目の前の光景が信じられなかった。  
 その時、一瞬が永遠に引き伸ばされた気がした。  
 大いなる災い――。  
 それに立ち向かおうとした私たちは、まるで人形のように、いとも簡単にひねり潰された。  
 ラヴォス。  
 霞のようにおぼろな意識の中で、しかしはっきりと、私はそれを目にした。  
「クロノ!」  
 両手をかかげて、たった一人で総てを受け止めるかのように。  
「クロノーッ!!」  
 強烈なフラッシュを炊かれたかのように、鮮明な映像が焼きついた。  
 私たちをかばって、クロノは砂のようにかき消えた。  
 
「クロノ!」  
 呼び声に、私は浅い眠りから目を覚ました。  
「マール?」  
「クロノ! クロノはどこ!? クロノ、クロノ……」  
 両手で小さな顔を覆って、マールは泣いていた。  
「マール、また夢を見たのね」  
「クロノが、クロノが消えちゃった。私の手の届かないところに行って、真っ暗な、何もないところに」  
 そう呟いて、マールは押し殺すように嗚咽を漏らした。  
「マール。大丈夫だから、泣かないで」  
 私はマールのベッドに近づいて、彼女をそっと抱きしめた。王女と呼ぶにはあまりに華奢な肩が小刻みに震えていた。  
 マールは小さな声でクロノの名前を呼び続けていた。それが透明な刃となって、私に疼痛をもたらす。  
 クロノが死んだ。  
 言葉にすればたったそれだけなのに。それだけのことが、まるで太陽が消えてしまったみたいな暗闇を私たちにもたらす。  
 私は辺りを見渡した。まだ外は暗い。夜明けは遠いみたい。  
 ここはトルースの宿だ。見慣れている場所だけど泊まるのは初めて。なにせ、家がすぐ近くだから。  
 クロノの家に泊まれるはずもなかった。あら、ルッカ。クロノは元気?――昼間のジナおばさんの声が耳から離れない。  
 傍ら、カエルのベッドは空っぽだった。きっと剣の稽古をしているのだろう。あいつはすぐに自分のせいにするんだから。  
「ルッカ。クロノは本当に戻ってくるの? ねえ、ルッカ」  
 すすり泣きながら、マールはやっとそれだけ言った。  
 彼女の受けたショックは私の何倍も大きなものだった。しばらくの間、マールは口をきくことすらままならず。  
 おかげで、シルバードをダルトンのアホから取り返す間、時の最果てで休んでいてもらわなければならなかった。  
 
 本当は今もまだ旅をできる状態じゃないと私は思う。けど、どうしても行くとマールは主張した。そう言われたら私に断る理由はひとつもない。  
 ねえ、そうでしょう?  
 クロノ。  
「マール。ハッシュから貰った『時の卵』も、ガッシュから聞いたドッペル人形も揃ったわ。あとは……あそこへ向かうだけ」  
 
 死の山――。  
 全てが閉ざされてしまった未来の世界を、不吉に見下ろす吹雪の山岳。  
 
 タイムワープ。  
 監視者のドームから見た死の山は、あらゆる生命の気配がなかった。   
「マール。お前、本当に大丈夫なのか? まだ休んでいたほうがいいんじゃないか」  
 ずっと静かにしていたカエルが、この時だけマールに問いかけた。  
「カエル、私なら平気。これからの道のりがどんな結果になろうとも、私はそこにいたいよ。待ってるだけなんて、そっちのほうが潰れちゃう」  
 マールは何とか笑顔を作ろうとしているようだった。でもうまくいかなかった。  
「そうか。愚問だったな」  
 カエルは剣の柄を下げて顔を横向けた。それが照れ隠しの仕草であることを、私はずいぶん前から見抜いている。  
「それじゃルッカ。行くとするか」  
「ええ。皆、こういう時だからこそ気を抜いちゃダメよ」  
 マールとカエルは真摯な眼差しで頷いた。  
 
