目の前に散らばるデリバリーのピザとビール。  
なんて簡単な結末。楢崎不二子は思わず苦笑した。  
向かいに座る男はもそもそとピザを平らげ、無感動な表情はどこか置物めいていた。  
 
「結局、何だったのかしら」  
「全ては役割を終えて……糸が切れた、だけだ」  
「それは、伊東谷――彼も…?」  
「………」  
 
 温いビールを流し込んでも、込み上げる想い。  
無残な姿で発見された彼に、最初こそ発狂しそうになった。  
だが落ち着いて身辺を整理するに辺り、彼の細やかな心配りに逐一触れ。  
 大切にされていた事を知った。遅すぎる感謝は、もちろん彼には届かず。  
 
 そして今求めているのは、あの―――  
 
 
 
 
 
 
 
 よくあるシティホテルの一室で、シーツに包まり泣きじゃくる私。初めての恋だった。  
当時高校生だった私には、大学生の彼はとても大人に見えて。  
伊東谷の進言には耳も貸さず、ただひたすらに夢中になった。  
 
 好きだから抱かれる。そんな陳腐な動機でこのホテルに来て、身体を重ねた。  
震えて硬い反応しか返さない身体に、難儀する彼。無理やりの挿入に涙しか出なかった私。  
気まずい空気と共に、浮彫りになる想いのすれ違い。  
 身体と好奇心だけを求め合った関係は、この一夜で消えてしまった。  
 
 それからどの位泣いていたか覚えてない。  
日付が変わり朝日が白々と差し込む中で、何時までも動けない私。  
壊れた耳にかちりと控え目な解錠の音が響き、ドアが開く。 
そこに現れたのは、いつもと変わらない老紳士の姿。  
 
「お嬢様、帰りましょう」  
 ぼんやりする頭で伊東谷を見ると、また涙が頬に流れていった。  
 
 
 心中どれ程呆れていただろう。  
だが彼はいつもと変わらず、いやそれ以上の優しい声音で安否を尋ねてきた。   
 
「お嬢様、ご両親も心配されています。――帰りましょう」  
「伊東谷…、っく、いとぅ、や……ごめんな さい…」  
「私に謝らなくてよろしいですよ。それより…お体は大丈夫ですか?一度シャワーを浴びた方がいいですね」  
「ぅっ…ごめん、なさい…バカなことして、迷惑っ、か けて…」  
 
 私は彼にしがみ付き、嗚咽を繰り返した。  
物言わぬ彼は胸元が濡れるのも厭わず、柔らかく髪を梳き背中を撫でる。  
泣く程に心配をかけるのが判っていながら、溢れるそれを止める事が出来なかった。  
 
「っく、伊東谷 ごめん…止まらなく、なっちゃ った……っ」  
 
 壊れた涙腺のまま見上げると、僅かに寄せられる眉根。  
ああ心配しないで、ってこれじゃ無理か。本当に私バカだなあ…。  
思わず苦笑すると、不意にきつく抱き締められた。  
 
「…止まらないのでしたら尚更、シャワーを浴びて暖まってきて下さい。きっと上がる頃には止まりますよ」  
「うん。……ごめん、手伝ってくれるかな?」  
「……承知致しました。少々お待ち下さい」  
 
 軽く背中をぽんぽんと撫でた後、ジャケットを脱ぐ伊東谷。ネクタイを外し、カフリンクスを置き、腕を捲る。  
身軽なベスト姿になって消えてく彼を眺めていると、流れてくる暖かな水音。  
   
「お嬢様、用意が整いました」  
 細く開けられたドアから湯気が漏れ出てくる。  
私は力なくシーツを脱ぎ捨て、バスルームへと入っていった。  
 
 
 
 猫脚のバスタブに勢いよく注がれる暖かな湯。  
それに浸る内に、強張った身体が徐々に解れてくるのを感じた。  
 
「お湯加減は如何ですか?」  
「うん、丁度いい…」  
 それでは、と退出しようとする彼の袖を掴んで引き止める。 
怪訝な顔の彼に、甘ったれたおねだりを投げかけた。  
 
