最高級の笑顔と共に日坂菜乃は甘えるように言う。
「バレンタインデーのお返しには心葉先輩とデートがしたいです」
そう宣言した途端にななせ先輩が押しのけるように前に出た。
「らめぇ! 井上は日坂で無く、あたしと!」
その台詞に心葉先輩はビックリしたようであった。
「どうしたの? 琴吹さんらしくないよ」
「あたしも日坂を見習って暴走突撃するの!」
「……こんなのを見習うなんて滅茶苦茶だ……」
頭を抱える心葉先輩にわたしは抗議した。
「こんなの、とはどういう意味ですか!」
しかし、ななせ先輩は二人のやり取りも耳に入らず自分の世界に入ろうとしている。
「やっぱ、井上とディズニーランドに行きたいよね。それでそれで、一緒にシンデレラ城の前で……きゃぁ!?」
真っ赤になって顔を覆うようにしてフルフル震えだした。
「ミッキーのヘアバンドつけて、それでそれで……」
痙攣するように身もだえしている。
そんな乙女チックな、ななせ先輩の希望を聞いていると、スキーに誘おうとしていた自分が見劣りするような気がしてきた。
「なら、わたしは夜景の綺麗なレストランでドンペリを傾けたいです。そのあとは高級ホテルで夢のような一夜を……」
「未成年じゃないか。お酒は感心できないな」
「それならラブホでいいです。わたし、まだ入ったことないですし、心葉先輩と、なら」
上目遣いでモジモジしながら心葉先輩を見やる。このテクニックは瞳ちゃんに教わったものだ。さすが男二人を手玉に取った実経験を持つだけあって薀蓄が深い。
ちなみにななせ先輩はブツブツと呟きながら虚空を眺めニヤニヤしていた。こっちのことは聞こえてないみたい。
肩をすくめ溜息をつきながら心葉先輩は言った。
「……いいよ。お礼にどこでもつきあうよ」
「やった!」
「どうせ、言い出したら聞かないんだから……」
「えへへ。照れますね」
「褒めてない」
ななせ先輩は自分で自分を抱きしめながらクネクネしている。邪魔するのも悪いのでそのままにしておいた。
*
そして、その日がやってくる。
瞼を閉じて開けたら到達していたみたいな曖昧な時間感覚。
おろしたてのブーツにカジュアルなワンピ。その中にも真新しいお日様色の下着。背伸びしてセクシーなインナーにしたかったけど、さすがに身の程をわきまえた可愛らしいデザインのものだ。
駅前で心葉先輩と待ち合わせ、しばらく歩く。
そして連れて行かれた先は、変哲も無いホテルであった。今まで何度も前を通ったことがあるのに見過ごしていたような平凡なビル。
「これがラブホテル? もっとお城のような建物かと思いました」
「景観条例とかあるからね。そういう昭和の遺物は郊外に出ないと」
そこで心葉先輩は気が付いたようだった。
「ああ、そうか。いかにもなホテルのがよかったのか」
わたしは首を全力で横に振る。
「先輩となら、どんなホテルでもオッケーです」
場所よりも、行為のが重要だから。
言外に含ませたのを読み取ったようで心葉先輩は薄く微笑む。
足を踏み入れるとそこは狭いロビーであった。
まず並んだ自販機に目を奪われる。ジュースや煙草の見慣れたものが並んでいるなかに、こじゃれた薄い小さな箱や大きめの箱が気になるのだ。
近寄って観察してみると、避妊具に大人の玩具であった。中には露骨な形のものもあり、赤面するしかない。
「日坂さん、こっちだよ」
気を取られているうちに、先輩が手続きを済ませてしまったようだ。しまった。どんなシステムになっているのか見学するのを忘れてしまったではないか。
手招きされて狭いエレベーターに乗り込む。身体が自然と密着した。そして不自然な沈黙。
ここはやはり割勘を申し込んだ方がいいのだろうか。それとも素直に奢られておくべきか。
男の子に対して割勘は問題あるような気もするが、だからといってあまり金銭的負担をかけてしまうのも申し訳ないように思ってしまうのである。。
逡巡しているうちに目的の階に到着したようであった。
口に出せないまま部屋に案内される。
