窓を叩く風の音が、夜の深さを知らしめる。
古ぼけたベッドが2つだけの簡素な一室で、ビートは何度目かの寝返りを打った。
隣には隻眼の男の静かな寝息。規則正しい鼓動は力強く、揺らぎない。
明日はいよいよ国境を越える。
今まで以上に強行軍になるだろうから、早く眠らなければ。
そう頭では、判っているのだが。
もうひとつのベッド、主がいなくなって半時は経つそれが心を苛む。
ぎっ と微かな物音で目を覚ました時は、特に気には留めなかった。
夢うつつのまま彼女特有の曖昧な鼓動を求め、寝返りを2回3回。
何となく落ち着かなくて5回6回と繰り返すうち、眠気はすっかり吹き飛んでしまっていた。
いいかげん、遅すぎるよな。
隣の男を起こさぬようゆっくりと身を起こし、静かに部屋を出て深呼吸をひとつ。
探す鼓動はすぐに見つかり、1階の奥―恐らくは洗面所―へと足を運んでいった。
それにしても何やってるんだ、俺。
あいつだって子供じゃないんだし、放っといて寝りゃいいのに。
いや、でもここらは治安も悪いし、警戒しとくに越したことはないか――。
ブツブツ呟きながら目的地に着くと、浅倉朝子はちょうど洗面室のドアから出てきた。
手にはタオル、濡れた髪、上気した顔。
……もしかして。
「あれ?世良くんどうしたの?トイレ?」
「……おい。今何時だと思ってんだよ…」
「えっ…だって、ねえ?ここちょっと怖いし、この時間なら誰にも出くわさないかなーって」
「この時間だからこそ危ない、とは思わないのか!?」
「…でもその為に2人を起こすのも悪いし」
「結局起きてんだから一緒だろ。心配掛けさせんなよ」
「んー…。ごめん」
やれやれと溜息を吐くと、彼女はばつの悪そうに眉を下げ俯いた。
危険も承知でこんな時間、こっそり身体を洗う気持ちは、解らなくもない。
この宿はバスルームなんて物はなく、よしずの頼りない区切りにシャワーがひとつ。
そんな外から丸見え状態で俺達は使用したが、やはり女の子には酷だったか。
夕刻いくら勧めても手足を洗うのみで、決して入らなかった事が頭を過ぎった。
まぁ、仕方ないよな。
「いいけどさ、今度から声かけろよ。悪いとか気にする必要ないから」
「…ありがと。それにしてもさ、水が違うと全然違うね。洗っても泡立たないからびっくり」
「あー硬水だからな。そんなもんだろう」
「日本に戻ったら、ゆっくりお風呂に入りたいなぁ。…最近きちんと洗えなくて汗臭いし…」
ここでも日本でも、厳しい日々だったのは同じ。
ならば"風呂に存分に入れる"という点だけでも、日本を恋うるのは俺も賛成だった。
だが。ふと歩みを停めて横の濡れ髪を見やる。
腕を伸ばし彼女の頭を軽く引き寄せ、意識的に匂いを嗅いだ。
石鹸の匂い。水の匂い。ほんの少し砂の匂い。
そして彼女の、女の子の匂い。
「…別に、汗臭くなんかないぞ…?」
「やっ、ちょっ、世良くん!?」
手にしたタオルをばさっと落とし、あからさまに狼狽する彼女。
上から見るとゆったりした寝間着から鎖骨が覗いて…って。
俺、もしかしてこいつの事、抱きしめてる?
