「ここがあの女のハウスね」
マンションを見上げて、思わず呟いていた。
琴吹ななせである。朝倉美羽が一人暮らしを始めたという噂を聞きつけて足を運んだのだ。
別に「彼を返して! 彼を返して!」と迷惑を顧みず連呼しに来たわけではない。ちょっと引越しのご挨拶に表敬訪問するだけである。病院で受けた仕打ちのお礼に。
ここなら病院と違って他人の眼は無い。じっくり話し合いが可能であろう・
決意を胸に秘めて、ななせは一歩を踏み出した。
「……って、鍵もかけずにどこ行ったんだか」
扉の前で呟いた。
居留守かと思って部屋の中を覗き込むも、物音一つだに聞こえない。どうやら本当に外出しているようだ。
芥川から居ると聞いていたのに。
「それにしても……」
汚い部屋である。ななせは顔をしかめた。
まだ床が見えているだけマシであるが、乱雑に空のペットボトルが並べられ、弁当ガラが入ったコンビニ袋が大量に積みあがっていた。読みかけの雑誌が散らばり、脱ぎ捨てた衣服があちこちに堆積している。
「ったく。どういう神経しているんだか」
見かねて片づけをはじめてしまう。特に台所、シンク周辺がどうにも気になって仕方が無い。
とりあえずゴミだけでも纏めれば多少は。汚れた食器は重ねて。使ったままの包丁も洗って手入れしないと。
すると、扉の外から声が近づいてくるではないか。
「ようやく帰ってきた―――え!?」
*
「あれ? 鍵を掛け忘れていたみたい」
朝倉美羽は首をかしげた。
「無用心だね」
「きっと一詩よ。あいつったら勝手に部屋を片付けたりするんだから」
むくれたような声で答える。
「確かにこれは片付けたくなる部屋だね」
「一人暮らしにはまだ慣れていないのよっ」
微笑んで受け流すのは井上心葉である。
「ねぇ……コノハ。こうして部屋に来てくれたのは……」
「芥川君の代わりに僕が片付けようか」
心葉に背を向けて舌打ちをするのだ。
二人がかりで屋内を侵食する乱雑な混沌をやっつけ秩序と平穏をもたらしたのである。
「だいぶ夜も更けたし、終電も無いから、泊まっていったら?」
心葉の顔を直視できずに、そっと呟く。
「ベッドは一つしかないけど……コノハとなら、いいよ」
「うん、ありがとう。でも僕は床に寝るよ」
「あっそう。じゃ、勝手に寝れば」
突然機嫌を損ねた理由もわからず心葉は曖昧に笑うしかなかった。
「……おやすみ」
「おやすみなさい……」
すると、横になって電気も消さないうちに心葉がむっくり起き上がったではないか。
「え? コノハ? そんな……心の準備が。電気くらい消そうよ」
「美羽、コンビニ行かない?」
「へ?」
予想外の言葉に朝倉美羽は目を丸くした。そしてすぐ眉間に皴を寄せ声を尖らせる。
「勝手に行けば」
「アイス食べたくなっちゃった。一緒に行こうよ」
「あたしは足が悪いから。一人でどうぞ」
「ぼくは美羽と一緒にいきたいなぁ」
そう言うなり、強引に美羽の手を取り連れ出そうとする。
「ちょ、待……」
せめて着替えくらいさせてよ、と主張しようとして心葉が余りに真面目な顔をしていることに気が付いた。
廊下に出て、扉を閉め、一息つく。
「どういうこと? なんのつもり?」
心葉は厳しい表情で声を絞り出すように呟いた。
「見たんだ。ベッドの下に、物凄い形相をした琴吹さんが、包丁を握り締めてっ」
おしまい。