もうこれ以上おばさまを苦しめるわけにはいかない。
わたしは賭けに負けたのだと認めざるを得なかった。心葉くんにもう小説を書いてだなんて言えない。
井上ミウなら、お母さんの物語を再現できる、おばさまの苦しみを止めることが出来る
わたしはそう信じていた。でも、それはわたしの勝手な願望で、心葉くんを苦しめただけだった。
もう消えてしまおう、わたしがいることで、おばさまだけでなく心葉くんまで苦しめてしまう。
心葉くんはわたしがいなくなったら悲しむかな?散々振り回すだけ振り回して勝手にいなくなるなんて勝手な先輩だよね。
それでも、心葉くんはわたしが最初に会った時とは違う。私のことは忘れてちゃんとやっていけるはず。
それに…ななせちゃんがいる。
ななせちゃんならどんな時でも、心葉くんを懸命に支えて、一緒に幸せになれるはず。
わたしはもう必要ない…
いろんな人に迷惑かけちゃったな…
泣きそうになるのを堪えて歩く。もうわたしは独りで生きていく。
北へ行く。もう親しい人とも二度と会えない。
おばさまとも、流人とも。
麻貴とも、千愛ちゃんとも、ななせちゃんとも、芥川くんとも。
そして…心葉くんとも。
寂しいけれどもその方がいい。ちゃんと耐えられる。
哀しくてたまらないけれど、綺麗に笑いたい。
笑わなきゃ…
ふと前を見るとわたしを見ているよく知っている子の姿が見えた。
琴吹ななせちゃん、わたしの可愛い後輩にして心葉くんの彼女、の姿だった。
「ななせちゃん」
どうやら彼女はずっとわたしを待っていたようだ。こんな寒い中。なにかあったのだろうか。
「あの、どうしたの?こんなに寒いのに」
「どうして…」
掠れた声で目に涙を一杯溜めながら、わたしに問いかけてきた。
「どうして井上に小説を書けなんて言ったんですか!」
ああ…、わたしの勝手な願望は心葉くんだけじゃなく、ななせちゃんまで傷つけていた。
ななせちゃんは心葉くんが傷ついているのを見ていたたまれなくなったに違いない。
「遠子先輩だって知ってるでしょう、井上が小説を書いたことでどれだけ傷ついたか。それなのになんで…」
「ごめんなさい、ななせちゃん」
もうこれ以上誰も傷つけるわけにはいかない。
「そのことはもういいの、もう諦めたから…」
「…もう…いい…?」
「ええ、心葉くんに小説を書いてもらいたいっていうのはわたしの勝手な願望だったの。だからも
バチン
わたしは最後まで言うことが出来なかった。
口の中になにかぬるぬるしたものが通り、それがおそらく血であろうということはわかったが、何が起こったのかさっぱりわからなかった。
呆然とするわたしの目の前に、今まで見たことのない形相をしているななせちゃんの姿があった。
「『もういい』?何よ『もういい』って…」
「ななせちゃん…」
「そんな…そんな簡単に諦められるようなことの為に、あたしたちを振り回したの!?」
違う!簡単に諦めたわけじゃない!
わたしにとっては本当に大事なことだった。
でも、反論しようとしたわたしの前に、ななせちゃんは衝撃的な事実を告げた。
「たかだかそんなことの為に、櫻井をけしかけて、あたしと井上を別れさせようとしてたの!?」
えっ…?
今ななせちゃんはなんて言った?
サクライヲケシカケテ…?
「りゅ、流人がどうしたの!?」
「今更とぼけないで!ずっと櫻井があたしに井上と別れろって嫌がらせを続けてたのはあんたの差し金でしょう!」
知らない!流人がななせちゃんに嫌がらせを…
「し、知らないわ…ななせちゃん!どういうことなの!?詳しく聞かせて!」
わたしは背筋が凍るのを実感した。ななせちゃんが言ってることは嘘じゃない、そんな奇妙な確信があった。
「この期に及んでシラを切るつもり?毎日毎日高校の図書館まで櫻井はあたしに嫌がらせをしにきたわ
最初は自分と付き合わないかとか、ふざけたことを言ってくるし、
あたしが断ったら今度はあたしと井上じゃ相性が合わないとか勝手なことをいい始めた!
