「艦長……どうなんです?」  
 勇は、彼女が医務室から出てくるや否や荒々しく問いかけた。その問いかけに対し、こ  
こ――国連軍所属戦闘艦ノヴィス・ノアの艦長にして船医を兼任する女傑、アイリーン  
・キャリアーの口からは重々しいため息が漏れる。  
「正直、芳しくないわね。身体や脳にこれといった以上は見当たらないけれど、その  
おかげで何が原因なのかも分からないわ。医学的な処置は必要ないと思うけれど……なにせ  
、あんなことになった人間はあとにも先にも彼女だけでしょうし」  
 言って、彼女は勇を初めとしてその場に集まっていた皆を医務室に招く。やはり勇は  
真っ先に部屋に駆け込み、彼女が寝かされているベッドに駆け寄った。  
 ベッドの上では、一人の女性が静かな寝息をたてている。  
「オルファンと分離した際の多量のオーガニック・エナジーの減衰……今のところ、  
それが一番の原因と考えられているわね。あなたのご両親の診断ですもの、間違いは  
ないでしょう」  
 アイリーンのしごく冷静な声と、なにより両親、という言葉にかっとなって、勇は  
声を荒らげる。  
「くそっ、何のための研究者だよ! こんなときに効果的な対処法を考えるのが  
研究者って奴じゃないのか!?」  
「そんなことを言ってはだめよ、ドクター伊佐未夫妻は第一級のオーガニック研究者  
ですもの、彼女をここで養生させることも翠博士の提案なのよ。ここはたぶん、今地球  
でもっともオーガニックエナジーに包まれている場所でしょう?」  
「お袋が……?」  
「ええ。あなたはあまり顔を合わせないようにしているみたいだけれど……あなたの  
ご両親もオルファン問題の処理で忙殺されてる中、こうして花を活けに来てくれて  
いるのよ?」  
 アイリーンはベッドの傍らを指して言う。そこには一鉢の白ユリが飾られていた。  
 
 オーガニック・エナジーに満ち溢れたこの艦、その花弁はみずみずしい生気に満ち溢れている。  
「親が子供を見舞うのは当然のことだろう!?」  
 言いながら、この行いが以前の両親ならば考えられないものであることも自覚していた。  
 自分の子供を研究の道具としか見ていないままの両親であるならば、このようなことは  
しなかっただろう。それは勇と、彼の姉が身をもって知っていることだ。  
「勇、翠も、研作さんもね、今回のこと、あのひとたちなりに重く受け止めている  
のよ。不器用かもしれないけれど、あまり悪く言わないであげてはくれないかしら……」  
「直子ばあちゃん……」  
 祖母であり、育ての親でもある彼女の悲しげな瞳に見つめられ、勇は落ち着きを  
取り戻す。  
「それに、ただ毎日黙ってそばにいることだけが思いやりの形ではないわ。あなたも  
花くらい摘んできてあげたら? 外に出れば、少しは気分も晴れるというものよ」  
「……ほっといてくれ」  
 両親の方が思いやりがあるといわれているような気がして、勇はアイリーンから目を  
背け、ベッドの上で人形のようにしている人物をみやる。  
 昔絵本で読んだ眠り姫のように静かに――死んだように眠っている彼女の姿をみて、  
勇は何かを押し込むような声音でつぶやいた。  
「姉さん、いったいどうしちまったんだよ……」  
 勇の姉、伊佐未依衣子が昏睡状態に陥ってから、もう一週間のときが過ぎていた。  
 
 
 太平洋の真ん中から見るオーロラが珍しいものでなくなって、もうどれだけの月日がたったのだろうか。  
 夜空を飾る光のカーテンのその美しさは、しかしそれだけ地球が病んでいることを意味している。  
 ――もう夜になってしまったのか。  
 医務室の窓から差す夕日が消えていることに気づき、勇は顔を上げた。  
 見上げれば、オーロラの向こうに巨大な山脈を見ることが出来た。  
 地上40キロほどの空間に浮かぶ、淡い緑色の光をはなつ山脈――オルファンの姿が。  
 オルファンと人との和解、リクレイマーとノヴィス・ノアとの決戦、長年にわたる親子の確執の決着……  
 各人にとってさまざまな意味をもったあの戦いが終わってから、まだ一週間しか経っていない。  
 なのに、姉を連れてこの地球へ、ノヴィス・ノアへと帰ってきてからは一日一日がひどく長いものに感じられた。  
 何をするにも気が乗らない。それ以前に、何もすることがない。  
 その理由はひどく簡単なことだった。姉――伊佐未依衣子の目覚めを待っている。  
「……どうして、こうなってしまうんだ?」  
 勇はオルファンの暖かな光を遠目に、あの戦いのことを思い出す。  
 あの戦いでオルファンの真の抗体となり、そしてまたオルファンから開放された依衣子。  
 最初はただ疲れ切って寝ているだけなのだろうと思っていた。この艦の最新鋭の設備での検査に  
おいても、身体にはまったく異常は見られなかった。だが彼女が目覚めぬまま一日が過ぎ、二日が過ぎ、やがて一週間が過ぎて、  
それでも依衣子はまぶたを閉じたままだった。  
 医学的には、完全にただ寝ているだけという診断が下された。  
 