「その、身体も洗ってもらって、いいかな?」  
「……お嬢様」  
「ごめん、無理な事言ってるって判ってる。でも…お願い。もうこんな事言わないから」  
「いつも言われたら困ります。…今日だけですよ」  
 
 渋々ながらも了承が得られて、私は涙が残る顔で微笑んだ。  
彼は溜息しつつ傍らのシャンプーに手を伸ばす。  
手のひらで泡立てられ、躊躇うように優しく掻き分けてゆく指先。  
 こうしてお風呂で洗ってもらう事など何年ぶりだろう。  
遠い昔にしてもらった事を思い出し、まるで子供時代に戻ったかのような錯覚に囚われる。  
 
 もう、少女じゃないのに。  
 
 髪を洗い流し、私はバスタブから上がり椅子に腰掛ける。  
そして彼はスポンジで私の背中を洗い始めた。  
 
「それにしても、齢60を超えて三助をするとは思いませんでしたよ」  
「我儘言ってごめんなさい……でも、ひとつ聞きたかったの」  
「何ですか?」  
「…私、変じゃないかな…」  
 
 振り返って伊東谷の顔を見つめる。縋るような目線は彼の手を停めさせた。  
 
「昨日彼と、その…しちゃったんだけど。怖くて、痛かった。みんなが言うような"気持ちいい"なんて 
 全然なかった」  
「…それは……」  
「やっぱり私、どこかおかしいのかな?伊東谷教えてよ」  
 
 何も言わず、動きを停めたままの彼。  
その様子で問いの答えを確信する。おかしいんだ、私。このまま治らないのかな…。  
みるみる表情を曇らす私に、彼は慌てたように弁解した。  
 
「違います!お嬢様はどこもおかしくありません」  
「でも…」  
「ただ彼の事を身体が拒んだ、というだけですよ」  
 
 そう告げると彼は辛そうに顔を背けた。  
 
 
 
 曇った姿見に映る、頼りない自分。  
目を落とせばそこかしこに散る、生々しい昨日の跡。  
それがこの老紳士に辛い顔をさせていると思うと、身につまされるようだった。  
 
「ごめんなさい…自分で望んだ事だもの。例えどんなに不安だろうがこんな事聞いちゃ駄目。 
 聞くべきじゃないわよね」  
「お嬢様……」  
「そんなの彼と、何より心配してくれてた伊東谷に対する侮辱よね。…今聞いた事は、忘れて」  
 
 ぎこちなく笑みを作り、彼の手に触れる。  
この虚勢も、震えも、全て彼に伝わり苦しめてしまう。  
ならば私に出来る謝罪はただひとつ、"後悔しない"ということ――。  
 懲りずにまた涙が溢れそうになり、私は慌てて背を向けた。  
   
 重い、沈黙の時が過ぎる。耐えられなくなり振り向こうとした瞬間、すっ と背中をなぞる指。  
 
「…お嬢様…無礼を、お許し下さい……」  
 
 いつもと違う、熱を帯びた低い囁き。  
驚いて振り返ると、ゆっくりと差し伸べられる腕が頬に触れる。  
大きな手は確かな温もりを伝え、繊細な動きで髪を梳き、耳にかけた。  
 眼差しは強く、切なげで――目を逸らす事など、出来ない。  
 
 彼の親指が涙の跡を滑り、唇にたどりつく。舐るように唇をなぞる指。  
指はその弾力を堪能した後、やんわりと口内へ侵入する。  
歯列を辿り舌に触れ、感じるのは微かな石鹸の味。  
優しく掻きまわす指に舌が絡み、ぴちゃりと淫靡な音を立てて唾液をこぼれさせる。  
 
