映画が終わった。
予告編からチェックしてた物だったのに、テロップが流れるまで気はそぞろ、心ここに在らずだった。
理由なんて、ひとつしかない。
ああもう我ながら情けないというか――ようは、織機に見惚れていたのだ。
映画館に入る前、彼女が頬張っていたカスタードパイ。
あれがぽろりとこぼれた時から、僕は何処か変だった。
いや、変なのは彼女と出会ってからだと自覚はあるけど、それ以上に何かが抜け落ちた。
後に残るのは、狂おしいまでの切望感。
とにかく彼女をさらってめちゃくちゃに触れ溶けてしまいたい――そんな危険な想いとの闘いで
気力体力共に使い果たしてしまっていた。
盛り上がるシーンの最中、何度隣の座席へ手を伸ばしかけたことか!
……結果、過ちを犯さずにすんだ健闘を称えればいいのか、そもそも人として
その姿勢はどうかと断罪すべきなのか。
頼むからしっかりしてくれよな、と自分に呆れつつ、僕は座席から立ち大きく伸びをした。
「ん――、終わったね」
「! …………っ」
「疲れた?」
「…………」
「……どうしたの?」
彼女は僕の呼びかけにびくっと跳ねた後、何故か身を抱きしめうなだれた。
微かに震えてすらいる様子に、常とは違う雰囲気を感じる。
具合でも悪くなったんだろうか?
それとももしや、上映中の僕のアホな言動がバレて怒っている、とか?
心配と焦燥が一致団結大暴走しそうな僕に構わず、彼女は唐突に立ち上がった。
俯く横顔は髪に隠れ、何か呟く唇を読むことが出来ない。
「―――、――――」
「? ……なに?」
本当にどうしたんだろう、とおそるおそる肩に手を置く。その瞬間、彼女が振り向き僕の方を見た。
滑らかな頬は綺麗に紅葉し、黒目がちの大きな眼が涙を纏っている。
唇が紡ぐ言葉はやっぱり僕には判らないけれど、触れた手からは彼女の熱を確かに感じて。
何かが、そう何か決定的なものが、僕の前に容赦なく晒された、気がした。
「……あっ、お織機、…?」
「――――っ、ごめんなさい!」
肩に置かれた手を振り払い、そのまま全力で駆け出す彼女。
僕は払われた手と軽やかに翻ったスカートを馬鹿みたいに見つめて、起動停止した。
1秒、2秒、3秒。 あぁ織機、泣いてたな。
4秒、5秒、6秒。 でも、どうして?それに 『ごめんなさい』 って何だよ。
7秒、8秒、9秒。 織機、足速いな。もう見えない。
「……って何やってんだ!!」
このまま終わりにしていい筈ないだろ。今すぐ追いかけろ!
自分の頬に気合を一発入れて走り出す。
観客は既にまばらで、次の上映を待つ客の列だけが変わらずごった返していた。
何処だ。見つけないと。フロアを見渡してもそれらしい影が、ない。
外へ出るにはエレベーターか、エスカレーターか、階段か。
あの去り際から想像するに、待ちの長いエレベーターではない筈。
ならば、と僕は冗談のような速度でエスカレーターの右側を駆け落ちた。
派手な足音に皆が振り返るが、そんなの構ってなんかいられない。
こんなことをしてる間にも織機が帰ってしまう。それに、もしかしたら――
焦ってる時なんて、ロクなこと思いつきやしない。
いいから、探せ。とにかく探せ。探して、見つけて、ごちゃごちゃ言うのはそれからだ。
5階分の高さを呼吸を止めて降りきり、建物の出口で一気に吐き出した。
激しく脈打つ鼓動がふっと一瞬頭をよろめかせる。
くそっ、こんなことで――無理やり眼を見開いて表通りを探る。
いない。ここにもいない。もしや、追い抜いてしまったか?