 すべてが上手くいくと思っていた。オルファンは人類と友に歩むことを選んでくれたし、  
人類の持つオーガニック的な力の暖かさをも感じることが出来た。   
 たしかに宇宙へと顔を出したオルファンの政治的な位置づけや、今回の騒動にかかわった  
人間たちへの処罰などまだ問題は山ほど残されているが、勇たちにはその累はほとんど及んでいない。  
 裏でガバナー・ゲイブリッジやミスターモハマドが事態の収拾に帆走したといわれているが、それが  
事実なら非常にありがたいことではあった。おかげで勇やブレンパワードたち、オルファンから放出された  
リクレイマーにいたっても、今のところは大した騒動に巻き込まれるでもなく平穏な日々を送ることが出来ている。  
 だが、それがゆえに勇は眠り続ける姉の傍らで己の無力を悔いることしか出来ない。  
「姉さん……」  
 ベッドの脇に戻り、安らかな寝息をたてる姉を見つめる。  
 クインシィ・イッサーをやっていた頃の猛々しさは感じられず、その寝顔は安らかなようでもあり、  
またひどく冷たいものであるようにも思える。  
 返事のない呼びかけにも、もう慣れてしまった。  
 
 何故、自分は毎日ここにいるのだろうか。勇は考える。  
 オルファンにいた頃の姉――厳格な指揮官であり、オルファンの抗体として  
伊佐未依衣子の名を捨てようとしていた姉、クインシィ・イッサー。  
 変わってしまった彼女に対して、勇が抱いていた感情は畏怖と、ある種の怒りだけであったはずだ。  
 こちらの話など聞く耳を持たず、オルファンの敵と見るや実の弟に対しても平気で銃を向ける、わからずやで  
気性の激しい女。意見して頬を張られたのも一度や二度ではない。昔の面影などかけらも見せずクインシィを  
名乗る依衣子を疎ましくさえ思っていた。  
 姉さんは変わってしまった、もうあの優しい姉さんはいない。そう思い続けていた。  
――けれど、姉さんは本当は何も変わっちゃいなかった  
 依衣子の意思がバロンズゥを呼んだとき、彼女は叫んだ。  
 家族を、守りたかっただけなのに。  
 両親のモルモットとされても。名を捨て、オルファンの女王として畏れられても。  
 そこには家族が居たから。  
 優しい姉さん。たとえ本当に望むかたちでなくとも、彼女は必死に彼女の家族を守ろうとしていた。  
 けれど。  
 彼女がそうまでして守ろうとした家族、そこから抜け出したのは他ならない、自分だ。  
 嫌になる。姉のことをわからずやなどといっておいて、一番何もわかっていなかったのは自分じゃあないか。  
 
 ひどく胸がむかむかした。姉のことなど考えもせずに行動してきた自分の浅はかさが  
悔やまれる。誕生日の花だって、一言「覚えている」とだけ言っていれば、あるいは姉さんは  
こんなことにならなくて済んだのかもしれない。  
 オルファンの抗体となった依衣子が、やり直すことを望んで帰ってきてくれたというのに。  
――もう二度と、姉さんは目覚めないかもしれない  
 急に世界が暗くなった気がした。  
「姉さん」  
 返事はない。  
「姉さん?」  
 今まで何度も呼びかけた。結果は同じだった。これからもずっと同じことが繰り返されるのか。  
 そんなことを考えてしまって、不意に猛烈な寒気に襲われた。  
 もう、平静を装うのは限界らしい。もう一度呼びかけようとして、出てきた声は言葉にならない嗚咽だった。  
「あ、あ、ああぁぁぁ……ねえ、さん、ねえさん……っ」  
 涙腺が熱かった。気づけば、勇の頬からこぼれた水が依衣子の顔を濡らしている。  
「ちくしょう、こんなこと、こんなことになるなんて……」  
 横隔膜が痙攣し、呼吸が乱れる。  
「姉さん、ごめん、ごめんなさい、僕は……」  
 子供の頃に戻ったように、勇はしゃくりあげた。両手で目を覆っても、流れる涙は  
止まってくれない。力なく、依衣子の身体の上に倒れこんだ。  
 ふと、幼い頃の記憶がよみがえる。両親がいつまでも帰らない日、勇は決まってこんな風に大声で  
泣いていた。そんなとき、泣きつかれて眠ってしまうまで、姉は自分を優しく抱きしめていてくれていた。  
依衣子の胸の中で、勇は底知れぬ安堵感を感じたものだった。  
 けれど、もう二度とそんなやすらぎを得ることは出来ないのかもしれない。あの懐かしいぬくもりを――  
 
