何度繰り返そうとも、報われる日は、きっと来ない。 
 
 
 
 
 
 金と魑魅魍魎が集う街に建つ、マンションの一室。 
贅を尽くされた美意識は、部外者を完全に拒絶していた。 
――こんな場所に住まうなんて、絶対まともな神経じゃない。 
 蒼衣秋良は家主、雨宮世津子へ苦い一瞥をくれてやる。 
麗しの美女は脱ぎ捨てた服もそのままに、しどけなく髪を纏めかんざしを挿していた。 
 
「…おい、脱いだ服くらいちゃんとしろよ。皺になるぞ」 
「んー?いいじゃない、その為の蒼衣でしょう?」 
「断じて違う。そんなくだらない仕事に部下を使うな」 
「上司の環境をより良くするのが部下の仕事でしょうが。はい、よろしく」 
 
 彼女はスーツの残骸に目もくれず、キャミソール姿でバスルームに消えていく。 
程なくして流れてくる、シャワーの水音と彼女の鼻歌。 
暖かな調べは屈託がなく、豪奢なリビングを充たしていった。 
  
 仕事帰りに彼女の部屋へ寄る理由は、ただひとつ。 
そこにはシビアな現状が在るだけなのに。穏やかな時間に、勘違いしそうになる。 
 
「…馬鹿だなぁ…本当に」 
 
 取り敢えずは目前の敵、スーツをどうにか始末しよう。 
シルクのそれは驚く程軽く、蕩けるような感触で僕を攻撃する。 
くそっ、相変わらずいい素材、いい仕立てだな。 
 最初この仕打ちを受けた時、腹いせに洗濯機へ突っ込んでやれ、と思った。 
だが敵はその存在、そして香りで良心をちくちくと苛んでいく。  
結局今日も執事よろしく専用のハンガーに吊るし、丁寧にブラシして収納する事になった訳だが。 
 
 クローゼットの中には、密やかに存在を主張するボトル――"Mitsouko" 
 
 見てはいけない物から目を逸らすように、僕は静かにクローゼットを閉めた。 
 
 
 
 リビングに戻ると、彼女は既にバスルームからあがっていた。 
羽織ったローブからのぞく胸元。上気した頬に張り付く髪の一筋。 
懸命に冷静を装っても、心拍数は律儀に上がっていく。 
赤面する顔を隠すように、僕はキッチンへと逃げ込んだ。 
  
 用意するのは、水色の濃い紅茶に彼女のナイトキャップをひと垂らし。 
上品な香りは更に甘く、蟲惑的になって僕の鼻をくすぐる。 
 
「淹れたけど、飲むか?」 
「気が利くわね。いただくわ」 
「……それで例の件だけど、そっちはど」 
「待った。美味しい一服に無粋な話はなし。それよりあんたもお風呂に入ってきなさい」 
「………」 
「どうせ今夜も泊まっていくんでしょう?ほら」 
 
 彼女は僕に向かって面倒臭そうにしっしっ と手を払った後、目を閉じて香り高い湯気を堪能する。 
その姿は普段からは想像がつかない程、無防備であどけなく。 
 それは反則だ。手酷い勘違いをしてしまうじゃないか。 
 
「…入ってくるから、僕にも湯上りの一杯頼む」 
「憶えてたらね」 
「たまには部下を労っても罰は当たらないぞ」 
「これ以上優しくしたら蒼衣が処分されるわよ」 
 
 閉じてた目を片目だけ開き、彼女は不敵な笑みで応酬する。 
僕は盛大な溜息を吐きつつ、バスルームに身体を引きずっていった。 
 
 
 
 ローズウッドの蛇口を捻り、柔らかなシャワーの流れを止める。 
ぽたりぽたりと前髪から伝い落ちる水滴。 
灯りを受けダイアモンドさながらに弾けるそれを、ただぼんやりと眺めていた。 
  
 ミルクではないが、これもミルククラウンというのだろうか。 
小さな宝冠に手を伸ばすと、刹那の輝きは失せただの水に成り下がる。 
当たり前の事だ。水は落ちる。弾けた後は広がり、光を乱反射させない。 
 それでもその輝きを留めようとするなら、"彼女"のあの―――。 
  
 ふいに苦い追憶が蘇る。 
浸るな嵌るな引きずるな。あれに触れてはいけない。 
振り切るようにバスルームを出て、乱暴に身体を拭く。 
知らず内に長湯だったらしい。姿見には呆れる位のぼせた顔が映っていた。 
よろめきながらもバスローブを羽織り、ふう と大きく深呼吸。 
 
 それにしても。ローブが誂えた様にぴったりなのが、滅入る。 
れっきとした彼女の物でありながら、サイズに全くの問題がない。 
蒼衣自身背が低い訳ではないのだが、彼女が女性にしては背が高く、手足が長い。 
10cm程の身長差はあってないようなもの。 
ましてこの中性的な顔に、少女と見まごうひょろい身体とあっては。  
 
