例えばわたしにとって佐々木正則というごくごく平凡な名を持つ、それでいてまったく平凡ではない闇を持っていてまったく平凡ではない行動をとった、しかし一言でいえば単なる狂人でしかなくて、
そういった意味ではやはり平凡である男の存在がそうであるように、あの日のこともまたわたしに深い傷をつけた。
いや、傷というのは違うのかもしれない。わたしはわたしのなかでそのことをどう扱っていいのかわからずにいたからだ。傷ならばさっさと塞いでしまうだけだが、しかしそうすることをわたしのなかの誰かがひどく嫌がるのだ。
だからわたしのなかでその日のことはずっと投げ出されたままだった。
きっとあのことも全体の大きな一つのなにか“流れ”の、ささやかな挿話の一つとして、片付けられてしまうべきことなのだろう。しかしわたしは事態を神の視点で俯瞰することができない。
わたしは三人称で語ることができない。わたしは自分に起きたことを主観的な一人称で語ることしか許されていない。
痕。
そう、痕だ。
わたしに許されるのは、その痕について語ることだけだ。
その“痕”はある時期からわたしの、いや、深陽学園の生徒すべての前から姿を消した才媛の手によってわたしに焼き付けられたものだった。そう文字通りその手――指によって。
彼女――百合原美奈子がわたしに痕を付けることになったその理由をわたしは知らない。
あるいは彼女のその行動と、彼女が忽然と姿を消したことには何か関連があるのかもしれない。
だが三人称で語ることを許されないわたしにとってそんなことはどうでもよいことだ。
わたしはわたしに起きたことを一人称で語ることしかできない。
それはわたしが貧血で保健室にやってきた時のことだった。時期は九月であったはずだ。
貧血の原因はなんのことはない、夜更かしである。霧間誠一の著書、長らく絶版で手に入らなかった評論の一冊が文庫化されることになり、発売日に購入して読み耽っていたのだ。寝付いたのは朝の三時だった。
案の定、学校に登校してきてすぐ、頭がぼんやりとした状態から抜けることができずに、
やがて世界が揺らめくように見えてきたのだった。
二時間目の途中に先生に言って授業を抜け、一階にある保健室へと向かう。貧血の状態の時には階段を降りるのに難儀する。一歩間違えれば足を踏み外しそうになるのだ。
なんとか保健室に辿り着き、わたしは保健の先生に休ませてくれるよう頼んだ。先生は二、三度やれやれ、といった風に首を振って、
「いいわ。好きに昼寝して。――まだ朝寝かしら」
と言った。わたしは不服だったのでせいぜい頬を膨らませておいた。そのほかにも抵抗を試みたが、目の前に鎮座するベッドの誘惑には勝てなかった。
その日は秋雨で、幾つもの雨粒が校庭に叩きつけられる音がわたしの耳を刺激していた。隔絶。そんな単語が浮かんだ。昨日読んだ霧間誠一の著書の、キーワードだった。
「人が隔絶されていると感じるとき、その隔絶自体は問題ではない。隔絶されていると感じる、その絶望が問題なのである」――とかなんとか。
わたしは雨で隔絶されていると感じた。実際はそんなことはない。この辺一帯に雨は遍く降り注ぎ、そして、どこかで曖昧に途切れている。しかし、先程の霧間の言を採るなら、その事実には意味はない。わたしが隔絶されていると感じているということが問題なのだ。
だがわたしは別に絶望していると思ったわけではない。むしろ心地よかった。この保健室で寝ていて、雨音を聴いている限りわたしは独りだった。“中”に居た。
いつのまにか先生はどこかへと消えていた。
今保健室にいるのはわたし独りだけだった、ほんとうに。
軽く寝た結果とっくの昔に貧血は治っていたが、しかしわたしは布団のぬくもりから離れられずにいた。この温度も一種の隔絶だよね、などとわたしは適当なことを考えていた。
もしそうならば、世界は隔絶でできている。そういうことだ。だがあくまでもその事実自体に意味はない。
二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。世界の終わりを聴いた気がした。
(うう……)
わたしは軽く身悶えする。出たくない。月曜の朝は出たくない。
結局全てを棚上げにしてわたしは布団の中に潜っていた。やがて三時間目の始まりのチャイム。それと同時に保健室のドアが空く音。
(……ああ)
先生だろう。わたしは布団を剥がされ教室へと強制送還の憂き目にあうのだ。だがしかし入ってきたのはまったく予想外の人物だった。
「え――百合原さん?」
わたしは起き上がり驚きをそのまま声に出してしまっていた。百合原さんといえば、学校が誇る才媛である。同じクラスにいながら言葉を交わしたこともない。接点がない。彼女は表情をまったく動かさずにわたしに訊いた。
「先生、居ないの?」
「え……ええ」
わたしはどもりながら――ああ、何故クラスメイト相手に緊張するのだろう――答えた。>
「そう、それは――好都合ね」
そう呟いて彼女は妖艶――そんな単語が浮かんでしまうような笑みを浮かべた。わたしはすっかり困惑してしまった。妖艶? たかが高校生が?
