「サラ。ラヴォス様のあまりの迫力に気後れしておるな? なに、心配はいらぬ。じきにそなたも解るはずじゃ。この力がいかに素晴らしく、いかに強大であるか。もはや何者もジールの繁栄を妨げることはできぬ」  
 ジールはふたたび笑い声をあげる。サラは目まいがした。  
 母様、お願いですから、私とジャキのところへ帰ってきてください。  
 母様……。  
「さて、サラ。立てないならそのままでもかまわぬ。初対面であるそなたの反応は無理もないものじゃ。今日に限ってはラヴォス様も寛大に許してくれよう」  
 ジールはラヴォスへ振り返り、  
「サラ、そなたの力でこのラヴォス様に語りかけるのじゃ」  
 サラは言葉を失った。何か言わなければと思ったが、声が出てこなかった。  
 事態を危惧するような眼差しを浮かべていたボッシュが、  
「お言葉ですがジール様。この者、ラヴォスとやら。わしにはあまりにも不吉な存在に思えます。この者に頼らずとも、これまでのように太陽石のエネルギーを使って――」  
「ええいうるさいわ! そなたは黙っておれ!」  
 ジールは激昂した。その姿がまたサラの胸を痛めた。  
「そうそう、爺さんたちは無粋な口出しなんかせず、黙って見物人と化してりゃいいのさ」  
 口の端を歪めてダルトンが言った。この状況を楽しんでいるようだった。  
「さあ、サラ。深き眠りの中にあるラヴォス様に、そなたならば語りかけることができるはずじゃ」  
 サラはジールの目を見た。  
 かげった瞳。  
 そこに私の姿は映っていますか? 母様……。  
「解りました」  
 サラは気丈にも立ち上がると、細い両の腕を差し出し、呪文を唱えはじめた。  
「サラ様、無茶をなされるな!」  
 ボッシュがそう言うも、サラは一心に呪文を唱え続けた。  
「おお……感じるぞ。ラヴォス様の鼓動を! クク……。サラ、その調子じゃ」  
 ジールはおもちゃを与えられた子どものように興奮していた。  
「くっ」  
 サラの声が漏れた。彼女の顔は青白く、額にはうっすらと汗が滲んでいた。それでもサラは呪文を唱え続ける。  
 空間がいびつに鳴動する。地の底が震えるような、大きな揺れ。  
「来るぞ。ラヴォス様が目覚められる!」  
 三賢者の表情が険しくなった。これまで状況を楽しんでいたダルトンですら、油断なく警戒しているのが見て取れた。  
 一瞬。時間が止まったように思われた。  
 直後、ラヴォスが強く輝き、真っ直ぐな光線が地上めがけて放出される。地震が大きくなる。  
「おお、素晴らしい! これがラヴォス様の力!」  
 サラは気を失って倒れた。しかしジールはそれに気がつかない。  
「サラ様!」  
 三人の賢者がサラを囲むようにしてかがみこむ。ボッシュがサラを抱き起こす。  
「ジール様! 今すぐ引き返しましょう、ここは危険です、あまりにも危険じゃ!」  
 ラヴォスの殻から延びる柱のような光線は、上方めがけて放射しつづけた。それは次第に細くなり、やがて途切れて消えた。  
 まもなく地殻振動が起こった。まともに立っていられないほどの激しい揺れが一同を襲う。  
 
「ハッハッハ! 愉快じゃ、実に愉快じゃ! これこそわらわの求めていた力!」  
 ジールは哄笑した。やがてダルトンに、  
「満足じゃ。上々である。今日はこれでよい。ダルトン、王国へ帰るとしよう」  
「はっ。女王陛下」  
 ダルトンは無意味に格好をつけ、ターンして指を鳴らし、その場にいた全員を空間転移させた。  
 同じ頃、海中から放たれた光線が、遥か高みにあるジール王国の大地を掠めていた。  
 
 数時間後。  
 ジール宮殿、女王の間。  
「ジール様! 今すぐラヴォスを深い眠りに着かせるべきです。あれはこの国の動力源に収まりきる存在ではありませんぞ!」  
 ボッシュが強く抗議していた。他の賢者、ガッシュ、ハッシュの二名は、おのおのの思いと共に沈黙している。  
 椅子に身を預けたジールは犀利な視線をボッシュに投げ、  
「ボッシュよ。無粋な諫言は無用じゃ。せっかく眠りの淵までおいでになったラヴォス様を、なぜまた送り返さねばならぬ」  
 優美な動作で空をつかみ、  
「これでいい。これでラヴォス様のエネルギーはいつでも引き出せる状態になった。あとはそれを増幅し、魔力に換えるだけじゃ」  
「ジール様」  
 光の民の女が女王の間に入ってきた。  
「報告いたします。先ほどの天災により、カジャールとエンハーサの間に亀裂が生じ、エンハーサが大陸から分離いたしました。しかし墜落には至っておらず、依然無事です。光の民は軽症を負ったものもおりますが、全員が健常です」  
「ご苦労だった。下がってよい」  
 ジールが言うと、彼女は黙礼し、退室した。  
「ガッシュよ」  
 ジールが沈黙していた賢者の一人を呼んだ。ガッシュが顔を上げる。  
「何にございましょう。ジール様」  
「ラヴォス様のエネルギーの増幅、及び変換を行う器となる機械を作るのじゃ。よいな」  
 ガッシュはわずかな間、物言わずジールを見ていたが、  
「承知いたしました。期限はいつまででしょうか」  
「可能な限り早くじゃ」  
 ジールの声にはいかなる反駁も許さないという響きがあった。  
 
