プロローグ ●自己紹介代わりの回想  
六年間が、費やしたこと  
 
 
ここは歌姫の楽園。 そう、夕歌は言った。  
 
あの頃のあたしには、その気持ちはわからなかった。  
 
けれど、今はわかる気がする。  
 
大勢の観客の中で、二人は真っ白な光に包まれて綺麗な歌声を振り撒いたり、天  
使のような神聖な音楽を耳の奥に送ってきたり、つむがれる一つ一つの言葉を詞  
に変えて、あたし達のもとへと届けてくれる。  
 
きっと二人は天使で、飛ぼうと思えばすぐに天国へといけるのかもしれない。  
 
夕歌と、臣なら。  
 
 
とても澄んだ声で、 あたしを応援してくれた二人。  
 
あたしの気持ち、悩み、願い。色んなことを知って、共感してくれた。  
 
けれどあたしは、二人の事をどれだけ知っていたのだろう。  
 
二人はどれだけ苦しんで、辛い思いをして、あたしに笑いかけてくれていたんだ  
ろう。  
 
 
あたしの日々は、六年前にガラリと変わった。  
 
夕歌は翼の天使になって、臣は歌の天使になった。  
そして、井上からたくさんの勇気をもらって、…たくさん泣いた。  
 
全部、今のあたしにとって必要だったこと。  
大切だったこと。  
 
 
23歳の7月。  
 
あたしはごく普通に会社へ通い、夕歌の好きだった歌を聞きながら家に帰り、休  
みの日には『美女と野獣』を聞きながら、井上の小説が連載された雑誌を、ゆっ  
くりと読む。  
そして今は、黄昏時のパリの劇場で、歌の天使が出てくるのを待っている。  
 
臣の晴れ姿を目に焼き付けて、帰ったら井上にたくさん話して聞かせよう。  
 
あっちはまだお昼だから、公演が終わってから国際電話でかけるのがいいかもし  
れない。  
 
今日も執筆で夜更かしするだろうから、早く寝るように念を押しておこう。  
 
 
天使が歌声を奏でるのは、もうすぐ。  
 
 
 
 
文学少女と暁の街の最終歌(ラストオペラ)  
 
一章 天使から作家へ  
 
「心葉くん、すごく言いにくいのだけれど、ここはもっとこう、シンプルな感動  
がいると思うわ。そう、斉藤洋の『先生の入院』のような、プレーンな酸っぱさ  
のグレープフルーツを食べている感じに」  
 
書き上げた三題噺をくわえながら、遠子先輩が神妙な顔つきになる。  
随分最近の本を話にもってきたけど、大学にいる間にで「味」の好みが変わったのだろうか。  
 
「夕方の河原で、茜に染まった清流を、両手ですくって喉を潤し、愛情の甘酸っ  
ぱさを咀嚼する清らかさ!うん、葡萄とはまた違う、酸味強いグレープフルーツ  
が舌をさっぱり刺激して、切ない気持ちにさせてくれるわ。あぁ、先生と生徒の強い信頼の証!  
短編小説『先生の入院』の作者の斉藤洋は、平成児童文学の先駆者で、  
ネコの友情を描いた『ルドルフとイッパイアッテナ』で一躍少年文学ジャンルのトップに躍り出るの。  
登場人物の内面を、シリアスかつコミカルに捉えた彼の作品は、恋の甘さとはまた違う、愛情の美味しさがあるのよ」  
 
ぼくは、執筆中の小説の印刷原稿をテーブルの端によけて、遠子先輩のおやつの  
三題噺を書いていた。  
昨日、白いマフラーを巻いて、鮭をくわえた熊の前で再開した感動もつかの間、  
早速と言うか、空腹だったらしい遠子先輩に「北海道」、「文学少女」、「東大」  
で書いてと頼まれたのだが、案の定、  
「に、苦いっ!舌がしびれて、鼻がツーンとして、ワサビを食べてるみたい。文  
学少女が東大足切りで、北海道大学も足切りで、高卒でひきこもりなんて、苦す  
ぎよ、心葉くん」  
と言われたので、今日は加減して作ったら、薄味にし過ぎてしまったらしい。  
 
