十月三十一日。
八時少し前に仕事から戻った僕を迎えてくれたのは、「夫婦の記念日」で外食してくるから夕飯は適当に済ませなさいというメモと、その横でしょうゆ差しに踏みつけられているふたりの夏目漱石だけだった。
メモによれば両親の帰りは十時ごろ。ご丁寧に「重い食事のあとにお茶漬けなんか食べられると幸せよね?」なんて追伸までついている。 「朝のうちに言っといてくれよな……」
ひとりごとでぼやいてから、自分がまだ誰も起きないうちに家を出たのを思い出す。仕方なく炊飯器と冷蔵庫の中身を確かめて、豚バラを買ってくれば回鍋肉にできるなと所帯じみたことを考える。
靴を履いているところでインターホンが鳴った。
「はい、どちらさまですか?」
返事がない。覗き窓に目を当てて、僕は声をあげた。鍵を外すのももどかしく、大きく扉を開く。
そこには、金属の飾りのついた黒帽子をかぶり、黒マントをまとった小柄な人影が立っていた。間違えようもない、もう一年以上会っていない「彼」の衣装だ。
「彼」はしばらくきょとんとした瞳で僕のことを見ていたかと思うと、黒く彩られたくちびるで笑みを作った。僕は落胆を表情に出さないようにするのが精一杯だった。
彼は、一度もこういう風な笑顔を見せてくれなかった。
つまりこれは彼ではなく、
「どうしたの、先輩。お化けでも見たような顔だよ」
彼とまったく同じ顔、同じ声をした、僕の彼女だ。別に落胆しなければいけないようなことは何もない、はずだ。
「いや……、だってそっちこそお化けみたいな格好じゃないか。どうしたんだよ」
答えながら、改めて彼女を観察する。マントや帽子は間違いなく彼の使っていたものだが、黒いルージュ以外のメイクをしていない。
白塗りもされていなければ隈のような縁取りもない、健康そのものの彼女の顔だ。彼が帽子の中にきっちりとしまいこんでいた癖のある髪が、マントの襟にかかるようにうなじを隠してしまっていた。
「どうしたんだよって、来ちゃ行けなかった?」
涙ぐみそうな彼女に、あわてて言い直す。
「どうしたんだよって、来ちゃ行けなかった?」
涙ぐみそうな彼女に、あわてて言い直す。
「そういう意味じゃなくて、その服」
「これはね、今日ハロウィンだから。ちょっとした遊び心ってやつ」
もちろん僕が聞きたいのはそう言う事ではなかったのだけれど、
いつも先輩の言ってる事でしょうと、得意そうに話すのを見ていたらどうでもよくなった。
「ここまでひとりで来たの?」
「途中まで友達といっしょ。その子には先に帰ってもらったから……。あ、そうだ」
彼女は不意に指を鉤爪に見立てて、僕を威嚇するようなポーズを取った。
「トリック オア トリート、だっけ。きゃ!」
あんまり彼女が愛らしくて、僕はその身体を抱きしめた。彼女も背中に腕をまわしてくる。
その姿勢のまま、僕は彼女の耳元に口を近づける。できるだけさりげなく、ささやく。
「今、誰もいないんだけど、あがるか?」
彼女が言葉の意味をくんで、赤くなるまでに少しだけ時間がかかった。
赤い顔のままで、彼女は小さくうなずいた。
マントの下は制服だった。学校が終わってから、予備校の帰りにどこかで着替えたのだろう。
腰にスポルディングのスポーツバッグが丸めて結び付けられているのを見て、僕は少し笑った。
彼女の髪を手櫛ですきながら、ゆっくりと時間をかけてキスをする。
「口紅、うつっちゃうよ」
離れたくちびるから漏れてきた言葉を押し戻すように、もう一度口をふさぐ。
腰のバッグだけを外して、彼女をベッドに横たえ、服の上から身体をなでる。
「明かりつけたまま……?」
潤みはじめた彼女の瞳を覗き込んで、おでこに口づける。と、彼女が突然ぼくの胸を押した。
「どうした?」
「うかつだったよ……」
その声ですぐに解ってしまった。さっきまでここにいた彼女が彼ではなかったように、今ぼくの目の前にいるのは、彼女ではなくなっていた。
「お前……」
「やあ、久しぶりだね。彼女ともうまくいっているようで、喜ばしい限りだ」
彼はあの頃と同じように、真顔で、きっぱりと言った。僕も同じように、真顔で、しかしおずおずと聞き返す。
「ひょっとすると、今のは冗談だったりするか」
「あまり気にしないでくれ」
色々と釈然としないものがないでもなかったが、僕は次の疑問を口にした。
「何がうかつだって?」
「君と彼女が恋人同士だと言うことを忘れていた。
…いや、忘れていたわけではないが、こういう事態も有り得るということを失念していたんだ」
言い切って彼はお得意の、左右非対称の表情を作る。
久しぶりに見るそれは、何故か僕の胸を高鳴らせた。
「しかし、若い男女がベッドの上でする会話ではないね、これは」
「その顔でそういうことを……」