 遠い日。  
 まだサラが幼かった頃。  
「母様!」  
 緑豊かな庭園を、サラは駆けていた。空に溶けてしまいそうなほどまばゆい銀色の髪が、風になびいている。  
 彼女が走る先、泉のほとりに、まだ若さの残るジール王妃がたたずんでいる。  
「サラ」  
「母様! つかまえたっ!」  
 サラは母に抱きついた。  
「ふふ、母様がどこにいたって、私には居場所が解るんだから」  
 サラはくすくす笑った。娘の無垢な笑みに、母は穏やかな微笑を浮かべ、  
「本当ね、サラ。あなたには隠し事が通じないみたい」  
 どこまでも優しい声だった。声だけでなく、容姿も、何もかもが今のジールとは違う。  
「ねえ、母様はここが好きなの? 母様はいつも色々な場所にいるけれど、特にここにいることが多いわ」  
 泉のほとり。  
 水面が鏡のように空を映す。半分が透けて、泉の底が見える。水中を色とりどりの稚魚がすいすい泳いでいく。  
 母はサラを見て、それから庭園を眺めた。  
「そうね。ここにいると落ち着くわ。幸せを実感できる。サラ、あなたもいるしね」  
 母は娘の髪をそっとなでた。  
「私もここが好きよ。だって母様の匂いがするもの」  
「わたくしの匂い?」  
「そう」  
 サラは瞳を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。  
「やわらかくて、温かくて……。それでいて強いのよ」  
「まあ」  
 母は小さく笑った。サラによく似た笑み。  
 追憶の中にだけ存在する、幻影。  
「だからここが好き」  
 そう言うと、サラは再び母に寄り添って、  
「母様も好き」  
 彼女の身体に耳を寄せた。サラはしばらくの間そうしていた。太陽の光が、優しく親子に降り注いだ。  
 
「あれ?」  
 程なく、サラは変化に気がついた。  
「ねえ、母様。母様の身体……」  
 見上げるサラに、母はふふっと笑う。  
「やっぱりあなたに隠し事はできないみたいね。サラ」  
「まあ、やっぱりそうなのね! 母様。私、お姉さんになるんだわ!」  
 サラはこの国に咲くどんな花よりも明るく笑った。  
「ねえ、男の子かしら、それとも女の子?」  
 踊るように母の周りを歩きながら、サラはたずねた。  
「さあ、どうかしら。でも、まだ気が早いんじゃない? サラったらせっかちね」  
 母はまた笑った。サラはくるりと後ろを向き、空を見つめて、  
「男の子がいいわ。そうすればお父様も……きっと元気になるもの」  
 静かにそう言った。サラの父たる国王は、近頃体調が優れなかった。  
 母は「そうね」と相槌をうち、  
「この子のためにも、いつまでも平和がつづけばいいわ」  
 国の平和と家族の無事を祈った。ただただ、祈った。  
 
「母様……」  
 サラが目を覚ました時、母の面影は霞のように遠くへ去ってしまっていた。天窓から降り注ぐ光に手をかざしても、それは空をかくだけだった。  
「おお、サラ様。目覚められたか。これはよかった」  
 傍らにはボッシュが座っていた。彼は読んでいた本を置くと、眼鏡を外して眉間をもみほぐした。  
「ボッシュ。私は……あの後どうなったのですか?」  
 サラは寝台から半身を起こしかけたが、ボッシュが片手をかざし、  
「サラ様。今しばらく安静にしておるべきです。あなたは力を使いすぎた」  
 ボッシュはパイプをふかすべく、飾りのついた服のポケットを探した。しかしここがどこであるかに思い至り、その手を止めた。  
「あの者、ラヴォスはどうなりましたか?」  
 サラは壁に背を預け、ボッシュに訊いた。両手を動かしてみたものの、うまく力が入らなかった。冷たい。  
「ふむ。今のところ、あやつは浅い眠りについたままじゃ」  
 ボッシュはつぶやくと、近くにいた女中に合図し、彼女たちを退室させた。  
「サラ様。ジール様はラヴォスの力を国の動力として用いるつもりです」  
 サラの顔が曇った。彼女は片手を頬に当てた。それは胸騒ぎがする際の彼女の癖だった。  
「ジール様の命で、ガッシュが『魔神器』の製造に着手しました。あやつは仕事が早い。ひと月もしないうちに完成させるじゃろう」  
「『魔神器』とは何ですか?」  
「ラヴォスの力を増幅し、魔力に変換する装置のことです。女王はそれで国に力を行き渡らせるおつもりじゃ」  
 ボッシュは顎をなでた。怪訝な眼差しで、  
「しかもそれだけではないのです。ゆくゆくはその魔神器を海底に移し、大地すべてにエネルギーを与えようとしておる」  
「海底に?」  
 ボッシュは首肯した。  
「神殿の建立が計画されております。海底神殿。もしもそんなものが出来上がってしまえば、あやつ、ラヴォスは完全に覚醒してしまうやもしれません」  
 サラの眼差しが悲しみの色を強めた。  
「わしは計画に反対しております。ガッシュは、あやつも瘴気にあてられておるのか……賛成票を投じおった。ハッシュは棄権しておりますが」  
 サラは顎を引き、静かに息をついた。自分が反対しても、女王とダルトンが賛成票を入れれば多数決でも負けてしまう。  
「もしも歯止めが利かなかったときのために、わしのほうで準備をしておきます」  
 ボッシュが言った。  
「何か手があるのですか?」  
 サラが問うと、ボッシュは頷き、  
「宝物庫にドリストーンと呼ばれる赤き結晶があります。わしは秘密裏にあれを調査しておったんじゃが、ラヴォスの力に呼応する素子が見つかったのです。ともすれば、奴を封じる武器を作れるかもしれん」  
「くれぐれも母様に見つからぬよう」  
「無論じゃ」  
 ボッシュが本を手に退室しようとすると、サラは周囲を見渡して、  
「ボッシュ。ジャキはどこに……?」  
 
 女中の制止を振り切って、サラは宮廷を抜け出した。  
 まだ身体は冷たかったし、走ると頭がくらくらしたが、それでもなるべく早く道を急いだ。  
『あのラヴォスが放った光線が国を掠めたのです。そのせいで大陸の一部が分断されてしまった。幸い民は無事じゃったが……』  
 続くボッシュの言葉を途中まで聞いたサラは、いてもたってもいられず寝室を出た。  
「ジャキ!」  
 大きな樹の下。  
 小さな肩がびくんと反応した。  
 彼はうずくまって、地面に何かをしていた。  
 
「姉上」  
 サラに背を向けたまま、ジャキは小さく答える。  
「来ないで」  
「ジャキ……母様は」  
「来ないで! こっちには、絶対……」  
 来ないで。  
 ジャキは必死に訴えた。声も身体も震えていた。  
 その姿を見ただけで、サラは涙腺が緩むのを抑えられなかった。  
 
 ああ、どうしてこんなに、行き違ってしまうのだろう。  
 
「ジャキ」  
 サラはそっと弟に近づいて、包み込むように彼を抱きしめた。  
「ごめんね……」  
 ジャキは答えなかった。答えられなかった。  
 ジャキの目の前には、枯れ枝で作った小さな墓標が立っていた。  
 それは名前もなかった親猫と子猫たちの墓だった。  
 みい。  
 ジャキの隣で、たった一匹生き残った子猫が、小さく鳴いていた。  
 