「えっと……何の用なの?」
焦りを悟られないようにわたしはあたかも保健室の主のような態度で訊いた。先生が居ないことが好都合とは、いったいどういうことなのか。
「あなたに用があるのよ、末間和子さん」
うっとりと、007に出てくる悪女のような台詞回しと口調。わたしは彼女から視線を外すことができずにいた。射すくめられてしまった、という表現が近い。蜘蛛、そんなような。
そうして、彼女はわたしに近づいて首筋から顎にかけてゆっくりと撫でた。それだけでわたしは全身がひやりとするのを抑えることができなかった。まるで逃避するようにわたしは雨音を聴いていた。一層強くなる雨脚。さらに隔絶は拡がる。
「ち――ちょっと」
「あなたにね、ちょっと興味があるのよ」
「興味って――」
わたしの台詞は中途で止まってしまった。続けようにも、唇がふさがれてしまったのである、彼女の唇で。
わたしの思考はそれこそ爆発的な勢いで混乱していた。その果てにメルト・ダウン。思考停止。エポケー、だっけか。つまらないことを思い出す。
数秒間その口づけは続いた。そして一瞬だけ離れる。何か、何か言わなければ。しかしその猶予はなかった。彼女は再びわたしの唇に自らの唇を重ね、――それだけではなく舌を、わたしの口腔のなかに侵入させようとするのだった。
まずい。何がまずいのかよくわからないがとにかくまずい。抵抗しなければ。とりあえず百合原さんの肩を掴んで引き離そうとする。もちろん唇は完全に閉ざしておく。よく考えたらわたしが唇を重ね合わせたのは彼女がはじめてだ。つまりはファースト・キスというわけで、
好きでもない相手に――しかも女にその印象的であるべき行為をされたというのは非常に腹ただしいことである。
しかし彼女はわたしの腕を軽々と掴んで、ベッドの方向に押す。ちょっと、ちょっと。押して、倒される。これつまり――。
(押し倒されてる――わたし!?)
なんとか阻止しようとするものの彼女の力は恐ろしく強くまったく抵抗できない。結局勝負なんかならずにわたしはベッドに押し倒されわたしの上には百合原さんが重なっているのであった。
(ああ……こんなところを誰かに見られたら)
気付けばわたしの口腔のなかには彼女の舌がすでに入っていた。いっそのこと噛み切ってやろうと思ったが、もちろんそんなことはできない。
彼女の舌はわたしの口のなかのいたるところを(届く範囲で)舐めた。そして最後に、とでもいうようにわたしの舌に触れた。そのとき、はっきりと――愚かなことに初めて、わたしは思った。
蹂躙されているんだ、と。
わたしのなかに、それまでなかった恐怖という概念が生まれた。
わたしは彼女の舌から逃げ回るように舌を移動させる。しかし鬼ごっこの原則として鬼はやがて捕まる。彼女の舌が再びわたしの舌に触れたとき、わたしは観念して舌を動かすのを止めた。
ぴちゃり、と音がした。それでわたしは自分に聴覚が備わっていることを再確認した。雨は、まだ降っている。
わたしが舌を動かすのをやめたのをいいことに彼女は思う存分舌を絡めた。彼女の頬は性的な快楽で紅く染まっていた。
そしてわたしは。
わたしは?
わたしは、“感じて”いたのだろうか?
しばらく記憶が飛んで、気付くとわたしの上半身は裸になっていた。ああ、そういう状態なのね、わたしは現状を認識して、それですべての思考を止めた。いまさらそんなことはなんの意味ももたない。
百合原さんはわたしの胸に触れていた。ああ。そういうこと。
その感触を確かめるように、指の一本一本で確かめるように、わたしの乳房に指を這わす。そんな上等なものでもないだろうに。やがて彼女は顔をわたしの胸に近づけた。
そして舌を出して、わたしの乳首に、触れさせる。
「はぁっ――」
わたしはその時初めて声を漏らしている自分に気付いた。それを見て百合原さんは口の端を吊り上げた。そしてもう一度舐める。
「――っ……」
声を漏らさないように我慢していたが、声の残滓――のようなものが僅かに漏れ出てしまった。
そしてわたしは自分は今何を知覚したかを吟味する。
わたしは今、性的な快楽を得たのか。
わたしが一時期蒐集した本のなかにはもちろん性的な変質者のことも載っていた。死体の前での自慰行為など序の口で、屍姦やら何やら、思い出したくもないようなインモラルのパレードに、わたしは首まで浸かっていた。そしてそれゆえに怖かった。眼を逸らしていたかった。
性というものに。
それがいかほどに人を狂わすか、知っていたから。
だからわたしは自分で自分を慰めたことなどなかった。
性的な快楽というものを知りたくなかった。
ほんとうだろうか?