 そんな暖かさを今になって思い出したのは、ただ優しい姉の思い出に浸りたかったからではない。  
 最初は、たんなる錯覚だと思った。思い出が作り上げる空虚な錯覚だと。  
 誰かの胸に抱かれる幻覚――その感触を確かめるように、いやむしろそれが錯覚であることを確かめるため、  
勇はゆっくりと己の頭に触れているものに手を伸ばす。  
 柔らかな感触が指先に触れた。そのたわいのない一触れに、勇の心臓ははじけそうに高鳴る。  
 高鳴る鼓動を無理やりに押さえ込んで、勇はゆっくりと顔を上げた。  
 白く細く、慈しむように勇の頭をなでるその手に、覚えがないはずはなかった。  
「姉……さん?」  
 ゆっくりと顔を上げ、呼びかけた。答えの期待できないはずのその問いかけを。  
「ゆ……う……」  
 時間をかけ、搾り出すようにして、彼女は――依衣子は弟の名を呼んだ。  
「姉さんっ……!? 姉さん、依衣子姉さんっ……!」  
 その呼びかけが、ぬくもりが、吐息が、それらすべてが幻想でないことを確かめるように、  
勇もまた何度も姉の名を呼ぶ。  
 か細い声で、しかしはっきりと、依衣子はその呼びかけに応える。  
 存外にあっけないものだな、と思った。目覚めてしまえば何のことはなく、自分の心配も  
多少度が過ぎていたのではないかと気恥ずかしくもなる。彼女がもう目覚めぬものと、根拠もないのに  
思い込んでしまっていた。  
 けれど、本当に、姉に二度と会えないかもしれないと思ってしまったとき、全身が凍るような悪寒を感じた。  
 その冷たさを暖めてくれる人がいなくなることを、本気で恐れてしまったのだ。  
だが、そんな感情もすぐに喜びへと変わっていく。  
姉が自分の名を呼んでくれる――たったそれだけのことが、なにより嬉しかった。  
 
 依衣子はまだ覚醒しきっていないのか、穏やかな様子で再度勇を抱きなおす。  
「勇、泣いてるの? 大丈夫、怖くないよ、お姉ちゃんがついてるから……」  
 あやすような声音で勇の頭を撫でる依衣子の姿は、あの頃の、優しかったお姉ちゃんそのものだった。  
「ねえさん……」  
 自分が今までどうなっていたのか、何故ここにいるのか――そんなことは二の次にして弟を気遣う姉を  
、勇はたまらなく痛ましく、そして愛おしいと感じてしまう。  
「泣かないで、お姉ちゃんがいるから、守ってあげるから、泣かないで……」  
 ふと、姉の身体が震えていることに気づく。見れば、いつの間にか依衣子の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。  
溜め込んでいた感情を噴出させるように、依衣子は勇に懇願する。  
「だから、どこへも行かないで、あたしのそばにいて、お願い、行かないで……」  
依衣子はまるでしがみつくように、固く強く勇を抱きしめた。声にならない嗚咽が姉の喉から漏れる。  
クインシィ・イッサーをやっていた頃からは想像もつかないその姿に、勇は困惑の色を隠せない。  
 記憶が混乱しているのか――勇は思う。だが、そうではないことにすぐに気づいた。  
 オルファンを飛び出した勇に対する願いが、依衣子の言葉には含まれている。  
握り締められたこぶしはひどく震えていた。今度こそ離れたくない……そんな願いの込められた抱擁だった。  
 きっと、姉さんは寂しかったのだろう。勇がここ数日感じていた喪失感を、姉はオルファンでずっと感じて  
いたのかもしれない。そう思うと情けなさと申し訳なさで泣き出しそうになるが、ここでさらに涙を流せば  
姉はもっと悲しむだろう。  
「姉さん……ごめん、大丈夫だよ。僕はここにいる、どこへもいきやしないさ」  
 そっと包むように、しかし力強く、勇も依衣子を抱きしめた。  
「勇……」  
 胸の中でしゃくりあげる姉は、厳格な指揮官でもなければオルファンのアンチボディでもなく――  
可愛らしく、そしてはかない少女だった。  
 
