空調が生温い空気をかき混ぜる。 
辺りは既に暗く、無人の研究室で軌川十助はまどろんでいた。 
上にかけたタオルケットが、肌に纏わりついて気持ち悪い。 
寝ている間に悪い夢でも見たのか――妙な寝汗が全身を覆っていた。 
 
「良く寝た――の、かな?」 
 
 大きく伸びをすると、背中がぱきぽきと小気味いい音を立てる。 
すっかり慣れたはずのソファベッドは、今日に限って座りが悪く落ち着かない。 
 その訳はきっと昼間の商品会議だ。不特定多数の人物と会う、ということが自分で思うより 
疲労を溜めていたのかもしれなかった。 
 
 髪を乱暴に掻きやり、暗闇の中でなおも主張する青緑の肌に自嘲する。 
今更ながら何故、と思う。この色さえなければ面倒を抱えることもなかっただろうに。 
典助との日々がささくれ立つ気持ちを穏やかにするが、それでも虚しい。 
  
 僕を正当に見てくれる人など、いないに等しい。唯一の例外は亡き典助、そして恭一郎のみだ。 
パートナーである玲ですら、本当の姿を知ったらどうなるか。 
やっと見つけた対等な相手に拒絶されるかもしれない恐怖は、最近徐々に心の奥を蝕んでいった。 
 
 
 いつまでもそんな益体のないことを考えていると、ふいに部屋の外から足音が聞こえた。 
淀みなく響くそれは廊下を挟んだ向かいの部屋へと消える。 
向かいの部屋は、自分と玲が使用する専用の開発室だ。 
 こんな遅くに、玲が会社に戻ってきたのだろうか? 
 
 だるい身体を起こし、ふらふらとその部屋へ向かう。 
ドアに手をかけようとした瞬間、聞きなれた声が耳に飛び込んできた。  
 
 
 
「遅くまで熱心だね」 
「あなた……寺月会長、よね?」 
「ああ。君は十助君のパートナーの楠木君かな。こんな夜分にお邪魔して済まんね」 
「ええ、初めまして楠木玲です。……今日はどうして此処へ?」 
「特に用件はないんだが、一度余計な外野抜きで会ってみたかったんでね」 
 
 ブラインドの隙間から、玲がボウル片手に軽く会釈しているのが見えた。 
いぶかる様な表情を浮かべる彼女に、悪戯めいた男の声がかかる。 
こちらからでは姿が見えないが、恐らく恭一郎だろう。 
 何故だか入室するのを躊躇われて、そのまま部屋の様子を窺った。 
 
「…それは、試作品かな?」 
「そうです。…ベースは十助の作った物なのですけど、なかなかコスト削るのが難しくって」 
「確かにな。彼は気ままふんだんに素材を使うから、さぞかし大変だろう」 
「本当にあの暴走ぶりはどうにかして欲しいわ。……腕は、間違いなく一級だけどね。 
 こっちの苦労も考えろっての」 
「どれ。その成果を味見してもいいかな?」 
 
 憮然とした顔で愚痴を漏らす玲は、かぁんと一際高い音を立てヘラでボウルを叩く。 
チョコレートベースのアイスはぼたりとボウルの底に落ち、その残滓が纏わりつくヘラを 
彼女は突き出した。 
顎でほら、と促すと微かな衣擦れが響き、視界に恭一郎が現れる。 
彼女の手を取ってヘラの先を舐める。口に含んだ後、彼は目を伏せて腕組みをした。 
 その仕草が気に入らなかったのか、彼女はまたヘラでボウルを叩いた。 
 