ぼくは、学校に行った妹が作り置きをしていたレモンパイを口に含みながら、冷  
静に言った。  
「昨日のお題が余りにも濃すぎたので、今日は薄くしたんです。それよりも遠子  
先輩。ぼく、そろそろ仕事に取りかかりたいんですが」  
 
なんでぼく、今さら三題噺なんて書いているんだろうか。  
24にもなって『おやつ』をねだってくる女の人は聞いたことがない。  
遠子先輩は、ぼくの小説担当者兼添削係で、物語を食べる妖怪だ。  
本などに書かれた文字や印刷された文を美味しそうに食べ、毎回のように文学知識を披露する。  
毎回と言っても、昨日までは六年長期の中断期間だったけれど。  
昨日『妖怪』って言ったら、相変わらず頬をふくらませて、  
「断じて妖怪じゃないです!わたしは、この世の全ての物語を、食べちゃうほど  
愛しているた・だ・の『文学少女』です」  
と反論してきた。  
 
正直、もう『少女』って年齢じゃないと思うけど。  
以前のトレードマークだった、腰まで届くくらいの細く長い三つ編みは、  
さらりとストレートに伸ばされていて、黒い澄んだ瞳と顔立ちのほうは以前と少しも変  
わっていない。  
ついでに言えば、凹凸のないスレンダーな体つきも余り成長の様子が見られない。  
一見は上品そうなお嬢さんなのに、食いしん坊でおしゃべりなところも以前のま  
まだ。  
 
三題噺をまた書かせる辺り、ぼくの担当として、別の方向へ行ってしまっている  
気がする。  
 
 
仕事の進み具合にひそかに不安になった時、遠子先輩が話しかけてきた。  
 
「今頃ななせちゃんは劇場で公演を見てるくらい?昨日見送りに行ったんでしょ  
う、心葉くん」  
 
「ええ、ぼくも一緒に行きたかったんですけど、今は仕事が詰まってるし。それ  
にいきなり担当の人が来るって聞いたものだから、行くに行けなかったんです」  
嫌みを含んだ口調で言う。  
 
「もぉ、そういう冷たい言い方、よくないわ。わたしに会う時は、泣いてくれる  
って言ってたのに。相変わらず若者らしくないんだから」  
 
六年という歳月は、良くも悪くも人を大人にするようで。  
 
「若者同士の再会にちょっと涙はないなぁ、って考えを改めたんです」  
 
「むぅ、余計なところは大人になっちゃって」  
ぷんっ、と遠子先輩は横を向いた。  
 
実際、六年前は泣くほど会いたいと願っていたけれど、昨日は穏やかに、笑顔で  
遠子先輩と再会することができた。 服装が服装だった事もあって、  
感動的な雰囲気にはどうしてもならなかった。  
芥川くんや美羽も遠くの仕事に就いてしまったから、親しい人との別れは何度か経験している。  
頻繁に連絡が来るのは琴吹さんからくらいで、よく 「締め切り大丈夫?」とか  
「鍵ちゃんと閉めて寝るんだよ」とか電話で世話を焼いてくる。  
家に来てべったりの妹ほどではないけれど、ぼくってそんなに生活力がないよう  
に見えるんだろうか。  
 
「それに心葉くん、わたしの事いまだに『先輩』だし、前と変わらずそっけない  
し、保護者に対する尊敬が足りないと思うわ」  
 
保護者って…。  
もうお世話はかなーり間に合ってます。  
「『先輩』がもう定着しちゃったんです。急には変えられません。それより、  
仕事が切羽詰まってるので、こっちの原稿の添削、お願いします。くれぐれも食べないように」  
 
ワープロで印刷した原稿用紙の束を、遠子先輩の細い腕に乗せる。  
しばらくむっつりしていた遠子先輩だったが、仕事モードに変身したのか、  
じきに原稿をペラペラとめくり、一心不乱に集中して読み始めた。  
そんな様子を、ぼくは穏やかな目で見つめ、続きの執筆に取りかかる。  
 