「姉さん、身体、大丈夫? その、オルファンで……」  
 落ち着いた様子の彼女を見て、勇はたずねた。だが、こちらの問いかけに  
依衣子はまったく別の言葉で返す。  
「本当は、ね……」  
「姉さん……?」  
 うつむいた姉の表情は見えないが、どこか様子がおかしい。  
ふと、彼女の震えが止まっていないことに気づく。  
「本当は、……あたし、すごく、すごく怖かった。全部捨ててしまえたらって  
ずっと思ってたのに、でも、オルファンとひとつになって、すごく気持ちが  
よくて、でもすごく寂しくて……!」  
 依衣子は堰を切ったように喋りだした。その勢いに押され、勇は何も言うことができない。  
「本当は、ただ勇と話がしたかった! 戻ってきて欲しかった! でも、でも……!」  
 興奮した様子でまくしたてる依衣子をなだめようと、勇は声を張り上げる。  
「ごめん、ごめんよ、姉さん……俺、なんにも分かっちゃいなかったんだ。姉さんが  
どんな気持ちでいるのか、分かろうともしなかった」  
 だが、勇の言葉も今の依衣子には聞こえていないようだった。散乱していた意識が戻り始め、  
軽い錯乱状態に陥っているらしい。  
「守りたかったのに、それだけだったのに、なのに、なのにあたし、勇を、勇を……!」  
 依衣子の瞳が、何か恐ろしいものを見てしまったかのように大きく見開かれる。  
 いや、確かに彼女は見ているのだろう。自分が弟に銃を向けるさまを。  
 激しい言葉を投げかけ、弟を討とうとやっきになっていたかつての自分の姿、その記憶を。  
 悲しいほどに怯え、狼狽する姉の姿を見るのは、拳銃を向けられるより何倍も辛かった。  
 
「勇を、こ――」  
 姉さん、それ以上喋ったら駄目だ。  
 彼女が次の言葉を発する前に、勇は行動に出た。  
 姉の肩を掴んで引き寄せる。  
 一気に間近に迫った姉の瞳が、いっそう大きく見開かれるのが見えた。  
「――っ!」  
 瞬間、すべての音が消えうせた。  
 依衣子は言いかけた言葉とともに息を呑む。  
 姉の震えは止まり、驚きのあまり彼女の全身は硬直してしまっている。  
 だが、勇がその身体を抱きなおしてやると、少しの躊躇のあと、安心した  
ように依衣子もまた勇を抱きしめた。  
 正直賭けであったが、どうやら姉は落ち着いてくれたようだ――そう思って  
安心すると、突然唇に触れる柔らかな感触が意識された。  
 途端、自分が何をしているのか自覚する。  
 無我夢中でやったこととはいえ、姉の唇を奪っている。  
 多様な人種が混在するオルファンでは、キスは単なる挨拶であるはずだったのだが、  
それでもオルファンでクインシィにそれをするものはいなかった。  
 それ以前に、これは挨拶などという次元のものでもない。  
 夕日の差す部屋で抱き合い口付けを交わす男女を、誰が姉弟と思うだろうか。  
 離れようかとも思ったが、先ほどまでの怯える姉の姿や、そして何より唇を通して  
感じるぬくもりの心地よさにおされ、勇は余計なことを考えるのを止め、ただやわらかな  
快感に身を浸す。  
 ぬくもりを感じる。もう十年以上も忘れていた、あの頃のお姉ちゃんの暖かさ。  
 その暖かさにもう一度触れられたことがただ嬉しくて、勇は姉の首に手を回す。  
 きっと、姉さんも同じ気持ち気持ちのはずだ――  
 