 
       4  
 
 サラの心労が溜まっていった。  
 
 あの日、ジャキは秘めていた魔力を暴走させた。  
 いかずちが国の南方に落ち、太陽神殿への道に亀裂が走った。  
 感情をでたらめに放出させるジャキを、サラはずっと抱きしめていた。サラは泣きながら何度も謝り、ジャキはそのたびに雷を落とした。何年も晴れ渡っていたジールの空が、その日、暗雲に覆われた。  
 そして、今日もまた小雨が降っている――。  
 サラは窓辺に歩み寄って、母と弟のことを想った。  
 あれ以来、ジャキの魔力はぷつりと絶えた。しかしそれは力を失くしたからではない。サラにはそう解っていた。あの子は心を閉ざしてしまったのだ。  
 繊細な、水晶のような心。  
 あと少しで輝きそうだったのに、些細な行き違いが、ジャキから太陽を隠し、遠ざけてしまった……。  
 ジャキはサラ以外の誰とも口を利かなくなった。あれだけ懇意にしていたボッシュにさえも。  
『アルファドって名前にしたんだ』  
 ジャキがこれまでの間に話した数少ない言葉だった。  
『あいつら、名前もないまま死んだから……せめてこいつには』  
 アルファドと名付けられた雄猫は、ジャキ以外の誰にもなつかなかった。サラには手を出さないが、他の民によくいたずらをし、あまつさえ爪を立てた。  
『このドラ猫め!』  
 引っかかれて生傷を作った光の民が、たびたび怒声を上げた。しかしジャキの飼い猫だと誰もが知っていたため、それ以上文句は言えなかった。  
 
 窓辺に立っていたサラは、ふと感じた気配に振り返った。  
「……ジャキ」  
 弟が部屋の入り口に立っていた。  
「やだ。いたのなら声くらいかけてくれてもいいのに」  
 サラが言うと、ジャキは視線を床に落として、  
「ごめん。僕……姉上みたいに器用じゃないから」  
 その言葉を聞いただけで、サラは泣き出しそうになった。  
 自分では気づいていないかもしれないが、ジャキは声も表情も前より冷たくなってしまった。瞳には読みきれない影が差している。  
「そんな風に自分を卑下するものじゃないわ」  
 サラはソファに腰を落とした。ジャキはサラのいた窓辺に歩いていって、せり出した桟に腰掛けた。アルファドが彼の前に飛び乗って、みい、と鳴いた。  
「黒い風が泣いてる」  
 ジャキは呟いた。あれからしきりに口にする言葉だった。  
 サラがジャキにいくら尋ねようとも、ジャキはそれが何なのか教えてくれなかった。  
 サラは、自分とジャキの間に薄い、それでいて確かな隔たりができてしまったことを知った。  
 サラは直観で、何者もその隔たりを除去することはできないのだと悟った。  
 姉である自分でさえも。  
 
 サラはうつむいて、頬に手を当てた。  
「姉上。僕、いつかこの国を出て行くよ」  
 ジャキは言った。サラははっとして弟を振り返った。  
「出て行くって、ジャキ。どういうこと……?」  
「そのままさ。こんな所、僕はいつまでもいたくない。ここでなければどこだっていいんだ。とにかく出て行く」  
 無茶苦茶だ。ジールでなければどこに住むと言うのだろう。地の民のところでジャキが生きていけるとは、サラには到底思えない。  
 でも、ちがう。ジャキが言っているのはそういう意味ではないのだろう。  
 サラは何も言えなかった。声を出せば、それは嗚咽に変わってしまいそうだった。ジャキは目に見えない何かへ、静かな、冷たい憎悪を向けている。  
 サラは祈った。神様。もしもあなたがジャキを見ているのなら、どうか、この子を悲しみから救ってあげてください。  
 私では、もう手遅れだから……。  
 部屋の戸が鳴った。  
 ぶしつけで乱暴なノックだった。サラはしばらく黙っていたが、やがて「どうぞ」と言った。  
「失礼しますよ。王女様」  
 ダルトンがずかずかと部屋に入ってきた。サラの背後で、ジャキが氷のような視線をダルトンに向けるのが解った。  
「何の用でしょう、ダルトン」  
「サラ姫、女王陛下が呼んでますよ。例の件でね」  
 ダルトンは品定めするような目でサラと彼女の部屋を見ていた。その目がジャキの視線とぶつかると、フッと笑ってサラに向き直った。  
「姉上。行っちゃダメだ」  
 ジャキが言った。その声には強烈な意思の力が宿っていた。  
 サラは立ち上がると、ジャキの方を振り向き、  
「ジャキ……心配しないで。すぐに帰ってくるわ」  
「姉上、こんな奴らに協力なんてしないで!」  
 ジャキの叫びにダルトンは眉をつり上げて、  
「ボウズ、生言うのはその綺麗な顎に髭が生えてからにするんだな。つべこべ抜かすと、お兄さんが説教することになるぜ? こっちでな」  
 ダルトンはへらへら笑いながら、右手を拳の形に固めた。  
 ジャキは表情をまったく変えず、  
「黙れ腰巾着」  
 その言葉にダルトンは口を結び、殺気立った目でジャキを見た。  
「ボウズ。次にそんな言葉を並べてみろ。喋りたくても声が出せないようにしちまうぞ」  
「ダルトン……やめて! さあ、行きましょう……」  
 懇願するようにサラは言って、ダルトンを促した。ダルトンは嫌味ったらしい流し目で、最後までジャキを見ていた。  
 
「サラ、喜べ。魔神器が完成したのじゃ!」  
 ジールの第一声だった。しかし、サラは何も言えなかった。  
「どうしたサラ。そなたももっと喜ばぬか。これでジールを動かす魔力は飛躍的に増大するのだぞ」  
「ええ……」  
「まあよいわ。直接目にすればそなたも解るじゃろう。サラ、ついて参れ」  
 そう言ってジールは部屋を出た。やむをえず、彼女は母の後に続いた。  
 ジールとダルトンに挟まれ、廊下を歩きながら、サラは潰されてしまいそうな気持ちだった。  
 私にもっと勇気があれば。  
 母様やジャキを救うために、一歩を踏み出す勇気があれば。  
 しかしサラにはそれができなかった。母と弟を想えば想うほど、サラは冷たい鎖に手足の自由を奪われ、身動きが取れなくなった。  
「サラ様、大丈夫ですか?」  
 魔神器の間の入り口でふらつきかけたところを、光の民に支えられた。  
「ごめんなさい。私なら大丈夫……」  
 私なら。  
 せめて、私がしっかりしていれば。  
 
