あたしの初恋の相手は”井上コノハ”。
それは、最初から叶わない恋でした。
ブーンと、鈍い音を立ててながらオーブンが回っている。後は焼き上がりを待つだけだ。
レモンパイは、あたしの得意料理だ。いまでも忘れられないセンパイの言葉が、ずっと忘れられなかったから。
(アンとギルバートの味、かぁ)
くすりと笑みがこぼれる。あの頃大好きだった『赤毛のアン』
そのアンにそっくりだった三つ編みのセンパイ。
あの日から、あたしにとって『赤毛のアン』も『レモンパイ』も特別になった。
昔から、お兄ちゃんはあたしの一番大好きな人だった。
物心ついた頃からずっと、お兄ちゃんはあたしに優しかった。
年の離れた妹の我が儘にも、できるだけ答えて、一緒に遊んでくれた。
お父さんとお母さんもすごく優しくて大好きだったけど、お兄ちゃんが一番だった。
お兄ちゃんはどっちかといえば、線が細い。あんまり食べれないんだ、ってちょっと困ったように笑う。
お母さんもいつも心配してる。だからあたしは、半ば押しかけるみたいに
お兄ちゃんはいつだって、あたしに優しいから。
一人暮らしはお兄ちゃんの仕事・・・『作家』さんにとっては必要だった。
・・・まぁ、初めてそれを聞かされたときは、行っちゃやだ!って、困らせちゃったんだけど。
けど、お兄ちゃんにとって仕事は、『作家』であることは、一番大切なことだった。
あたしが駄々を捏ねた日。お母さんが、お兄ちゃんの書いた本を渡してくれた。
『文学少女』
お兄ちゃんが書いた二冊目の『小説』
小さかったあたしでも、それがすごいことだって感じた。
けど、それ以上に、その『小説』を書いてから、お兄ちゃんがなんだか遠くに。
あたしの手の届かないところにいっちゃったみたいで、あたしはそれまで読めずにいた。
きっと、この本が届いたときのお兄ちゃんが、お兄ちゃんじゃなくて”井上コノハ”だったからだと思う。
『文学少女』の中のお兄ちゃんは、あたしの知らないお兄ちゃんだったから。
そして、あたしは”井上コノハ”に恋をした。
作家の”井上ミウ”でもなく、あたしのお兄ちゃんの”井上心葉”でもなく、お兄ちゃんの小説の中の”井上コノハ”に。
イジワルで、泣き虫で、優しくて、不器用で。
最後に作家になると、泣かないと歩き出したその人に。
もうじき焼き上がる。
今日は新しいお兄ちゃんの担当さんが挨拶にくる。
そろそろお兄ちゃんを引っ張り出さないと。仕事を始めるとずっと篭もりがちだから。
新しい担当さんには、わかってほしいんだ。
お兄ちゃんがずっと送ってる”手紙”のこと。”センパイを忘れない”って想いを。ずっと。
『そう、レモンの味は青春の味……そして、初恋の味なの』
あたしの初恋は叶わないけど、お兄ちゃんの初恋のことをわかってもらいたいの。
あたしは井上心葉の妹だから。お兄ちゃんを応援する。
家族として。井上ミウのファンとして。”井上コノハ”を好きになった女の子として。
「お兄ちゃん、お茶の用意ができたよ」