「眼を逸らす、ということは、逆に、その対象にどうしようもなく惹かれてしまっているということと同義だ」
――『VSイマジネーター』だっけか。確か。
いつのまにか彼女はその裸体を晒している。綺麗だった、認めたくはないが。身体つきの、その曲線。そしてわたしも彼女によって完全に裸になってしまっていた。数段貧弱である。わたしは、彼女の下半身の“その場所”に、あるべきものが見当たらないのに気付いた。
だが、なんというか、そんな異常なことすらどうでもよくなっていた。
そしておそらく越えるべき前段階を経て、彼女の、その細長い指は、わたしの、今まで自分で触れたこともない場所に。触れてしまう。
「ほら――もう、こんなに」
百合原さんは久しぶりに口を開いた。指、そのうちの一本をわたしの眼前に突きつける。照明によって、その指は、光る。わたしは何も言わない。
――待っているの?
――早くしてほしい?
どこかから、そんな声がする。遠くから。寧ろわたしによく聞こえるのは、そう、雨。隔絶の証。もうわたしは隔絶されてしまった。だが問題はその事実ではない。絶望だ。絶望しなければいい。曲解。
「ほら――」
そうして、わたしのなかに、彼女の指が、這入る。
鈍痛。それを感じた。
だがしかし、その重い感覚に混じって、微かに、
「あ――あぁ……」
甘い、甘い――。わたしの、なかで、指が、舞う――。
「い…ぃ、や、ひぁ――、ああ」
甘い、それが、明滅する、光のように。あらわ、れる。
「あああぁ、ああ、ぃ、いぃ……」
そしてやがて光は明滅の度を増して。常に、光るように……。
が、それは唐突に中断された。
わたしはまさに昇りつめようとしているとしているところを急に切断されて、どこかにぶつけるところもなく悶々としていた。何もいう気力がなかった。
だがもちろんそれで終わったわけではなかった。彼女の自らの舌を、わたしの秘部に近づけた。なるほど。わたしはそれだけ思った。
そしてまた光。じんじんする。痺れる。こわれていく。
「――ぃ、ああ、あん、ああ……」
中心。
そこに舌は触れた。
到達した。
途切れた。
音がする。
淫らな音がする。
雨が降る。
混ざり合って。
隔絶。
快感の檻に。
閉じ込められる。
「……あ、ひゃっ、あぁ、あああああ、んぁああああああ!!―――」
百合原さんはわたしの着衣を揃えてすたすたと保健室を出て行った。
わたしは消えることのない痕を焼き付けられたまま、そこに茫然と座り込むだけだった――。
そして彼女が突如失踪するのは、そのしばらく後のことだ。
さて、ここで視点は三人称になる。神の視点だ。
神の視点だからこの時点で二人――しかも人ではないのが独り――しか知らないことも思うが侭に記述できる。例えば、百合原美奈子がマンティコアに喰われ、マンティコアがすりかわっていることも。
だから、末間和子の一人称における「百合原さん」という呼び名は全て「マンティコア」と置換できる。さらにいえば、マンティコアには性別もないため「彼女」という呼び名も間違っている。じゃ、どう書くんだといわれても困るが。
神の視点なのであらゆる人物の内面も思うが侭に描写できる。
マンティコアは自分の行動に満足しながらも、釈然としない思いに囚われていた。普段なら絶対にしないであろうことを自分はしたのだ。
何故、殺したりせずに(それこそ右手だけで殺せるのに)、ただ末間和子を性的に満足させるだけで済ましたのか。わからない。わからないが別に良い。ただ彼女はおそらくその他大勢の雑魚とは違うことだけは確かだ。彼女はおそらくいつか何かの物語の中心となる。
ゆっくりと、螺旋階段を昇るように、ゆっくりと中心に近づいていく。だからといって彼女を陵辱した理由にはならないのだが。
とりあえずこのことは早乙女には黙っておこう。
マンティコアは薄く笑った。
それだけのことだ。