そこは純和風の部屋であった。
十二畳ほどで布団が既に敷かれている。温泉旅館のような光景。
「昭和時代の連れ込み旅館をイメージした部屋を選択してみました」
照れたような笑みを浮かべて心葉先輩は言った。
「へぇ。太宰治が愛人と一緒にこういう部屋に来ていたのかもしれないですね」
「そうだね。ところでシャワーは先に浴びる?」
「先輩からどうぞ。私はもう少し部屋を観察してみます」
水音を聞きながら部屋を見渡す。
変哲も無い温泉旅館にしか見えない。
ただ障子の向こうは窓になって、隣のビルの壁しか見えないし、床の間にあるティッシュの隣にはゴム製品がちょこんと鎮座している。
備え付けの冷蔵庫を開けたら、デフレなんか忘却したようなプレミア価格のビールや精力剤がお行儀良く行列しているし、テレビをつけてみたら大音量でエッチなビデオが流れて、ビックリして慌てて消した。
布団の縁にぺたんと座り天井を眺める。別に普通の天井で和紙の灯篭がぶら下がっていた。
悪趣味なシャンデリアや鏡張りの天井に円形回転ベッドなど期待していたわけでもないが、もうすこし非日常的な存在を望んでいたかもしれない。
「すんだよ。日坂さんもどう?」
「は、はい」
浴衣を着た心葉先輩と顔をあわせずに浴室に駆け込んだ。視線を合わせるのが恥ずかしかったからだ。
いまさらになって緊張が胸を締め付けてくる。いままでどこと無く現実感を喪失した夢のような時間だったというのに。これから、先輩と、その……行為を、する。このシャワーを浴びたら、するんだ。
浴室を観察する余裕も無くして、ぎこちなく衣服を脱ぐ。
全身を移す鏡があった。自分の幼い姿が映っている。
ちいさな身長。貧弱な胸。くびれの無い腰。たぷんとした下腹。つるんとした股間。一応生えてはいるが、シルバニアファミリーのが毛深いだろう。
例えば、ななせ先輩と比較してみたら、いや比較にならないほどの幼児体形だ。こんな身体で心葉先輩は満足してくれるのだろうか。
首を振り、弱気な自分を追い払う。あえて無心となって念入りに身体を洗浄するのだ。
備え付けの浴衣を羽織り、帯の結び方が判らなかったので蝶結びにして、浴室を後にする。
心葉先輩は微笑んで迎えてくれた。
「可愛いよ。日坂さん」
ギュウって、両手を使い立ったまま抱きしめてくる。
まず挨拶のように軽いキス。
そして貪るような重いキス。
慌てて眼を閉じたが、それは失敗だった。
全身を使って心葉先輩が感じられる。唇。息遣い。背中に回された両手。密着した体温。余計な雑音がシャットアウトされて。ただ先輩だけが世界に存在するように。
いつのまにか涙が溢れていた。
嬉し涙ではない。
だって、日坂菜乃はこれから井上心葉のものになるというのに、井上心葉はわたしのものにならないから。
でも、これからの数刻だけは占有しよう。もうこんなことは二度とないだろうから。
最初で最後の時間。
それなのに電源を切り忘れた携帯電話が無遠慮に鳴り響く。最初は無視していたのだが、次第に大きく幾つもの電子音が取り囲むように喚きたてるのだ。
「あーっ! もうっ!」
跳ね起きたら、そこは自室だった。
「夢オチかよっ!?」
っと、そういえば今日はバレンタイン当日だった。遅刻したら目も当てられないので目覚まし時計に盛大な演奏会を開催させている。それらを沈黙させていくうちに夢の記憶は曖昧になり、最後には残滓が涙となって流れるだけであった。
「なんで……涙?」
幸せな夢だったような気がするのに思い出せなかった。
*
放課後の部室でななせ先輩と練習したようなコントを繰り広げながら、どことなくデジャビュ、既視感を覚えていた。
なんかもう既にバレンタインを済ませたような……。
気のせいだとは思うが。
躊躇しているうちにななせ先輩が一歩リードしてチョコを渡しているではないか。
ならば、わたしは既に心葉先輩にかける言葉は決まっている。
最高級の笑顔を向け、甘えるように発した台詞。
それは……。