いつかの日常だった風景。  
 
ここは狭くて埃まみれの、あの頃の懐かしい部室じゃないけれど。  
 
今はもう、琴吹さんから勇気をもらい、美羽から叱咤激励され、遠子先輩と幼い  
キスをした日々ではないけれど。  
 
この平穏が、今のぼくにはとても心地よく感じられた。  
 
けれど、遠子先輩が、いわゆる『非日常』を運んでくるのも自然の道理で。  
 
ポケットに入れてある携帯から、『美女と野獣』のメロディが流れた時、ぼくは  
少なからずわかっていた。  
 
 
 
ああ、きっと、また物語が始まるんだ、と。  
 
 
 
かかってきたのは、やっぱり琴吹さんの携帯からだった。  
 
 
「もしもし、琴吹さん?……うん、ちゃんと聞こえてるみたい。そっちは?」  
 
ちかちかと光っているぼくの携帯のミニディスプレイには、国際通話のマークが  
小さく表示されていて、彼女が無事にあっちに着いたのだとわかる。  
 
先月、  
『パリでもしっかり繋がる携帯ってないかな?あたし、他の子みたいにそこまで携帯に詳しくなくて』  
と話していたので、可愛らしい虹色のイルミネーションで光るライトピンクの携帯を画像で送ってあげたら、  
次の日にはその機種で試しの電話が来て、  
『やっぱり井上、相変わらずセンスないね』  
と笑いながら言っていた。  
 
琴吹さんに似合う色だと思ったんだけどな。  
 
でも、今こうして雑音もなく普段通りに通話はできているし、本来の目的は達しているようだからよしとしよう。  
 
 
ぼくの書いた印刷原稿に集中している遠子先輩は、部屋端のソファーにちょこんと座って、  
視線を文字に並走させていた。  
電話がきたことに少しも気付かないほど、彼女のスイッチはフルに入っているようだ。  
 
白のワンピースに赤い薄手のカーディガンを羽織っている遠子先輩は、  
ほとんどいつも制服姿だった以前よりも、より一層育ちのよいお嬢さんのように見えた。  
 
体育座りした膝に白い頬をのせて、ぼくの原稿をめくっている様子は、  
彼女の変わらない人柄を明にうかがわせる。  
 
その光景に小さな懐かしさを感じながら、ぼくはレモンパイの最後の一切れを口に放り込んで、  
書斎から静かに廊下へと出た。  
 
「あっ…、仕事中だった?掛け直した方が、いいかな」  
 
電話越しに、少しためらいがちな琴吹さんの声が聞こえてくる。  
「ううん、気にしないで。それより体の方は平気?時差とか、パリはズレが大きいから」  
 
隣の寝室のドアを開けて、壁にかけてある振り子時計をちらりと見やりながら、  
ぼくは自分のベッドに腰掛けた。  
 
フランスのパリは、日本と八時間近くもの時刻差があり、日本の方が早くて、  
フランスの方が遅い。  
 
この時差は、人によっては眠れなくなったり、体調を崩したりするものらしく、  
長旅の疲れもあるだろうし、ぼくは少々心配していた。  
 
「飛行機でぐっすり眠れたし、ホテルでも少し寝たから、あたしは大丈夫。  
井上も、仕事頑張るのはいいけど、あんまり夜更かししちゃダメだよ」  
 
そう、おだやかに答える琴吹さん。  
 
正直、女の子が一人外国に行くというのは、色々と気がかりがあったのだけれど、  
琴吹さんはフランス語もばっちりだし、どうやらぼくが気にすることもなさそうだ。  
 
 
 
琴吹さんは大学で語学を専攻してから、今は国際関係の仕事に就いてOLをしてい  
る。  
 
ぼくも漠然としか知らないのだけれど、色んな国との輸出入の手続きや取り決め  
の通訳をするという、いわば国と国との橋渡しみたいな仕事らしい。  
 
それだけでもすごいのに、英語、ドイツ語、フランス語を当たり前のように話せ  
て、更に今は中国語まで勉強中だとか。  
ぼくは、そんな琴吹さんを尊敬せずにはいられない。  
 