織機とのタイムラグはおそらく20秒もない。彼女がどんなに速くたって、僕を振り切って
帰ってしまう程では、ない筈だ。そうだと思いたい。
もう一度建物の方へ身体を向ける。
込み合う正面出口の奥で、覚えのあるカーディガンが揺れた、ように見えた。
今のは確かに、彼女だと思った。
エレベーターから吐き出される人込みに紛れてしまったが、きっと間違いない。
はやる気持ちで分厚い壁のような人波を何とか遡っていく。
脚を取られ視界が何度も塞がり、それでも館内へ辿り着いた時には、またしても彼女が消えていた。
何だってこんな――何処だよ織機!
鼻の奥がツンとなる感覚がする。過ぎ去ってく喧騒の塊をまた必死で探し、立ち往生した。
彼女の家はどっちだった?帰るなら、どの道を通る?
もうやけくそで表通りを駆ける。この方向で当たってる。絶対いる、んだ!
闇雲に首を振り辺りを見やると、大きな交差点をひとつ越えた先で求めていた姿があった。
「織機――っ!!」
僕は声の限り叫んで追いかけた。
彼女はそれに気付かないのか、頼りなくふらふらと歩いてる。
やっぱりおかしい。そのまま脇の道へ倒れそうに反れていく所で、僕はやっと捕まえられた。
「織機!」
「! まさきっ!?」
「あ――――、本当に良かった見つかって。……どうしたんだよ」
「……どうして、私勝手に帰ったのに…」
「そりゃ心配するさ! それとも、僕のことで何か怒ってた?」
「違うの! 正樹は何も悪くない! ただ……」
自分の肩を抱きこちらを見上げる彼女は、何か苦しげにそれだけを告げた。
きっと体調を崩して、だからあんなにも辛そうにしているんだろう。なのに僕は。
彼女の吐息の甘さに、不謹慎にも揺さぶられていた。
目が離せない。知らず、唾を飲み込む音が耳を過ぎる。
彼女が震えてる。潤む瞳が僕の視線と絡み合った刹那、彼女の腕が伸び力任せに引っ張られた。
急に力のかかるまま、脇道へとたたらを踏む。
たった道1本反れただけなのに、ここは驚く程閑散としていた。
彼女の顔がよく見えない。
街灯を遮るように建つ煉瓦のビル、そのシャッターへどん、と背中を押し付けられた。
彼女は僕の腕に、その手が白くなる位必死にしがみ付いている。
何かに耐えるように、何かを堪えるように。
また、唾を飲み下した喉が鳴った。
「…………っ、まさき……」
「……うん」
「私っ、……ね」
「……うん」
「……ごめっ……ごめんなさ…………、もう」
「……うん。大丈夫、だよ」
息が荒い。夜闇でなおも色付く肌、まなじりを光らせる涙。
何が大丈夫なものか。僕は、こんなにも彼女の肢体に煽られているのに――!
「我慢、できない」
告げられる言葉と抱き寄せた腕、どちらが早かったかなんて知らない。
僕らは、堰を切ったように強く抱き合いキスをした。
触れた唇の熱さに、眩暈がする。ただ強く押し付けるだけのキス。
まだ付き合うとも好きだとも伝えてないのに、と小さな欠片に成り下がった理性が騒いでる。
でも悪い、無理だ。
こんな嬉しくて気持ちいいこと、止められる訳がない。
密着する身体、その柔らかな胸が彼女の衝動を余すことなく訴える。
足りない、もっと強く――背中にまわされた手が、悩ましく服を掻きむしった。
空気を求めて微かに離れると、目前に迫る艶やかな唇。
乱暴に当てていたせいでほのかに赤く跡が残り、それが余計に駆り立てた。
「―――、―――……」
彼女が、声なき言葉を紡ぐ。
解らない。解らないけれど――求めているのは、想いは、きっと同じ。
引き寄せられる。引き寄せる。
僅かに開いた口から小さな舌がのぞき、ちろりと窺うように唇を舐めていった。
彼女に倣って同じく舌で唇をなぞる。