挙句の果てには、図書館で襲おうとまでさせたくせに!それを知らないとかいうつもり!?」
目の前が真っ暗になった。
なんで、わたしの知らないところでなんでそんなことが起こってるの…
…まだ知らないとか言うつもりなら、この前の土曜日はなんなの!?なんでシュークリームまで持って井上の家に行ったの!?」
「ち、違うわっ!あれはただ先輩として一度後輩への家庭訪問を…」
「わざわざあたしが行く前日に?」
っ!日曜日にななせちゃんは心葉くんの家に行ってたの!?
でもよく考えたら判ることだった。
週末に付き合っている二人が一緒にいることは不思議じゃない。
土曜日に心葉くんの予定が開いているという時点で、当然気付かなきゃいけなかった。
「ごめんなさい!わたしが軽率だったわ。気付かなきゃいけなかったことなのに、そこまで気が回ら
「櫻井は知ってたみたいだけど?」
また流人が!?
「日曜日に、呼ばれもしないのに井上の家に上がりこんで、散々吹聴してたわ!
あんたが毎日シュークリーム焼いてたこととか、犬も食わないようなシュークリームを井上が全部食べたことかをね!
毎日手作りお菓子の練習だなんて、随分と念入りな家庭訪問だったみたいだったけど、一体何が目的だったの!?」
もう言い訳は出来なかった。
わたしが心葉くんの家に行くのを土曜日にしたのは、確かに流人の薦めがあった。
「もう十分上手くなってるから、今週の土曜日あたりにでも心葉さんの家に持っていったら?」
流人が何気なく言った土曜日というのを特に気に留めず心葉くんの家に訪問する日に決めてしまった。
もしかしたら塩と砂糖を取り替えていたのも流人の仕業かもしれない。
でも、わたしが心葉くんの家に行ったこと、それはわたしが決めたことだ。
家庭訪問なんていうのは勿論名目上のこと。
本当は、この街を離れる前に一度だけ心葉くんがどんな家で育ったのか見ておきたかった。
わたしが憧れて止まない暖かな家族。
そんな中で育った心葉くんを。
でも、本当にそれだけだっただろうか。
わたしは心葉くんを諦めることが出来ていたのだろうか…
心葉くんにはななせちゃんという彼女がいて、それをさしおいて自宅を訪問するという行為自体がすでに二人に対する裏切りではなかったか。
今更ながら事の重大さに慄然とした。
わたしはもう消えなきゃいけないのに!
ななせちゃんの応援をしなきゃいけないのに!
「ごめんなさい…もう絶対にこんな真似はしないし、流人にも手出しをさせない。
本当よ!もうわたしはこの街には戻ってこないから!ななせちゃんの邪魔はしな
バチン!!
さっきよりも大きな音が逆の頬を打った。
「バカにするなっ!!」
ななせちゃんの顔は叩かれたわたしよりも痛そうだった。
「いつも、いつもいつもいつもいつも!味方面して見下してんじゃないわよっ!!
気付いてないとでも思ってるの!?あんたが井上のこと好きだって!!
それなのにいつも澄まし面で、そんなことまるで思ってないみたいにふるまうの!!」
「いつだってそうだ!自分が傷つきたくないから、聖人面して井上を惑わす!
夕歌の事件の時だって!朝倉の事件の時だって!自分が傷つかない高みから、
したり顔で名探偵みたいに、ご高説を述べて!」
「夕歌のこと何も知らないくせに!死んだのはあたしの親友だ!
なにが文学少女だ!なにが物語を読み解くだ!
何の関係もないのにでしゃばるんじゃない!!」
言葉と平手の双方がわたしを打ちのめした。
「なんでよ…なんであんたなのよ…簡単に諦めてるようなあんたに!
傷つくのが怖い卑怯者のあんたが!偽善者の癖に!
あたしの方が!あたしの方が井上のことを好きなのに…
なんでいつもあんたなのよ…」
ななせちゃんはしばらくへたり込んで嗚咽を上げていたが、おもむろに立ち上がり何も言わずに去っていった。
もう後期試験まで待っていられない。
この街にいても、わたしが大好きなみんなを傷つけるだけ。
今すぐこの街を出なくちゃ…
でも
わたしはどこに行ったらいいの…