セックスというものに愛なんて介在しない。
そもそもセックスというものがなんのために存在するかといえば繁殖と、性欲を満たすためであ
る。性欲というものは繁殖を促すためにあるのだから、つまりはセックスの目的というのは繁殖に
のみあるのであり、種の強度をより強靭にするために男の有り余る性欲は存在する。
何故セックスが恋人たちの間で行われるかといえばその後に必然的に待ち受ける子育てという共
同作業を円滑に行うためであり、愛なんて関係ない。結局はすべて種の繁殖という要素に収斂する。
だから繁殖という目的以外の、避妊を施し快楽を追い求めるために行われるセックスは、余剰した
性欲の捌け口でしかない。無駄だ。無駄というものに真の価値が存在するという考えを私は否定し
ないが、しかしそれは言い訳にしか聞こえない。
だがしかし未だに一部の少女たちはセックスというものが愛の産物であると勘違いしている。そ
れもそうだ。保健の教科書にそう書いてあるのだから。
“一部”と書いたのはもうすでに大部分の少女たちは実際の性体験において男が愛なんぞまったく
感じておらず、ただ性欲に従うのみであるということを身をもって知っているからである。織機綺
もその一人だった。もっとも織機はそれを“知った”のではなく“知っていた”のであり、それは
彼女が性交をする理由がつまるところ繁殖のためだけであり、そもそもそこに愛を感じている余裕
などないと“組織”に教え込まれていたからだが、そんなことはこの物語とは関係がない。大部分
の者どもの物語など面白くない。“一部”の者の物語こそが語られる資格を有する。
衣川琴絵は“一部”に属する少女だった。彼女はいわゆるお嬢様であり、彼女のもとに伝わる性
の知識は生々しい実体験から歪められ美化されており、彼女の幻想は膨らむばかりだった。
しかし彼女の幻想はいったん崩れ落ちかける。
彼女はスプーキー・Eというわけのわからない名前の合成人間の“端末”となっていた。なんの
ことだか訳がわからないかもしれないが、とりあえずこの部分が理解できない層の読者はまず、は
なから私に相手をされていないということを理解すべきだ。
とにかく“端末”となった彼女は一定の期間スプーキー・Eに操られていたわけだが、物語の原
則として彼女は“端末”から復帰する。このとき彼女はお見舞いに、その実情報収集に彼女のもと
を訪れた末間和子という少女に、夜のペイズリー・パークという場所で“おかしくなった”と説明
している。これを聞いた末間はそこで“記憶が途絶えた”と解釈したようだ。
これは末間の勘違いである。
ペイズリー・パークでスプーキー・Eは琴絵を“端末”にする処置を行っている。通常ならばこ
こで“端末”にされた人間は自分の意志を失う。
通常ならば。
何故か彼女は自らの意識を“奥底”にとどめたまま“端末”となってしまったのである。彼女は
自らの眼を通し自分のしていることを知り、また自らの耳で彼女に届く喧騒を聴いた。
しかし身体は彼女の思う通りにはまったく動かないのであった。何者かに操られるように彼女の
身体はひとりでに動き、また普段の彼女なら絶対に行わない行動をとった。
彼女はそれをすべて知っていたのである。
しかしこのことを琴絵は末間をはじめ誰にも話してはいない。
その理由は不明だが、しかし推測はできる。
スプーキー・Eは“端末”にすることで琴絵を自由に操ることができた。彼(と一応しておこ
う)は琴絵を使い街の不良を仲間に引き入れさまざまなことをしていたのだが、不良を仲間に引き
入れるための道具として度々琴絵の身体を使用した。これは単純に効果的であったからだが、たぶ
んに性器を持たないスプーキーの、コンプレックスの裏返しともいえよう。
自らの身体が蹂躙されていくのを彼女のなかで琴絵は見たし、聞いた。感じてはいなかったが、
無論そういう問題ではない。彼女は自分が男を受け入れ、また喘いでいるという事態に遭遇した。
それは和姦であったが、同時に間違いなく強姦であったのだ。
そのような事態にあって、彼女の心がどれほど傷ついたかは想像を絶する。もちろん誰にもその
ことは言えない。そして彼女は自らの眼を通し、性という餌をぶらさげられた男という存在がどれ
ほど醜いかを知ったのである。
だが彼女はまだ信じていた。愛の果てにセックスというものがあるのだと。今見ているセックス
は例外であると信じることで自らを保った。信じるに足る経験をしている、彼女は自分にそう言い
聞かせた。
あの夜。
飛鳥井仁との、あの一夜。