 たっぷりと時間をかけてお互いを感じたあと、姉弟の唇は糸を引いて離れた。  
 勇は姉の顔を見つめた。彼女は頬を朱に染めて伏し目がちにこちらを見ている。  
いきなりあのようなことをされれば無理もないだろうが、先ほどまでの狼狽振りが  
嘘のようだ。平静を取り戻したかどうかはともかく、とりあえず彼女の気を  
逸らすことには成功したようだった。  
と、姉は勇の肩に手を回し、再度力強く抱きしめてきた。  
「……勇、ごめんね。もう、落ち着いたから」  
「うん、その……俺のほうこそ、ごめん。いきなりであんなこと――」  
 言い終える前に、今度は依衣子が行動を起こしていた。勇の頬に両手を  
添えて、その唇で勇の口を塞ぐ。  
 こちらが先にしたこととはいえ、不意にこのようなことをされると驚きの  
あまり動けなくなる。するとされるでは大違いだ。勇の身体は彫像のようになって動かない。  
「これでおあいこ。だから、謝らなくていいよ」  
 照れ隠しのつもりか、あやすような口調で微笑む姉のそんな表情に、勇の心臓がはねた。  
 
 早鐘を打つ心臓を必死に抑えて、勇はやんわりと姉の手を振りほどく。  
「じゃ、じゃあ、アイリーン艦長――ここの船医なんだ。姉さんが眼を覚ましたって伝えてくる」  
 勇は、うろたえてしまっていた。姉の予想外の行動は勇を刺激したが、そんな衝撃を誰かから  
与えられることに慣れていない勇はかえって臆病になってしまっていた。  
 そそくさと、勇は立ち上がろうとする。  
「あ、待って――」  
 短く叫び、依衣子は勇に追いすがるようにしてベッドから半身を乗り出そうとする。  
 が、短期間とはいえずっとベッドの上で寝ていた身体だ。アイリーン館長が定期的に  
その身体をマッサージしていたとはいえ、依衣子の細い腕はその体重のすべてを支えきれる  
ほどには回復していなかった。ついた腕がかくんと曲がり、依衣子はベッドから身を乗り出した  
ままくず折れる。頭から、軍艦の固い床に落ち込む格好だった。  
「きゃ――」  
「姉さん!」  
 勇の反応はすばやかった。とっさに依衣子の身体を両腕で支える。だが、今度は  
勇がバランスを崩した。無理な体勢で姉を支えたため、足がもつれる。  
このまま後ろに倒れれば、自分が危険だ。かといって姉を放り出すわけにも  
いかない――瞬時に、勇は判断を下した。先ほどまで自分が座っていた椅子に思い切り  
片手をつき、その反動で姉ごと自分の身体をベッドのほうへ押し戻す。  
 ぎし、とベッドが大きくきしんだ。  
 
「姉さん、大丈夫?」  
 頭でも打ってやしないか、それだけが気がかりだった。だが、依衣子はその  
問いかけに申し訳なさそうにして答える。  
「う、うん……ごめん、ごめんね、勇」  
「大丈夫だよ。姉さんが無事でよかった」  
 安心して、はたと気づく。勇は姉に覆いかぶさるようにしていた。密着した  
姉の体温を感じて勇はあわてて離れようとするが、背中に回された依衣子の  
手が硬く勇の衣服を掴み、それを離そうとしない。  
 勇は観念する。今姉さんから離れるわけにはいかない。そして、やはり勇も  
離れたくはないと思ってしまっていた。  
 姉の瞳を見つめた。潤んだその眼の中に勇の姿があった。  
 ゆっくりと、どちらともなく近づき、またキスをした。  
 言葉などいらない。  
 温かい――これまで感じたことのないような安堵感を、勇は感じた。遠い昔に  
なくした何かを見つけたような、一つだけ欠けたパズルのピースをはめたときのような。  
 
 何物にも変えがたい圧倒的な一体感――アンチボディと一体化するのにも  
似た、しかしそれよりもはるかに優しい暖かさを持ったそれに対して、勇も、  
そして依衣子も抗うすべを持たない。  
 ――誰かの肌の温もりを、こんなにも愛おしく感じたことなどなかった。  
 胸の奥が熱くなる。鼓動が加速していく。  
 ――ねえさん。あたたかくて、いいにおいだ。  
 己の中で湧き上がる衝動に、勇は激しく揺さぶられる。  
 涙で濡れた瞳、上気した頬、濡れた唇。  
 柔らかな感触、伝わってくる体温、間近に感じる熱い吐息。  
 それらのすべてが一体となって、勇の心を冒していく。  
(綺麗だ……)  
 我知らず、勇は心の中でつぶやいた。その言葉の中に含まれる己の感情を自覚して、  
とても恐ろしくなる。  
 姉弟なんだ――必死に自分自身に言い聞かせるが、その姉に対する狂おしいほどの愛おしさが  
膨れ上がり、自制の声もほどなく呑み込まれてしまった。  
 
