「先輩は、あの子を、菜乃をどうしたいんですか」
夕日の沈みかけた文芸部室で思っていたことを口にだす。
いつもあたしに話しかけてきて、うっとうしいと思いながらもどこか拒否できないそんな雰囲気をもつあの子。
だれにでも明るくて、いつもドジばかりのあの子。そんなあの子の憧れが目の前の先輩。
一度は傷ついてあきらめたと思ったのに、それでも近づこうとしているヒト。
「ぼくは、日坂さんを傷つけるつもりはないよ。好きになるつもりもない」
「なら、証明して下さい」
椅子に座ったまま、わたしのことを見つめるその人に近づく。窓際に立っているその人の目の前に立った。
「どうやって?」
「わたしと付き合ってください。その姿を見せたら、あの子も諦める」
「どうして、そこまでして……」
「そんなことはどうでもいいんです。いいからわたしと付き合ってください。井上先輩にとっても悪くないはずです。あの子に言い寄られることに疲れたんじゃないんですか?」
驚いたように目を見開く井上先輩。その顔を見て、あたしはイケると感じる。これならきっとこの人はあたしの提案に乗る、そう思った。
「ぼくは、誰とも付き合う気はないよ。君とも」
「別に、井上先輩に本気になれとは言いません。ただ付き合ってるふりをしたらいいんです。わたしを利用すればいい、それだけのことです」
「そこまで君がする意味がわからないよ……」
それでも躊躇するように考え込んでいる。じれったい、もっと利己的な人かと思っていたけれど、そうでもないらしい。あと一押し。
そう思った時廊下から聞き慣れた足音が聞こえた。幸い井上先輩は気づいていないみたいだった。
「なら、いいです。じゃあ、今だけわたしがこれからいうことを聞いてください」
「頼みごと次第……かな」
「目をつぶってください」
「え?どうしてそんなことを」
「いいからお願いします。今日のところはそれで帰りますから」
多少疑いながらもあたしのいう通り、大人しく目をつぶる井上先輩。足音はもう近い。
疑われないようにそっと近づく。あの子が扉に手をかけるより速く、背伸びをして、井上先輩の首に手をまわして唇を押し付ける。
唇と唇が触れる、その感触に自分自身少しだけ驚いたけれど。
後ろで扉が開いた音がして、自分の気持ちを切り替える。
驚いた井上先輩を隠すようにあたしはそのままゆっくりと振り向いた。
「わかったでしょう?……邪魔よ」
「え、なんで。どうし……」
それ以上言葉が出て来ないのかもしれない。菜乃は、呆然としている。そこに追い打ちをかけるのなんていくらでも出来る。
「まだ、邪魔するの?」
菜乃を追い詰める、この場にいるのが苦しくなるくらいに。菜乃は目に涙を浮かべたと思うと、そのまま部室から逃げるように出て行ってしまう。
これでいい。これでいいんだと自分にいい聞かせながら、我に返った井上先輩に向き直った。
「君はこんなことをして。いったいなにを!」
「もう逃げられませんよ。あたしとは共犯者なんですから」
意識しなくても笑みがこぼれてしまう。怒ったように目をそらす井上先輩からそっと離れて出口へと向かう。
「それじゃ、約束通り今日のところは帰ります。またそのうち連絡しますから、仲良くしてください」
冷めた笑顔で返すと、先輩は落ち着いたままあたしを見返してきた。
「君は、怖い人だね」
「井上先輩も十分怖いですよ」
それだけ、言い残して、あたしは部室を出る。日も沈んで、ほとんど人の残っていない校舎を歩いていく。
初めてのキス、少しだけ感触を思い出すように唇に触れる。
これで、一歩踏み出した。もう止まれない、次へと進むしかない。その先がどこまでいってしまうのか、わからないけれど。