「あー…だから一緒に外歩きたくないんだよな」 
 
 ひとりごちてタオルを洗濯機へ放り込む。 
外に出るとなけなしの10cmは、彼女のヒールで相殺されてしまう。 
同じ目線。余りに違う風格。男として、本当に居た堪れない。 
 もっとも、彼女と連れ立って歩く事など滅多になかったが。 
 
「誰が、何ですってー?」 
 
 リビングの方で、ローブの主が追求の声をかけてくる。 
それに弁解するため、僕はこの情けないローブ姿を披露しにいった。 
 
 
 
 淀みない手付きで入れられる紅茶。 
ただしナイトキャップがカップ容積の7割を占めてなお、"紅茶"と呼んでいいものなら、だが。 
立ち上がる香りは既にして媚薬。口にせずとも、それだけでくらりときた。  
  
「ちゃんと憶えてたわ。どうぞ?」 
「…勿体無いなぁ。せっかくいい酒なんだから、そんな使い方するなよ」 
「可愛い部下の為にとっておきの一杯をね」 
「その心は」 
「グダグダ言い出す前に、面倒だから酔い潰す」 
「その、本当の心は」 
「明日朝早いの」 
「……そうですか」 
 
 カップを突き出す笑顔が痛い。 
ここで辞退したらどうなるか。僕も命は惜しいので、躊躇いながらも口を付けた。  
  
 ロックだと気品ある焦味が、熱せられて牙を剥く。 
その喉を焼く熱さに何とか耐えると、時間差で脳天を直撃された。 
ふらつく身体。のぼせる思考。 
彼女はただにやにやと、自分の実験結果に満足げで。 
 ああ、このまま一日を終えたら気持ちいいだろう。それでも、僕は。 
 
「なあ、"彼女"の手掛かりは何か掴めたか?こっちは知っての通り、調べても全然手応えなしだ」 
「……判りきった事を」 
「あんただって諦めてないんだろ。…開示できるカードだけでいい。教えてくれ」 
「そんなの私の方が教えて欲しいわ。この前と同じ、進展なしよ」 
 
 実りのない問答を繰り返す。 
彼女は自嘲の笑みを貼り付けながら、僕のカップを奪い飲み干した。 
 
 
 
 "彼女"――雨宮美津子が消えて、三ヶ月。 
判ったのは彼女があの時、とんでもない機密を持ち逃げした、という事だけ。 
与えられる情報は不自然な程少なく、また雑多な任務に忙殺され僕達は不毛な日々を過ごしていた。 
 
 それでも、懲りずに求めている。僕も、彼女も。 
 
「あ〜あ、明日早いのに。今夜くらい潰れてくれない?」 
「潰れたらここに来た意味がなくなるだろ」 
「綺麗なお姉様に逢いたくて、じゃ駄目かしら」 
「僕は、"綺麗なお姉様方"に、揃って逢いたいんだよ」 
 
 不意を突かれた様に彼女が固まった。 
行き逢う視線。あ、今僕、ものすごく恥ずかしい台詞を口走ったか!? 
さっき流し込んだ液体が、更に猛威を奮い腰砕けにする。話を戻せ。だから、その―― 
 
「…そう。そこまで熱望されるとは光栄だわ。でもここでよりどちらを?と 
 聞くのは野暮かしらね」 
「だから、っ……勘弁してくれ。そんなの、僕にだって判らない」 
「優柔不断な男は嫌い。でも今夜はその可愛い狼狽に免じて許してあげる」 
「優しいお姉様で嬉しいです。…で」 
 視線で続きを催促する。彼女はカップを置き溜息を細くこぼれさせた。 
 
「"彼女"の新しい情報はないわ。ただ…上の方統制取れてるのかしら。 
 あんたの無謀な捜査も、私の部屋に入り浸ってる事も、敢えて見逃してる訳ではない様だし」 
「一応その為に機構入りしたんだから、おかしくはないよな」 
「それでも牽制くらいあって然るべきよ。なのに放置で任務は適当。周りはだんだんキナ臭くなるし、 
 本当に何かあったのかも」 
「…少し行動を控えた方がいいのか?」 
「かもね。藪蛇はお互い避けたいし」 
 
 会話はおしまい、と彼女は立ち上がり寝室へと歩いていく。 
僕は手早くカップを片付け、彼女の後を追った。 
 
 
 
 サイドテーブルの灯りに照らされる寝室。 
橙の光は辺りをクラシカルに染め上げ、横たわる彼女を一枚の絵画に変える。 
 
「カップ洗っておいた」 
「ありがと。本当、蒼衣って使える部下ね」 
「もっと遠慮なく褒めていいぞ。…寝るのか」 
「何度も言ってるでしょう。明日朝早いの」 
「……眠れるのか?」 
「その為の蒼衣でしょう…?」 
 
