「ただいまぁ〜」  
 
そんな声がしたので、振り返ってみると、リビングに一匹ウサギが立っていた。  
……いやいや、まさか、そんなわけがない。  
ふるふると頭を振ったあと、呆れたようにぼくは言った。  
 
「……目、真っ赤ですよ。遠子先輩」  
「え、嘘? きゃーほんと! ウサギさんみたい!」  
 
ウサギのように目を真っ赤に充血させた遠子先輩は、鏡を見るなり悲鳴をあげた。  
目をごしごしと擦って、パチパチと瞬きして、得意顔でこちらに向き直る。  
 
「治った?」  
「治ってないです。むしろそれ絶対に悪化しますから、やめてください」  
 
はぁとため息をついて、とんとテーブルのうえに目薬を置いてやる。  
 
「おかえりなさい。それから、遅くまでお仕事お疲れ様です」  
 
雀が鳴き出すような早朝。ぼくは徹夜明けの遠子先輩に微笑みかけた。  
 
6年越しの再会後、ぼくらは編集部に内緒でこっそり同棲してしまっている。  
お互いの呼び方は、相変わらず、遠子先輩と心葉くんで。  
もうちょっと色気のある呼び方に変えようかとも思ったけど、結局、ぼくらにとってはそれが一番自然だった。  
 
ソファにちょこんと腰かけた遠子先輩は、そわそわと急かすような瞳でぼくを見上げた。  
 
「心配しなくてもちゃんと用意してますよ、ウサギさん」  
 
五十枚綴りの原稿用紙から、書き綴った分を三枚切り取って手渡すと、遠子先輩は歓声をあげた。  
 
「はぅ〜、ありがとぅ〜! もう忙しくて昨日の夜から何も食べられなくって、お腹と背中がひっつきそうだったの……いただきまーす」  
 
真っ赤な目で、目を通し、うっとりと恍惚したような表情を浮かべながら、しゃくしゃく紙を食べていく。  
 
「はぁ……あたたかい……疲れた身体にじんわり染み渡っていくホットレモンティみたいね……ありがとう、心葉くん」  
「今日も徹夜だって聞いていましたから。量は軽めに、砂糖多めで仕上げてみました」  
「うんうん、偉いぞ! 気遣いのできる男性ってとっても素敵よ! さすが、わたしの心葉くん!」  
 
褒めちぎりながら幸せそうに紙をむさぼる遠子先輩を、ぼくは穏やかではない気持ちで眺めていた。  
こんな風に朝帰りを迎えたのは、もう何回目になるだろう。  
最近の忙しさは、度をこしている。  
何人もの作家と向き合い、ともに悩み苦しみ、作品を作り上げているのだから仕方ないことなのだろうけど、さすがに心配になってきていた。  
 
「……最近、無理しすぎなんじゃないですか」  
「そんなことないわ。まだ日の目を見ていない物語を世に送りだす"編集者"、いえ、"文学少女"としてはまだ頑張り足りないくらいよ」  
「……だから、何でもそれで片付けないでくださいって。"文学少女"だって紙だけ食ってりゃ生きてけるものでもないでしょう。大体、もう少女でも、無理できる歳でも――」  
「! だめよ! 心葉くん! その先は言ってはだめ!」  
 
キッとにらみつけられて、ぼくは口をつぐんだ。  
……自分でも理解してるなら、言わなければいいのになぁ。  
 
「とにかく! 本当に無理なんてしてないのよ。それに最近は少し楽にもなったわ。緋砂ちゃんが一つ上のステップに行って、わたしの手を離れてくれたから」  
「それでも、負荷は減るどころか、増える一方じゃないですか。実際、もう徹夜二日続いてるのに説得力ないですよ。今日は休んだらどうですか?」  
「ううん、だめ。今日は13時から快斗くんと打ち合わせなの。もうすぐ、新シリーズも控えてるし、ちゃんとサポートしてあげないと」  
「ああ……例の彼、ですか」  
 
――雀宮快斗。  
遠子先輩が特に目をかけている高校生作家。  
 
実は、薫風社のパーティのときに彼のことは一方的に見知っている。  
丁度、会場のロビーについたとき、険悪な雰囲気の雀宮くんと早川さんが庭園に出ていくところで、ただならぬ雰囲気を感じたぼくは彼らをこっそりつけた。  
 
そしたら雀宮くんが、遠子先輩と一生添い遂げる! とか恥ずかしいことを叫びだして。  
あの日から、のどに魚の小骨が刺さったみたいに、小さなイガイガが心から消えなかった。  
 
「……もぐもぐ……ごちそうさまでした! さ、それじゃ、それまで井上ミウ大先生の次の作品の打ち合わせをしましょうか」  
 
ようやく朝ごはんを食べ終えると、遠子先輩は大きく伸びをした。  
冗談だろう! この人まだ仕事するつもりなのか!  
 