更に赤みを増すそれに目を奪われ、固まる僕にまた舌が伸ばされた。
潤む眼差しが、焦点合わない程に近い。
ゆっくりと伏せられるまつげに合わせて、彼女の舌を手繰り寄せた。
ざらつく表面を奥へと辿り、口内を深く侵していく。
限界まで差し入れては横を掠め裏にもぐりなぞった。
つるりとした皮膚の中の筋を感じて何度も擦り付ける。
唾液がぴちゃぴちゃと淫らな音を立て辺りの空気に溶けていった。
かわされたり、追われたり。
キスってこんなこともするのか。こんなことを今自分がしてるのか――熱に浮かされた頭でぼんやりと思う。
まぶたを開けばまつげが震えているのが見えた。
「……ゃぁ、…っん…………わたし、……」
「ん……?」
「……どう、し……――んぅっ……」
「…………ん」
苦しげな呼吸の合間に彼女の甘い囁きが混じる。
込み上げる熱を持て余し、そんな自分を恥じらっているのか。
一瞬絡み合った視線はすぐさま彼女の方から逸らされ、代わりに背中にまわる指が痛い程食い込んだ。
どうしよう、止まりそうにない。
もっと貪るべく彼女の頭を強引に押さえ、ほんの僅かな隙間さえも許さず塞いだ。
指に触れる髪の冷たさと腕の中の身体の熱さが、ちぐはぐで愛しい。
もう口付け、なんて生易しいものじゃない。
噛み付いて喰らい尽くす。絡む舌と唾液がここまで甘いなんて知らなかった。
呼吸すら忘れて圧し掛かり、彼女の身体が苦しげに傾ぐ。
弓反る背中に、流れ落ちる髪に、きつく寄る眉根火照る肌に――ああ、溺れてる。
どれ位長く触れていたんだろう。
すっかり力の抜けた身体を辛うじて支えつつ、ようやく僕らは唇を離した。
お互いの顎から首筋、胸の一部までを濡らす唾液に羞恥が込み上げる。
彼女は慌ててハンカチを取り出すと、たどたどしい手つきで僕の顔を拭いてくれた。
ならばこちらもと探そうとして、情けないことにハンカチ1枚持ってないことを思い出す。
「ごめん……それ、借りていいかな」
「あっ、ごめんなさい。自分で拭く?」
「大丈夫っ、だけど君の方もっ……」
「…………ありがとう。……はい」
一通り拭った後、躊躇いがちに差し出されるハンカチ。
それを受け取って僕は彼女の濡れ光る痕跡を丁寧に拭き取った。
さっきあれ程淫らなことをしてたのに、何故かこうして触れている方がずっと恥ずかしい。
それは彼女も一緒だったのか、視線が彷徨い何も言わずに沈黙が流れた。
ハンカチが僕らの欲望を吸い手の中で重くなる。
首筋から襟元へ指を這わせた刹那、湧き上がるのは醜い衝動。
どうかしてる。どうかしてる?してない方がおかしい。
それでも何とか彼女の肌から引き剥がし、ぐっと拳を握り締めた。
「これ、洗ってくるよ。このまま貸してて」
「そんな、いいのに」
「ん、だからさ……また、何処かに誘ってもいいかな?」
「――、…………うん」
どさくさのお願いは聞き入れられ、僕は判りやすく安堵した。
冷え切った夜風が頬を撫で改めて外の暗さと過ぎた時間を思う。
今何時だ?彼女を送っていかなきゃ――伸ばした腕は宙を掴み空振った。
見上げれば、彼女は通りの入口で僕を真っ直ぐに見つめていた。
「正樹――ありがとう」
「もう遅いから送っていくよ」
「いいの」
「でも」
「いいんだってばっ!!」
「…………」
彼女が一瞬辛そうに面を歪めたのは、きっと気のせいじゃない。
それでも僕は、何でもないかのように言葉を紡ぐ。それしか、出来なかった。
「……じゃ、さよなら」
「うん。……またね、織機」
「……また、ね」
人波と灯りの中へ、ひらりと彼女の髪が翻る。
その姿が完全に消え去るのを確認して、僕は力なくシャッターの前でうずくまった。