「見るがいい、サラ」  
 サラは顔を上げた。  
 ジールの背後、彼女の何倍も大きな、甲冑のような兵器が、ひっそりとした影をこちらに投げていた。サラは息を飲んだ。  
「これが……」  
「魔神器だ。すでにラヴォス様との回路を繋げてある。地中で対面した時と同一のオーラを感じるであろう?」  
 サラは立っているのがつらかった。寒気がする。  
 こんなものを支えにしてはいけない。絶対にいけない。  
 そう思ったが、声を出すことが困難だった。呼吸しているのがやっとだ。  
「太陽神殿への道は封鎖し、陸地を切り離した。驚くほど容易な仕事であったわ。これもラヴォス様のご加護か」  
 
 ジールは魔神器を見上げた。恍惚とした表情で、  
「あと少しだ。あと少しでわらわの望みが実現する」  
「母様……」  
 サラが呼べども、ジールには聞こえていない。  
 こんなに近くにいるのに、手の届かないところに行ってしまったみたい……。  
「サラ。この部屋とわらわの部屋に、これから特殊な鍵をかける。ペンダントは持っているな?」  
 ペンダント。  
 ずうっと前。母様が私にくれた宝物。  
『サラ。このペンダントは、わたくしからの贈り物です。あなたをつらいことや苦しいことから守ってくれますよ』  
 綺麗な、青い石。  
「そう、それじゃ。その中にラヴォス様の力を封じ込めるのだ」  
 サラが差し出したペンダントをジールはひったくり、魔神器の前にかざした。  
 ペンダントはひとりでに浮き上がる。魔神器から光の粒が注ぎ、ペンダントの中へ。  
「やめ……」  
 やめて。  
 母様からいただいた、大切な宝物をとらないで。  
「これでいい。サラ、これからはこのペンダントを常に持ち歩くのだ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」  
 サラの元に返ってきたペンダントは奇妙な光を放っていた。そして、手にずしりと重たかった。  
 私のペンダントはこんな風に光ったりしない……。自然の光を受けて、海のようにきらめくのだ。  
 サラはペンダントを首にかけた。途端、まるで首に枷をはめられているみたいに苦しくなった。  
 ジールは魔神器の間を悠然と闊歩しながら、  
「海底神殿だ。あとはそれさえ完成すればよい。さすれば永久の時がわがものになる」  
 サラは床にひざまずいた。重たい……このペンダントは。  
「すでにガッシュは着工に取りかかっている。問題は工員だ。光の民を危険にさらすわけにはゆかぬ。命に関わる仕事は別のものにさせる必要があるな」  
 頭がぼんやりしてきた。  
「女王陛下。下界の民ならば使い捨てても問題ないかと存じますが」  
「ふむ……そうだな。ダルトン、よき案じゃ」  
「恐縮でございます、陛下」  
 サラは朦朧とする意識の中でジールの言葉を聞いていた。  
 下界の民?  
 それは……地の民のこと?  
「いけない。母様。それはいけない」  
 サラは必死に力を振り絞り、立ち上がろうとした。それだけは何としても止めなくては。  
「母様、だめ……! それだけは……絶対に……」  
「どうしたサラ。顔色が悪いぞ」  
 ジールの顔がかすんで見えた。  
「ははあ、そうか。ラヴォス様のエネルギーが身体に順応しきっていないのだな。安心するがよい。初めは苦しむかもしれぬが、すぐに慣れる」  
 いや……そんなのは。  
 母様、お願い。正気を取り戻して。  
 昔の、人々の平和を願っていた頃の母様に、戻って。  
「ダルトン。決まりだ。下界へ赴き、適当な民を選んでまいれ。若い男が理想であろう。ゆけ!」  
「はっ」  
 
 だめ……!  
 
 しかし、サラの声は誰にも届かなかった。  
 どれだけ願っても、祈りは通じなかった。  
 
 サラは再び気を失った。  
 
 
       5  
 
 悪い夢を見ていた。  
 そこには救いがない。  
 そこでは大切な人が泣いている。  
 
 黒い夢だ。  
 夢には終わりがない。  
 私はその中で息もできず、どこへも行けず、誰にも会えず……涙することすら許されずに、終わらない夢の中をいつまでもさまよっている。  
 ここから助けて。  
 誰か……。  
 
「姉上、姉上!」  
 私を呼ぶ声がする……。  
 サラはゆっくりと目を開けた。  
「姉上!」  
「ジャキ……」  
 サラはゆっくりと瞬きをする。  
「姉上、大丈夫? 姉上……」  
「ジャキ、ずっと傍にいてくれたのね。ありがとう」  
 自分の寝室だった。心配そうな顔をしたジャキが床に座っている。サラは弟が手を握ってくれていることに気がついた。  
 鈍痛のする頭でサラは思う。私は今まで、何をしていたのだっけ。  
「ジャキ、母様はどこ……」  
「姉上、あんな奴の言うことなんか、もう聞かなくていい! あんなのは母様じゃない! 姿形は母様だけど、中身は別のモノだ……」  
「ジャキ……そんな風に言うものじゃないわ。誰もがみな、平等に…………うっ、はあっ!」  
 突如激痛が走った。サラは苦痛に顔を歪める。  
「姉上! どこか痛むの? ねえ、しっかりして! 姉上!」  
 ジャキがサラの手を握りしめる。しかしサラは顔を歪めたまま、目を開けずにいる。  
 サラは胸が焼けるようだった。  
「黒い風……」  
 ジャキがつぶやく。  
 喉が締め付けられるような苦しさの中で、サラは思う。  
 この子は何かを感じているのだ。私とは違う形で、何か、大事なことを。  
 そうか。地の民が捕らわれて、きっと今頃……。  
「うああっ、ああ!」  
「姉上!」  
 サラが痛みに寝返りを打った。  
 それと同時に、部屋の扉が開いた。  
 ジャキが振り返り、はっと息を飲んだ。  
「来るな! こっちに来るな!」  
 ジャキが相手に叫ぶ。  
「……ほう。ジャキ。お前いつからそのような口を利くようになったのだ。仮にも相手はお前の母じゃぞ」  
 何よりも冷たい声。  
 苦痛の炎に身を焼かれながら、サラは母の声を聞いていた。  
「うるさい! お前のせいで姉上は……。こっちに来るな!」  
 ジールはジャキの言うことなど聞こえないかのように、  
「サラ、平気か? うなされておるな。そなたの魔力の大きさを鑑みれば無理もないことだ。今はただ耐えるのじゃ。じきによくなる」  
「嘘をつくな! こんな気に慣れるなんてどうかしてる……。姉上、しっかりして、姉上!」  
 ジャキは姉に向き直り、その手を強く握りしめた。その背中に、鋭い刃のような声が突き刺さる。  
「ジャキ。お前は出来損ないだ。先日の一件、わらわの耳にも届いているぞ。この国に暗雲をもたらすなど冒涜にも程がある。お前が王家の者でなければ処刑しているところだ。己が魔力を制御することもできない、未熟者め」  
 吐き捨てるようにジールは言った。ジャキは姉の手を握って、母の言葉による矢を浴びていた。  
「まあよい。お前のおかげで太陽神殿への道を閉ざすのは容易だった。屑のような者であっても、一度くらいは役に立つことがあるのだ」  
 ジャキはじっと耐えた。心中で、彼は姉の言葉を繰り返し唱えていた。  
『誰にでも、平等に』  
「サラ。しばし安静にしていろ。そなたには神殿が完成した後、今一度ラヴォス様に働きかけてもらわねばならぬ」  
 それだけ言うとジールはサラの部屋を後にした。冷たい足音が、硬質な床を鳴らした。  
「姉上……。姉上……」  
 ジャキは姉の回復を祈り続けた。  
 