「だめです。ドクターストップです」  
「ひゃっ」  
 
ぼくは遠子先輩をひょいと抱えあげると、寝室へ向かった。  
 
「13時までならまだまだ時間があります。休暇をとれとはいいませんが、少しは寝てください」  
「でも、心葉くんの原稿だって、もう締切まであんまり時間が――」  
「遠子先輩がいないくらいで落とすほど、素人じゃないつもりです。つべこべ言わないで言うこと聞いてください。じゃないともう原稿は二度と見せません」  
 
うっと遠子先輩が瞳を潤ませた。ちょっと心が痛んだが、これくらいしないと、この人はきっと堪えてくれない。  
 
「……ごめんなさい。心配かけてるわよね」  
 
布団で顔を半分覆い隠し、しゅんとして彼女が言う。  
心にずしと重石をのせられたみたいに、後ろめたい気分になった。  
 
たしかに、ぼくは彼女を心配している。  
けど、それだけの理由で、彼女を休ませようとしているのかというと、多分そうじゃない。  
 
本当は、彼女が仕事に――他の作家に夢中になっているのが気に入らないのだ。  
ぼくのため以外に働いているのが、悔しいのだ。  
彼女が、またあの時みたいに離れていってしまうのではないのかと、恐れているのだ。  
 
そんな自身の醜い感情を恥じ、上の空になっているうちに、遠子先輩は寝ついてしまったようだった。  
……今なら、気づかれないうちに、触れられる。  
この心細さを、埋められる。  
してはいけないと思いつつも、心が向かうのをとめられない。  
 
ベッドの端にこしかけると、身をかがめて、白く美しいうなじに顔をうずめる。  
すぅと息を吸うと、芳しいすみれの花の匂いと、少しだけ酸っぱい汗の匂いが香った。  
官能的な気分に満ちていく。  
 
……もうやめよう、遠子先輩が起きてしまう。  
そう決心したときにはもう遅く、目を覚ましてしまった。  
 
「……心葉、くん? どうしたの?」  
 
ぼくがよほど青ざめた顔をしていたのか、遠子先輩は慌てて身を起こした。  
 
「具合、悪いの? もしかして、拾い食いして、お腹壊したとか?」  
「……遠子先輩じゃあるまいし、そんなことしません」  
「じゃあ、どうしたの?  すごく、悲しそうな、泣きそうな顔をしているわ」  
 
喧嘩に負けた子供を慰める母のように、ぼくの頭を撫でる。  
胸にどす黒い感情がたまっていく。  
まどろっこしい。  
こんな不安、肌を重ねあわせてしまえば、すぐに消せてしまうはずだ。  
ぼくは、遠子先輩を押し倒して馬乗りになった。  
 
「……そんなことより、最後にしたのっていつでしたっけ。もう随分とご無沙汰ですよね。実は、たまってるんです」  
「たまってるって……えっ」  
「させてください」  
「えっ、えっ、えっ……えーっ!」  
 
みるみるうちに顔を真っ赤にして、きょろきょろと目を回している。  
 
「わ、わたし、徹夜明けで、つ、疲れてるのよ……」  
「さっきまで元気一杯で、打ち合わせしようとしてましたよね」  
「それに、心葉くんもドクターストップって言ったのに……」  
「ぼく、ドクターじゃないですし。それに疲れてるときは、軽く運動してから寝ると良いんですよ」  
「シャワーも、浴びてないから汗くさいし……」  
「それはむしろ、ご褒美です」  
「こ、こんな真昼間からだめよ。ふしだらだわ、ただれているわ、退廃的よ!」  
「確かに、普通の夫婦なら夜に営むものですが、遠子先輩はいつも夜いないんだからしようがないじゃないですか。その代わりです」  
「ふ、夫婦じゃないもん! ……ま、まだ」  
 
決して初めてというわけではないのに、毎度毎度身持ちのかたい処女のごとく理由を並べ立てる姿には頭が下がる。  
けど、最後には決まって、消え入りそうな声で、ちょっとだけ視線を斜め下に外して、「……うん」と頷いてくれる。  
その仕草が、可愛らしくて、好きだった。  
 
ぼくは、その細い顎をつかむと、薄い花弁のような唇に、自分の唇を重ね合わせた。  
 
「んっ……」  
 
きゅっと、遠子先輩がシーツを握ったのがわかった。  
触れ合わせていた唇を離すと、彼女の舌が物欲しそうにちろりと覗いているのが見えた。  
今度は顔を傾けて、より深いキスをする。  
小動物のように小さな彼女の舌を、ぼくの大きな舌で絡めとる。  
 