言葉の途中で、彼の腕がさっきまでとは逆の動きをした。
胸から鎖骨の脇を通って首に絡み、僕を引き寄せる。
その変化に耐えきれず、僕はあえなく彼にのしかかってしまった。
「悪い」
耳のすぐ横で謝ると、同じ距離から答えが返ってきた。
「君が謝ることはない。謝らなくていいから、――少しだけ抱きしめてくれないか」
え、と聞き返す僕のかすれた声に、彼は行動で応えた。首に回された腕に力が込められ、ただでさえわずかな僕らの距離がさらに狭まる。
僕は少しだけ迷ってから、しがみついてくる彼の肩を少し浮かせて、腕を滑り込ませた。隙間なく身体を密着させて、しばらくの間、そのままでいた。
「僕がこんなことを言うのは、あるいは罪深いことなのかもしれないけど、時々こんなふうに誰かに抱きしめてもらいたくなるんだ」
「罪深いなんて言うなよ」
反射的に、僕はそう返していた。
「お前がたとえば世界の敵を、その、手に掛けていたとしてもさ、それと誰かに触れたいと思うのは別の問題だろ。
お前が自分で罪深いなんて言ったら、その望みはどこにも行き場がないじゃないか」
沈黙が落ちた。より強く、抱きついてくる彼の小さな背中を、そっと撫でさする。
彼が身体を反転させて、僕らの上下が入れ替わる。僕の首の横に腕を立て、上体を浮かせる彼。アーモンド型の瞳が僕を見つめる。
「さっき言ったことの中に、ひとつだけ嘘が入っている」
唐突に、ぽつりとそう言う。
「それが何かわかったら、僕を抱いてくれてもいいよ」
何を言われたのかを理解するまでに、三回呼吸する時間が必要だった。
「抱いてもいいって……?」
「こういうことさ」
マントの下で脚を動かし、僕の右腿を挟み込む。触れた部分は、すでに熱を帯びはじめていた。一瞬で口の中が乾く。
「さあ、答えは?」
さっきよりも時間をかけて、答えを探す。口から滑り出たのは、答えというよりも僕の望みに近いものだった。
「罪深いかもしれない、なんて嘘だ」
世界を危機から救うという彼の使命が罪と呼ばれるなら、目の前の弱者を救うこともできない現代社会に生き、それを形作っている僕らはなんだというのだ。
返ってきた答えは、口づけだった。
舌を絡ませながら、右足の膝を立てる。
その部分に触れた途端、彼の身体がぴくんと跳ねた。
上着の裾から手を差し込み、胸にも刺激を与える。親指が先端をいじると、彼はついに僕からくちびるを離して、熱い息をもらした。
「彼女とも、こんなふう、に、くッ」
最後まで言わせず、先端をつねる。
「それ以上言うなら、やめるぞ」
僕も身体を起こし、彼の耳に言葉を流し込む。彼がうなずくのを見て、今度は舌を差し込んだ。
彼の脚がきつく閉じられ、痛いほどに締め付けてくる。押し当てられた部分は、二枚の布地を隔てているとは思えないほど、はっきりと熱い。
彼の声と息は一回ごとに熱と甘さを増していく。
背中に手をやって、ホックを外す。下着とセーラー服を一度にめくり、露わになった肌に舌を這わせる。彼の手が僕の熱くなった部分に伸び、形状を確かめるように包み込んでくる。
急な刺激に思わず声を上げてしまった。
僕の反応に気をよくしたらしく、すばやい手つきでファスナーを下ろし、直接指を絡めてきた。
「君も、そういう声を出すんだね」
「俺はお前の方が意外だったけどな」
先端に軽く歯を立て、今までで一番甘い声を引き出してやる。
その余韻を楽しんでから、僕はスカートの中に指を滑らせる。彼は腰を浮かせて、僕の腿から離れた。
湿った布地をずらして、その部分をなぞる。
「もう、いいみたいだな」
指をかけ、一気に下着をおろす。右足だけ引き抜かせておいてから、僕は自分のそれを自由にする。
彼はのろのろと僕の腰をまたぎ、高い位置から僕を見下ろしてくる。
「……さっきの答えのことだけどね」
僕に手を添え、一気に腰を沈める。僕らは零距離よりも近いところで触れ合った。
熱と熱とが混じり合い、何もわからなくなる。
「さっきの君の答えは間違っていたんだ」
触れ合ったまま、熱に翻弄されながら、彼の声を僕は聞いた。そして、返す。
「じゃあ、どうしてこういうことになってるんだよ」
「本当の答えが、僕が抱きしめられたかったのが『誰か』ではない、からだ」
「誰か、じゃないって?」
「君さ」
その言葉と共に、彼は達した。一番深いところで僕も、また。
彼はつながったまま、僕に寄りかかり、荒い息をついた。
「そろそろ、僕の時間は終わりだ」
今日の彼の出現が何のためだったのかを、僕はその言葉で悟ってしまった。
思いが口を開かせる。
「また、会えるか?」
答えはなかった。
僕はもはや彼のものではないくちびるに自分のそれを重ね、再会を願った。
願うこと以外に、僕に出来ることは多分ひとつもなかった。