 みい。  
 足元にいるアルファドが、悲しい声で鳴いていた。  
 
 
       6  
 
「えっぐ、うえっ、えぐ、うえええん」  
 樹の陰で、小さな男の子が泣いている。  
「えっく、うぇっ、ひっく」  
 膝を抱えて、両手で目をこすって。  
 男の子は泣いちゃいけない。自分でそう言い聞かせても、かえってそれが涙を溢れさせる。  
 せめて誰かに見られないように、ここまで歩いてきた。誰にも弱いところを見せたくないから。  
「ジャーキッ」  
 優しい声がする。  
 聞きたかった声。でも、一番見つかりたくなかった人。  
 ジャキはそっと顔を上げた。  
 サラ。僕のお姉さん。誰よりも優しい笑顔。  
「また泣いてるの?」  
 サラの問いに、ジャキは両目をこすりながら首を振った。  
 サラは笑って、  
「いいのよ。それでもいいの。泣きたいときは泣けばいいのよ。どんな人だってそう……。じゃなきゃ、心が暗いもので満たされてしまうわ」  
 サラは、こわれものを扱うように、そっとジャキを抱きしめる。  
「えっ、うぇ、ガ、ガッシュが……うぇっ、えぐ」  
「ガッシュに怒られたのね? あの人は癇癪持ちだから……」  
 サラは慰めるようにジャキの頭を撫でた。  
「でもね、ジャキ。彼は悪い人じゃないのよ。あの人は研究に誰よりも純粋な情熱を捧げているの。今のジールがあるのはそのおかげ」  
 ジャキはしゃくり上げた。そんな仕草のひとつひとつが、サラにはたまらなくいとおしかった。  
「ね。ジャキ。私と約束しよっか」  
「やく、そく……?」  
「そう。約束。この先、あなたがもっともっと素敵な人になれるかどうか、私と賭けをするの。あなたがくじけてしまったら、その時は私の勝ち。  
 もしそうなったら……そうね。あなたは私になにか贈り物をしなければならない。そして、もしもあなたがもっと素敵な人になれたなら、あなたの勝ち。私はあなたに贈り物をあげる」  
 ジャキはきょとんとした顔でサラの話を聞いていた。  
「おくりもの?」  
「そう、贈り物。だからね、ジャキ。まっすぐでいるのよ。いつもくじけない心を持って。弱いものに手を差し伸べられるような、そんな人になって」  
 サラはまたジャキの頭を撫で、あどけない笑みを浮かべた。  
 ジャキはぽかんとしたままサラを見ていた。いつの間にかジャキは泣きやんでいた。  
 
 
       7  
 
 魔神器ができ上がると、魔法の王国は急速に栄えていった。  
 これまで以上にきらびやかに。どこまでも高いところへ。  
 この地に住まう人々は誰もが、このまま永遠の時間を手にできると信じていた。  
 草花は優美に咲き続けていたし、泉の水は澄んでいた。一見して、国が滅ぶ要因などどこにもないようだった。  
 しかし、それは大いなる間違いだった。  
 前に進んでいると思っていた道は、実は崩壊に向かう旅路だった。  
 長い時間が経ち、とうとう海底神殿が完成した。  
 
「サラ様。海底神殿へ向かう準備が整いました。同行願います」  
 王女を呼ぶ声がした。  
 窓辺にいたサラは、民の声に答える。  
「すぐに行きます」  
 間もなく部屋はサラ一人になった。サラはふたたび窓から外を見た。  
 彼女の瞳には、ガラスの向こうにある青空が映っていた。  
 そこは彼女がたどり着きたい場所だった。  
 しかし、たどり着けない場所だった。  
 
 大きな樹の下。少年と猫が空を見ている。  
「アルファド。お前、一人になっても生きていけるか?」  
 墓標の前で、ジャキは愛猫に呼びかけた。  
 
 みい。  
 アルファドは小さく鳴いた。  
「お前……。本当に僕の言ってること解ってるのかよ」  
 みい。  
「そろそろお前ともお別れだ」  
 みい。  
「黒い風」  
 アルファドは首を傾げる。  
「止むことはないんだよ。姉上……」  
 
 海底神殿の内部はどこまでも広かった。  
 たとえ侵入を果たしたところで、ここの造りを知らないものはたちまち道に迷い、瘴気に当てられ、亡者となるだろう。  
 青みがかった、金属の光。  
 太陽を永遠に臨むことのない場所。  
 温度のない景色を目にしながら、サラは確かな足取りで神殿の中を歩いていく。  
『ジャキ。これをあなたにあげる』  
『姉上、これは?』  
『お守りよ。もしもの時ジャキを守ってくれるよう 私の祈りがこめられているわ。いつでも私がそばにいてあげられたらいいのだけれど……』  
 かつて母がそうしたように、サラもジャキに贈り物をした。それは未来への願いをこめたお守りだった。  
 あなただけはまっすぐなままでいて。ジャキ。  
 私は、もう元には戻れないから……。  
 