「ねえ、どうなのよ」 
「ああ。このフレーバーはちょっと甘いな」  
「そうかしら?このくらいガツンと効かせた方がいいと思うわ」  
「そうだなぁ…私としては」  
 
 彼は暫く唸った後、部屋中をぐるりと見渡した。窓の方を過ぎる視線が、一瞬止まる。 
 
 見つかった! 
反射的に身体を硬くする僕に、彼は謎めいた笑みを浮かべる。 
 そして何もなかったように机に広がる食材を見渡し、傍らのシナモンを手に取った。 
今にも折れそうなそれでアイスを掬うと、玲の口へと触れる。  
 躊躇いながらも口に含む彼女。舐め取る舌が淫靡な音を立てた。  
 
 舐めて、舐め尽し、かりっとシナモンをかじる唇。  
砕かれた粉が纏わりつくそれに彼はゆっくりと近付き――重ねられる唇。  
彼女の唾液ごと絡めとり味わう侵入者は、彼女の手が拒絶の形に握られるのを見て離れた。 
 
「美味いな。こちらの方が、ずっと」  
「―――――っ!!」  
  
 赤面し乱暴に唇を拭う彼女。彼はただにやにやと笑みを浮かべている。 
うろたえる彼女に、そして固唾を呑んでいる僕に向けて。 
 
 そんな二人から、眼を離せなかった。  
 
「…玲…恭一郎……どうして…」 
 身体が動かない。見てはいけない、立ち去らなければ。  
それでも僕は、ただ身体を震わせるしか出来なかった。 
 
 
 
 彼女の手から滑り落ちたボウルが派手な音を立てる。 
机に散らばる色とりどりの甘い食材達が、こちらまで香ってきそうだ。 
そんな中、女はひたすらに狼狽し、男はその様を楽しむように眺めていた。 
 
「なかなかに、新鮮な反応だな」 
「―――っ!なっ、いきなり何をっ!!」 
「この甘すぎるアイスには少し苦味を効かせた方がいいと思ってね。どうだい?」 
「どうって、そんな」 
「おや、判らなかったか?なら……」 
 
 彼は新たなシナモンを拾い上げ、こぼれたボウルの中身を掬う。 
勿体つけるようにそれに口付けをした後、がりっと強く噛み砕いた。 
ぱらぱらと落ちてゆく茶色の欠片。彼女は魅入られたようにそれらを目で追う。 
彼の腕が伸びる。彼女の肩を軽く押す。呆気なく胸へ倒れこみ沈む身体。 
 
「――存分に、味わえばいい」 
 吸い寄せられるように、ふたりの唇が深く重なった。 
 
 くちゃりと互いに喰らい合う唾液の音。 
徐々に荒くなる彼女の吐息に、そのあまりの無抵抗さに、何故だか焦燥を感じていた。 
唾液が溢れて口の端に艶めかしい跡を描く。散りゆく欠片が彼女の白衣にも降りかかった。 
彼の手がゆっくりと背中を撫でる。更に力が抜ける彼女を確認し、その眼が細められた。 
 
 刹那、息もつけない僕と視線がぶつかり合う。 
その面に浮かぶ笑みの意味は何なのか、その行動の意図は何か。 
何もかもが解らず、ただ無性に苛まれる。 
 
 空気を求めて離れる唇。潤む眼差しが、彼女らしくなく揺れた。 
 
「お気に召した、かな?」 
「………っ、知るか。他人の味覚なんて不味いだけだわ」 
「まぁそうだろうな。でも、君はとても美味しそうだ」 
 
 彼が彼女の首筋を舐め上げる。びくりと震える身体。 
白衣の上から指が複雑な動きでうごめく。ぷつんと微かな抵抗を捉え、ファスナーの音が響いた。 
 
「えっ、や、ええっ!?」 
「腕をちょっといいかな。もう少し………はい、こっちも」 
「ちょっとやだっ、何してっ」 
「君を、食べたいんだ」 
 
 彼女の腕からワンピースと思しき服を引き抜いていく。 
暫くの悶着の後、軽やかな衣擦れを立てそれらが白衣の下から滑り落ちた。 
思わず落ちた衣服に眼が釘付けになる。床に広がるのは、菫色のワンピースに藤色の下着。 
――つまり、今彼女が身に着けているのは。 
 
