「ちょっ…ダメよ、コノハ」  
ベッドに組み敷かれたあたしは、両手を押さえられていて抵抗できない。  
「ごめん、美羽…もう我慢できない…」  
コノハがソレをあたしの腿の間に近付けてくる…!  
「そんな…せ、せめて先にキsんぁっ…あぁぁっ、コノハっ」  
瞬間、頭の中が真っ白になり  
 
「コノハあぁぁっ…あ、あれ?」  
あたしは自分のベッドで目を覚ましたのだった  
 
 
「…最悪」  
今朝見た夢は思い返すのも忌々しかった。  
あの後あたしはシャワーを浴び髪を整え、自分では気に入っているワンピースに身を包み、コノハとの待ち合わせ場所であるバス停前にやって来ていた。  
 
どうしてあんな夢を見たのだろう。  
確かに今日は久しぶりにコノハと二人で出掛ける。  
行き先は劇場でまああたかも恋人同士がデートをするようなシチュエーションではある。  
しかしコノハとあたしとはもう…。それにそもそも、コノハとあたしの関係は昔から言わば犬と主人で、あたしの方に常に主導権があったのだ。  
だから、コノハがあたしを攻めるようなシチュエーションは絶対に有り得ない。  
それなのにあんな夢を見るなんて…  
 
「あたしがコノハにされるがままで…あれじゃ、まるであたしの方が下みたいじゃない…」  
呟きが口から漏れてしまったのにはっとして、周りをキョロキョロと見回す。  
辺りに人はまばらで、どうやらあたしの独り言は誰にも聞こえなかったようだ。ほっと息をし両脇の松葉杖を掴み直したとき、道路の向こうから男の子がこちらに向かって手を振っているのが見えた。ドキン、と不意に胸が鳴った。  
あたしが手を振り返す代わりに笑顔を作ってやると、男の子も笑顔を返し、横断歩道を渡ってこちらに駆けてきた。  
「ごめんね美羽、待った?」  
「30分待ったわ。あたしを待たせるなんてコノハも偉くなったものね。」  
あたしがすねた素振りを見せると、駆け寄ってきた男の子─コノハはごめん、と申し訳なさそうに謝った。コノハのしゅんとした姿がおかしくて  
「いいわ、許してあげる」  
あたしは笑顔を返すのだった。  
 
コノハを連れてバスで移動する。  
コノハの隣に座っているのを意識すると何故かむず痒かったので、あたしは別のことを考えようと、今日の外出の目的を反芻することにした。  
最近コノハが部長を務める文芸部に新入生が入部したらしい。  
しかもその入部動機がコノハに惚れたからだそうで、しつこくコノハにアタックを繰り返しているというのだ。  
その新入生─日坂菜乃の容姿は私も確認したが、平凡極まりないちんまりした女の子で、間違ってもコノハが好きになるようなタイプではないと思われた。  
あたしはそれで安心していたのだが、先日さる方面から新しい情報が入り、その考えを見直すことになった。  
校内でコノハが日坂菜乃の下着姿を見てしまうというハプニングがあり、そのときコノハが明らかに動揺していたというのだ。  
何故そんなハプニングに至ったのかにも興味がないわけではないのだが、重要なのは日坂菜乃の下着姿を見たコノハが動揺─たぶん興奮していたという点だ。  
 
もしかしたら、日坂菜乃という女の身体付きはコノハにとって非常に好みだったりするのではないか?  
情報の主は、コノハが以前天野(─今、コノハの心を捉えている憎らしい女)の下着姿を見たこともあり、そのときは平然としていたということも教えてくれた。  
このことがあたしにある疑念をもたらしたのだ。  
コノハはもしかして本当はロリっぽい肢体に惹かれるのかもしれない、と。  
そういえば、コノハがあたしに夢中になっていた頃のあたしの胸もぺったん…いやいやいや。  
コノハは女の子を容姿で選んだりはしない、とは思う。  
でも万が一日坂菜乃がコノハを体で誘惑して、うっかりコノハが落ちちゃって、二人の恋が始まっちゃって、なんていう事態になったら。  
…面白くない。何だか非常に面白くない。  
だから早急に手を打つことにした。  
 
