ブギーポップ  

目一杯の蝉の鳴き声が聞こえていた。ブギ―ポップは返り血ひとつ負わずに  
ひらりと軽妙な着地を見せた。荒いコンクリートの壁にはびっしりと  
絵の具のように鮮やかな赤がぶちまけられていたというのに。  
「竹田くん。」  
ブギーの目は竹田を映している。  
「少し、協力してくれるかい」  
竹田は首を振った。濃い、粘着質の生臭い臭気が竹田の喉を乾かし  
粘膜がチクチクと痛んだ。竹田の衣服には少し野犬の血がついていた。  

 

その日、  
竹田は学校の帰り道、藤花と共に死んだ犬を見つけたのだ。  
野犬の多いこの街ではこうした子犬の死体がよく見つかるのだ。  
藤花は可哀想だから、どこか気持ちのいい所へ埋めてあげようと  
小さな犬を持ち上げた。普段元気な藤花はこんな時でも元気が良かった。  
子犬は顔は苦しみの表情で固まり、死体はやはり人形のようではなく  
生の影をちらつかせたまま止まってしまった萎れた風船のようだ。  
藤花の制服に血の染みがついたので竹田は持っていたタオルで犬を包み  
できるだけ見晴らしのいい丘の群生する草の下に眠らせた。  
藤花は家でどう血の染みを家人に説明したのかはわからない。  
ひょっとしたらブギーポップがやってきて適当に誤魔化したかもしれない。  
帰った後も竹田は藤花の少し悲しげに歩く姿が印象強くて  
夜中しばらく眠る事ができなかった。  
家の外では野犬の唸り声がした。  

 
 

いつだって僕の役目は後始末さ。ブギーは愉快そうにそう言った。  
藤花の声に慣れた竹田の耳にははじめ、ブギーの平坦で機械的な口調に  
人間的な感情を読みとることはできなかったが、最近になってやっと  
「彼」に慣れてきたのか微妙な声の震えや上擦りを感じることができていた。  
初めて会ったのが「彼」ならば、もっと早く違いがわかるようになったのだろうが。  
「怪我はないのかい竹田くん。君の身体から血の匂いがするよ」  
「これは・・・昨日の死んだ犬の血だ。靴についてたんだな。」  
また、学校をサボってしまった。  
早朝、竹田は駅のホームでどこからか入り込んだ野犬に襲われた。  
あわてて逃げ込もうとした電車の入り口はどれもラッシュ時で満員で  
竹田は全速力でホームを走ったが野犬は何故か竹田だけを追ってきたのだ。  
階段を駆け上がる最中野犬は竹田の背に飛び掛ってきた。  
竹田は鞄を犬の顔めがけて振り下ろし改札を出た。  
駅の外にも野犬はいた。大人たちや登校する生徒には目もくれず  
竹田だけを狙って襲い掛かってきた。その時竹田の視界に見覚えのある  
黒いシルエットのはしが映った。  
全速力で路地に入りさらに細かい道を走った。  
テナント募集と書かれたチラシ。古い時代がかった空きビルに飛び込む。  
ドアを閉めた向こう側でキャンキャンと犬の逃げる泣き声がした。  

「なんだ、ブギーポップ。お前か。また世界の敵か?  
それとも、俺を助けに来たのか?  
野犬駆除なんて保健所に任せておけば、いいじゃないか・・・」  
「この街の野犬全てと鬼ごっこをするんなら君の身体はひとつでは足りないよ」  
鬼ごっこなんて言葉知っていたのか。  
「僕は宮下藤花の情報なら引き出せるんだ」  
「あ、そう」  

竹田はとりあえずビルの階段を上がることにした。  

(人を喰うものの次は人を襲う野犬か?)  
ブギーはすすっと足音も立てずに階段を歩く。歩くと言うより滑っている感じだ。  

(事実、彼は藤花の影なんだろうけど・・・)  
ブギーの横顔は藤花と全く似ていないのだ。同じ身体で同じ脳を供しているのにも  
関わらず今だ竹田はブギーと藤花の共通点を探せないでいた。  
「ブギーポップ、君は藤花と似ていないな」  
「当たり前だ。僕と彼女は兄妹でもなんでもない。流れる血が同じでも  
全くの他人なんだよ」  
竹田は人の気配がないことを確認して階段に腰をおろした。  
ブギーは踊り場に止まった。竹田はブギーを見上げる形になった。  
「あの野犬は世界の敵なのか?君が出てきたからにはあれは恐ろしいモンスターなんだろうな」  
「いや、ただの狂犬病の犬さ」  
竹田はブギーの顔を伺った。ただの事件で彼が出てくることは一度としてなかったからだ。  
「狂犬病は人獣共通の感染症だ。噛まれて1、2ヶ月で発症し死亡率は100%。  
症状は錯乱、興奮、攻撃性の増加、脳の萎縮などがあげられる」  
「お前はいつから保健所の職員になったんだ?」  
「これは宮下藤花の知識だ。君は疑問に思わないのか?近寄れば  
見境無しに襲ってくる相手が何故、君にだけ向かってきたのか。」  
「・・・・俺が一番噛み付きやすそうだったからか・・・?」  
「朝、宮下藤花は自宅の付近で犬に襲われた。群れの成犬は一匹残らず  
狂犬病のウイルスを保持していたよ」  
「ああ、だから・・・お前が来たのか。藤花のピンチはお前のピンチだもんな。  
ついでに俺のことも助けにきてくれたのか」  
ブギーは踊り場の鏡をじっと見ている。  
「そんなようなものさ」  