「―――っ!悪いっ!!」
慌てて腕を離し、後ずさる。
密やかな夜、宿の階段で。
凄い形相で睨む彼女と、石化した俺が取り残された。
膠着状態、実に2分。口火はあいつから切って落とされた。
「………何すんのよ」
「あー…いや、弾みで、……悪かった」
「女の子の匂いを嗅ぐなんて、世良くん最低」
「だから悪かったって」
「謝罪が軽い!本当に恥ずかしいんだからね!」
「…そんなに恥ずかしい事か?」
俺は匂いを嗅ぐよりも、抱きしめた事の方がよっぽど恥ずかしいと思うんだが。
そんな本音を迂闊に漏らすと、彼女の眼は更に剣呑に細められた。
「デリカシーのない人には判んないわよねー」
「何だよそれ……――うわっ!」
突然体当たりされて、階段に背中と尻を強く打つ。
何すんだと抗議しようとした瞬間、頭の中が真っ白になった。
首にまわされた腕。頬をくすぐる髪。
しっとりとした重みが俺の身体に柔らかく絡む。
彼女は楽しそうに俺の頭を弄り、ふんふん と思いっきり嗅いでいた。
「髪は…あ、同じ石鹸の匂いがする。でも私とはちょっと違うかな」
指が髪を滑り、首筋を撫でる。そのまま胸元まで降りて服を軽く掴まれた。
彼女の鼻が、俺の首に微かに触れる。
「へぇ…これが世良くんのにおいかぁ……」
小さく呟き悪戯っぽく笑うこいつは、どこか妖艶で。
幾度も触れたはずの身体も、夜の深さと相まって妙に艶めかしく俺を煽った。
――頼む、勘弁してくれ。
「……本当に、悪かった。確かにこれは、恥ずかしい」
「でしょう?判ればよろしい」
何とか言葉を搾り出すと、その謝罪に満足して彼女は掴んだ服を手離した。
顔が、近い。お互いの吐息が、肌を嬲る。
しばらく見詰め合った後、あいつはふむ、とひとつ頷いて俺の背中へと腕を巻きつけた。
「――んなっ!」
「………へへへっ」
「『へへへ』じゃない!何だよ」
「んー…何か気持ち良さそうだなーって思って」
「………おい」
「うん。気持ちいい」
肩にすりすりと頬擦りをして抱きついてる姿は、まるで大きな猫のようで。
俺は溜息をひとつ吐いて、彼女の背に手をまわした。
細くて、抱きしめる腕が余ってしまう身体。
柔らかくていい匂いのする、自分とは全く違う女の子。
「世良くんの身体、暖かいねー」
「…そうか?そっちの方が暖かいだろ」
「そーかなぁ…」
他愛ない会話をぽつりぽつりと紡ぎ、時間は過ぎてゆく。
腕の中の身体は離すのが惜しくなる程、暖かく手に吸い付いて。
そうだな。ものすごく、気持ちがいい。
自分の行動に、制御が出来なくなるくらいに。
俺は右腕を彼女の膝裏に当て、そのまま掬い上げて抱きかかえた。
いきなり膝の上に座らされたこいつは、きょとんとした後微笑んだ。
「このカッコ、お昼の時と同じだね」
「あー…。その、何だ。膝とか辛そうだったから」
「うん、こっちの方が楽」
俺の情けない言い訳に、彼女はとても嬉しそうに答えて。
「それじゃ、改めて」
しなやかな腕が、躊躇いもなく俺の身体に抱きついた。
より密着する身体に、はしたなく鼓動が高揚する。
動揺と、安寧と。相反する感情に振り回され、だが決して不快じゃない。
自分のと被ってよく判らないが、それはきっと、彼女も同じはず。
「…髪が、くすぐったい……」
「え…?ああ、ごめんね」
肩に乗せた顎を引き、おもむろに髪を掻きあげる指。
あいつの虹彩に、俺が映る。
気付いたら、唇を重ねていた。
一瞬の、風が撫でるようなキス。
だけど、ああもう。自分が何をしでかしてるのか、まるで判らない。
「…………」
「…………」
「……………その、」
「………私もしちゃお」
驚く間もなく、再び重なり合う唇。蕩けるような柔らかさが思考を奪ってゆく。
じんわりと伝わる互いの熱。息をつき、微かに離れ、また触れた。
2度、3度、4度。重ねる毎により強く、より長くなっていく。
下唇を軽く噛む。あいつの舌が、猫のようにちろりと俺の唇を舐めた。
それを合図に、俺達は境界を深くする。
口内で舌が触れ、一瞬で奥に逃げる彼女のそれ。だが懲りずに、おずおずと差し出してくる。
少しの怖れと、いっぱいの好奇心と。本当に、彼女そのものだ。
ざらりとした舌が絡まり唾液を攪拌させた後、ふいにまた逃げる舌。
追いかけると、からかうように口内を逃げ回る。
「…ん、……んーっ」
「はぁっ…ぅん、……ぁ」
ぴちゃり、と淫らな音が艶めいた吐息とともに響き渡った。
逃げる舌を掴まえて、思う存分絡め合う。
呼吸も許さない程、執拗に激しく。ついに耐え切れなくなった彼女から、唇が離された。
ふたりを繋ぐか細い糸が、少しの理性と多大な羞恥を呼び起こす。
「…………はぁっ」
「………ねぇ。私のこと、好き?」
「っな、何で、何をいきなり!」
「あ、ひどーい。好きでもないのに、こんなことしたんだ」
「そう言われても……判るか、そんなの。じゃああんたはどうなんだ」
「私?んー…そうだなぁ。好き、かな?多分」
「その『かな?』 と 『多分』って何だ。随分いい加減だな」
腹いせにあいつの片頬を摘んでぐにっと伸ばすと、同じように俺の片頬もつねられた。
「何するのよ」
「何すんだよ」
「ほんっと可愛くないねー、世良くんは」
「そうだな可愛くないな、あんたも」
むっ、と互いの眉間に皺が寄る。
でもどうしてだろう。こんなにも嬉しくて笑みがこぼれそうになるのは。
なぁ、叔父貴。あんたならこの気持ち、判ったか…?