丁度よく、日坂菜乃が友人達とある市民グループ主催の音楽会へ行くという情報を掴んだ。  
あたしは早速コノハに連絡をとり、あたしがその音楽会へ行くのにコノハが付き添うように言った。  
そう、今日あたしはこれからコノハと二人で音楽会へ行き、会場に来ているであろう日坂菜乃に、あたしとコノハが休日にデートを楽しむ、さも仲の良いカップルであるかのように思わせるのだ。  
今コノハのすぐ側にあたしという彼j…女の子がいることを見せ付けて敗北感を味あわせて、コノハに付き纏おうとする気を奪ってやる。  
難点は会場内にいる日坂菜乃が私達の姿を見付けられるかどうかだが、この音楽会は例年人気がなく客があまりいないことまで調べがついている。  
日坂菜乃と会場で遭遇するのは容易だろう。  
私は自分の策に笑みを浮かべていた。  
会場に着くまでは。  
 
 
「何よ、これ?」  
会場を埋めつくす人、人、人の群れ。  
「今年は新進気鋭のゲストがこの音楽会に参加するらしくって、注目されてるらしいよ。なんでもそのゲスト、僕たちの街に特別な想い入れがあるんだって」  
コノハがパンフレットを捲りながら説明するが、あたしの耳にはあまり届いていない。  
完全に誤算だ。この観客の多さでは、日坂菜乃があたし達を見掛ける確率はだいぶ低いだろう。  
一体どうしたものか…  
「美羽?」  
「ひゃぅっ?!」  
不意にコノハがあたしの首元に手を置いたので、あたしは驚いて変な声をあげてしまった。  
「中に入らないの?」  
コノハがあたしの顔を覗きこんでくる。  
顔が近い!あたしは思わずどぎまぎしてしまって  
「今行こうと思ってたところよっ!」  
大声を張り上げてしまったのだった。  
 
音楽会の演目はほとんどが平凡な出来映えだったのだけれど、ゲストの独唱だけは別格だった。  
独唱が始まった瞬間、会場内の空気が明らかに変わった。  
天をつき抜けるかのようなそのソプラノは、親友との離別をテーマにした詩を、鬼気迫る勢いで唄いあげていた。  
慟哭、嘆き、そして微かな祈りがまるであたしの胸を直に穿とうとしているようで、得体の知れない痛みが呼び起こされそうになる。  
たまらずあたしは舞台から目を反らした。  
と、その先にコノハの顔が見え、あたしは思わず息を呑んだ。  
コノハは泣いているような、痛みに耐えているような、いわく言い難い表情をしていて…あたしは震えていたコノハの手をそっと握ったのだった。  
 
結局日坂菜乃に遭遇することもなく音楽会は終わり、あたしとコノハは会場を後にした。  
本来の目的は果たせなかったが、  
「ちょっと感動しちゃったよ、今日は誘ってくれてありがとう、美羽」  
というコノハの言葉を聞けたのはまあ収穫と思っておこう。  
 
帰りのバスは少し混んでいて、あたしは席に座れずコノハの隣に立つことになった。  
コノハの体がすぐ近くにある─そう思っただけで何故かあたしは体が熱くなったように感じた。  
 
「きゃっ」  
突然あたしはバランスを崩し倒れそうになった。  
バスから降りようとした男性があたしの松葉杖に足を引っ掛けて転んでしまったのだ。  
それであたしも片方の松葉杖の支えを失い倒れそうになったのだが、コノハが支えくれた。  
あたしがコノハにお礼を言おうとしたとき  
「気をつけろ!!」  
転んだ男性があたしに向かって突然怒鳴った。  
あたしがごめんなさいと言おうとすると  
「ろくに歩くこともできないのに他人様の邪魔をするな」  
更なる怒声を浴びせた。  
その言葉でつい頭に血が上り、あたしは男性に向かって松葉杖を投げつけようとして  
「美羽っ!」  
コノハに腕を掴まれて止められた。  
その間に男性はバスを降りていて  
「ふんっ!」  
と鼻を鳴らして去って行ったのだった。  
ドアが閉まりバスが発車する。  
突然の出来事にバスの中は静然となったのだが、しばらくすると乗客達がひそひそと話をし始めた。  
「あの男の人、ちょっと言い過ぎよね」「でも混んでるバスに松葉杖をついて乗って来るのも実際迷惑よねえ」  
「杖を投げ付けようとするなんて乱暴な子ね」「あんなんじゃ彼氏の方も大変よね」  
あたしの耳に聞きたくもないゴミが入ってくる。  
 