 死の山には音がなかった。  
 凍りつくような吹雪が間断なく降っているのに、まるで聴覚に穴があいたみたいに、気味の悪い静謐が山肌を覆っていた。  
「こりゃちょっとやそっとで制覇できるような場所じゃないぜ」  
 カエルが小さく喉を鳴らした。そんな音すらもこの山は飲み込んでしまう。声以外のすべて。  
「ええ。こうして踏み出してみるとよく解るわ。ここには一切――」  
「ルッカ、後ろ!」  
 マールが叫ぶと同時、私の背後へアイスの魔法を放った。直後、カエルが跳躍して、一閃。  
 しゃれこうべと鎌が音もなく雪原に落ちた。アンデッドモンスター。  
「ありがと。マール、カエル」  
「気にしないで」  
「死者すら取り込んで糧にしちまうってわけか、この山は」  
 カエルが剣を鞘に納めつつ、山頂を見上げた。私も視線を追う。  
 どんよりとたちこめる分厚い暗雲の向こうに、山の頂は飲み込まれていた。  
 その立ち姿は、見ているこちらの魂を希薄にして、知らない間に消滅させてしまいそうだった。  
 
「ルッカ」  
 マールが手袋越しに私の手を握った。薄く笑って、  
「大丈夫だよ。きっと」  
 必死に笑顔を作っているのがよく解る。見ているこっちにその苦しさが伝わるくらい。  
「そうね。是が非でも蘇ってもらって、クロノのバカをとっちめないとね。こんの向こう見ず! ええかっこしい! ってね」  
 私の笑顔はうまくできてる? マール。  
「そうだよ」  
 マールは頷いた。儚い瞳。  
「おい二人とも、あいにく時間に余裕があるわけじゃないぜ」  
「ああもうカエルったら、解ってるわよ」  
 私たちは登山を続行した。マールの表情は、さっきよりも意思が強くなったように見えた。  
 
 突風のような吹雪を木陰でやり過ごし、せり出した岩棚を抜け、突如現れる魔物を倒して。  
「視界が一面灰色だ。こりゃはぐれたらコトだぞ」  
 カエルが警戒の視線を四方へ飛ばす。マールが目をすがめて、  
「ルッカ、今どのあたりなんだろう」  
「中腹を越えたあたりかしら。吹雪がずいぶん強くなったわ」  
 私は永久磁石を取り出した。これがなかったら一巻の終わり、進むことも戻ることもできなくなるだろう。  
 時間と空間の感覚が曖昧になっていた。一体どれだけの間私たちは山を登っているのか、どれだけの長さを歩いているのか、判然としない。  
「ここはどうやら、生と死の感覚をないまぜにしちまう場所らしいな。どういうわけかさっきからサイラスの姿が頭をよぎる」  
「カエル、しっかりして。あんたはまだ生きてるのよ。冬眠だって認めないから」  
「へっ。当たり前だ。クロノとあの世で話すつもりはないぜ。あいつには帰ってきてもらわないとな」  
 進む方角を見定めていると、突然袖が引っ張られた。  
 振り向くとマールが正面を指差していた。  
「何、あれ!?」  
 うすぼんやりとした影。  
 岩石のような大きさの何かが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。  
 カエルが剣を抜く気配がした。私はハンドガンの照準を定める。  
「来る!」  
 立ちはだかったその姿に、心臓が凍りついた。  
 
「ラ」  
 ラヴォス!?  
「違う、ヤツじゃない! 賢者のじいさんが言ってた子孫だ!」  
 フラッシュバックのように、海底神殿での光景が蘇る。  
 無数の鋭利な棘。巨大で圧倒的な存在感。  
「あ、ああ……」  
 マールがその場にへたり込んだ。  
「マール! 座るな!」  
「マール!」  
 カエルと私が叫んだ。マールは肩の力が抜けてしまっていた。  
 マールも私と同じイメージが浮かんだのだ。クロノが消えゆく光景。たぶん、もっとずっと鮮明に。  
「ルッカ、俺が行く! 援護を!」  
 カエルが子(プチ)ラヴォスの上空に跳躍した。私は即座に思念を集中する。  
「はっ!」  
 カエルの剣に炎の魔力を付与する。赤い針――レッドニードル。  
 しかし、  
「何っ」  
 プチラヴォスの硬い甲羅は、燃える刃をものともせずに弾き返した。  
「つあっ」  
「カエル!」  
 飛ばされたカエルが雪上に叩きつけられる。直後、プチラヴォスは甲殻を砲台のように変形させる。  
 ターゲットになったのは……マール。  
「マール! 立って!」  
 マールは力なく首を振った。プチラヴォスに視線が釘付けとなったまま、放心したように動けない。  
 私は再び意識を集中した。  
「マールを護って……!」  
 守護魔法(プロテクト)!!  
 マールを魔法の衣が包んだ。すると皮肉にも、プチラヴォスは標的を私に変更した。  
「ルッカ、危ねぇ!」  
「きゃあっ!」  
「ルッカ!」  
 弾かれたように飛び出したマールが私を突き飛ばした。  
 マールのまとう魔法の障壁が、スピンニードルを弾いて消した。  
 