 道案内がいてもなお、長い道のりだったとサラは思った。  
 海底神殿の最深部。ジール王国の動力源たる魔神器の間。  
「サラ、よくぞ来た。待っていたぞ」  
 女王が光らない目をサラに向けた。  
「そなたはこれまでよく立ち働いた。その調子で、あと一仕事してもらおう」  
 サラは表情を変えず、ただジールを見ていた。  
「これが最後となるだろう。今日を境に、ジール王国は永遠の光に包まれる」  
 ジールは薄く笑った。  
「さあ、サラ。もっと近くへ来るのじゃ」  
 ジールが呼びかけた。その瞳は霞み、もはやかつての面影はどこにもない。霧を払う光は、海の底にあるこの神殿には射してこない。  
「はい。母様」  
 サラは運命を受け入れた。  
 母様と一緒であれば、どんな場所へもついて行こう。  
 さもなければ、母様は本当に一人きりになってしまう。  
 サラは魔神器の前に進み出ると、祈りを捧げるべく、両腕をかざした。  
 
 ジャキは海底神殿の廊下を走っていた。  
「はあっ、はあ!」  
 走るのは好きじゃない。だから日頃は静かにしている。  
『ジャキ、部屋の中にばかりいないで、たまにはお日様の光を浴びた方がいいのよ』  
 姉の何気ない言葉が浮かんでは消える。  
 姉上……。  
 どうか、僕がたどり着くまで無事でいて。  
 ジャキは長く続く廊下を抜け、異様なまでに明るい広間に出る。  
 ふと不気味な気配がした。  
「何だ?」  
 ジャキが振り向くと、対になった二体の魔物が姿を現した。魔物はすばやく動き、ジャキの前後を封鎖した。  
「くそっ。こんなものまで配置してるのか!」  
 退路と進路の両方を断たれ、逃げ場はない。  
 しかしジャキは慌てなかった。油断のない目で、まずは二体をよく観察した。  
 灰色の魔物と、黄土色の魔物。悪鬼のような形相にもジャキは屈しなかった。  
 注視していたジャキはあることに気がついた。片方が動き回っているのに対し、もう片方はまったく動かない。  
 ジャキは意識を集中し、動かない方に雷を落とした。  
 
 ――効かなかった。依然として魔物はジャキの行く手をさえぎっている。  
「!」  
 突然、動く魔物がジャキに攻撃をしかけてきた。  
 ジャキは身をよじってそれをかわすと、懐から抜いた小刀で、魔物の背をつらぬいた。  
 すると煙のように魔物は消えた。あとには動かない魔物だけが残される。  
「……そういうことか」  
 ジャキは思念を集中し、残った魔物にありったけの魔法をぶつけた。  
 
 女王の命に従い、サラは魔神器を通してラヴォスの力を増幅し続けた。  
 ラヴォスの膨大なエネルギーは、迸る熱となってサラの体内を駆け巡る。  
 それでもサラは呪文を唱え続けた。彼女にとって、もはや身体の痛みなど何でもなかった。  
 ペンダントが自然の光を通さなくなったあの日、サラは自分も瘴気に侵されたことを知った。  
 それからは魔神器にはたらきかけるのが容易になった。最初の日にペンダントから感じた痛みも、重みも、もう何ともない。  
 サラはジールのために毎日魔神器の力を増幅した。暗い影を落とす機械に向けて念じるたびに、サラは身体が軽くなっていくような気がした。同時に、かつて傍にあったものたちが、どんどん遠ざかっていくのが解った。  
 サラは変わってしまった。あれほど美しかった草花や青空を見ても、もう何も感じない。そして、それを悲しいとすら思わない。  
 魔神器を通し、ラヴォスの力に触れる毎日の中で、ふと、サラは母の真なる願いを垣間見た気がした。  
 もしかしたら母は、ジールは……亡き先王を蘇らせたかったのではないか。  
 病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった父。  
 あの日から、母は変わってしまった。  
 自分のことを「わたくし」ではなく「わらわ」と呼ぶようになり、心を閉ざすようになった。いつも力を欲し、そのためにはどんな手段もいとわなかった。  
 そうしなければ、一人きりで王国を支えていくことなどできなかったのかもしれない。  
 毎日のように「力が必要じゃ」「時間が足りぬ」と呟き、亡霊のように何かを探し続けていた。  
 母様。あなたはこの世界で、ひとりきりになってしまったのですね。  
 私の声も、ジャキの声も、届かないところに行ってしまった。  
 母様……。  
 それでも私は、母様が好きでした。  
 優しさゆえに、重荷を一人きりで背負いこんでしまうあなたが。  
 決して涙を見せず、誰にも弱音を漏らさない。  
 強く気高い意思の力で、誰をも包みこむ永遠の安らぎを手にしようとしていた。  
 母様……。  
 サラは母を想った。  
 彼女の頬を、ひとすじの涙が流れた。  
 その時――、  
「!」  
 魔神器を循環する魔力が、急速に膨張した。  
「これは……何!?」  
 サラはとっさに両腕を離そうとしたが、離せなかった。魔力の潮流はすでに止められない状態になっていた。すさまじい圧力で、回路がショートしてしまいそうだった。  
「いかん! ジール様、今すぐ計画を中止するのじゃ! 魔神器ではとうてい抑えきれん!」  
 ボッシュが訴えた。ジールはかつてないほど軒昂した様子で、  
「おおおお…………いいぞ、素晴らしい! 力が……力がみなぎってくる! 永遠が近づいてくる!」  
 ボッシュは首を振り、  
「ええい。やむをえん!」  
 前に進み出ると、懐から紅色に輝くナイフを取り出し、魔神器に突き立てた。  
 魔神器から火花が散り、電光が八方に放射した。  
「きゃあっ!」  
 サラが弾かれて、地面に崩れた。  
「ボッシュ、貴様何をする!」  
 ジールが叫んだ。行き場を失った力が弾け、火花となって炸裂する。  
 ガッシュやハッシュも含め、その場にいた者すべての視線が魔神器に集まった。  
 魔神器は力を暴走させ続けた。赤きナイフは真っ白になるまで輝き、エネルギーを吸収していた。しかし、それでも魔神器の機能が停止することはなかった。  
「ぬう……いかん、ナイフだけでは抑えきれん!」  
 サラは両手を地面について、浅く息をしていた。信じられないほどの疲労感が彼女を襲っていた。  
「母、様……」  
「ククク、ハーッハッハッハ! 見たか。もはや誰にも止められぬ。愉快じゃ! 実に愉快じゃ! ジールは永久に不滅だ。ラヴォス神と共に!」  
 暴走した魔力が地殻を刺激し、大きな地震が起こる。  
 