油断した。  
今日一日、コノハの隣にいたせいで、その心地好さに浸ってしまっていたせいで、この世界が悪意に満ちあふれていることをすっかり忘れていた。  
息が、詰まる。  
「美羽、気にしないで」  
うつ向いたあたしにかけてくれたコノハのその言葉に、  
「…話しかけないで」  
あたしは小声でそう答えてしまっていた。  
コノハが悪いわけじゃない。  
でもコノハの優しさが今このときあたしの心を苦しめるように思えたのだ。  
 
あたしとコノハは次のバス停で降りた。  
そしてバスが走り去った後、あたしは一人で歩き出した。  
「美羽っ」  
「ついて来ないで」  
あたしを追って来ようとしたコノハを制し、あたしはどんどん歩いて行った。  
コノハにとってあたしの言うことは絶対だ、あたしがそうしつけた。  
これでコノハはあたしを追って来ないだろう…。  
コノハから離れれば、コノハの温もりに浸らなければ、あたしはまた悪意と向き合えるようになる。  
でも…それは少し…切ない…。  
 
そう思ったとき突然、あたしの体を何かが包み、あたしは松葉杖を取り落とした。  
 
後ろから誰かに抱き締められているとわかるまで少し時間がかかった。  
それがコノハだと理解し、胸が締め付けられる  
 
違う、こんなのは、あたしの知ってるコノハじゃない。  
あたしが知ってるコノハは、あたしが不機嫌になるとおろおろして、べそをかいて、あたしの許しをじっと待つのだ。  
こんな、自分からそっと包み込むように抱き締めてくれるなんてことはしなかった。  
これは、天野達が変えてしまった、あたしのものじゃないコノハ…そのことに胸がぎゅっと締め付けられる。  
でも、抱き締めるコノハの腕から、背中に当たるコノハの胸から、温もりが伝わってきて…  
あたしは切なさと温かさの間で身動きがとれずにいた。  
 
しばらくすると、コノハは腕をゆっくり離し、あたしの正面に回って声をかけた。  
「落ち着いた、美羽?」  
「…!」  
その目をみた瞬間、あたしは言葉をなくしてしまった。  
まるで、あたしにこれ以上突き放されたらどうしたらいいのか判らないと思っているような泣き出す寸前のような、あの幼い頃のコノハの瞳がそこにあった。  
でもその表情には私のことを心から心配し、あたしの苦しみを拭おうとしてくれている気持ちが滲み出ていたのだ。  
「美羽?」  
あたしは少しの間呆けた後、衝動的にぎゅっとコノハの手を掴んだ  
「み、美羽?」  
戸惑うコノハの声をよそに松葉杖を拾い直し、その片方をコノハに突き出す。  
コノハが松葉杖を、私に握られていない方の手で受け取ったのを確認すると、あたしはコノハの手を引っ張るようにして歩き出した。  
「ちょ、ちょっと、美羽?」  
「あたしのマンション、すぐ近くだから!」  
困惑するコノハの声にそう答え、あたしはコノハと繋いだ手に一層力を込めて、コノハを引いて歩いた。  
どうしよう。  
どうしよう。  
どうしよう。  
コノハを、離したくない。  
あたしの手が、心が、コノハを渇望している。  
 
「あがって」  
「お、お邪魔します」  
コノハはおずおずとあたしの部屋に入った。  
「お茶、煎れてくるから。」  
「う、うん」  
コノハは頷くと、部屋の真ん中にちょこんと座った。  
「そ、その前に…汗かいちゃったから、シャワー浴びてくる」  
「えっ?」  
「…っ、覗いたら駄目だし、その間に帰ったりしても駄目だからね!」  
「う、うん」  
あたしは音を立ててドアを閉め、お風呂場へ向かった。  
 