「こんにゃろう」  
 間隙を縫ってカエルが最前に躍り出る。  
「カエル! 殻への攻撃は無意味だわ。あの動いている本体を狙って!」  
 言うが早いが、カエルは剣を構えて前方へ跳んだ。私は二度目の火炎魔法(ファイア)を放つ。  
「くらえ!」  
 赤い針が、プチラヴォスの急所を貫いた。  
 
 山道に吹雪が降り続いていた。  
「マール、大丈夫?」  
「ルッカこそ平気? ごめん、私……」  
「マール!」  
 私はマールを抱きしめていた。  
「ルッカ……」  
「マール。私たちは何があっても負けないのよ。大丈夫だから。だから信じて」  
 マールは私の背にそっと手を当てた。  
「ルッカ、ありがとう」  
 思わず胸が熱くなる。  
 そう、大丈夫。私たちはまだ生きている。  
「それじゃ行きましょう」  
 私はプチラヴォスの殻を横目にしながら、  
「カエル。もちろんあんたは平気よね。いちおう訊いてあげる」  
「ルッカ。前から思ってたんだがお前、野郎にはやたら冷たくないか?」  
「ホホホ、気のせいよ気のせい。ほらさっさと行くわよ」  
 マールが小さく笑うのを確認すると、私は歩き出した。  
 
 山頂にたどり着いたのは、それからずいぶん歩いた後だ。  
 そこはとても不思議で、神秘的な場所だった。  
 ドームのような天蓋が空を隠す。そのてっぺん、窓のように開いた穴から、太陽も月もない空が見えた。  
 一面の雪の白さと、空に広がる闇の黒さが、世界をくっきりと二つに分けていた。  
「ここが」  
「死の山の頂……」  
 山頂にはただ一本、樹が生えていた。  
 樹には、一枚の葉もなかった。それなのに生きていることがはっきりと解る。  
 この山はこの樹を生かすためだけに、他のあらゆる生命を殺しているとさえ思えた。  
 
 一帯を観察していたカエルが、  
「なるほど。こりゃ、ある意味ラヴォスと対峙するよりおっかない場所だな」  
 そう言うのも頷ける。  
 ここにいると、何かの弾みで簡単に寿命が切れてしまいそうだ。  
 生と死を分けているはずの境界線が、ここでは存在しないような感じ。  
「ルッカ」  
 マールが私を呼んだ。私は頷いて、独特の模様に彩られた卵を取り出した。  
 クロノ・トリガー。  
 クロノ…………。  
「わっ、何これ。ペンダントが」  
 マールが取り出したペンダントは青白く光っていた。  
 ペンダントからしずくのように光がこぼれ、時の卵に降り注ぐ。  
 光を受けた卵は、何かに導かれるように私の手を離れ、樹のふところへ向かう。  
「クロノ、帰ってきて」  
 マールが両手を合わせ、瞳を閉じた。目に見えない力が、時の卵に凝集する。  
 しかし、卵はあっけなく砕け散った。  
 光が消えて、後には闇だけが残る。  
「うそ……。そんな」  
「ダメ、だったのか?」  
「クロノ……」  
 三者三様に声が漏れた。そんな、どうして。  
「ルッカ。どうして? ねえ、クロノは。クロノは戻ってこないの……?」  
 マールが声を震わせて言った。私は何も言えなかった。  
「気を落とすな。人の命の定めまで俺達に変える事は出来ないという事か……」  
「クロノ、返事をして……私をおいて行かないで……」  
 マールはペンダントを握り締めて、樹のもとまで駆け出した。  
「クロノー!!」  
 