 口は指に、身体は眼差しに捕らわれ、逃れられない。  
私は堪えきれず喘ぎをひとつ漏らし、目を閉じた。  
 
 
 視界を遮る事で、より鋭敏になる感覚。  
立ち込める湯気も、侵略する指も、荒くなる呼吸、艶めかしい唾液の音、全てが私の何かを煽った。  
   
 何も触れていないはずの身体に、彼の強い眼差しを感じる。  
焼け付くようなそれに熱は増し、貧血のような眩暈に襲われた。  
指は舌と戯れては内壁をなぞり、その度に何かを暴いてゆく。  
 何を…?判らない。ただ止め処なく唾液は流れ、彼の腕に、私の胸に落ちていった。  
 
 もうひとりでは座っていられず、彼の胸へ倒れこむ。 
背中に彼の服が触れる刹那、全身にびくんと衝撃が走った。  
 
「っ――――!」  
「つっ……」  
 思わず私は食いしばり、彼の指を酷く傷つけた。微かに聞こえた呻き声。確かに感じる、鉄の味。  
少し呼吸が治まった後、目を開けるとすぐ傍に彼の眼差しが。  
 
 …これは、誰?  
そこには穏やかな笑みの老紳士ではなく、知らないひとりの男性が、いた。  
彼はゆっくりと指を引き抜き、傷ついた箇所を舐める。  
味わうように掬い取る彼。染み出した血は舌に移り、そして――  
 
 私は、彼の傷に、舌を寄せた。  
 
流れる血に脈打つ痛みを感じ、丁寧に。傷ついて裂けた皮も舌で辿り、貪欲に。  
夢中になって啜るうち、私は彼の服に胸を擦り合わせ未知の刺激を貪っていた。  
 
 濡れて悩ましく張り付くシャツの下の、逞しい胸。  
服越しでは物足りなくなり、脱がそうとする腕を絡め取られる。  
強く抱き締められ、彼の鼓動を、熱を、吐息を共有する。  
 
「っ、い とうやぁっ!」  
 込み上げてくる快感に溺れるように、私は激しく痙攣して果てた。  
 
 
 
 
 力尽きた私を優しく洗い上げ、服を着せる伊東谷。  
自分は濡れたまま、私の足元に跪いた。  
 
「申し訳ございませんでした。どのような処罰も受ける所存でございます」  
「伊東谷…そんな…」  
「お嬢様に不埒な事を…これは、許されない事です」  
「…ううん、いいの。伊東谷は優しいから、身を以って教えてくれたんだよね?私がおかしくないよ、って」  
「いえっ…」  
「きっと心と身体は繋がってて、だから…彼とは苦痛でしかなかった。心許した伊東谷に、 
 気持ちよさを感じたように」  
 
 私は新しいバスタオルを手に取り、跪く彼の肩に掛ける。  
驚いて顔を上げる彼に、私は悪戯っぽく囁いた。  
 
「ありがとう。…早くあなたも着替えて帰りましょう。伊東谷が風邪引くと、両親に言い訳してくれる人が 
 いなくなっちゃうわ」  
   
 帰宅後伊東谷の弁明もあって、両親から咎められる事は、なかった。  
 
 
 
 
 
 
 
 あれから10年近い年月が過ぎ。  
私はいくつかの恋を知り、何人かと身体を重ねた。結婚を考えた事も1度や2度じゃない。  
だがあの時以上の快感を、安心を、得ることは出来ないままでいる。  
 
 そして、彼を永遠に失った。  
 
 もうあの手を、求める事すら叶わない。  
祖父のように、父のように。友人のように、そしてひとりの男性として――  
暖かく包んでくれる事を、どうしてただの男に求めることが出来よう?   
 そんな、一生を捧げても足りない程の重責を。  
 
「…彼がすべき事を成して潰えたのなら、守られた私にも義務があるわね。例えひとりでも、 
 自分のすべき事をするっていう」  
「…人は、誰しも囚われて…流される…」  
「じゃあ私も、流されて辿り着くまで頑張らなきゃ」  
 
 私はコートを手に席を立つと、遠くで少女の話し声が聞こえた。  
追憶を引きずる自分に苦笑で決別し、彼へ餞のキスを額にひとつ。  
   
「あなたも、頑張ってね。……さよなら」  
   
 そして私は頼りなく、でもひとりでドアを開け踏み出していった。 

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