 大気の温度が急激に上昇しはじめた。  
 
 ジールの高笑いが扉の向こうから聞こえてきた。  
「姉上!」  
 すぐ近くだ。  
 ジャキは全速力で走った。階段を上り、廊下を抜ける。大きな入り口をくぐり、魔神器の間へ突入した。  
「姉上!!」  
 
 サラは潤んだ目を見開いた。  
「ジャキ……! どうして!?」  
 祭壇への入り口に弟が立っていた。  
「姉上!」  
「ジャキ、だめ!」  
 サラの制止にかまわず、ジャキは最後の道を駆け出した。  
 サラは目の前の光景が信じられなかった。  
 ジャキ。どうしてあなたまで……。  
「これは……!?」  
 ハッシュが声を上げた。サラは、禍々しい気が魔神器の周囲を覆っていることに気がついた。  
「空間がひずんでいく……」  
 サラは全身で空間が揺らぐのを感じていた。驚くほどの力が、魔神器の間全体を捻じ曲げ、吸い込んでゆく。  
「ジャキ! 来てはだめ!」  
 サラは弟に向けて訴えた。しかし、ジャキは姉のもとへ必死に走ってくる。  
「姉上、姉上っ!!」  
「防ぎきれん、飲まれるぞ!」  
 誰かが叫んだ。サラはジャキだけを見ていた。  
 ジャキ、どうして……。  
 あなただけは無事で。これから先の未来を、生きて――、  
 
 空間の歪みが、そこにいた者たちを飲み込んでいく。  
 
「ジャキっ!!」  
 サラが叫ぶと、その声は分厚い緞帳に飲まれるようにして消えた。  
 気がつけば、魔神器の間から景色は変わり、色彩のない、いびつな靄に包まれていた。  
「ジャキ! 母様! どこにいるの……?」  
 サラは涙を流した。彼女の声に答えるものはなかった。  
「母様……ジャキ……」  
 サラは、かけがえのない母と弟の姿を思い浮かべようとした。紫色のローブ、銀色の髪。優しい眼差し……。  
 しかし、彼女たちは背を向けたまま、振り向いてはくれなかった。  
「いや……」  
 濃さを増していく靄の向こうに、消えていってしまう。  
「いや! 母様! ジャキ! お願い、帰ってきて! 私を一人にしないで……お願い……」  
 サラは泣いていた。湿った風が、彼女の頬を撫でた。風は袖口から、襟元から入って、サラの身体を覆っていく。ひやりとしたその感覚が、サラには恐怖だった。母や弟を初め、もう誰にも会うことができない気がした。  
「ジャキ……」  
 風が体温を奪っていく。  
 こぼれる涙が、たちまちのうちに冷えていく。  
「!!」  
 サラの後ろ。  
 人ではない、動物でもない、何かが迫っていた。  
「ラ、ヴォス……」  
 棘に覆われた殻。ゴムのような口が開いて、中央にある核が、瞳のように光る。  
 魔神器に魔力を捧げすぎたサラは、ラヴォスに近づきすぎた。彼女は悟った。ラヴォスは、私を取り込もうとしている。  
 背中の辺りで、何かが外れるような感触があった。  
 
「だめ……」  
 サラは、ラヴォスが自分の中に侵入してきたことを知った。一本の、驚くほど繊細に動く、ツタのような神経が、サラの肢体を絡め取った。  
 血液が温度を失っていく。知らない間にローブははぎ取られ、一糸まとわぬ姿でサラはラヴォスと同化していた。  
 もう一本のツタが伸びてきて、サラの背筋から首、首から頬へと這う。ツタはまるでサラの涙を拭うように動いた。時間がすぎるほど、サラは途方もない悲しみの泉へ、深く深く沈みこんでいく。  
 何が、いけなかったのだろう……。私に、もっと勇気があれば。  
 本当なら、私が母様を止めるべきだったのだ。よりどころのない母様が、ただ一度胸のうちを明かした、あの時に。  
 初めのツタが、螺旋を描きながらサラの片脚を上り、秘所へと伸びる。  
 これは罰だ、とサラは思う。  
 母も弟も、光の民も、地の民も、誰一人救えなかった自分への罰。  
 ツタの先端がサラの入り口をそっと撫でる。頬に当たっていたもう一本のツタが、呼応するようにサラの唇を塞ぐ。  
「ん……んっ!」  
 息が詰まる。一本目のツタが秘所にある敏感な箇所を探り当てる。  
「んんっ」  
 つま先から力が抜ける。足の次は腿、その次は腰、背中、肩、首……。肘に手首。  
 全身が弛緩して、サラは何もかもをその存在に委ねた。待ちかねていたかのように、次なるツタが腰を絡め、先端が胸部に延びた。柔らかな丘の片方を、ツタはそっと包む。  
「はあっ……んっ、ああっ!」  
 秘所を撫でるツタが前後運動を開始する。返事をするかのように、口を押さえるツタがサラの舌を探して、触れる。  
「んっ、んんっ」  
 痛みを伴うのは初めだけだった。穢れを知らなかったサラの身体は、驚くほど柔軟にツタの動きに従った。  
 第三のツタがサラの胸を撫でまわす。第一のツタが緩急をつけるように、きゅっ、きゅっと動く。  
「んっ、はあっ……はあ!」  
 第二のツタが口から離れ、サラに呼吸させる。  
「はあ……はあ……」  
 第一のツタが、より奥深くを目指して入り込む。  
「はああっ、あっ……ああ!」  
 全身が溶け出してしまいそうだった。腰の辺りにだけ、サラは自分が体温を残しているのを感じていた。  
 第三のツタが、ふくらんだ胸の先端をつつく。第一のツタが内奥に達し、さらなる前後運動を開始する。  
「ああ……、んあっ、あっ、うんっ」  
 第二のツタが再び口から入ってくる。舌に絡み、唾液に濡れる。サラの唇は、ちょうど第二のツタを加えるような格好になる。  
 その間にも、第三のツタはサラの胸を這う。沈むように押して、ぎゅっ、と上げる。  
「ああ……んんっ!」  
 知らぬ間に、四本目のツタがサラの真っ白な肌を這い進んでいる。感触そのものを求めるかのように、首筋や脇、へそ、大腿、足の指、あらゆる場所に伸びては消える。  
 サラは涙を流し続けていた。心中で、母とジャキにずっと謝り続けていた。  
 ツタが速度を上げる。サラの体液に濡れたツタは、乾いている彼女の肌にそれを塗ってゆく。  
 まもなくサラの身体は、表面のほとんどを自らの雫で覆われた。二本目と四本目のツタが去り、秘所と胸部にだけツタが残る。  
 どくん。  
 何かが鼓動を打った。  
 それはサラの心臓だったかもしれないし、ラヴォスの命脈だったかもしれない。それとも、何か他の存在が生きている証だったかもしれない。  
 どくん、どくん、どくん。  
 その者の鼓動に合わせ、ツタはサラの中に入ってくる。  
「はっ、んっ、ああっ……あっ」  
 胸部を覆うようにもう一本のツタが伸び、二つの丘をきゅっと包んで、離し、包んでは離す。  
「ふあっ、んっ……ああっ、んんっ!」  
 秘所から流れ出る液体が、ツタの動きをより円滑にする。もっとも敏感な箇所が、速度を上げるツタに反応して、サラを溶かす。  
「ああっ! んはあっ! ああっ! んうっ!」  
 サラの瞳は涙でいっぱいだった。鼓動が大きくなり、熱が温度を上げる。  
 どくっ。  
「あああっ! はあっ! んっ、あああっ!」  
 絶えず胸をツタが圧迫し、離れ、圧迫しては離れ、秘所をてらてらしたツタが出入りし、脈拍を上げていく。  
 