 勇の心臓は、それこそ飛び出さんばかりに拍動していた。早まる呼吸を無理やりに  
押し込めても、昂ぶる精神は落ち着いてはくれない。  
 もはや隠すことも目を逸らすこともできまい。その腕に抱く実の姉に対して、肉親に  
対して決して抱いてはならないはずの情動がどうしようもないほど激しく渦巻いていることを  
勇は自覚する。  
 そしてそれは、依衣子もまた同じであった。  
 依衣子の呼吸が荒くなっていく。頬を朱に染めて、怯えているような、それでいて何かを  
期待するような眼差しを、勇はひどく艶かしいと感じる。  
 しかし、高揚する気分とは裏腹に、二人は見つめあったまま動かない。  
 お互いに、ずっとこうしていたいと思う反面で、あと一歩前へ進んでしまいたいと思っている。  
けれど、どこに足を踏み出せばいいのか。そして、踏み出したとしてその先にあるものは、引き返す  
ことの出来ない深い深い闇なのではないか。そこへ堕ちてしまえば、もう戻れないのではないか。  
 それはある意味で、家族を裏切る行為なのかもしれない。伊佐未家はお世辞にもまっとうな家庭を  
築いていたわけではないし、勇の心の中では今も両親に対するわだかまりが消えてはいない。  
 それでも、直子ばあちゃんや、なによりも姉を大事に思う勇の心に偽りはない。そんな姉を一人の女性  
として見はじめてしまっている自分の心に、勇は激しい矛盾を感じていた。  
 
 しかし、今姉弟は互いを求めあっていることもまた事実だった。  
 ノヴィス・ノアのブレンパワード隊の一員としてオルファンと敵対し、姉とも  
幾度となく刃を交えた。互いにすれ違いを繰り返して、傷つけあって、それでも、また  
一緒になりたいと――帰ってきて欲しいと願った。  
 もう一度やり直したいと心から望み、オルファンはそれに応えてくれた。  
 そして、今やっと、途切れてしまっていた姉弟の絆が十数年ぶりにつながろうとしている。  
 あの機能不全の家庭で、依衣子と勇は親の愛情などほとんど感じることも出来ないまま、その  
寂しさを埋め合わすかのように、二人は互いを庇いあうように、あるいは傷を  
舐めあうように、互いに気持ちを通じ合わせていた。  
 姉が弟を想い、弟が姉を想う。  
 あの頃は、それが当たり前だった。  
 道をたがえて、命さえ落としかねない諍いをするなんて、夢にも思わなかった。  
 それでも、幾多のすれ違いを乗り越えて、二人は今こうして子供の頃のように  
こころを通じ合わせている。  
 けれど。  
 もう、二人とも無邪気な子供ではない。いろいろなものを知って、いろいろなものを背負った。  
そんな互いの気持ちを確かめ合うのに――互いに触れ合うだけでは、足りない。  
 
「勇……」  
先に覚悟を決めたのは依衣子だった。  
肝心なところで踏ん切りのつかない弟の手を引いてやるのは、昔から姉の役割だった。  
「私、勇と――」  
 そこで口をつぐんでしまう。と、依衣子は勇を思い切り抱き寄せた。  
顔を見られまいとしての行為だろう。勇は、姉の心臓の高鳴りを肌で感じる。  
「一緒に、なりたいよ……」  
 消え入りそうなほどに震える声で、ただ一言そうつぶやいた。  
 こんな台詞がかつてのオルファンの女王の口からこぼれたことに、勇は驚きを隠せない。  
 情けない。結局は姉さんに引っ張ってもらう形になってしまった。  
 勇もまた覚悟を決める。どの道、ここまで来てしまえばもう引き返すことなど出来はしない。  
ならば、姉さんとともにどこまでも堕ちてゆくだけだ。  
「姉さん、本当にいいの?」  
「勇は、こんなこと、嫌じゃない?」  
「そんなことないよ、姉さん。――好きだよ」  
「私も――」  
 見ると、依衣子の少しつりあがった目の淵に、大粒の涙が溜まっているのが見えた。  
「大好きだよ、勇」  
そのことばと同時、依衣子の目じりから一筋の線が流れ落ちる。  
もう、ためらいも後悔もしない。  
驚くほど簡単に、二人は姉弟という壁を乗り越えてしまった。  
 

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