まずい。  
まずい。  
まずい。  
心に余裕がなくなっている。  
昔、コノハと話すときは常にあたしが主導権を握っていたのに。  
コノハは犬であたしは飼い主だったのに。  
なのに何だ、さっきのあたしの態度は?  
まるであたしが平凡な恋する女の子ではないか。  
こんなのは朝倉美羽じゃない。  
冷静になろうと頭から冷たいシャワーを浴びた。  
でも体はほてっていくばかりで、胸の鼓動は止めようがなかった…。  
 
 
「お帰り、美羽、遅かっ…」  
あたしの姿を見てコノハは絶句した。  
あたしが、裸身にバスタオルを巻いただけの格好をしていたからだ。  
「…ご、ごめんね、美羽。着替えを持っていき忘れたんだよねっ?僕、部屋の外で美羽が着替えるまで待ってるからっ」  
慌てて立ち上がって部屋から出て行こうとするコノハ。  
あたしはその前に立ち塞がり、自分の体をコノハに預け、コノハをベッドに押し倒した。  
そして、戸惑うコノハにあたしは顔を近付け、そっと目を閉じた…  
 
「美羽、本当に一人で平気?」  
「大丈夫よ、コノハはさっさと学校に行ってらっしゃ…くしゅんっ」  
コノハが慌てて駆け寄ってあたしにティッシュを差し出す。  
あたしはそれで鼻をかむと、コノハを登校するように再度促した。  
「帰りにまた寄るから」  
「別にいいわよ、文芸部の活動だってあるんでしょう?部長なんだからしっかりしなさい」  
うん…と言い残してコノハは玄関を出ていった。  
昨夜のことを思い返す。  
コノハを押し倒し、コノハに顔を近付け目を閉じた後、あたしは大きなくしゃみをしてしまったのだ。  
コノハはあたしの額に手を当て、熱があると騒ぎ出して、あれよあれよという間にあたしは病人扱いされ、コノハに一晩看病されたのだった。  
実際あたしは軽い風邪をひいてしまっていたらしく、しばしばくしゃみをし、今朝、体温計は36.8℃を記録した。  
 
でも、昨夜あたしが感じた体の火照りは、本当に風邪のせいだけだったのだろうか?  
あのとき、今の井上心葉にあたしの知るコノハが息づいているのを知った。  
そして心葉は、あたしの痛みを包み込んでくれるくらい大きく成長していた。  
あのときあたしを抱き締めた腕はあたしの知らない心葉の腕…でも、その腕に、温もりにどうしようもなく惹かれた。  
「あたしは、今『井上心葉』に恋をしている…」  
ぼそっと口から漏れたその結論に、顔から火が出そうになった。  
なんという事だろう。同じ男の子に二度も恋をするなんて…。  
 
昨夜、心葉を押し倒したもののその先に至れなかったことについては自分の意外ないくじのなさを呪う反面、あれでよかったとも思っている。  
あのまま心葉の貞操を奪って、心葉のことを体で縛り付けても、心葉の心は手に入らなかっただろう。  
考えよう。  
心葉の心に近付く方法を。  
 
思えば随分と出遅れた。  
コースアウトした琴吹はさておき、日坂菜乃は快走中、天野はピットインしたもののゴール直前にいるだろう。  
対して、朝倉美羽は井上心葉に向けてのスタートラインにすら立てていない。  
コノハは美羽のことをふっ切ってしまったのだから。  
でもそれがどうした。  
ハンデなんて跳ね飛ばしてみせる。  
私が誰よりも心葉の近くに立ち続けてやるんだ。  
想い出だけで満足してやるものか。  
心葉が幸いを探して辛い想いをするとき、その手をそっと握ってあげられる場所にいたい。  
誰よりも近くで心葉を見ていたい。  
出来れば、その…心葉が私と一緒に幸せになろうと思ってくれたらいいななんて。  
また顔が熱くなってきた。  
どうやら熱が上がってきたらしい。  
あたしは何かから逃げるように布団に潜り込んだのだった。  
 
 
放課後、一詩があたしの部屋を訪ねてきた。  
あたしは心葉が来たと勘違いして満面の笑みで迎えてしまった。  
目を真ん丸にした一詩にあたしは手近にあったスリッパを投げつけ、御見舞い品の紅茶プリンだけを奪い取って部屋から追い出してやった。  
 
後で、少し、謝っておこう。  
 
おしまい  
 

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