「――――っ!このセクハラ親父!!」 
「はははっ、よく言われる」 
「『ははは』じゃないわよ!」 
 
 彼女の動きを封じるようにまわされる腕。首筋から胸へ、顔を埋めて舌を滑らせた。 
辿る指が、白衣の中の華奢な身体を露わにする。 
刺激に跳ねる身体を彼は机に押し倒した。 
 がしゃんとぶつかるボウルと酒瓶。彼はそのボトルをすがめ、その内のひとつに手を伸ばす。 
 
「ん、これなんかいいか」 
「…ぁ……やぁっ…」 
 
 手にしたボトルのキャップを性急に開け、口に含む。 
そしてもう片方の手がボウルを引き寄せた。ヘラを掲げ、アイスを彼女の胸へ落とす。 
茶色の冷菓は白いキャンバスに淫らな染みをつけた。 
盛られたそれに彩りを添えるよう、唇が執拗に含んだ酒を湿らせる。 
舐めるたびにゆるゆると酒と体温で融けて、まだらな模様を描き流れていった。 
  
 張り付く白衣の下で、彼女の胸が激しく上下する。 
きつく寄せられた眉根に、色づく肌に、表れる感情は何なのだろう。 
酷く苦しげで、なおかつ恍惚として――判らない。判りたく、ない。 
 
 彼の指が胸を揉みしだいた後、脇腹を滑り白衣の中に隠れた太腿へと伸びる。 
一層びくりと震える身体。細いしなやかな脚に緊張が走り、彷徨う腕が彼の背中を捕らえた。 
深く強く熔かし合うような口付け。絡まる脚。激しく攻め立てる指。 
 
 唐突に彼女が痙攣し、その余韻で以ってふたりはその戯れを終わらせた。 
 
 
 
 
   
 
 わが身を抱きしめるように座る彼女。 
傍らに立つ彼共々、アイスまみれの酷い格好だった。 
 
「ご馳走様。……お互い、随分と凄い格好になってしまったな」 
「……何すんのよとか変態ジジイとか言いたいことは一杯あるけど…どうして最後まで、しないの?」 
「おや、ご所望かい?」 
「冗談でしょ!?………ただ、ちょっと気になっただけよ」 
「私もそこまで鬼畜じゃない。初めてのお嬢さんを奪う程ね」 
「っ、何ほざいてんのよ!」 
「それ位判るさ。まぁ今日は、あくまでもお互いを知る"味見"だよ」 
「〜〜〜〜〜〜〜っ」 
 
 彼は心底楽しそうな笑みを浮かべて彼女を見つめる。 
その様子が余程悔しいのか、彼女は心配になる程歯がみして顔を逸らした。 
そして、吐き捨てるように問いかける言葉。 
 
「で!?どうなのよ!」 
「ああ、いいね。このアイスに、コアントローに、シナモン。実に私好みだよ」 
「…………十助に、私に、あんただって言いたい訳?気障なジジイ」 
「手厳しいな。その辺りは君の想像に任せるよ」 
 
 もうこの男の笑いは止まらない。くっくと肩を竦めまなじりには涙すら浮ぶ。 
ちらりと僕の方へ視線を向けた後、彼女の頬に唇を寄せた。 
 
「それじゃ、宜しく。近いうちにまたお邪魔するよ」 
 
 
 彼女が腹立たしげに頬を拭うのを見届けて、僕はそのまま元の研究室へと駆け戻った。 
音を立てずにドアを閉めソファベッドに倒れ込み、タオルケットを頭から被る。 
  
 暫くして向かいの部屋からドアの音が聞こえた。 
淀みない確かな足音は何故か僕の部屋の前で止まり――コンコンとノックが響く。 
 身体が強張り、握り締めたタオルケットが軋む。 
一呼吸の沈黙の後、その足音は遠ざかり2度と戻ってはこなかった。  

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