「まぁ…どうでも、いいか。そんなの」
「良くないけど、いいよ。そんなの」
指を離し、額同士をこつんと合わせて覗き込む。
判らなくても、きっと大丈夫だ。だってあいつも、あんなに綺麗に笑みを浮かべてるから。
「ねぇ」 「なぁ」
俺達は同時に呼びかけ、それで堪えてた笑いが吹き出した。
辺りをはばかった、声のない息だけの談笑。そんな秘密が、最高にくすぐったい。
「「…もういちど、」」
そう同じ言葉を呟いて、俺達はまた口付けをした。
押し入っては逃げ、翻弄する舌。
しっとりとした髪、華奢な背中、すらりと伸びる脚。その存在全てが、俺を酩酊させた。
「…ぁ、やーらしいなぁ、その顔」
「……見るなよ。…そっちこそ、結構凄いぞ」
「んー、なにが?」
「さぁ、なんでしょう」
閉じてた瞼を開き、口付けしたまま絡み合う視線。
共有される鼓動が、互いの距離が近い事を暴力的に訴える。
それは、狂おしい程、甘い。
「…見ないでよ」
「何で?先に見てたのはあんただろ」
「でも……何か恥ずかしいし」
「……そうだな」
再び眼を閉じて、戯れる。
その時彼女の中から、隻眼の男の痛切な叫びが響いてきた。
"俺は寝てる!全力で寝てるからなっ!"―――――
「…………」
「…………」
「……………その、」
「………部屋に、戻ろっか」
気まずくNSUで探索すると、果たして不自然な程規則正しいそれに行き着いた。
彼女の"モーニング・グローリー"を裏付ける結果に、思わず苦笑と罪悪感が浮かぶ。
「…亨さんに、気を使わせちゃったな」
「…だね。高代さんが、気付かないはずないもんね」
腕を緩め身体を解放すると、耐えようのない喪失感に襲われた。
未練がましく腕を伸ばしかけては慌てて抑え、その様子に彼女は微笑んだ。
「…部屋まで」
「…ん」
伸ばされた手に指を絡め、俺達は手を繋いだまま部屋へと帰っていった。
翌朝の事は、あんまり語りたくはない。
陽の出て間もない静かな早朝、俺と亨さんはのっそりと起き出した。
「おはよう、ございます」
「…ああ、おはよう」
「…………」
「…………」
気まずいのは自業自得、頭では解っていても出来るなら逃げたい心境だった。
もちろん、亨さんの方が何倍もそう思っていたのだろうが。
所作無げに伸びをして着替えを掴もうとした時、後ろから声をかけられた。
「彼女を任せても、もう大丈夫だよな?」
振り返ると穏やかな瞳が、俺へ真摯に問いかける。
ああやっぱり、この人は凄いな。迷いなく、一直線に切り込んでくる。
「…ええ。何とか、やってみます」
「そうか」
俺の答えに満足したのか、にっかりと屈託なく笑う彼。
そしておもむろに俺の首根を引っ掴み、こっそりと爆弾を落としていった。
「あとな。気持ちは解るが、場所は選べよ」
「―――――っ!亨さんっ!!」
思わず叫んだ声のせいか、隣のベッドからんんー、と寝ぼけた声が上がる。
そしてあっさりと目覚めた彼女は、俺達がじゃれてるのを見て目を丸くした。
「どーしたの?朝から」
「いや、ちょっとね」
「何でもない!断じて、力いっぱい、何でもない!」
俺の狼狽に彼は盛大に吹き出し、彼女は更に疑問を深める。
なんて騒がしい、幸せな朝。だから、大丈夫。ディシプリン続きでも、きっと何とかやってゆける。
そうして俺達は、また新しい日々へと戻っていった。