「ちゅっ……んっ……はっ、ちゅちゅっ……んっ……ちゅるっ……」  
 
何度も組み替えながら、絡み合い、解けあい、唾液が交換される。  
彼女の唾液は度数の高い美酒のようで、飲み干すすたびに、血液が燃え上がっていくかのように、身体が熱くなる。  
やめどきが、まったくわからない。まるで、麻薬だ。  
より大きな快感が先に待ち受けていなければ、きっとぼくらは永遠にこの行為を続けるだろう。  
 
「ちゅ、ちゅぅ、ちゅるっ、ぷはっ……」  
 
苦しくなって息を継いだ彼女は、またすぐにぼくの唇をついばもうとする。  
その勢いに圧倒されて、ぼくは少し身を退けた。  
 
「遠子先輩、キス、好きですよね……」  
 
別に責めたつもりはなかったのだが、彼女は恥ずかしそうにうつむいてしまった。  
 
「……だって、心葉くんとキスするの、気持ちいいんだもの。不思議なの。何を食べても、飲んでも、味なんてしないはずなのに、心葉くんとのキスは美味しくてしょうがないの。わたし……おかしいのかしら?」  
 
両手で赤らむ頬をおさえながら彼女は羞恥をこらえるように言った。  
 
「普通、ですよ」  
 
好きな人のキスが、美味なのは、きっと"文学少女"だって変わらない。  
彼女の耳たぶや、首筋にキスしながら、シャツのボタンを一つ一つ外してゆく。  
 
「ひゃっ……んっ……あっん……」  
 
身体を下方へとずらしていき、二つの丘陵の頂に実った桜桃色の果実を摘み上げて、甘噛みしてみる。  
幹が風に吹かれたみたいに、きしきしと音を立てて揺れた。  
 
「やっ……あっ……んっ……そこ……気持ちいい……」  
 
腹部の窪みを舌で穿ち、下腹部の茂みにまでたどり着く。  
 
彼女の身体で最も敏感な核に優しく触れてみる。  
真珠のように包皮につつまれた真紅の芽を、壊れものでも扱うように丁寧に。  
同時に、もう一つの花びらに口づけ、雫になって流れ落ちてくる蜜を、ずるずるとスープでもいただくかのように啜る。  
 
「……ごちそうさまでした」  
 
大事な場所を涎まみれにしたあと、ぼくは口を拭った。  
対する遠子先輩はもう意識があるのかすらも怪しいように、両腕で顔を隠して肩で大きく息をしていた。  
瞼はもう疲れきったかのように垂れ下がっていて、快感の海を漂っているようだった。  
 
木霊する。静かな部屋に。ぼくと遠子先輩の吐息だけが。  
 
今、この世界には遠子先輩とぼくしかいないような錯覚を覚えた。  
だから、聞いてみたくなった。今なら望むべき言葉がもらえるような気がして。  
 
「遠子先輩は……ぼくと快斗くん、いえ、他の作家、どちらが大切ですか?」  
「……え?」  
 
遠子先輩はしばらく夢見心地のようだったけれど、段々と瞳の焦点があっていった。  
そして、やわらかく微笑んだ。  
 
「……比較することなんてできないわ。みんな、私の、大切で大事な作家だもの」  
「……ですよね」  
 
遠子先輩なら、どんな状況だってやっぱりそう言うに決まっている。魔が差した自分の邪念を恥じた。  
 
「でもね」  
 
遠子先輩は言葉を紡ぎながら、ぼくの頬に手を伸ばした。  
 
「心葉くんは、わたしの作家である以上に、"恋人"だから」  
 
まるで、現実で夢を見ているかのような瞳で。  
 
「一番の幸せを、わたしに与えてくれる人だから」  
 
信じられないくらい綺麗に笑って。  
 
「――大好きなの。特別に、ね」  
 
彼女の言葉が、マナになって、ぼくに降り注ぐ。  
 
「もしかして、それで、不安になってたの?」  
 
ぼくの頭は遠子先輩の腕に導かれて、彼女の胸にすっぽりと収まった。  
高校の頃からずっと扁平な胸だけど、実はわずかに女性的なふくらみがあって心地がいい。  
それを知ることができるのはきっと世界でぼく一人だけしかいない。  
 
「……まさか。いい加減、子供扱いはやめてくださいよ」  
「ふふふ、そういう素直じゃなくて、かわいいところもだぁ〜い好きなの」  
 
ぼくたちは裸でバカみたいにじゃれあった。ちょうど、生まれたばかりの子犬の兄弟がそうするみたいに。  
しばしインターバルを挟んだというのに、ぼくの剛直はいまだに衰えることを知らず屹立していた。  
遠子先輩がおもちゃを弄ぶみたいに裏筋を撫でてきたので、ぞくっとした。  
 