 何かが動いた。  
 闇が、さらに光を失って、どこまでも濃くなっていく。  
 みるみるうちに何も見えなくなって、私も、仲間の姿も、どこかへ消えてしまう。  
 
 死。  
 死ぬとはどういうことなのだろう。  
 死んでしまったら、意識はすべて無くなってしまうのだろうか?  
 それとも、身体だけが消滅して、魂はどこかに残るのだろうか?  
 ちょうどこんな風に。  
 身体が冷たい。傍に誰もいない。  
 急速に涙腺が緩んできた。悲しい。寂しい。  
 一人はイヤ。こんな、何もないところにいるのは。  
 戻ってきて。  
 クロノ。  
 
 フラッシュバック。  
 海の底の神殿の、ずっとずっと深く。  
 この世界の底。  
 立ちはだかる使者。  
 ラヴォス。  
 
「……ここは?」  
 私はゆっくりと目を開けた。  
「何、これ……」  
「止まってるのか?」  
 私たちは『あの時』にいた。  
 あの時。  
 全てが終わりかけていた、あの瞬間。  
 クロノが飛び出して、私たちを救ってくれた。  
「クロノ……!」  
 両手をかかげて、すべてを一人きりで受け止めようとしていた。  
 向こう見ずな、私の幼馴染み。  
「カエル。ドッペル君を」  
「おう」  
 人形とクロノをすり替えた。  
 クロノは、たった今生まれたみたいに、あるいはたった今死んだみたいに、静かに瞳を閉じていた。  
 
「クロノ……」  
 マールが弱々しくささやいた。  
「ズラかるぞ。ここは長居したくない場所の中でも極めつけだ」  
 カエルが視線を飛ばした。私は頷く。  
 帰ろう。  
 クロノと一緒に。  
 
 死の山の頂。  
 私たちはそこへ戻ってきた。  
 総てを覆っていた闇が、うっすらと明るくなっていく。  
 周りのものが、輪郭を取り戻していく。  
 そこにあいつはいた。  
 何も知らないような顔で、静かに眠りながら。  
「クロノ!」  
 マールが名前を呼んだ。誰より帰りを待っていた彼女が。  
 クロノは光を当てられた時のように目をつむって、ゆっくりと、開けた。  
 その瞬間、涙が頬を伝うのが解った。  
 クロノのバカ……。  
「クロノ! クロノ、クロノ、クロノ……」  
 マールがクロノを抱擁した。クロノは何が起こったのか、何をしていたのか、とっさに思い出せないような表情で、マールや私たちを見た。  
「クロノ……お帰り、クロノ!!」  
 マールはくしゃくしゃになって泣いていた。持ち前の明るさが、堰を切って一度にあふれ出してしまったみたいだった。  
「みんな……みんな、待ってたんだよ。もう……遠く行っちゃあ……、ダメだよ……」  
 しゃくり上げながら、マールは必死にクロノに訴えた。クロノは初めだけ驚いて、あとはそっと、マールの話に頷いていた。  
「クロノがいない間にね……いろんな事が……のよ……。そして……そこでね。私が……したの。  
でも……。ねえ、クロノ! 聞いてるの? まだまだ、全然話したりないんだから……」  
 マールは強くクロノを抱きしめた。  
 クロノもマールを抱きしめる。てんでなってない、不器用な手つきで。  
 
「ほんと、バカ……」  
 私は眼鏡を外した。カエルがほんの一瞬、こちらを見た気がした。  
 
「……ほっほっほ。そこのお兄さんは幸せ者じゃな。こんなにも多くの仲間に思われて」  
 時の最果て。  
 集まった七人を前に、老人……いいえ、時の賢者ハッシュは言った。  
 ハッシュの言葉を受け、クロノは意思の光をたたえた瞳で全員を見た。私と目が合った時、クロノは静かに頷いた。  
 クロノが帰ってきた今、すべての意志はラヴォスへ向かうはずだ。  
 ここにいる七人だけじゃなく、時代を超えた世界すべての人の力を借りて。  
 ふと無粋な茶々が入る。  
「なあルッカ。やっぱり俺まだサイラスの幻影が見えるんだ。サイラスが俺を呼んでるんだよ」  
「ああうっさいわね! 人が厳粛な気持ちになってんだから、茶々入れんじゃないわよっ!」  
 
 (了)  
 
 

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