 どくっ、どくっ、どくん、どくんっ、どくんっ! どくんっ!  
「はっ、はっ……んっ、はあっ。ああっ、はああっ! ああ……ああんっ!」  
 どくんっ!!  
 どくどくんっ、どくんっ!!  
「ああああああっ!! はあああああああっ!!」  
 サラの下肢から一切の感覚が失せ、快楽の潮流がサラのすべてを支配した。秘所から透明な雫がぽたぽたと流れ落ちた。  
 ごめんなさい…………。  
 ジャキ。  
 母様。  
 
 最後の瞬間、サラは母と弟の優しい顔を思い出せた気がした。  
 
 
       8  
 
「姉上!」  
 ジャキの声は、壁のない次元の渦に吸い込まれた。  
 重力から開放され、ジャキの身体は寄る辺のない海をさまよった。  
 まるで人形になってしまったかのように、ふらふらと、思うがままに動かされ、ジャキは一人きりで漂流する。  
 前後不覚に陥り、どこへ行くかも解らず、傍には誰もいない。  
「姉上……」  
 ジャキは姉の笑顔を思い浮かべた。  
「寒い……」  
 もう帰ってくることのない、笑顔。  
 
「ビネガー様」  
 霧に包まれた山中。緑色の肌をした小さな魔物が言った。  
「どうした。何か見つけたか?」  
 尊大そうな、恰幅のいい魔物がそれに答える。  
「いいえ。ですが、山頂に何もない空き地があります。見晴らしがいいですよ」  
「貴様ワシをおちょくっとるのか。そんなものに心動かされるのは人間だけじゃ。バカもんが」  
「すいません、ビネガー様」  
「……で、どこじゃそこは。案内しろ」  
 
「いてっ!」  
 ジャキは芝もまばらな地面に叩きつけられた。頬に擦過傷ができた。  
「姉上……」  
 あまりにも長い間次元の渦をさまよっていたジャキは、すっかりぼろぼろになっていた。もはや立ち上がることもできない。  
 姉上……。  
 僕は。  
「んなっ!? 何もんじゃこいつは!」  
 胴間声がした。頭蓋から腹の底を叩き割るように野太い。警戒しようにも、顔を上げる力すらジャキには残っていなかった。  
「人間か……? それにしては変わった格好をしておる」  
 乱暴に髪の毛をつかまれ、引っ張られる。  
「うあっ!」  
「ほう。子どもながらなかなか端正な顔立ちをしておるな」  
「姉、上……」  
「んー? 何か言ったか、ボウズ?」  
 大きな魔物はげはげはと笑い、  
「お前は今からこのビネガー様に殺されるのだ。ゆくゆくは魔王としてこの地に君臨するわしにな!」  
「ずいぶん小さな一歩ですね、ビネガー様」  
「うるさいわ! 余計な口を挟むな!」  
「すみません」  
 ジャキの意識が遠のきかけた。  
 
 僕は、死ぬのか。  
 こんなところで……。こんなやつらに。  
「遺言はあるか? まあ、伝えたところでその家族も死ぬのだがな」  
 魔物はまた不快な笑い声を上げた。  
 ジャキは、世界を取り巻くあらゆるものを呪い、憎んだ。  
 お前たちが。  
 お前たちのせいで。  
 お前たちさえいなければ。  
「ほら、どした。ないか、ないのか? んー? では潔く死ねい!!」  
 ビネガーが手をかざした瞬間――、  
「んなっ、何だ!?」  
 冷たく、暗い気配が山頂を包み込んだ。  
 鳴き声のような細く高い音が、奇怪な旋律を奏でる。  
「何だ何だ、何なのだ!?」  
 ビネガーは恐れおののき、周囲を見渡した。配下の魔物たちはとっくに退散していた。  
「んのおっ! どこへ行きおった、ジャリーども!」  
 直後。ビネガーは肝を氷の手でわしづかみにされたようだった。  
 見ると、さっきまで自分の手中にあったはずの子どもが、光のない瞳でこちらを見ていた。  
「なななななな!! 貴様、いったい!」  
「……お前は誰だ?」  
 ぞっとするような声だった。感情の一切が欠落している。人間味が微塵もない。  
「わわわわ、ワシは……」  
 
 それが彼とビネガーとの邂逅だった。  
 黒い風が、静かに、強さを増した。  
 
 暗い海が、岬に波を打ちつけていた。  
 波濤の群れは絶え間なくうねり、魔王のもとへ黒い風を運んでいた。  
 魔王は岬の突端から、遥か彼方、上空に浮かぶ漆黒の要塞を眺めていた。  
「…………」  
 彼が何を思っているのか、誰一人知ることはない。  
「……来たか」  
 ずっと後ろから近づいてくる者たちの気配を、魔王は察知した。  
 この先に延びる運命がいかなるものであろうと、彼はそれをまったく恐れないだろう。  
 
 光のない目で旅人を見据える魔王の手には、古びた、小さなお守りが握られていた――。  
 
 (了)  
 
 

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