 細い指がかんざしを抜き取る。 
留めを失った髪は音もなく彼女の肩に、褥に落ちてゆく。 
彼女はゆっくりと手を差し延べ、かんざしの先を僕の唇にあてた。 
 
 それは悲しい形式美。同じものを喪ったふたりの、慰めの合図。 
彼女は気にしてない、と言った。だが眠れないのだ、とも。 
僕に出来る事は、貪欲に彼女を抱いて束の間のまどろみを与える事。 
 彼女と僕の、報われぬ想いに偽りの救済を――。 
 
 目を閉じてかんざしの感触を追う。 
唇から首筋へ、縋るようにちくりと刺した後、更に胸へと滑り落ち。 
時々走る痛みは、彼女のささやかな求める声。 
"彼女"とは同じで違う、不器用なおねだりに身体が熱くなった。 
 
 かんざしが勢いよく引き抜かれる。解いた紐は床に捨てられ顕わになった。 
嬲る剣先は躊躇いがちにそれに触れ。応えるようにそれは身を起こす。 
 
「虐められてよがるなんて、やっぱりあんた変態」 
「それは言いがかりだ。第一、それはあんた達姉妹の所為だろうが。…――っ!!」 
 突き立てられるかんざし。根元を抉る、余りに鋭利な痛みに息が止まった。 
 
「お喋りな男も嫌い。躾がなってないからお仕置きね」 
「――〜〜っ!!待て!相すみません!お許し下さい!」 
 何時までも引かない痛みに悶絶しつつ、無様な格好で許しを請った。 
 
 
 
 投げ遣りに放られるかんざし。彼女は黒絹の髪を散らしベッドに深く脱力した。 
 
「…つまらないわ。飽きた」 
「…左様ですか。それではお暇を」 
「そんなに元気なのに帰れるの?蒼衣の我慢も病的ね」 
「そう言うあんたも眠れるのか?手を離してくれなきゃ帰れない」 
「可愛くないわね」 
「上司に恵まれてね」 
 
 彼女は僕の頭をたぐり寄せ、ぐりぐりと梅干を喰らわせる。 
間近に迫る黒曜の瞳。怒った形に釣り上がるそれは、どこか愛しさを秘めて。 
僕を通して"彼女"を探してる、だとか。"彼女"の代わりに彼女を求める、だとか。 
 もう、何も考えなくていい。溺れる事を既に許されている。 
 
 ゆっくりと身体を起こし、彼女の足元に跪く。 
綺麗に並ぶ小さな爪に口付けを。親指から順番に、最後に小指を口に含んだ。 
唇で逃げる指を柔らかく捕まえ、舌で丁寧になぞり舐める。 
微かに走る緊張に、僕は思わず顔を綻ばす。もっと、彼女を味わいたい。 
 
 指を滑らせ足首からふくらはぎ、膝裏へ。 
彷徨う指に少しずつ熱が灯される。湯上りの彼女の香りが、悩ましく僕を煽った。 
立ち上がる香りの名は"彼女"。彼女の汗と交じり合い、全てを狂わせる媚香。 
 踝に軽く歯をたてる。罪作りな脚を思いっきり開かせ、彼女の全てを視姦する。 
恥らう彼女を押さえつけ、抱えた右膝裏を執拗に舐めた。 
 
「…っ、何よ。目がやらしいっ、の、よ」 
「そっちこそ誘ってるのか?期待に応えられるかな」 
「お子様にっは、荷が…っ、重いんじゃ」 
「僕は"使える部下"なんだろ。キッチリ仕事はこなすさ」 
 
 抱えた脚はそのままに、指を乳房からその頂へ少し強めに跳ね上げる。 
びくんと反応する身体。それを合図に僕は彼女の喉元に噛み付いた。 
 
 
 
 跡をつけないよう気を付けながら、彼女を貪り喰らう。 
華奢な鎖骨を舌で辿り、手は太腿の弾力を、二の腕の皮膚の薄さを堪能した。 
密着する身体から互いの鼓動が響き、その速さに思わず苦笑する。 
 まだ軽く触れただけなのに。これは僕の手柄か、彼女の所為か。 
 
 先程から身体を揺する度に、彼女のそこが湿った水音をたてている。 
僕の腹にもそれが滴り、その事実が一層ふたりを駆り立てた。 
 
「ん…っ、……ねぇっ、な んで」 
「……何が?」 
「だか ら、何でっ……その 触らなっ」 
「是非とも触れってご命令ですか。参ったなー」 
「なっ…!」 
「それでは、手加減はなしでひとつ」 
 