「僕が出現したのは昨日の深夜2時頃だ。当然、宮下藤花は布団の中で眠っていた。  
僕が出現する事自体が世界の危機の予兆の印だ。そして僕が  
宮下藤花から分離し、浮かび上がった瞬間、僕は世界の敵の正体を理解する。  
・・・自動的に。」  
ブギーは依然、踊り場の鏡を見たまま独り言のように話している。  
「僕自身は別に探偵のように推理して動いてるわけじゃない。  
感覚でわかるんだ。僕が世界の危機のなりかけをぶち壊すだけの存在だから。  
ただ、おかしなことに昨日の深夜の時点では何が起こるか全くわからなかった。」  
ブギーは不信に思ったものの、やるべき事がわからないので  
その夜は寝てしまったそうだ。  
「おそらくその敵は生まれたばかりで何もできなかったんだろう」  
「ま、待て。敵ってのは野犬だろ?俺を襲ってきたのはデカい、大人の犬ばっかりだ。  
生まれたばかりってのは無理がある。それとも、野犬の群れが集団でウイルスに感染した時間てことになるのか?」  
狂犬病の集団感染。竹田は自分で言っておいて疑問に思ったが、群れの中で  
大喧嘩でもすればありえるかもしれない。  
しかし、いくら犬が群れる動物だとしても、病に冒されたまま群れを構成できるものだろうか?  
竹田はブギーを見つめる。  
「狂犬病に感染すると判断力が著しく低下する。群れてるように見えたのは  
彼らの標的が同じだったからさ。君と、宮下藤花さ。  
君と宮下藤花に狂犬病の感染源である仔犬の血が付着していたからだ」  
ブギーの視線の先には異装の藤花がいる。  
「君はおせっかいだな・・・」  
それは藤花に放った言葉なのか竹田に向かった言葉なのか。  

野犬の唸る声がする。  
犬の嗅覚は人間の100万倍から一億倍といわれている。  
この街で人間2人探し出すことなどたやすいことだ。  
「あの犬たちはどこかの研究機関から脱走してきた被験体だ。頭に改造の痕があった。  
対象がどこにいようと不眠不休で追跡できる。身体に蓄えた脂肪から長時間食事は不要。  
生殖器は切られていたから使い捨てだったようだ」  
がんがんがんがん。  
下の階から何かが体当たりする音がする。ドアを破ろうとしている。  
「君らが拾った仔犬も、おそらく改造痕がある。  
当初、彼らはあの仔犬を追跡していた。何かのきっかけで仔犬が逃げ出したんだ。  
飼い主か母犬の元へ帰ろうとしたんだろう。ところが仔犬はウイルスを保持している  
狂犬に噛まれて発病してしまった。そして弱っているところをよってたかって噛み殺されてしまったんだ」  
竹田は仔犬が噛まれたあたりで苦い顔をした。  
「それで・・・そいつらも狂犬病に冒されて  
仔犬が死んじまったことも忘れて探し回っているのか」  
「宮下藤花が埋めた死体も掘り返されて・・・今頃は骨も残ってはいないだろう」  
唸り声がする。  
「ブギーポップ。上へ移動しよう。電話をかけて警察を呼ぶんだ。  
そうすればお前が出るまでもなく事件は終わるよ。血の臭いを追跡してるというなら  
拭き取っちまえばいい。この靴だろ。藤花のも、捨ててしまえばいいんだ」  
激しい音がして野犬の吼える音が響いた。  
「ブギーポップ!!」  
ブギーは指を縦に振った。途端に犬の首と胴体が離れ  
濃密な血液の臭気が狭い階段に充満した。  

薄暗い階段は血で濡れていた。犬の死体が転がり大きな血の水溜まりが  
あちこちに飛び散っていた。  
「逃げるよ、竹田くん」  
「どこへ」  
「人のいない場所に」  
誘い込んで殺す気か。  
「どの道処理されるんだ。改造された脳は2度と元には戻らない」  
「お前がやることじゃない。お前はもっと別の・・・敵と戦えばいい」  
漂う血の臭いが竹田には辛かった。身体が呼吸を拒絶している。  
吸うたびに咽そうになった。血・・・赤黒い血。  
「君は呑気だな。何匹の犬がこの街に放たれているのか知れないのに。  
標的は君と宮下藤花なんだぜ?警察が確実に捕まえ終わるまで家から一歩も出ないつもりかい」  
「病気なら、何日かすれば死ぬんだろ。それでいい。家に篭もるさ」  
「君、たまに非常識な事を言うね」  
お前に言われたくはない。竹田はマントの切れ目からのぞく深陽学園の制服に  
救われない思いがした。同一人物でなければ俺たちは親友でいられたかもしれない。  
ブギーポップが映る鏡は血飛沫で汚れていた。  
「竹田くん。こいよ、・・・おいていくよ?」  
それでもこいつは・・・藤花なのだ。  

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