「遠子先輩」
「違うわよ、心葉くん。私は君の担当編集者の天野さんです。天野さんと呼んでちょうだい」
ソファで向かい合って座った遠子先輩は、相変わらずない胸を張って見せる。
「だったら、心葉くんじゃなくて、井上先生じゃないと」
「う……い、井上……せん……井上さん……」
「だったら、僕は遠子さんと呼ぼうかな」
「ちょっと待って、それ、距離が縮まってない?」
「遠子さん、これ原稿です」
都合が悪い時には黙らせてしまうに限る。編集者相手にはこれが一番だ。
「えええっ、あっ…は、拝見します……」
遠子先輩は受け取った短編の原稿を一心不乱に読む。
さすが編集者、読むスピードが速い。
真剣な眼差しで原稿を読む遠子先輩を、僕はほおづえをついてうっとりと眺めていた。
「――相変わらず素敵ね心葉くん……じゃなかった井上……せんせ……」
「お互い無理はやめましょうよ、遠子さん。それと、これ」
「……これは?」
手書きの原稿用紙に遠子先輩は戸惑っている。
さすがに今はパソコンを使って原稿を書いているし、場合によってはメールで入稿している。
手書き原稿なんて、遠子先輩も滅多にお目にかかっていないはずだ。
「これは、遠子さんへのおやつです」
「……っ! だ、ダメよ、心葉くん! あなたは私の作家じゃないのよ!
そんな、食べちゃったりしたら読者の皆さんに申し訳がたたないわ!」
「いえ、そのおやつは、遠子さんだけが読者なんです。他の誰にも見せられません」
「え……?」
遠子先輩は不思議そうに原稿用紙を読み始め……みるみるうちに耳まで真っ赤になっていった。
それはそうだ。これは他の誰にも見せられない、井上心葉が全身全霊を傾けて渾身の力で書いたラブレターなのだから。
「そ、そうねっ! これは誰にも見せられないわね……っ」
遠子先輩はそわそわもじもじと、スカートのしわを直したり髪を弄ったりと落ち着きがまったくなくなっている。
「……食べないんですか?」
僕はソファの間のテーブルを乗り越えて遠子先輩に迫っていく。
「もったいなくなんかないですよ。僕はいくらでも書きます。
あなたへの想いなら世界中の原稿用紙を埋め尽くしたって書ききれないくらいだ」
僕は遠子先輩が手にしている原稿用紙の端をちぎって、遠子先輩の口に差し出した。
促されるままに、遠子先輩が原稿用紙の切れ端を口に含む。咀嚼するごとに、遠子先輩の瞳が潤んで、頬が熱くなっていく。
「こ、心葉くん……」
キスをした。遠子先輩が卒業して以来のキス。何度も、何度も先輩の唇を味わう。
深いキスをしながら、遠子先輩をソファの上に押し倒す。仕事中だって構うものか。
六年もこの時を待っていたのだから、さすがに僕も我慢の限界だ。
今日は最初からそのつもりで舞花を遠ざけておいたんだから。
「ま、待って心葉くん……」
「嫌です、待ちません」
「そんなあっ」
「まさか、いやなんですか?」
「……こ、ここじゃいや……」
「え?」
「ソファなんかじゃ嫌。は、はじめてなんだから、ちゃんとベッドでしてえっ!」
「わ、分かりましたっ!」
ぼくはせっかく作ったムードを全部ぶち壊されて、苦労して遠子先輩をベッドルームに運んだ。
抱きかかえないと動いてくれそうもなかったので大変だった。
ベッドの中でも宥めたりすかしたりと相当に苦労した。
それでも遠子先輩が本当に処女だった事が飛び上がるほど嬉しかったり、僕は結構単純かもしれない。