「……それから、ここも、かわいくて、大好きよ」  
 
台詞に似合わず、妖艶な表情で、遠子先輩は言った。  
ぼくはすっかりそれにあてられて、誘蛾灯に誘われるように、剛直を秘所にあてがった。  
 
「そんな台詞、すぐに言えないようにしてみせますよ」  
「……クス、期待してるわ」  
 
ゆっくりと挿入していく。  
そこはもうすっかりぼくの形に馴染んでいて、だというのに締めつけだけは初なときと変わらず、子種を貪欲に搾りだそうとする。  
入れた瞬間に吐き出しそうになるのをぐっとこらえるのが、常だった。  
 
「遠子……好きだ」  
「うん、わたしも好きよ、心葉」  
 
それからのことはもう、途方のない快感にやられてしまったのか、あまり記憶に残っていない。  
ただむちゃくちゃに腰をたたきつけて、ぐちゃぐちゃにとろけ合うように絡みあって、何もかも注ぎこんだ記憶だけがある。  
はっとして気づいたときは、ぼくも彼女もすやすやと寝入ってしまったようで、ベッドに寝転んでいた。  
 
ぼくは服を着ると、彼女の好みそうな甘い話をつづりはじめた。  
 
ささいなことで、不安を感じてしまう男が、その原因を恋人に気づかされる、他愛もない話。  
原因は、とても単純。  
きっと、今がとてつもない程に幸福だから。  
嘘みたいに、夢みたいに、幸せだから。  
不安はきっと、誇るべき勲章なんだろう。  
 
一筆書き終えたあと、ベッドの上ですやすや眠る遠子先輩に近づいた。  
さらさらと流れる髪を小川の水をすくうように何度も梳いてみる。  
ぼくは何となく、彼女の髪を三つに分けて、結び始めた。  
 
少しずつ、少しずつ、彼女の姿が昔に戻ってゆく。  
ぼくは、何でこんなことを、始めたのだろう。  
過去を懐かしみたかったのか。  
未来に思いを馳せたかったのか。  
それとも、ただ単にイタズラしたかっただけなのか。  
 
ぼくは途中で三つ編を結ぶのを止めた。  
片側だけの三つ編は、乱雑な思索を顕現させたかのように乱れてひどいことになっている。  
 
でも、黙っていよう。なにせ、これから彼女はぼくを置いて他の作家のもとに行くんだから。  
これくらいのイタズラは許されてもいいはずだ、うん。  
もう心細くなることはなかった。  
 
やがて、彼女がうっすらと目を開いた。  
 
「……心葉、くん」  
 
ぼくの顔を見たあと、ごしごしと目をこすり、置時計に目を向けて、叫び声をあげた。  
 
「!! きゃあーーーっ!! もう13時じゃない!? どうして起こしてくれなかったのぉ!?」  
「え、 何かあったんでしたっけ?」と、すっとぼけてみる。  
「打ち合わせだって言ったじゃない!! もう、ひどいわ、心葉くん!!」  
「そんなことより、昼過ぎですし、お腹減ってませんか。ちょうどいい文章が書けたんですが――」  
「いらない!!」  
 
遠子先輩は慌てて部屋を出て行く。  
しかし、すぐに戻ってきて、じーっとぼくの原稿を睨みつける。  
 
「どうかしましたか?」  
「……うぅ、心葉くんの意地悪。こんなので絶対に許したりしないんだから。帰ってきたらもっと一杯ごはん作ってもらうんだからぁ!」  
 
原稿を奪いとって、また出て行ってしまった。  
 
「ほんとに、相変わらず、食い意地張ってるよなぁ……」  
 
あれでは、食い気と焦りで、とてもぼくのイタズラに気づくことはできないだろう。  
雀宮くんの家で気づいて慌てふためく遠子先輩の姿が見物だ。  
その様子を想像すると、また愛おしさがこみ上げてきて。  
密かに筆を進めている例の物を仕上げるやる気が湧いてきた。  
 
「早めに渡さないとな。それこそ、半熟作家くんに捕られちゃう前に」  
 
机の引き出しから取り出したのは、重厚なジュエルケースと便箋に収まった書きかけの原稿。  
ぼくは、彼女に思いを馳せながらペンを握りしめると、したためていった。  
ふいに不安が襲っても、今だけは決して焦らない。  
 
なにせ、世界中の女の子が夢見る、一生に一度しかない機会なのだ。  
星のようにきらめくダイヤに、最高にロマンチックな甘い文章を添えてみせよう。  
 
そう、あの"文学少女"が、食べるのをためらう位の――求愛の言葉を。  
 
終わり  
 
 

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