同じ23歳だっていうのに、まだまだ駆け出し小説家のぼくには、  
彼女はどこか遠くの人のように感じられた。  
 
「これからは夜更かししたくても、遠子先輩が早くに来るからできないんじゃないかな。  
あの人、朝から夕方まで毎日ぼくの家に居座るつもりみたいだから」  
 
妹の舞花に、編集担当の遠子先輩が加わって、更に明るさが増しそうなぼくの自宅兼仕事場だけれど、  
小説を書くにはちょっと騒々しすぎる気がしなくもない。  
 
特に遠子先輩は、ぼくに意味もなく持ち前の文学知識を披露してきたり、  
かつての三題噺を書かせたりしてきそうなので(もう既に二回書いたけれど)、  
いささか複雑な心境ではあった。  
 
六年ぶりに会えたのはすごく嬉しいのだけれど、  
ぼく、今連載物の仕事も請け負ってるんだよなぁ……。  
 
「…そっか。会えたんだね、遠子先輩と。どうだった?前と、変わっていた?」  
 
「髪が三つ編みじゃなくなってた事以外は、少しも変わってなかったよ。  
…琴吹さんは?臣くんとは、会えたの?」  
 
…・・・あれ?  
 
ふと、あることに気付く。  
壁の振り子時計を、ぼくはもう一度、今度はしっかりと見た。  
今が夕方の六時だから、あっちは朝の十時過ぎで、たしか臣くんの出ている公演  
は朝九時からで……。  
 
「ちょっと待って、琴吹さん。ひょっとして今、舞台の最中じゃないの?」  
 
一時間半のプログラムって聞いたから、終盤も終盤、もう終わる頃じゃないか。  
こんなタイミングでわざわざ電話なんて、一体どうしたんだろう。  
 
「……あのね、やっぱり井上に知らせておいた方がいいと思って……。途中で抜  
け出してきたの」  
 
琴吹さんの声が、急に不安げに曇る。  
 
なんだろう、その声音に、昨日空港で見送った時の彼女のような  
晴れやかな元気さがない気がしたのは、ぼくの気のせいだろうか。  
 
いつか、こんな琴吹さんの声を聞いた気がする。  
 
悩んでいるような、辛さを隠しているような声。  
 
「琴吹さん……?ぼくに知らせたい事って?なにか、あったの」  
 
引っ掛かる気持ちを抑えながら、ぼくは携帯を耳に押し付けた。  
 
あの頃ぼくはまだ高校生で、まだ琴吹さんともあまり仲が良くなくて、  
遠子先輩は文芸部の部長で。  
琴吹さんの友達の水戸さんが、突然いなくなって……。  
 
 
電話の向こう側からの、悩むような沈黙のあと。  
 
「……今日の舞台、臣がいなかったの。代役の人が、代わりに臣の役を演じてて・・・」  
 
 
戸惑うような琴吹さんの声が耳に入ってきた時、既視感に似た妙な感覚が、ぼく  
の胸を、背中を、鋭く撫でた。  
 
 
◇ ◇ ◇  
 
 
ななせ。  
 
私がもし、ななせの前からいなくなっても、心配しないでください。  
 
最近自分の歌が思うように歌えず、少し、悩んでいるだけ。  
今のような歌声で聴いてもらっても、ななせが気の毒なだけかもしれない。  
いつもそれが、気がかりです。  
 
いつか天使のような声で歌えるように、必死で練習しなきゃいけない。  
歌は、きっと私を幸せにしてくれる。  
そう信じて。  
 
私が頑張って歌を続けていられるのは、全部ななせのおかげ。  
 
かつてのななせの言葉に、どれだけ救われたか分かりません。  
 
でも、今ある平和な日常も、私にはどれだけ残っているか分からない。  
 
私は、ファントムになってしまうだろうから。  
 
 
贈り物を、作っておきます。  
 
今の私にはこれが精一杯だけど、いつかななせに届くのを願って、私は作ります。  
 
今ではなく、いつか、受け取って欲しい。  
 
ななせに、見つけられるかな。  
 
ななせの「大事なもの」を想えば、きっと見つけられるはず。  
 
『私の二番目に好きな本』。これが、最初のヒント。  
 
元気で、明るくて、優しいななせ。  
それは、いつまでも変わらないでしょう。  
 
ななせが幸福だといい。ななせの願いが、全部叶うといい。  
 
 
 
じゃあ、いってきます、ななせ。  
 
 
 
 
 
○文学少女と暁の街の最終歌(ラストオペラ) 一章〆  
 

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