 焦らされて悩ましく揺れる胸に、潤うそこに指を滑らせ刺激する。 
鷲掴むような強いそれをすぐさま力を抜き、繊細に丹念に愛撫した。 
鎖骨から真っ直ぐに舌を辿らせ胸の中央へ。そして胸の外縁をなぞり脇をひと撫で。 
指は羽毛のような微かな感触で頂を何度も往復し、徐々に、容赦なく煽っていく。 
 硬く張り詰めた乳首は、指に健気に震え。彼女の息遣いを更に荒くした。 
 
 水音をたてるそこは触れると誘うように蠢いていた。 
ぬめりを指で受け襞を辿り、頂点に待つ芽に塗り付ける。 
襞を優しく押し開いては下から芽を少しずつ露出させる。嬲る範囲を広げていくと、 
四肢に力が入り忙しなく快感の証を吐き出していった。 
 
 もう、いいだろう。 
抑えてた欲望を手放し、硬くしこる頂を口に含んでは舐り。 
手に余る乳房を思いのまま蹂躙し。主張する芽を刺激しながら潤う内へ指を突き立てる。 
 
「っ――――――――ゃぁあっ!!」 
 
 彼女は一度激しく痙攣した後、力なく身体を横たえた。   
 
 
  
 挿れたままの指は、彼女の内で咀嚼されていた。 
その絡みつく熱い蠕動に、僕の理性がまたひとつ壊されていく。 
今すぐ滾る欲望を、この内に捻じ込みたい。だが――。 
 
「…ん、どうしたの…?」 
「いや……」 
「もしかして、変な遠慮してる?らしくないわよ」 
「今更だけどな。でも――」 
「私の口から言わせようなんて、部下失格。カスだわ」 
 
 全く持ってその通り。だが"彼女"は僕に、触れる事を許さなかった。 
求めたものは、あの冷酷な笑みであしらわれ。僕はそれでも、良かった。 
 なのに彼女を犯すなんて。本当にそんな大罪、赦されるのか…? 
 
「仰る通り、だな。……なぁ、本当にいいのか?」 
「何処までも仕様のないヤツね。カスでも判るよう言ってあげるから、よく聞きなさい」 
 彼女は僕を胸に抱き、囁くように宣言する。 
  
 
『貴方が欲しい』 
 
 
 きっと、僕は壊れたのだろう。 
馬鹿みたいに彼女をきつく抱きしめ、気付いたら目に涙まで浮かんでいた。 
仮初の触れあい。あくまでお互いが"彼女"の代替品。 
そんな虚ろな慰めが、ただの一言で確かなものになった。 
 それこそが、優しい嘘であっても。これ以上求める事は、僕には出来ない。 
 
 彼女は呆れた様に微笑んで、僕の瞼に口付けをする。 
拭われる涙に赤面すると、練れてないわね なんてからかわれた。 
 
 誘われるまま、彼女の内に埋め込ませる。 
暖かく包み込んでは離さず、気を抜くと一気に搾り取るような快感で苛むそれは、 
まさに、彼女そのもので。 
 甘えるように、責めるように、幾度も自分をぶつけていった。 
 
 だんだんと、彼女との境界が曖昧になる。 
長く続いた睦み合いは、何時しか融けるようにして果てていた。 
 
 
 
 
 
 
   
 身体には心地よい疲労と重み。傍の香りは、甘い眠りへ誘っていく。 
だがその前に。朝になりまた現実へ帰る前に、戯れの問いを彼女へ投げかけた。 
 
「もし…"彼女"に逢えたら、どうする…?」 
「蒼衣はどうするの?」 
「僕は……謝罪の意味を込めて、熱烈なキスのひとつでも貰おうかな」 
「私は、子守唄でも歌ってもらうわ」 
「いいな、それ」 
「それじゃ私と蒼衣は、姉さんに子守唄を歌ってもらいながら」 
「お休みのキスをして3人で眠るのか」 
「素敵ね」 
「そうだな」 
 
 次に"彼女"に逢う時は、敵同士だ。 
そこに感情など差し込む余地は全くなく。殺すか、殺されるかの二つだけ。 
だからこれは今だけの、決して有り得ないお伽噺。 
 
「逢いたいわね…」 
「逢いたいな」 
「……そろそろ寝ましょうか。くどいようだけど、本当に朝早いんだってば」 
「僕は何時でもスタンバイOK。というより既に落ちてる」 
「根性ないわね。上司を差し置いて寝るな」 
「悪い、無理」 
 
 眠れぬ夜々の償いを。 
届かぬ想い、叶わぬ願いと知りながら、僕らは祈るように繰り返す。 
逢えるよな。きっと、いつか。 
 
 揺らめく面影に手を伸ばし、僕は夜を終わらせていった。 

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